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タイトル 「レイテ湾突入作戦」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・シブヤン海 “戦艦武蔵の最期”
氏名 杉山 三次さん(戦艦・武蔵 戦地 フィリピン(シブヤン海)  収録年月日 2008年12月1日

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チャプター

[1] チャプター1 機関兵として乗り組んだ「武蔵」  04:52
[2] チャプター2 不沈艦と呼ばれた「武蔵」  03:35
[3] チャプター3 自殺者まで生んだ艦内の制裁  05:05
[4] チャプター4 機銃の増設  03:19
[5] チャプター5 レイテ湾突入作戦  02:00
[6] チャプター6 米軍機による集中攻撃  02:59
[7] チャプター7 「武蔵」沈没  02:57
[8] チャプター8 秘密にされた「武蔵」の沈没  07:21

再生テキスト

Q:武蔵に乗る前っていうのは、何か別の船に乗られてたんですか?

はい、駆逐艦「山雲」。これは2次大戦が、開戦時に駆逐艦「山雲」に乗ってました。そのときは海軍一等機関兵で。

わたしは海軍に入ってからね、「武蔵」で、沈むまで、おんなじ戦闘配置です。要するにスクリューまわし。もと機械でスクリューをまわす。そのもと機械の操作をやっていた。


Q:それはご自分で、その配置は希望されたんですか?

いやいや、とんでもない。これはね、徴兵検査で甲種合格。で、その時点で既に陸軍だ海軍だ、海軍の機関兵だとか水兵だ、これが決まってる。決まってる通知がくる。ですから、わたしは横須賀海兵団に入る前に、すでに機関兵って、ちゃんと通知が来てる。入団は、昭和14年6月30日、横須賀海兵団入団のこと。ちゃんとそれが来て、そのとおりに決まっちゃうんですよ。それ、希望も何もないですよ。


Q:昭和17年に、「山雲」を降りられたんですか?

ええ、昭和17年の4月24日に、山雲の退艦命令と同時に、5月1日付けをもって、戦艦「武蔵」艤(ぎ)装員付きを命ず、ということなんだ。


Q:「武蔵」という戦艦をご存知でしたか?

名前は聞いていました。ええ、それはね、絶対秘密ということで、誰も知らないはずなんだけど、どういうもんですかね。われわれ、下級兵にもね、絶対、沈まない、世界最大の戦艦ができるんだそうだと、いう噂はきいた。実際に見たのは武蔵に乗って、なるほどこれはでかいわ、と思ったんだ。それが初めてですよ。それまでは噂ではね、絶対に秘密だなんていってもね、どういう分から、まわるのかね、我々下級兵の耳にも入りました。


Q:武蔵をいちばん最初にご覧になったときは、どういう感じでしたか?

 ううん、いあや別にねえ、これだという気持ちがわいてくるなんて言う余裕は無かったですよ、その当時は。なるほど、これはでかいよなあ、うん、というとおりでね。


Q:武蔵での、艦の上での生活っていうのはどんな感じでした?

 これはねえ、日本海軍、兵隊が、とにかくね、笑い話みたいに言うんですよ。武蔵ホテル。まず武蔵ホテル。それから、まだいろいろ、武蔵大学とも言ってたね。武蔵大学、武蔵ホテルだ。つまり日本全海軍でいちばんトップクラスだった。いちばんトップだ、と。居住もいいし、技術もいいし、要するに武蔵へ、乗せられるのはみんな頭の優れたいい兵隊、成績のいい兵隊ばっかりだという、噂だったんですよ。これは、それだけは違ってましたね。だって僕のようなのが乗って、だあんと悠々と武蔵に乗って、一人前に働いていたんですから。それだけは違いましたね。

Q:最初、ご覧になったときには、どうだったんですか? 世界最大の46センチ砲っていうのは、見たときには? 印象として?

 あれがねえ、これは一体、どの位あるんだろう、一体、弾はどのくらい、飛ぶのかなあ。いちばん最初の感じはね、その程度だったですよ。よくよく聞いてみてね、ありゃ弾の重さは、1トン。そんで、射程距離は3万6千メートル。こういうことを教わった。

とにかくねえ、どうにもこうにも、世界中にどこの国の戦艦を持ってきたって、それ以上の大砲はないですから。

武蔵は船台にあるときから、何百メートル、被せよったかね、よしずでざあっと被せちゃって、全然、外からは全然、見えない。それでね、あんな高いところまでふってある。ところがほら、すぐに長崎辺りはちょっと離れ行くと山があるでしょ。山の天高からね、見るのがいるんだって。それがあるもんで、要するに、全部、囲っちゃった。


Q:実際に武蔵に、乗られたときっていうのは外から見ては、わからなかったですか?

