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江戸時代に作られた五郎兵衛用水

標高640mの高台にある長野県浅科村の水田。江戸時代の初め、市川五郎兵衛が、いくつも山を越えた湯沢川から用水を通して米作りが可能になりました。

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ねらい

市川五郎兵衛が荒地の高台に水田を作るまでの苦労やそれに関わる人々の工夫を知ることができる。今も残る用水路の様子からその大切さがわかる。

内容

長野県浅科村の水田は、標高640mの高台にあり、昔は米の出来ない荒地でした。江戸時代の初め、市川五郎兵衛という人がここに水を引いて、水田を作ろうと考え、1626年に藩から田んぼを作る許可状をもらいました。五郎兵衛は、いくつも山を越えたところにある湯沢川から、水を引くことにしました。その川のわきには、五郎兵衛が、水をとったことをしめす、記念の碑が建てられています。五郎兵衛用水の長さは、およそ18キロ。水を求める多くの人々が協力して、工事は、わずか5年で完成しました。ゆるやかに水が流れるようにするため、途中、何か所もトンネルを掘り、山すそを迂回させたのです。当時のトンネルの跡が今も残っています。用水路は昭和35年から10年がかりで改修工事が行なわれ、近代的な姿に生まれ変わりました。用水路は今も「五郎兵衛用水」の名で、土地の人々に親しまれ、ゆたかな実りをもたらしています。