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タイトルタイトル: “日本こいしい” 番組名番組名: [BSプレミアム] 三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~
名前名前: 陳 徳儀さん(台湾“高砂族”の戦争 戦地戦地: 台湾 モロタイ島  収録年月日収録年月日: 2011年3月22日、3月23日、2012年6年9日

チャプター

[1]1 チャプター1 語らなかった戦争体験  04:19
[2]2 チャプター2 兵隊志願  12:26
[3]3 チャプター3 モロタイ島へ  12:42
[4]4 チャプター4 夜間の幕舎攻撃  10:08
[5]5 チャプター5 “マカン作戦”  07:27
[6]6 チャプター6 終戦  14:26
[7]7 チャプター7 “日本こいしい”  07:12

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [BSプレミアム] 三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~
収録年月日収録年月日: 2011年3月22日、3月23日、2012年6年9日

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「花は人を語る」というわけで、私は花を作っている。下の方でね。花の中の草をとったりして。

私は日本人の兵隊で、いわば日本は戦争に負けた。帰って来た私は、結局は、この中華民国に入った。という形で、そのときから日本の高砂義勇隊、あるいは高砂遊撃隊のことについては、私は中華民国に背いた形で、このことについては、そのときから全然話はしていない。

「日本の兵隊にいた者はみな捕まえられる」と。「あるいは死刑にされる」といううわさが出ました。

これは、私は高砂族の名前が、原名がハパープリン・クラサイ。日本人が岡田耕治。台湾に帰ってきたら陳徳儀。3つの名前を持っている。だから現代の名前、陳徳儀で、この日本文を作ったわけです。

この高砂義勇隊、遊撃隊についてのことは、みなさんもよくご存じだと思う。私が言うまでもない、あんた方もわかる。

Q:これちょっと見ていいですか? これ当時の軍医、長谷軍医? これ岡田さん?

兵隊に行く、出征のときの。

Q:写真。陸軍伍長だったんですね。

はい。

そうです。これは当時はこの植民地政策によって、もとより高砂族には文字というのがない。字がない、文字がない。漢民族は台湾に来たけども彼らは文字はある。私なんか高砂族にはこの文字がない。そしたら日本人が(高砂族は)愚かな民族だって。そしてこの愚かな民族を地方の建設、つまり道を造るとか飛行場を造るとか、堤防を造るとか橋を造るとか、こういうあらゆる行程、建設については高砂族、蕃人を奴隷に扱った、そのころは。

飛行場造るにはあの牛車で土を運搬してこれをならす。プンキを担いで、プンキこれをかついで、そしてハリを運んで土を平らにする。こういうなんといいますか、奴隷といいますか、この苦力が非常につらいんです。

当時の高砂族は1種族じゃない。当時は9種族であって、この台湾の中央山脈に住んでいる。これをなんといいますか、日本人は高山蕃と。この平地に住んでいる私たちは、これは平地蕃というんです。そしてちょっと間違ったら、「やあこの野郎、蕃人。この生蕃」。たたかれるよ。

私が子どものときに、うちの兄さんでも、「この日本人のあいの子」とか言うとる。私は、「そうか、私は日本人の子どもか」と。

子どものときに他の子どもたちが「あいの子、日本人の子、あいの子」とかいう。それも私が日本人なら俺は日本の兵隊になろう。これも私、志願兵の志願動機の1つである。志願動機の(もう)1つはこの大きな問題は私として高砂族として蕃人だ、生蕃だと。こういう「一視同仁」(日本の植民地統治のスローガン/出身などで差別をしないこと)でありながら、なんとかしてこの言葉は、侮辱した言葉は使わない(ようにさせたい)。(高砂族の)みんなが兵隊になれば、そういうふうに、この「蕃人」という言葉はなくなるだろうとね。

兵隊として階級が上になれば、みなに尊敬される。

そうすると兵隊なったら日本人から蕃人とか生蕃とか侮辱されない。皇民化教育(ここでは高砂族も、同じ「天皇の赤子」だという意識を浸透させる教育)を受けて「一視同仁」とかいう。私が学校の先生になったら、あの校長先生からも、「なに、この馬鹿野郎。蕃人」。俺、学校の先生になって、そして俺また「蕃人」と言う(言われる)。
だから私たちが兵隊に行って、そして最初初年兵のころは台北の3部隊に。兵隊たちはそういうふうに期待されたらしい。この訓練中に間違ったら、「馬鹿野郎、この蕃人が」。蹴ったり殴ったりする。