 いや、外から、僕らが乗ったときには船そのもの形が見えてますから。ですから、ううん、でかい。どこまであんだか、わからない船で、これが武蔵だ、ということで、それに乗ったわけだけどね。


Q:でも、やはりその当時は、やっぱり杉山さんも、将校さんや、将校や上官が言う、この船は不沈艦なんだって言う話を、やっぱり、信じた?

 いや、信じませんよ。いや、そういうことはね。将校、上官、言ってましたよ。「本艦は不沈艦だ」と、いうことは言ってましたよ。だけどね、あの下っ端の、我々下っ端の兵隊でもね、いくらでかいったてね、絶対に沈まないなんてのは、そんな船があるわけが無いてんだよ。

大きな船の時代ではないということは、これはもうね、僕らも聞いて、なんか、これは船がでかくなくていいということは、結局、飛行機しかない、結局、飛行機の時代だということになる。それで今の話の仲間のような話だけども、あのときに武蔵を一隻、造ると、飛行機が500機、出来たって。500機。

要するに、武蔵は、今の時代にはふさわしくない、と。要するに、極端に言えば、役に立たねえと。それではなんだというと、飛行機より他にない、ということ。

Q:上下関係は厳しかったですか?

 厳しいなんてもんじゃねえですよ。でもね、僕は割合ね、可愛がられていたもんで、新兵に入った、駆逐艦「山雲」に乗ったときからね、可愛がられていたもんで、それで、割合おとなしい方だったでしょ。それで、かわいがられていたもんでね。

その当時は、今、ここで初めて、話をするんだけども、当時の日本海軍の、准士官、兵曹長なんていうのはね、専門的なことは知らない。知らなかった。僕はほら、海軍に入る前に、東京で鉄鋼場でやっていたもんでそいで、だいたい似たり寄ったりのことをやっていたもんだから、たいがいのことはね、船の機関兵のやることはだいたい、直接スクリューをまわせなかっただけでもって、それを回すまでの機械の操作とかってことは、だいたいほとんどわかった。それで兵曹長なんていうのはね、「おい、杉山、向こうで『6分のスパナ、取ってくれ』ってどなってるけど、6分のスパナはどのスパナだ」。それでね、あとでね、「おめえはよく知ってるな」って。

それでね、准士官なんていうのは、個室があるから、自分の部屋があるから「杉山、分隊士がこいって呼んでる」なんて行ってみたら、「おい」、餅菓子をね、こうね、どっからもってきたんだか、あってね、「杉山君、来たから食え、食え」なんてまず、ご機嫌とってね、細かい話をするもんで「6分のスパナって、どういうところであれを知ってるんだ」って、だからそれからね、僕はね、始めっから、説明して聞かせってやったんですよ。

他のなんていうのはね、ひどいもんだよ。

1人ね、武蔵でね、自殺しかけたやつがいるんだよ。 

船の底なんていうのはね、あの油がたれたりして、ドロドロになってるあの、船底へたまっているわけだ、そんなか飛び込んでね、自殺しようとしたんだけど、ちょうどそのときに、他のやつが通りかかって、何だか動いている。見たらやつがね、ブリッジの中、頭、突っ込んでいる。一体どうしたんだ。当直交代時間はね、30秒だか、1分だか、3分だか知らないがね、きったらしいんだよ。


Q:その人は遅刻したっていうこと?

 遅刻した。だからね、陸なんかと違ってね、海軍の場合は実際にね、1分差でも、これは大問題になることが多いですから。1分違うと。


Q:1分遅刻なんていうと、大制裁をくらうわけですか?

