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タイトル 「少年を死に追いやる軍隊」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
氏名 二階堂 悌二郎さん(震洋特別攻撃隊 戦地 日本(長崎・川棚)  収録年月日 2009年12月2日

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チャプター

[1] チャプター1 甲種飛行予科練習生  03:14
[2] チャプター2 「志願者を募る」  06:57
[3] チャプター3 長崎・震洋の訓練所へ  02:23
[4] チャプター4 特攻兵器は、ベニヤ製のモーターボートだった  02:26
[5] チャプター5 震洋の操縦訓練  03:55
[6] チャプター6 土佐清水の前線基地へ  04:26
[7] チャプター7 木の葉のようなボート  02:29
[8] チャプター8 生きて帰ることは望めない攻撃  04:46
[9] チャプター9 われわれは消耗品だったのか  03:34
[10] チャプター10 死の運命からの解放  02:57

再生テキスト

予科練を志願してから、操縦かんを握る、操縦者に向くのか。そうでなくて偵察要員といって、写真を撮ったり、通信連絡がありますね、あれに回る。どちらが向いてるかという、二者択一の方法があるんですよ。で、それは自分の意思では、決められないんですね。そういう適性検査があって、機械的、機能的な検査があって、最後には、昔流の手相、人相を見たりして、そこまでして判断して、わたしは残念ながら、操縦じゃなくて、偵察要員に回っちゃった。そうすると、その頃の偵察要員っていうのは、トンツーの通信ですね、モールス符号。あれを専門にやらざるをえない。カメラもあったんでしょうけども、カメラの練習をしたことはありませんから、よく分からないんですけども。

3月に卒業して、飛行予科練習生だったものが、飛行術練習生になるはずだったんです。そうすると、場所が変わらないかんわけです。そこに行けなかったんです。それから、その同時に予科練の教育、当分の間、中止になったんです。中止ということは先が見えない、先がないわけですね。

そこを(予科練)3月に終わったら、飛行機に乗る訓練を、受けるはずだったんです。ところが、その頃になってくると、飛行機はない、ガソリンもないということで、その頃、あの赤松の根、松根の根の油。松根油、というのがあり、(松根油)から、ガソリンの代わるものがとれるということで、全国、津々浦々の戦争に動員されなかった少年少女、老人老婆が、借り出されましてね、赤松の根を掘り始まったんですよ。で、それがどのぐらい有効であったものかは、分かりませんが、戦後になって、しばらくたってから、知ったことは、その赤松の根を200本、掘ったものをどういうふうに蒸留するのか、蒸留して液体化したものが、200本ですよ、液体化したものを使って戦闘機に乗った場合、乗せた場合に1~2時間しか飛べなかったっていうんです。

3月10日の、昭和20年ですか、大空襲がありましたね。だいたい、あの4、5日前だったと記憶してます。だから3月の、ごく初めですね。ある晩に、わたしら全員が集められまして、「今から、重大な話がある」と。何の話か分かりません。そして、全員、偉い方々が全部、お出ましになって、わたしらが並んだ。さて、何の話だろうと思ったら、戦局の話をされるわけですね。いま日本が、どこまで追いつめられているのか、どういうふうにあるのかと。そういう話かと、思ってましたら、ちょっと、こう、間合いをおいて「ゴホン、ゴホン」というような声を出しましてね。そして今から、となったのが、特攻隊員を募集するということで。


Q:特攻とは言われました?