「一視同仁」と言いながら、日本人はどうしてまたこの蕃人をいじめるか。これまでやってきた。これだけはつらい。この「蕃人、生蕃」という言葉は聞いただけでも、この日本人を殺したい。

一視同仁、これは高砂族も漢民族もこれは同じみんな日本人。この一視同仁で、日本人高砂族、兄弟である。兄弟であってもまた「馬鹿野郎」が出てくる。一視同仁、あなたも私も日本人だと。

みんなが、私たちは天皇陛下の子供であると。これは日本人も一視同仁といっても、やはり「馬鹿野郎」は直らない。

私が出征する、高雄出る前に、戦地に出る前に私は兵長に上がった。軍服つけて帰ってきた。日本人は、「おお、おい岡田君、兵長にもなったのか」と。それを今度は学校の生徒を集めて私は何て言いますか、講演みたいよね。

「兵隊は一等兵二等兵三等兵、これずっと大将まで上がる。私は現在わずかの半年でも兵長になった。だから皆さんにお願いする、兵隊になってくれ。兵隊はこんなものだ。おれは兵隊が多くなるほど社会は治まると。この日本人の馬鹿野郎は、侮辱されない。」

Q:(字幕)出征の際の見送りはどのようなものでしたか?

当時は学校の教員で、私村から1人だけです。この見送りは学校の生徒たち、学校の先生たち、それから部落の友達や親戚兄弟みな見送ってくれました。

この出征のときに歌がありますよ。歌いました。

Q:どういう歌でした?

(歌)“今宵かぎりは別れても涙を見せるな、男なら。故郷を離れて大陸に花を咲かせる身じゃないか。夜の波止場を流れゆく・・”
とかゆうてね、この歌です。これは当時の私の見送りの歌でした。これを歌って送ってくれました。
(歌)“金もいらなきゃ名もいらぬ。男の命は国のため。共にささげたこの胸に、まつは緑のあさぼらけ”
みんな手をたたいて送ってくれました。

最初は高砂遊撃隊の志願兵として、18年の10月15日頃に、台北の第3部隊に入営したわけですよ。訓練は新竹のコクオウ陸軍練兵場で訓練を受けたわけですよ。最初は日本の兵隊に初めてですから、これは日本の正規軍として訓練をしたわけです。そして翌年の19年の1月あたりで、日本から、(陸軍)中野学校からいわば遊撃隊の(ゲリラ戦の訓練を受けた)幹部(が来て)、台湾の高砂遊撃隊に編成したわけですよ。
で、500名の高砂の兵隊は遊撃隊に編成して、遊撃隊は四個中隊に編制したわけですよ。

当時米軍は、連合軍はニューギニアを奪って・・日本は、先にニューギニアをところどころ占領した。それを今度は米軍の連合軍がこれを奪ったわけですよ。当時ハルマヘラ島にはこの32師団。モロタイ島は警備地区であって、この当時はハルマヘラ島には必ず米軍が上陸してくるというわけで、元モロタイ島の守備をしておった守田部隊をハルマヘラ島に帰して、(陳さんが所属する)第2遊撃隊と入れ替えたわけですよ。
第2遊撃隊は編成してモロタイ島を守備したわけですよ。そこでモロタイ島は9月の15日、連合軍が上陸したわけです。そしたら私たち遊撃隊は第2遊撃隊はわずかな484名であって、相手の連合軍は4万人で、私の第2遊撃隊はわずかな、私1人に対して相手は100人です。100対1です。これは戦争できるかと。
しかも私たち遊撃隊は鉄砲持っていない。遊撃隊は爆薬、手りゅう弾、あるいはそう、そういう爆薬を持って米軍を攻撃する。これは俺1人で相手は100人、これどないして戦争するかって。