 それも船によっていろいろありますけどね。船でいうと、昔っからね、「地獄山城、戦艦山城、地獄山城、鬼金剛」っていう。ね、これ戦艦。そういう噂に、歌われたぐらいだ。だから、海軍の中でも特に「山城」、「金剛」、これはね、制裁が強かったんですよ。らしいんですよ。僕は乗ったことないから知らないけんど。

制裁が怖いから。だから、死んじゃった方が良かろうと思ったんじゃないでしょうかね。だけど、若い兵隊っていうのはね、まずパーセンテージにしてどうかな、これは僕もわからないけんども、あいますね。ああいう制裁をくらうんだったら、死んじゃった方がましだと、思うのがいると思いますよ。実際にいたと思います。

呉へ入って、それをね、穴をあいたところを修理している間にね、機銃をね、25ミリ三連装 これをね、機銃を積んだけどね、結局はあんまり役には立たなかったね。

露天甲板に機銃はね、全然、屋根なんかないですよ。あの砲塔みたいに。

露天甲板にね、足をちゃんとくっつけて、それで武蔵なんかは露天甲板にね、この何だろ、あれ、樫(かし)だか、楢(なら)だか、なんだか知らん。硬い木のね、板がずうっと甲板一面に全部、はってあるんですよ。ですからね、機銃なんてそろえておいて、下へねボルトで止めて、その程度です。


Q:周りには全く覆いもなしですか?

 何にもない。

土のうはありましたね。土のうっていってもね、土はなかったんだろうから、中に何が詰まっていたかね。でも実際にはね、平行で撃ちあいをするではないから、相手は飛行機だもの。だからね、あまり必要もないし、何もね、土のうの格好したのがね、積んであるのはね、僕は見ましたよ。何もそんなにね、弾をよけるほどのものじゃなかったですね。こんなものじゃ何にもなんなかろうって思ったぐらいだから。あるにはありましたね。

いや、機銃はね、話にも聞いたけども、実際にだって、機銃はくっついているんだから。今まではこんなとこには機銃がなかった。修理が終わって、呉を出港するときには。機銃はあって。それでね、副砲っていうのがその前にあったりね。やっぱりね、三連装でもって、両脇と前の、2機に45の大砲の上にやっぱりね、右左の脇。後ろにもあったな、確か。主砲の上に。確かあった。それはね、結局、何の役にも立たないと。ていうことで、呉に入ったときにね、その副砲はみんな下ろしちゃって、その替わりに機銃を置いた。そういうことを話してた。

Q:レイテ沖海戦の前というのは、上官からどういうふうに? この次の戦いについてみたいなことに関しては何か?

 それはね、聞きましたはっきり。レイテ島へ 陸軍部隊が レイテ島で苦戦していると、全艦隊応援に行けという、大本営、軍令部の命令が発令されたと。したがって、それに向かうという説明はそのときだけ聞きましたよ。それはブルネイでね、ちょうどブルネイにいるときですよ。ブルネイでね、燃料を満載にしているとき、これから、出発というときでね、だいたいブルネイをね、燃料満載してぽっつり、ぽっつり、レイテ島まで行く時間もあったらしい。我々にはわからないけんどね。

いや、のんびりとは言えないかもしれないけんどね。要するに先を、時間をみて、そして時間に間に合うように急げっていうこはなかったんで、要するに、言いかえれば、時間的には余裕が充分にあったんだと、ということだと思いますよ。そいで、他の船なんかも、先にどんどんね、巡洋艦なんていっただけんども、結局、武蔵なんかも 他の巡洋艦、駆逐艦に比べりゃ、足は遅いけれども、要するに一人になったって、武蔵のことだから大丈夫だろうなんていうことじゃなかったのかね。わたしの想像では。

Q:魚雷を受けたときに、斜めになっているとかっていうのは、傾斜したっていうのはわかりました?

 そりゃ、感じません。

水深がとにかくね10メートルもあるんですから。千トンや2千トンの水が入ったって、どっちなんて傾くなんて感じはしませんよ。ところが、それが結局、日本の技術者の要するに 計算違いだね。要するにね、左に最初くらったでしょ。いくらかどっちにしたって、平らなところで片っぽは、穴が空いちまうんだから、それいっぱい、水が入るんだからどうしたって、多少はこうなりますよ。それを、傾いたのを水平に直すためだということで、今度は攻撃されていない右側へわざと水を入れた。こういう設計だったんだ。だから結局、アメリカさんはそれはちゃんと知ってたんだね。知ってたんだよ。だもんで、最初は左からばっかりきてそれから、今度は右へ注水して、平均を保とうとするね、今度は右から、だから、もう絶対だめだった。

左側のいちばん最初は、いちばん最初の魚雷でやられちゃって、機械なんて、吹っ飛んじゃって、ほとんどが、何人、助かったかな、左がわのいちばん外の機械室、スクリューを回してたの。全部で16人から、18人ぐらいはいたはずですよ。ひとつの部屋に。