 言いました、言いました。あの、特班と言いました。あとから、特班、特攻と言っておきながら、最後の結びでは特班というふうに訂正しました。

「今から、特別攻撃隊要員を募集する」と。で、「何に乗るか、どういうものであるかは、今は何も言えない」と。「ただし、生きては帰ってこれない」と。そういうふうに言われましてね。だから何に乗るのか、どこに行くのか、どういう任務につくのかは、分からないけども、とにかくあの、日本海海戦のときの、旅順港閉塞作戦っていうのお分かりですか。 旅順港にいたバルチック~ロシアの艦隊が、日本海に出てこれないように、あの、水路が296メートルあるんですね。ただし、水深の関係で、軍艦が通れるのは96(メートル)だったかしかないんですよ。そこに、日本の老朽船を連れていって、沈めると、つかえて、あの東洋艦隊が日本海に、出てこれないんですね。それがあの、まあ、あれは特攻じゃなくて、決死作戦です。あのように「お前らは生きては帰ってこれん」と。要するに、決死隊というのは、生きて帰る手だてが、準備されたんです。決死ですから、必ず決死隊員を助ける、救助するという保証があって、その手だてができる。だから、旅順口を閉塞する場合にも、それを助けるために、任務が終わった者をちゃんとあの、日本から小型舟艇とかカッターですか、ボートですね、これが随伴して行ったわけです。だから日本の老朽船をその水路に沈めてしまって、任務が終わったら、生きて帰ってくるんだと。だけど、それは今回は望めないと、ここの。だから要するに、一方通、まあ要するに、必死じゃなくて、決死だとこうなったわけです。そして最後に、特攻という言葉を訂正して、特班と名づけると、こうなったわけです、はい。

「今からしばらくの時間を、同士で話し合ってみろ」というふうに言われましたけど、それが、わたしは小一時間ぐらいあるんだと、思ったんですよ、お互い同期生が話し合うのにね。ものの10分も、ないんです。「考えろ、相談しろ」と、言っていながら、そういう「じゃあどうしようか、何だろうか」というようなことを話し合う、余裕がないんですよ。で、そして、すぐにかかった命令は、また集合しろと。そして、希望する者は、一歩前へ出ろと。要するに4列縦隊に並んでますから、横隊にね、こう。で、「一歩、前に出ろ」というわけですよ。そうすると、4列に並んでますから、仮に、わたし、何列目にいたか、覚えてないんですが、まあ確か、後の方だと思うんです、3列目か4列目の。そうしたら、わたしが出ようと思っても、前の者が、もし出なかったらつまずきますよね。そうしたら、あにはからんや、全員がバッと出ました。はい。ま、どうせあの時には、あの、「散る桜 残る桜も 散る桜」っていう言葉がよく言われておりましたから、どうせ、死ぬんだと。死ぬ運命にさらされているんだという観念が、支配したんだとわたしは思うんです。


Q:どんなこと思いました? 初めてそれを聞いた時?

 いやあ、まあやっぱり、その時は何を考えたか、よく記憶にありませんが、今になって考えたら、時代の宿命だろうと思いましたね。結局、戦局はそこまで、ひっ迫してたんだろう。ただ、それが20年の3月ですから、の初めですから、実際に後から考えますと、あの、海軍の関行男大尉という方が、フィリピンから、マバラカット基地から、特攻第1号で突っ込んだ後なんですね。で、それは知らされませんでした。


Q:その特別攻撃っていうことで、何をするかっていうのはなんか想像できました?

 まあ、結局は、体当たりをして死ぬんだろうという程度の、大まかなことは分かりました。ただ、何に乗ってかっていうことが、分かりませんけど、飛行機の、でないことだけは分かりました。だって、飛行機の訓練してないんですもん。飛行機の規則、乗るための体力的、技術的な、技術というのは通信とか、何か、ですね、そういうものの訓練は受けましたけど、飛行機の訓練は、全く受けてませんから。

土浦から、特攻基地に行くぞということで、汽車へ乗せられましたね。しかも、よろい戸、下されてますから、どこを走っているかは、分かりませんけど、どうやら、南下していることぐらいは分かりました。

そして、関門トンネルくぐったのも、分かってました。さて九州に渡ったらしいけれども、どこに行くんだろうが分からない。それで、ぐるぐる、ぐるぐると走っているうちに、また海が見えてきたわけです。はて、この海はなんという海だろう。分かりません。そうしているうちに、海が見えてきたと思ったら「全員下車」と、こういう号令がかかったんです。で、下車してみたら、マッチ箱を絵に描いたような、無人の駅舎がポツンとあるんです。

そこから、どこに行くとも言われませんで、行軍が始まったわけです。で、その行軍の途中で海岸沿いですから、その海を走るモーターボートに、出会ったんです。「んっ、これに乗るのか?」と思ったのがみんなの共通な心境でした。どうも、そうじゃないかなあ、飛行機はないんだし。と、なると、これしかないと。そしてずっと行って、駅から5~6キロあったんですか、ずいぶん、歩いた記憶があるんですが。そしたら「臨時魚雷艇訓練所」という看板がある台座がありまして、そこの門をくぐったんです。ところが、魚雷艇の訓練所であったものが、もう、魚雷艇も払底したんでしょうね、震洋に変わっておりました。


Q:その時まだ「震洋」って分からない?