連合軍が上陸したときには、(島の)南部の方からやってきた。そしてこの連合軍が上陸して遊撃戦が展開したわけですよ。
そしたら米軍は、連合軍はフィリピン、台湾、日本へ近付くために、モロタイ島に6か所の飛行場を造ったわけです。そしてモロタイ島を連合軍の航空要塞か、6か所に飛行場造って、このモロタイ島から飛んでフィリピンを攻撃する。ひいては台湾を経由して日本沖縄へ近づこうと。

私ら遊撃隊の目的は、結局爆薬を持ってこれを米軍の、連合軍の幕舎とか軍事設備、こういうものを破壊して友軍を有利に進攻させるのが目的であって、昼間はもちろん戦争はしていない。
で、昼間に、なんていいますか、飛行場を造る、連合軍が飛行場をつくる。そうすると建設部隊は幕舎をつくって、そして宿営地を作る。今、問題とするのは、私1人で相手は100人、そうするとこれは昼間では戦争できない。これは全力を以て夜間の攻撃をしなければならない。

それでもなんとかして遊撃戦で、6個の飛行場のうち、終戦する前に4か所破壊した。そして残りの兵隊はみな、ワマ飛行場とピトー飛行場(ともにモロタイ島南部)と、2か所の飛行場にみんな進軍した。

私昼間の攻撃は手りゅう弾を投げて、そして爆発と同時に蕃刀(台湾先住民の伝統的な刀剣)を持って、この蕃刀でヤーッとやりますよ。銃も無いです。蕃刀しか持っていない。もちろん手りゅう弾は腰にはありますけども。手りゅう弾を投げて、それで蕃刀でヤーやりますよ。そうすると、この米軍は、歩哨はカ-ピン銃でババババーと。機関銃みたいに。

すると私なんかこれはね、ヤーッと。(連合軍の)兵隊は逃げる、敵来るって。蕃刀怖がってみんな逃げる。そうすると銃を持って、歩哨は銃を持って逃げる。だから後ろから、私はその銃を奪って、それを後ろからバラバラーっと、攻撃するんです。当時は山の人(“高砂族”)は足は強い。走るのも早い。遊撃隊は攻撃する場合はみんな裸足で、靴ないよ、裸足で。靴履いたら戦争できない。走れない。山に逃げるときでも、靴履いたら逃げられない。遊撃隊は侵入したと同時にパッと山へ逃げ隠れる。

そのときはまだ若い。そして体も強い。山は簡単だ。日本人はそれ出来ない。日本人はあの第32師団、この師団は北支、中国の北の方の満州から。満州は冷たい。今度兵隊を南洋にもっていく。南洋は暑い。靴履かないと日本人は歩けない。私なんか山の人はそうじゃない。

幕舎(テント)の攻撃は夜間攻撃です。夜間攻撃は午前2時、あるいは午前3時、これ侵入する。連合軍は海岸から約3キロのところにトゲ(バラ)線を張る。この攻撃は、例えば幕舎が3個あった。1個の幕舎に少なくとも兵隊は50名おるんです。3個あったらもう150名おる。これを攻撃する。爆薬を持って。もちろん手りゅう弾はあるね。蕃刀はこの背中に縛り付けて、そしていざの場合はこの蕃刀タッと。普通蕃刀は腰につける。これから引(き抜)く。ところが私たち遊撃隊は蕃刀は背中に縛り付けるんです。そして柄を持ってバッと出す。この訓練もやりました。
だから切ってチャッというふうにやりますね。あなたの首は簡単です。タッと切ったら、こうやって走って倒れる。走って倒れるんです。切ったら、その場で倒れない。首曲げて走って倒れるんです。いわばこの米軍の歩哨線を突破して。それから夜間の攻撃は雑のうをね、爆薬を入れた鞄ですね、この雑のうに入れて、夜間の侵入の攻撃はみんなほふく前進、やります。ほふく前進。走って立って侵入するんじゃなくて、みんなほふく前進。

私は今この幕舎やら、どこから入ってどこから出る、これをまず指揮者と連絡する。そして幕舎1個につき爆薬は1個だけ。そしてそれに、雑のうには、手りゅう弾にダイナマイト梱(こん)包したやつ、これと黄色薬(黄色火薬のこと)、あの爆薬、雑のうに入れて、そしてほふく(前進)するから、雑のうは右の腰に。この場合は(左腰に)。

