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オープニング
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(オープニングテーマ)

scene 01産業と交通
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今からおよそ400年前の1603年、徳川家康は江戸に幕府を開きました。幕府の支配体制が確立して、戦(いくさ)はなくなり、世の中には平和が訪れました。人々の身分は、武士と、町人や百姓などと、しっかり分けられました。そして交通の手段が整えられ、江戸時代は大きく栄えていくことになります。

scene 02増産政策と新田開発
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江戸時代、農村では収穫量を増やすことに力が注がれました。収穫量が増えると、幕府や藩にとっては、米など多くの税を集めることができるのです。江戸時代は人口のおよそ85%が農業や漁業・林業などに従事し、「百姓」と呼ばれました。新しく土地を開くことにも力が注がれます。千葉県北東部の当時の絵図には、真ん中に湖があります。それが数年後には、水田に変わりました。こうした開発を「新田開発」といいます。

scene 03農具の進歩
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農作業で使われる道具も大きく進歩しました。土を深く耕すことができる「備中鍬(びっちゅうぐわ)」。簡単に稲からもみをとることができる「千歯扱(せんばこき)」。風を送ってもみ殻などを飛ばし、米ともみ殻を分ける「唐箕(とうみ)」などです。これらの道具により、作業の手間が大幅に短縮されました。

scene 04商品作物の普及と特産物
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一年間の農民の暮らしが彩り豊かに描かれた絵図。田植え、そして大根畑があり、ナスも栽培しています。実りの秋、刈り入れが行われ、宴会を開いて楽しむ姿も見えます。野菜などは商品として、人々が集まる町へと運ばれていきました。そうした作物を「商品作物」といい、各地でお金による取引が行われるようになりました。日本各地で特産物の生産に力が注がれるようになったのです。今の静岡や京都の名産、お茶。山梨のぶどう。和歌山のみかんなどです。その土地の名産品として今でも親しまれています。

scene 05漁法の改良と金肥の普及
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江戸時代には漁業も大きな発達を見せます。漁に使われる網が改良され、魚がたくさん獲れるようになりました。今の千葉県九十九里浜の地曳網(じびきあみ)によるイワシ漁、北海道渡島(おしま)半島付近の刺網(さしあみ)によるニシン漁などです。イワシやニシンは「干鰯(ほしか)」や「〆粕(しめかす)」といった肥料に加工されました。これらは油かすとともに、「金肥(きんぴ)」と呼ばれ、農村での商品作物の生産に欠かせないものとして普及しました。

scene 06道路網の整備(1)五街道
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江戸幕府は江戸と全国を結ぶ道路の整備を行いました。なかでも「五街道」と呼ばれる、東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中は、重要な幹線道路でした。これらの街道は大名の参勤交代などに使われ、街道沿いには宿場が設けられました。宿場は、大名の宿となる「本陣」や、家来や旅人が泊まる「旅籠屋(はたごや)」などを中心とした町で、大名の一行や旅人でにぎわっていました。

scene 07道路網の整備(2)関所
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また、街道の要所に置かれた「関所」では、通行人に対して厳しい取り締まりが行われました。特に、人質として江戸に住まわされていた大名の妻や子どもが国元へ逃げ出さないか、あるいは鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれないか、監視していました。「入鉄砲(いりでっぽう)・出女(でおんな)」といいます。また、「脇街道(わきかいどう)」と呼ばれる道もつくられ、全国の都市が道で結ばれていったのです。

scene 08海上交通網の発達
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大坂の町を描いた図。蔵の前にはたくさんの荷物が積まれています。これらを運ぶときに活躍したのが船です。年貢米は、各藩の蔵があった大坂や江戸へ送られました。今の山形を出発点に、佐渡、島根、山口、そして瀬戸内海を通って大坂へ向かいます。大坂を出た船は、紀伊半島をまわって江戸へ。これを「西廻り航路」といいます。一方、山形を出て東北地方から太平洋沿岸を通り江戸に入るルートが「東廻り航路」です。特に大坂と江戸のあいだには「菱垣廻船(ひがきかいせん)」や「樽(たる)廻船」など、多くの船が行き交いました。

scene 09貿易の振興から鎖国へ
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江戸時代の初め、商人を中心に人々は盛んに海外へと進出するようになっていました。フィリピン、ベトナム、カンボジア、タイなど東南アジアの各地に「日本町(にほんまち)」が作られ、外国と広く交流するようになったのです。しかし、1637年に起きた「島原の乱」をきっかけに、海外との貿易は厳しく制限されるようになります。三代将軍徳川家光はスペイン船に加え、ポルトガル船の来航も禁止し、オランダ人を長崎の出島に移して厳しく監視しました。いわゆる「鎖国」です。

scene 10鎖国下の貿易(1)長崎
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キリスト教を広めないとしたオランダや、中国との貿易は続いていました。オランダとの貿易は長崎の「出島(でじま)」に限られていました。出島は人工の島で、日本人の出入りは厳しく制限されました。中国との貿易の窓口となった、出島近くの「唐人屋敷(とうじんやしき)」の絵。たくさんの人が、中国から届いた荷物を運んでいます。宴会を開いている人たちもいます。

scene 11鎖国下の貿易(2)対馬・琉球・松前
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長崎以外でもさまざまな交流が行われていました。朝鮮と交流していた対馬(つしま)藩。朝鮮からは将軍が代わるごとに、お祝いの使者が遣わされました。「朝鮮通信使」です。薩摩藩は琉球王国と、また北海道の松前藩は蝦夷(えぞ)地のアイヌの人々との交易を行っていました。鎖国という制限されたなかでも、これら4か所を中心に、交流が行われていたのです。江戸時代、産業が発達するとともに、国の内外で多くの人や物が行き来するようになったのです。

10min.ボックス  日本史
江戸時代の産業と交通
江戸時代、日本の産業・経済・交通は大いに発達した。その様子を理解する。また鎖国時代の海外との交流についても考える。