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タイトルタイトル: 「忘れじの高砂義勇隊」 番組名番組名: [BSプレミアム] 三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~
名前名前: 三橋 國民さん(台湾“高砂族”の戦争 戦地戦地: ニューギニア(ソロン)  収録年月日収録年月日: 2011年5月14日

チャプター

[1]1 チャプター1 「飢餓少年兵士像」  07:09
[2]2 チャプター2 “忘れじの高砂義勇隊”  08:44

チャプター

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Q:この絵のモチーフは?どういう場面が描かれている?

これは、日付まできちっとしているんですけどね、昭和19年…まあ1944年か、ですね。12月の20何日…私の、非常に尊敬していたね、先輩がね、亡くなったんですよ。で、もう本当に40人いたうちの、もう後3人位残って、その最後の方だったんですけどね。

それで、自分で担架を組んで、それでこの方を乗せましてね。それでズルズル引きずって、高射砲陣地のすぐ脇のお墓のとこへ、埋葬したんです。

で埋葬して、そのときね、せめてね、亡くなった方くらいはね、何か人間の食べ物を食べさせてあげたいじゃないかと言うんで、非常用の食糧で乾パンっていうのがあったんです。乾パンっていうのは、親指の先位の小さなパンですけど、それを5粒ね、墓前に捧げてあげようじゃないかと。それで、それを頂きましてね、で、すっかりお墓を埋葬して、その塔婆も建てて、そして、これ私が書いた塔婆なんですけども、塔婆も書いて。そして、小さな缶へね、その5粒の乾パンを入れて、それからお水をあげて、それで、拝んで引き揚げたんですよ。で、そのときね、ちょっと、帰ってから、しまったと。

昔、日本語では円匙(えんぴ)と言ったんですけどね、シャベルですね。それを忘れてきちゃったんです。穴を掘るね。それから急いでね、駆け足で取りに行ったんです。もう一回ね…そこにシャベルが残っていたですから…拝んであげようと思ってね、手を合わせてひょっと見たら、たった5分前にね、あげた5粒の乾パンがもうないんですよ。そのときは私ね、このジャングルっていうのはシーンとしていますからね、ゾッとしたんですよ。というのはね、私の先輩が、食べ物なくて、非常に飢えて死んだもんですから、その人がね、お墓の中から手を出してね、食べちゃったんじゃないかと思って。そのお墓のね、頭のとこずっと見たら、全然異常ないんですね。どうしてなくなっちゃったのか…。

そしてね、ふと自分が立ち上がろうとしたら、サササッとね、20メートル先ぐらいの草むらがね、ざわめいたんですね。見たらね、人影がパッと立って、逃げて行くんですよ。だから私はね、いつも小銃持っていますから、その小銃を安全装置を外して、まさかその人を撃つわけにいきませんからね、空に向かって、ジャングルの中ですけど、バンと1発撃ったんです。そうしましたら、その方がね、その方って…その逃げてく黒い影がね、パッと立ち上がってこちらを向いてね、敬礼しているんですよ。それから私はね、もうカッカとしちゃって、あいつが盗んだんだなと。それからね、そこへもう鉄砲をね、持ったまんま駆けて行ったんです。

でね、そのとき私はもうね、大きな声で「貴様」ってね、言ったら、よく見たらね、その人影はね、本当にね、17歳か18歳位の少年兵なんですね。で、見たら、高砂義勇隊の隊員なんですよ。でね、もうこれ以上痩せることは出来ないかっていうくらいね、細くなっちゃってね。骨が立っているみたいにね。それでもうジャングルの中だから真っ白なんですね。そしてね、私をジッと見てね、敬礼しているんですよ。そしてね、飯ごうの中にね…飯ごうぶら下げていたんです。その中にね、その5粒の乾パンが入っているわけです。今盗んだばかりの。でね、片言の…台湾の方ですから…「兵隊さん、許してください」ってね、飯ごうごと私に出したんですよ。私ね、それ見てね、グッとこうかわいそうになっちゃってね、急に。