最初は簡単だった。入ったらもうすぐ撃てる。2回、3回、4回になると、(連合軍は)今度は食べたもの(缶詰)の空をばらまいて。私がそれを今度は、この道行ったら何があるか、空のカンカン(缶缶)はあるかないか、あったらこれを静かによける。慌ててやったら足でも当たったらカーン鳴る。しかも米軍の食い残りのカンカンは1個じゃない。2個3個一緒に縛り付けて置くんだよ。それに当たるとすぐ歩哨に襲撃される。
これを今度はよく注意して、自分の道にどういう障害物があるか。もしこの障害物をどけて・・それは難しかった。それでもやっぱり攻撃する、攻撃する。もし攻撃侵入、今度、歩哨から発見された場合はもう自爆する。自分で。もうしょうがない。もう自殺しないといけないんだ。持っている手りゅう弾で自分で。これまでやると。普通導火線、電話線と同じような線がある、これを導火線と言って、この導火線にスイッチ点(つ)けたら、線香のようにずーっと火が出る。着いたらこれ爆発するんですね。

Q:岡田(陳さんの旧日本名)さんは命が危ないときはありましたか?

これは怖いよ、恐ろしいよ。自分の命、もう攻撃中は弾に当たっても死ぬ。ただこの精神が強かったらね・・死んでも構わない、おれは天皇陛下のために、あるいは国家のために国のために働きます、私は死んでも命は惜しくない、この気持ちでやればね。この精神が弱かったら病気しますよ。

いわば大和魂。大和魂。だから戦争はこの精神で勝つ。精神が弱いと負ける。

日本でいうと救出部隊、このモロタイ島を応援に来るこの救出部隊は、1~2日の糧まつがあったかもしれないけど、長くなると今度糧まつもない。だから私たちの部隊で1年分の糧まつはみな、この逆上陸して、12回くらい、この(応援)部隊は上陸して、12月頃にはもう斬り込み隊に。第1斬り込み隊、第2斬り込み隊、第3斬り込み隊、この日本の兵隊の食糧はみな私の部隊からこれを分けたわけですよ。12月になったら米の一粒も無いんです。
今度、マカン作戦。この「マカン」っていうのは食べるっていうことですね。これはインドネシアの言葉であって、私のピューマ族の言葉と同じです。「マカン」、食べる。このマカン作戦に入った。このマカン作戦で私たち残りの高砂遊撃隊は、日本人の、自分の幹部たちの糧まつをやっぱり作ってあげないといけない。でも私たち高砂の遊撃隊は物資を収集して、お互いに自分の命を助ける。
そしてこのマカン作戦で中隊から命令がきた。糧食は連合軍から奪ってこいと。そしたらこれを今度は、マカン作戦で結局は各分隊、結局は私はピューマ族、あるいは台湾族、こういうふうに分かれる。そしてこれを物資・・当時モロタイ島にはこの生で食べられる植物はざらにあった。日本人は草を食べるのわからない。木の実を取って食べるのもわからない。ヤシはわかる。ヤシの実を取って食べる。
ところが草を見て、この草食べていいか、これ毒があるか、わからない。間違って草を食べた、下痢して死んでしまう。応援に来た日本の上陸部隊はそんなんです。で、仕方がない、バナナ、バナナはたくさんあるけれど、バナナはまだ青いのにもう仕方がないからこれを食べる。青ものね。そしたらバナナの実がないときは、バナナ(の幹)を切って、そして中の芯を取って食べる。
モッカ(パパイヤ)の場合、モッカね、モッカ分かりますか。このモッカの場合は青い、小さい、この身は取って食べる。もう実がないときはどうする。モッカのあたまを切る、そしてモッカの中の、根元の白い芯を取って生で食べる。バサバサ食べる。しかし、日本人の幹部にこのバナナの根元を食わすと下痢する。慣れたら、いつもあげる。食べ物ないでしょ。仕方がないから日本人の幹部も一緒に食べる。段々慣れてくると腹が下痢しないんだ。腹が丈夫になる。