結構、スクリューはね、もう回しっぱなしですよ。操縦弁っていうのはこうこのくらいのね、スクリューを回したり、ぴたって止めたりする、このくらいのね、ハンドルがあるんですよ。それをね、開けっ放しで、結局は、前がこの辺まで沈んじゃってるから、どうにもならないということでそれで、そのまんまで、「総員退去せよ」という命令だから、艦長の命令がでたんだから。それで、そのまんま皆、追っ払ってあの表へ出たんです。

僕はね、これにつかまっていた。これ。この旗ざおに。この旗ざおにつかまっていた。最後まで。そうしてね、気の早い連中は先にどんどんね、滑り落ちるんだよ。僕は落ちなかった。それで、ずうっと、ひっくり返りそうになったときに、手を離して飛び込んだ。飛びこんだって、おっこったんだね。かなりね、時間はありましたよ。それから、それはまだいいね。どぶんと、もぐっちゃってっから、出てくるのが、これはつらかったね。もう出るのか、出れないのか、もう、苦しいぐらいになったもの。そしたら、ポコンとね、浮いちゃったの。それで、それからね、見たってわからない。重油が顔にいっぱいで、誰も、彼も、わからないです。それで、遠くの方でね、歌を歌いだしたのがいる。

その一塊より 遠くの方へね、 何百メートルか離れていた。いちばん後ろだったから。後ろで飛び込んだからね。遠くへ飛んだ。それで、この近くにいた人達は、みんな一緒にね、わいわいして、何の歌を歌いだしたか、「君恋し」なんて、歌を歌っていたの。

「君恋し 唇 あわせれど」なんて歌うんだ。そうしたらね、皆、元気よくなって、でっかい声になったの。

もう何にも、ほら、形見も何にも、ないわけだ。それで僕はね、一筆、書いて、イマニシ・コウイチ君がね、俺の部下でいちばん親しい戦友だったと。武蔵が沈むときに、俺の握っている手をね、振り払って「杉山兵曹、わたしは泳ぎが全然、出来ないんで、杉山兵曹に連れて行ってもらっても、迷惑をかけるだけだから、自分の戦闘配置に戻って船と運命を共にします。それで、ゴア-ッとでかい音がして、沈む間際だ。この下の自分の戦闘配置に行った。どこまで行ったか、それはわからない、もう。それで沈んじゃったから。

Q:どのくらい漂流していたんですか?

 あのね、これはまあ、武蔵の場合は武蔵の場合は早かったですよ。なんていったって、武蔵が沈むのをね、あの駆逐艦の「清霜」と「濱風」2隻が待っていた。武蔵が沈むのを。ほいでみんなね、飛び込んでぶかぶか浮くのを待っていたんだから。2隻で。武蔵が沈んでから、みんなその、うた歌っている連中とか、あっちこっちに、ちらばっている連中を皆ひきあげて、それでコレヒドール島へ持っていったの。

一昼夜、助けあげられてからだから、武蔵が沈んでから、武蔵が沈んでからね、19時35分沈没が。それから、次に一晩、暗い中を走って、それでコレヒドール島へ着いたときには明るかったからね。一昼夜ぐらいじゃなかったかね。そのくらいだったと思いますよ。それで、そこで着いたのが、ほとんどが元気でいてね、それで、野戦病院に行ったのは、僕を筆頭に、いくらもいなかった。20名かそこらだった。僕は、ほら、足をふくらませちゃって、全然、自分の足がついているかいないかわからなかった。


Q:コレヒドール島での生活というのはどういう感じだったんですか?

 いや、生活なんてもんじゃないですよ。だってね、水がね、やっとだって。小さい島の天候ですからスコールがね、要するにね夕立がザーっとくるでしょ。そうするとね、みんなそこにあるトタン板なんか、みんなこうやってね、それで、その水をとって、それで、マッチやライターかなんかは、誰かが持っていたんだろうね。火はね、結構、燃したもの。それでそんなのでね。あとはね、麦の方が多い、白い米粒なんてね、こんなのが一つね。本当にこのくらいのが、一つ。それをね、何にも、食器も何にもないから、ヤシの実、ヤシの実を真っ二つに割って、中を綺麗にして、それが食器だよ。だからね、もう何にも用がないから、島のずっと下のね、水際の方まで降りてって、長いも、あれを探したりして、ねほじってくるだよ。そうしてはそれを食って。なんていったって、何か食べなきゃだって生きていかれないもの。

