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タイトルタイトル: 「祖母に聞いた霧社事件」 番組名番組名: [BSプレミアム] 三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~
名前名前: 林 香蘭さん(台湾“高砂族”の戦争 戦地戦地: 台湾  収録年月日収録年月日: 2011年3月28日

チャプター

[1]1 チャプター1 霧社事件  10:12

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いま、霧社に入りました。昔、道はね、こっちから入ります。この手前のところから霧社に入るの。そして土石流で道が崩れてしまってね、こっちからは通れなくなった。そしてこっちが公学校の場所。

この場所が公学校の場所だったの。

昔、日本人来るたびにね、花束とか線香とか持ってね、あのときまだ記念碑はあった。なくなってからは、もうこんなことないですね。

ここがほんとの霧社事件、受難者の慰霊塔の場所だったの。だからもうほんとにこれだけしか残っていない。

Q:これはなんの跡ですか?

これは階段。こっちから階段あったの。あそこも階段あった、あんときね。

そのとき、うちの父、霧社事件のときは師範学校2年生だった。そして、うちのおばあちゃんはね、霧社分室(現地の警察署)の嘱託、そして、静子おばさんだけ霧社小学校で勉強しとった。だから霧社事件の当時、父のほうは……。おばあちゃんといちばん小さい静子おばさんは、霧社におったの。 じゃあ、行きましょう。

台湾電力会社ね、第二弁公室って書いているね。こっちが運動場だった。そして、いま家あるところが教室。国旗台は、いま車ありますね、車の木あるところね、あそこが国旗台だったの。

そしてこの霧社分室はね、あのときにいつでも山の祭典でね、各蕃童教育所の警察官、みんな子ども連れてきて、こっちで、一日、霧社の街でね、踊りのコンクールとか、バンブー作るのとか、いっぱいとっても賑やかで。27日はこっちで運動会ある。26日は街で。毎年、二日ある、とっても賑やかで。だから、だんだん日本だけじゃなくて、サイでも有名になってね。あの山の祭典のとき、いっぱい、人見に来る。この山の高砂の祭典でどんなことあるか、踊ったり歌ったりね、バンブー作ったり、ピンで吹いたり、とっても賑やかだから、いっぱい来るんだ。

Q:この公学校のどのへんに日本人がいて、どのへんから襲撃してきたか分かりますか?

だいたいわかります。・・・なんかお線香の匂いしますね。そのときね、こっちで国旗揚げているとき、みんな君が代の歌、歌っているときにね、ボン! ボン! ボン!て3発鳴ってからね、こっちからも、あそこからも、こっちからも、みんな一緒にワーッ!って出てきた。二組に分かれていたの、蕃丁はね。体とっても丈夫な方は、先に霧社分室管理している駐在所をね、この霧社に近いところの駐在所の電話線みんな切ってしまって、向こうの日本人全部殺していっています。

でも全部包囲してね、 ボン! ボン! ボン! 鉄砲の声、3回鳴ったときに、みんなワーッ!て一斉に、でてきたんだよね。そして、出てきてね、日本人と分かったら、みんな頭取る。

だいたいね、いま、あのトラックありますね? だいたいこの辺です。校長先生の宿舎。そしてボン、ボン、ボンと鳴ったときに、いっぱい山の人、四面八方から全部ワー!と一緒に来てね。日本人と分かったら先に殺す。分室主任たちを追っかけて来た。そして校長先生、国旗台のほうに立ってね、「みんな私の宿舎に逃げなさい!わたしが保護してあげます!」て大声で言っている。だから日本人たちね、みんなお母さん、学生さんたちを、大人はあります、みんな校長先生の家の方向に逃げてきて、
そして私のおばあちゃんも静子おばさんも、あの中に入っとった。そして、うちのおばあちゃん、中に入ったとき、いっぱいいて、中ね、もう入れないくらい、もういっぱい入ってきているの。自分は台所に入ってね、大きい水桶(おけ)の中に、静子おばさん、子ども殺されたら困るからって、水桶の中に突っ込んで、そしてふたをして、自分は横で、もう殺されると考えて座っとったで。

日本人だったら、みんな殺すからね、自分も日本人の姿しています。そしてあそこに座っとっただで。それで良かったのは、タイヤル族でね、機織りで来たら、こっちに入れ墨置く(入れる)の。そして、うちのおばあちゃんもだいたい13歳のときに、入れ墨置いとったで。だからこっちに入れ墨ありますね。でも、頭は日本の姿。着物も日本の姿して、下駄(げた)履いていますね。それで隅っこに座っても、もう目も開けたくない。校長先生も殺して、外でみんな殺されている。中に入ってきて、中にいる人も殺しているから、ああ、もう死ぬの待っているだけで。ずっと心の中で祈っている。自分の静子、小さい娘だけね、助かったらいいねえって。一生懸命もう目は閉じて、一生懸命神様に願って。自分の娘助かるように願っとったで。

そして、入ってきて、自分に殺すときに、ええ! ちょっと待って! 入れ墨あるって! そして私のおばあちゃんはね、嘱託で、日本の行政の宣伝のとき、各部落に行って自分が翻訳(通訳)しています。そして衛生所のお医者さんが来て、予防注射のとき、自分も看護婦さんみたいに、各学校に行って、各部落に行って、予防注射に行くとき、みんな一緒に行っているからね、みんな顔わかっている。「ああ! ペコタレさんだ!」て殺しに来た人が叫んでね。そして、「ペコさん! ペコさん! 私たちね、殺すのは日本人で、タイヤル族は殺さん」て。「あんたも日本の婿さんから捨てられて、苦労しているから、絶対あんたは殺さん」て。

出来事の背景出来事の背景

【三つの名を生きた兵士たち ~台湾先住民“高砂族”の20世紀~】

出来事の背景 写真標高3500メートルを超える山々が連なる台湾の山岳地帯。ここには、数千年の昔から台湾の先住民が暮らしていました。日本が台湾を統治していた時代、先住民は総称して「高砂族」と呼ばれていました。彼らは、戦前から戦中、戦後にかけ、激動した台湾の歴史の中で、三つの名前を生きてきました。自らの民族の名前、日本統治時代の日本名、そして戦後の中国名です。
「高砂族」の若者たちは、太平洋戦争中、日本軍の兵士や軍属として戦地に送られ、密林や山岳地帯などの戦場で、日本人を支えました。その勇敢な戦いぶりが、日本軍から高く評価される一方で、ゲリラ戦などにも投入され、数多くの若者たちが命を落としました。
さらに、終戦後、日本は台湾を放棄しました。変わって、蒋介石の中国国民党が新たな支配者となります。“日本人”として育った「高砂族」の若者たちは、それまでと全く異なる社会の中で生きていかなければなりませんでした。「高砂族」の人々は、国家と戦争に翻弄される激動の20世紀を生きてきました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1945年
台湾・台中州霧社(南投県仁愛郷)に生まれる
 
祖父は日本人で霧社の警部補、祖母はタイヤル族の頭目の娘
 
父は霧社事件の際、現地に赴き、多くの写真を記録した
1930年
10月、霧社事件
 
その後、南投県埔里鎮で生活

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