20年の何月か、に終戦となった。私はこの日本が戦争に負けたっていうのは分からない。それで終戦の分かったのは、結局、日本の捜索隊が私たちの中隊のコブシテ、そして戦争が終わったと。戦争が終わったのはわかる。日本が戦争に負けたのは分からない。私も日本精神で、日本国がこんなことあるかと。
私は日本の兵隊になって3回泣いた。第1回目は昼間の攻撃で(連合軍の)宿営地を攻撃するときに、蕃刀を持って攻撃するときに、自分の分隊が弾に命中されて倒れた。これはもう、倒れた場面はみじめなものですよ。
そして戦争してはならないということは、結局、あなたが倒れたときにはその死体はそのままですよ。泣く人も無い。誰が泣きますか。私が、あなたが倒れたとき、私が助けるでも助けられない。助けられない、私はやっぱり命欲しいから山に逃げる。倒れた戦友を助けようでも助けられない。
それを私もこれを見て、ああ、戦争はしてならない。ただもう倒れた死体はそのままにして・・それを見たときは、倒れた戦友は死んでしまっている。

私がテレビをよく見るけれども、けがした戦友たちを運搬している。ところがけがした者はみな、病院とかあういうところに持っていくけれど、第一線ではそういうことは出来ない。倒れたらもうそのまま。もう私死ぬときには、戦地で戦死した場合は、もう生命はそのとき終わる。もう終わり。帰ってきてよかった。生きて帰ってきて良かった。

私は日本が負けたということはわからない。そんなことがあるかと信じられない。第3回目泣いたのは、戦争が終わって復員して、家に帰って台湾に戻ってきた。あの基隆に上陸したら、日本人が見えない。日本人はみんな帰ってしまって、日本に帰っている。

(台湾を接収した国民党軍が)私を裸にさせて、そして私の着ている着物みんな裸にして、脚絆(きゃはん)もみんな外して、靴もみな接収して、ふんどし一本で船を降りる。

なぜか? 日本が戦争に負けた、初めてわかった。私を裸にさせた。ふんどし一本で今度自分の国へ、故郷に帰る。当時のそこにおった、役所におった連中たちは、半ズボン、半袖のシャツ、それを履いていた。

そうして3回目には私を裸にさせて、私が持っていた戦死者のいはいですね、このいはいはどうして作ったか。あの戦争中に戦死者はそのまましてただ骨だけ残っているんです。この骨もうずめる必要ないでしょう。泣く人も無い、拝む人も無い、うずめる人も無い。

そうしてこれを今度はあそこから、その一緒に帰ってきた、生きて帰ってきた戦友たちは自分の部落、あるいはジアルとか花蓮港とかそういう連中は、結局着物はくれる、食べ物食わしてくれる。こういうふうにして3回泣いて帰って来たんです。

そうです。私は戦友のことは、私は台東の残った兵隊を引率して台東に帰ってきた。各家に帰ったらもう、みんな中国の名前に変わっているんです。誰が誰か、日本の名前で、今度は、連絡も出来ないんです。ひとつは、高砂義勇隊、高砂遊撃隊のことは全然口には出していないんです。戦友たちと連絡を私はしていない。名前もわからない。連絡は全然ない。

戦争は惨めなものです。死んだら泣く人も無い、棺おけも無い、骨をうずめる人も無い。私が死んだら、私の生命はモロタイ島で終わり。だから私は生きて良かったって。

そのときにはそうです。戦地では戦友たちは・・分隊長あるいは中隊長として、部下を引率して生きて帰ってきた。日本人は、私はこう思うんだ、日本の兵隊から帰ってきて、日本からなんの補償も無い。かわいそうだろう。私はそんなものいらない。なぜか。私は喜んで兵隊に行ったんだから。あんな補償とかいうものは必要ない。

私は名前は陳徳儀であっても、私は日本人です。おれは日本の皇民化教育を受けた、25歳まで日本の教育を受けたんです。おれは日本人だってね。

私は日本人は恨んでいません。日本人は恨んでいない。私の敵は日本人じゃない。私の敵はアメリカ人。だからあなたと私は友達です。決してあなたを恨んでいません。私も、日本教育を受けて私も日本人だ。私は台湾人じゃないよ、漢民族じゃない。おれは日本人です。

Q:さっき、日本人が嫌いとおっしゃいました?