そんなこんなでね、1か月、10月24日~25日、11月の半ば頃だったかねえ。記録を見れば、はっきり、日にちもわかるけれどね。11月の20日すぎかな。マニラから、コレヒドール島から、ポンポン船でもって、マニラの岸壁まで戻って、結構ある、2時間ぐらいかかる。小船がね、要するにコレヒドール島へよるから、だから大きな船なんか全然、寄れない。マニラの岸壁までいかなきゃ、で、行って、乗って、ぐるうっと、回ってねフィリピンの西海岸、ルソン島の西海岸を帰ってこようと思ってね、台湾海峡、台湾海峡じゃない、バシー海峡台湾海峡は反対のシナの方だ。バシー海峡を渡ろうとしたらね、魚雷一発で、10分ぐらいで沈んじゃったよ。さんとす丸。

 そのさんとす丸も、半分くらいは死んだね。

さんとす丸ね、マニラから出たさんとす丸。バシー海峡で沈んじゃって、だから「しょうかい艇」っていう小さいね船はね、助けにきたの。小さいんだけどね、全長も何メートルかね、100メートルもない小さい、船だ。それで、みんな助けあげられて、それで台湾のね、高雄へ連れて行かれた、高雄へ。


Q:どこに戻ったんですか?

 それからね、来たら横須賀の海兵団は満員で、あっちから、こっちから、みんなきたので満員で、入れなくて、竹山じゃなかった。


Q:竹山ですね、第2海兵団?

 海軍の練習場があった、あそこの兵舎へね、皆、入った。それでもね、そこへ入っても武蔵の生き残りだっていうことはとにかく公表しなかった、出来なかった。


Q:なぜですか?

 武蔵のね、乗組員には 助かった乗組員だと、いうことは、公表できなかった。

それだって言ったって、まだその時点では要するに、日本全国の国民の中には武蔵が沈んだってことは知らない人の方が多いんだから。武蔵は沈んだってことを知らない人の方が多いんだから。なるべく教えないということ。

「武蔵が沈んだって、誰だってみんな知っているわ」なんて兵隊仲間でも言ってはいるけれども、一応はね、これは秘密だと。武蔵が沈んだということは、公表、その時点では。だから、武蔵は沈んだということはは公表していないんだから。公表できないというか、公表していなかったんだもん。

出来事の背景

【フィリピン・シブヤン海 “戦艦武蔵の最期”】

出来事の背景 写真太平洋戦争終盤の昭和19年(1944年)10月、米軍はフィリピン・レイテ島に上陸。敗色が濃厚となっていた日本の連合艦隊は、レイテ沖で、起死回生の戦いに挑んだ。この戦いで、世界最大の46センチ砲を搭載し、不沈艦と呼ばれた巨大戦艦「武蔵」が出撃した。

太平洋戦争においては、海戦の主役は戦艦から航空母艦・航空機へと移っていた。レイテ沖海戦の前に、武蔵には、航空機による攻撃に対抗するため、改修工事が行われた。甲板上には対空戦闘用の機銃が数多く取り付けられていた。
日本軍は、わずかに残った航空兵力がおとりとなり、そのすきに戦艦武蔵を含む第一遊撃部隊がレイテ湾に突入、米軍を叩くという奇策に出る。それは、米軍に完全に制空権を掌握されている中で、目的地まで見つからずに到達しなければ成功しない作戦だった。

米軍のレイテ上陸から2日後の10月22日、武蔵はブルネイを出港、レイテ沖を目指した。しかし、出港から2日後の10月24日、米軍の偵察機に発見され、朝から数次にわたる米軍艦載機による猛攻を受けた。増設された機銃は隠れる覆いがなく兵士を守ることができず、機銃掃射や爆弾の攻撃で大きな被害を受けた。
さらに、「不沈艦」と呼ばれた武蔵は魚雷20発、爆弾・至近弾合わせて35発を浴びせられ、午後7時半沈没。退去命令が出たのは沈没の直前だった。

乗組員2400人の半数近くが犠牲になり、辛うじて生き延びた乗組員たちの多くも、帰還の輸送船が撃沈されたり、マニラ防衛戦などの地上戦に投入されたりして、命を落とした。

証言者プロフィール

1918年
静岡県駿東郡楊原村に生まれる。
1939年
徴兵により横須賀海兵団に入団。機関兵として駆逐艦「山雲」に配属
1942年
機関科艤装員として「武蔵」に転属。
1944年
「さんとす丸」で帰国途中、敵の魚雷を受ける。台湾・高雄から再び民間船で帰国。
1945年
横須賀で終戦

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