そしてね、まあ高砂義勇隊って別の意味で私お世話になったことが多かったものですから、そのときはもうそういう非常用食糧を盗んだ場合は銃殺して良いって軍の命令があったんですけどね、私はもうそんなことはとても出来ないんで、「よし、もうお前にやるから持って帰れよ」と。そしてね、「早く帰れ」って。というのはね、もう5時頃なんですね。ジャングルは6時にもう日が落ちちゃうんです。真っ暗になっちゃうんですね。早く帰らないと帰れない。で、その高砂義勇隊の宿舎までね、5キロ位あるんですよ。それでね、「早く帰れ、このばか」とこう言って、私はもうその後ろ見るの嫌でね、駆けて来たんですけど、20メートル位来てから、ふとね、後ろ振り向いたらまだ少年兵がね、手をこうしてね、敬礼して。

涙がブーっと見えるんですよ。赤いジャングルの夕日が当たってね。頬をこう…そしてね、まだこうして敬礼しているんですよ。私もうね、本当に戦争ってね、嫌だなって思いましたね。そして、「早く帰れ」って言ってね、私はそのまま来ちゃったんですがね、そういう一つの物語の情景をね、もう六十何年経ったんですけど、まだ非常に鮮烈に覚えているものですから、つい先日ね、これ描いてみたんですけれども。

服装がちょっとね、兵隊…日本の兵隊とちょっと簡略化したっていうかね…。そしてまず階級章を確かつけていなかったですよ。それでね、見るともうすぐ分かるんですよね。で、その前に高砂義勇隊の人にはね…彼らは、この密林っていうかね、ジャングルを非常にあの台湾にいたときね、慣れていますから、そういう物の、植物とか、それからこれ食べられるとか、薬草になるとか、そういうことを非常によく知ってらっしゃる。それを私、随分ね、教えてもらったり、それから作業なんかもね、飛行場の滑走路っていうのがあるんですね。それが爆撃されてね、穴が開いて、もう補修しなきゃ日本の飛行機が着陸出来ませんから。

そのときね、この高砂義勇隊の兵隊さんを20人くらいね、私があれして、穴埋めなんかにね、手伝ってもらったことがあるんです。初めはね、日本の兵隊みたいにどなりまくっていたんですけど、全然動かないんです。で、よく見たらお腹がすいちゃっているんですね、皆。で、私あるときね、自分で手巻きのタバコってまあ、タバコなんてありゃしないですけど、いい加減な草をね、乾燥して手巻きタバコを作っていたんですけど、それをね、持って行って、1本ずつ高砂義勇隊の連中にあげたんですよ。そしたらね、急にね、私のこと、兵隊さんね、じゃあ俺たちも一生懸命手伝うよってやってくれた。やっぱり人間同士っていうのはね、命令口調やったり、そういうことやっちゃいけねえなって言うのは教えられましたね。

終戦に近いころでしたけどね、私、お鍋をね、何か煮るお鍋が欲しいって言って、鉄帽がね、山の中に亡くなった方のがゴロゴロしているんですよ。それを拾って来てくれないと言われたので、その調度山の中を歩いていましてね、そしたら、そのとき後で、そうだここは高砂義勇隊のお墓だなと。で、お墓の傍を歩いたらね、鉄帽が転がっているんですよ。だからね、これだなと思ってこうやって拾ったら、それが鉄帽じゃなくてね、頭蓋骨なんですよね。義勇隊兵の。お墓から転がりだしちゃって。もう真茶色になっていましたからね、鉄帽と間違えて。

それ持ったときね、申し訳ないと思いましたね。そんな思い出があったり、それからね、まだ…戦争が終わりましたときね、私が旧飛行場の脇を歩いていましてね…たまたま用事があって行ったんですが…そのときね、高砂義勇隊のね、若い少年兵が2人座ってわんわん泣いているんですよ。滑走路の傍で。でね、「あんたたちどうしたの」って言ったらね、「兵隊さん、日本負けたんだよ」と、「悔しくないのか」と。こう言いましたよ。そのときね、私は非常に申し訳ないですけど、これでやっと帰れるなと思いましたね。ところが、その一言を聞いたときね、どっちが日本人だか分かんない、祖国愛っていうかね、もう本当の、今の人は割合欠けていますけど、本当の意味の祖国愛。

負けたんだよと、悔しくないのかと言われたときね、もうハッとしましたね。そんな思い出が随分残されているのが、高砂義勇隊っていうのはね、日本の軍には非常にね、協力的で、もういわゆる黒子みたいな。影に隠れてね、色々と活躍してくださったね、方たちですね。ですから今、何人かは生き残って帰ってきている方もいると思うんですがね、私も、もう30年位前ですけど、花蓮っていうね、台湾の…あそこへ行ったときね、たまたま私がいた島の隊長さんがね、高砂族の方にお会いして、色々お話をしましたけどね。