陳さんの長男 陳光星さん:いや、これはほんと。

Q:日本人がきらい?

長男:(字幕)あなた方じゃない。あのときのお父さんの上官。

お父さんはいやな思いもしましたが、あなた方には話せないですよ。私だって言えないこともあるんです。

お父さんのように日本に忠誠を誓って戦争に行った人に・・もういいです、そんな話は。

長男の妻 古棟妹さん:(字幕)お父さんはとても頑張り屋です。途中でやめることがありません。例えば、畑仕事でも、一仕事が終わらないとどんなに日ざしが強くなってもやめません。

私たちはよく言いますけど、日本人から学んだ精神です。

長男:(日本語で)日本精神です。

古さん:(字幕)父にも「日本精神だね」と言います。日本人から学んだんです。

長男:「日本人は万歳」って、お父さんの心はこんなです。

Q:(字幕) 戦後 日本語を使う機会は減りましたか?

陳さん:そうね。日本語はあまり使わない、もう。そして、日本語を話す、そういう日本語使う者はもうすでにいない。まあ、話が、悪い話がもう日本人は私一人だけ。部落では日本語を話す人いない。もう今では日本語を使う年寄りなんかもうおらない。全部、日本語はもう消えてしまった。日本語はもう消えてしまった。

これは、結局は会話する人もいないんです。私は誰と話す? 日本語を使うの、日本語を使うのは、いわば私一人だけよ。日本語はもう消えてしまった。日本語を使う人は、今もう皆おらない。皆もう亡くなった。

子供とお話は、子供のお母さん(妻)が亡くなってから・・お母さんがおる間は日本語を使っていた。お母さんがいなくなって、今は日本語使わん。皆、もう孫なんかに日本語で言うと、「お父さんもう時代は変わりましたよ」。もう時代は変わりました。これも日本、皇民化教育。日本語で。(家族が)一緒だったときは皆日本語で。子供のお母さん、和子(陳さんの奥さん)も皇民化教育を受けた。

Q:(筆記)日本語が消えてしまったらどんな気持ちですか?

淋しいね。淋しい。

(陳さん:筆記) 『淋しい』

(陳さん:筆記) 『日本こいしい』

Q:(字幕)日本時代に苦労したことも多かったのではないですか?

随分苦労しましたね。

Q:(字幕)どうして苦労したのに恋しいのですか?

これは、ちょっとごめんですね。すいません。すいません。

出来事の背景出来事の背景

【三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~】

出来事の背景 写真標高3500メートルを超える山々が連なる台湾の山岳地帯。ここには、数千年の昔から台湾の先住民が暮らしていました。日本が台湾を統治していた時代、先住民は総称して「高砂族」と呼ばれていました。彼らは、戦前から戦中、戦後にかけ、激動した台湾の歴史の中で、三つの名前を生きてきました。自らの民族の名前、日本統治時代の日本名、そして戦後の中国名です。
「高砂族」の若者たちは、太平洋戦争中、日本軍の兵士や軍属として戦地に送られ、密林や山岳地帯などの戦場で、日本人を支えました。その勇敢な戦いぶりが、日本軍から高く評価される一方で、ゲリラ戦などにも投入され、数多くの若者たちが命を落としました。
さらに、終戦後、日本は台湾を放棄しました。変わって、蒋介石の中国国民党が新たな支配者となります。“日本人”として育った「高砂族」の若者たちは、それまでと全く異なる社会の中で生きていかなければなりませんでした。「高砂族」の人々は、国家と戦争に翻弄される激動の20世紀を生きてきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
台湾台東庁卑南庄リカボン社(現・台東市卑南郷)に生まれる ピューマ族
1944年
モロタイ島(現・インドネシアの島)で遊撃隊員として戦闘
1945年
モロタイ島で終戦を迎える
1946年
台湾に帰還
 
戦後は、役所に勤務するかたわら、農業に従事

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