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大坂の陣

関ヶ原の戦いで勝った徳川家康は、1603年江戸に幕府をひらいたが、豊臣方は依然強い力を持っていた。家康は2度にわたり大坂城をせめ1615年に豊臣家をほろぼした。

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ねらい

徳川家康が自分の権力をより強固にするために、豊臣秀吉の子の秀頼(ひでより)を滅ぼしたことがわかる。

内容

徳川家康は、1603年、江戸に幕府を開きました。しかし、豊臣秀吉のあとをついだ息子秀頼は、大坂を中心として強い影響力を持っていました。豊臣家をほろぼす機会を、家康はねらっていました。目をつけたのが豊臣家と関係が深い寺の鐘にきざまれた文字。「国家安康」と「君臣豊楽」。家康は、これを「自分の名前を、切りはなしているので無礼である」といいがかりをつけたのです。1614年11月、家康は豊臣家をせめました。大坂冬の陣です。しかし、まわりに大きな堀をめぐらせた大坂城は、簡単にはせめきれません。そこで家康は、豊臣家に城をせめるのをやめる代わりに城のまわりの堀をうめるようもちかけました。そして、翌1615年5月、家康は再び大坂城をせめます。大坂夏の陣です。家康の作戦によって堀がうまった大坂城。わずか3日でせめ落とされました。ねばり強くチャンスを待ち、それをのがさない家康の本領が発揮されたのです。