まあ、その隊長さんが、はっきり私覚えてないですけど…300人だか600人だか連れてって、それでね、台湾に帰れたのがね、30人でしたというようなね、お話を聞いて。じゃあこの絵の兵隊さんは帰ってきているのかなと思いましたけどね。色々、何ていうか、戦争の中の一つのね、表面には立たないけども非常に日本軍のために戦ってくださった、私は非常に今でも忘れることが出来ない高砂義勇隊ですね。非常にありがたいと思っています。

国のためだから、なんでもやらなきゃいかんっていうようなね、そういうことがね、特に高砂族の場合なんかは、私はまさに義勇隊だったと思うんですけどね、決して強制的にね、徴用されたとか、今風に言いますけどね、かなり志願兵が多かったですよ。それでね、やっぱり日本のためにっていうんで戦ってくださった。

やっぱり日本を守らなきゃいけないと。そういうことは一途にね、非常にシンプルというか誠実だったですね。我々はもう負けちゃいました。そういうことでね。

でね、ジャングルっていうのはね、密林ですね…密林というのは、日本人の感覚では考えられない山ですよ。日本の山々をね、いくら森林行っても、屋久島行こうと、いくら密林行ってもね、あんなとこないですよ。

そういう原始林の中で、木の実って言ったって何にも成らないし、とにかく食べる物は何もない。コンクリートの上に乗っているのと同じですね。そういうとこで、兵隊が全く未知の世界…それを橋渡しして下さったのは、高砂義勇隊ですよ。よく知ってらっしゃるんですよね、台湾の密林に…亜熱帯ですから、台湾はね。ですから、かなり似た形態ですかららそこの中にある、簡単に言えば木の葉っぱとか、草の芽なんかもうっかり食べると下痢しちゃう。それが高砂の連中に聞くとね、これは駄目、これは良いと。どうやってそういう食べ物を分けるのって言ったら、兵隊さんね、口の中に入れてちょっとかめばすぐにわかる。そうするとね、変に繊維質だったり、苦かったり、そういうものは駄目よと。こういう物は食べなさい。これはビタミンがあるよとかね。一生懸命教えてくれたんですね。

ですから、何かやるとき、高砂隊にちょっと手伝ってもらうというとね、非常に助かったんですけど、やっぱり数は少なかったけど、そういう点で印象に残った人たちですね。ですから、今度、高砂義勇隊のこういうことを取り上げられたって言うんでね、私はね、何か救われたような気がする。高砂義勇隊って言っても知らないんですよ、皆。だけどね、私の場合は忘れじのニューギニアで、忘れじの高砂義勇隊ですね。

出来事の背景出来事の背景

【三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~】

出来事の背景 写真標高3500メートルを超える山々が連なる台湾の山岳地帯。ここには、数千年の昔から台湾の先住民が暮らしていました。日本が台湾を統治していた時代、先住民は総称して「高砂族」と呼ばれていました。彼らは、戦前から戦中、戦後にかけ、激動した台湾の歴史の中で、三つの名前を生きてきました。自らの民族の名前、日本統治時代の日本名、そして戦後の中国名です。
「高砂族」の若者たちは、太平洋戦争中、日本軍の兵士や軍属として戦地に送られ、密林や山岳地帯などの戦場で、日本人を支えました。その勇敢な戦いぶりが、日本軍から高く評価される一方で、ゲリラ戦などにも投入され、数多くの若者たちが命を落としました。
さらに、終戦後、日本は台湾を放棄しました。変わって、蒋介石の中国国民党が新たな支配者となります。“日本人”として育った「高砂族」の若者たちは、それまでと全く異なる社会の中で生きていかなければなりませんでした。「高砂族」の人々は、国家と戦争に翻弄される激動の20世紀を生きてきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
東京(現・町田市)に生まれる
1941年
現役兵として独立高射砲部隊入隊
1943年
再度召集され北支那方面軍野戦高射砲第74大隊所属
1944年
西部ニューギニア・ソロンへ
1945年
サラワティ島で終戦を迎える
1946年
帰国
 
その後は造形作家として多くの作品を発表

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