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オープニング
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(オープニングタイトル)

scene 01御仏をシンボルにして…
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聖武天皇、西暦(せいれき)701年生まれ。聖武天皇の時代には、はやり病(やまい)、地震(じしん)や反乱と、いろいろな困難がおしよせてきました。そこで聖武天皇が考えたのが、自らが信じている御仏(みほとけ)をシンボルにして、日本を救っていただこうということでした。

scene 02世の中の乱れが続いた時代
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今から1300年ほど前、現在の奈良県に都が置かれていました。「平城京」です。ここで、当時24歳(さい)の聖武天皇が即位(そくい)します。しかし、聖武天皇の時代はトラブル続きでした。地震(じしん)や日照りなどの災害が相次いだ上、天然痘(てんねんとう)というはやり病(やまい)が広がり、多くの人がなくなりました。さらに、そんな世の中に不満を持った貴族が反乱を起こし、国はますます乱れます。

scene 03「責めはわれ一人にあり」
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都の場所をかえれば国が安定するのではないか。聖武天皇は次々と都をうつします。しかし、解決にはいたりません。どうして平和な世にならないのか。聖武天皇の苦しみが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』という書物に記されています。「責めはわれ一人にあり」――「わざわいの責任は、国を治める私にあるのだ」。

scene 04ドキリ★不安定な世の救いとして仏教にたよった
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そこで聖武天皇がすがったのが、仏教でした。不安定な世を、仏教の力で救おうとしたのです。聖武天皇は、国の一大事業として平城京に大仏を造ることを決心します。そして743年、民に向け、大仏造りへの協力をよびかける「詔(みことのり)」を出すのです。――「国じゅうの銅を用いて大仏をお造りし、大きな山をけずって大仏殿(だいぶつでん)をたて、仏の教えを広めよう」。

scene 05ドキリ★民の信頼が厚い行基の力を利用した
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大仏造りにはたくさんの人手が必要でした。そこで聖武天皇はある人物に目をつけます。僧(そう)、行基です。行基は仏教の教えを広めるだけでなく、貧しい人々に食べ物をあたえたり、川に橋をかけたり、日照りに備えて池を造ったりして人々のためにつくしていました。聖武天皇は協力をたのみ、行基はその思いに応えます。聖武天皇は、民の信頼(しんらい)が厚い行基の力を利用したのです。大仏造りは実現に向かって大きく進み始めます。全国からのべ260万人が集まり、国を挙げた一大プロジェクトが始まったのです。

scene 06大仏ができるまで
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クレーンもショベルカーもない時代、どうやって大仏を造ったのでしょう。まず、仏像の中心に柱を立て、竹や木で骨組みを作ります。まわりを粘土(ねんど)で固め、大仏の形を作ります。ここまでで1年2か月かかりました。仏像のまわりに土を盛って足場を作り、とかした銅を流しこんで形にしていきます。この作業に3年かかりました。1000℃に熱した銅を流しこむ、危険ととなり合わせの作業。それでも行基の号令のもと、人々は作業を続けました。しかし工事のとちゅう行基は病にたおれ、志半ばでなくなります。

scene 07開眼式
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聖武天皇の詔(みことのり)から9年後の752年、1万人が見守るなか、いよいよ大仏披露(ひろう)のときです。位の高いインド人の僧(そう)が、大きな筆で大仏の眼を開く儀式(ぎしき)を行いました。開眼(かいげん)式です。筆には長いひもがつけられていました。参列した人たちはひもをにぎることで、仏との縁(えん)を結んだといいます。聖武天皇はこのひもを、終生、宝としました。ひもは、今でも大切にのこされています。

scene 08今も私たちを見守る大仏
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奈良東大寺に現在ものこる大仏。大仏は、その後、火事で焼けたこともありましたが、そのたびに修復されてきました。およそ1300年前、聖武天皇が世の平和をねがって造った大仏は、今も私たちを見守っています。

scene 09年号ごろあわせ
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聖武天皇が、大仏を造る詔(みことのり)を出した743年は、こうやって覚えましょう。「もう、迷いはなしさ(743)! 大仏造ろう!」。

歴史にドキリ
聖武天皇・行基~大仏はなぜ作られたか~
奈良にある巨大な大仏が、聖武天皇の時代になぜ造られたのかを、仏教が全国に広まっていった背景と絡めて考え、「大仏をつくる詔」にみる聖武天皇の思いを見つめる。
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