 分かりません、名前は分かりません。ただ、モーターボートだということ、あれじゃないかなという想像をたくましくしました。

はあ、なんと表現したらいいんでしょうねえ。飛行機乗りに志願しながら、モーターボートに乗るのかというのが、偽らざる、残念な、がっかりした心境でしたね。

「俺の棺おけはベニヤ板か」と思いました。「情ないな」と思ったです。確かに20年の頃は、まあ、変な言い方ですが、棺おけに限らず、物資が、あらゆる物資が、払底していたでしょうけども、「最後の棺おけが、ベニヤ板とはな」という感じは持ちましたね。

わたしはですよ。寝ながらこう、毎晩すぐ、寝られるわけじゃありませんよね。そうするとこう、寝て、天井、見てますよね。天井板があります。で、節穴、数えてます。そうすると、そのときに「わたしは、何で、ここにいるんだろうな。何で、死ななきゃならんだろうな」っていうことは思いましたね。僕の同級生は、まだ、中学4年生ですよ、その頃。そして親元から、ぬくぬくと通っているわけですね。親の保護を受けて。それなのに何で、俺は、これ志願したから、こんなのになったんだろうけども、何で死ななきゃならないんだろうか。そして、また考えたのは、本当にわたしが敵艦にぶつかって、敵艦を沈めて死んだ場合に、日本は勝利するんだろうかと。日本は勝てるんだろうか。そこは、思いました。

こんなのもの、この程度のものに乗るのかということは、ありましたけども、まあしょうがないな、運命だなというふうに、諦めざるを得ませんでしたね。まあ、日本という国は戦争を始めたけれども、ここまで、ひっ迫したというか、ちょっと、言葉が悪いけれども、落ちぶれてしまったのかと、いうような気で、皆、あきらめ半分以下でしたね。

当初は50隻が一集団で、訓練の単位になるんです。で、50隻バラバラでしょ。だから、これをあの、輪乗りといって、丸い輪ですね。輪乗りといって、その50隻の船が、丸くなって、こういうふうに円を描く訓練から、始まるわけです。これが、うまく円を描けられるようになりましたら、それを10隻単位ぐらいに、分かれて。そして各々、簡単にいうと、走る訓練。突っ込む訓練ですね。だから難しいことはなかった。とにかく走って、突っ込めばいいんだというような、まことに考えてみれば、単純というか、はい。

霧島昇の『誰か故郷を想わざる』、これが、誰、言うとなく大声で歌うようになりました。だから、やっぱり皆さん、僕が17で、一番、若かったんですが、年長者は20歳まで、いましたから。まあまあ、みな未成年ですよね。そうすると、やっぱり、故郷というものに、まあ、今だから言えますが、未練的なものがあったんでしょうかね。ですから、そういう歌で紛らわして、おりました。紛らわすんです、気持ちを。はい。それで、海上ですから、エンジンも波音もしますし、船はバラバラですから、いくら大声で歌ったって、海原に消えるだけで、指揮官には聞こえませんしね。

鼻歌まじりの、そういう歌を歌いながら、どうせ死ぬんだから、何て言うんでしょうかね、今流に言えば、愉快に死のうかと。涙流して、しょぼくれて死ぬんじゃなくて、愉快に万歳して、死のうかというような気持ちでしたね、17歳でも。それは、今でも忘れません。

勝手に走り回ってるんです、はい。そして、勝手に走り回りながら、漁船はおそらく1隻もいなかった。港はいっぱいありました。

漁船は係留されておりました。しかし、漁業には、従事してませんでしたから、たぶん軍の指示、命令で、漁業は中止にされたと思うんです。だからもう、海は空っぽです。大村湾ですから、内湾ですね。鏡のような水面です。だから、震洋艇のような、ああいう、ベニヤのモーターボートの基礎訓練をするためには、極めて、適当な場所だったですね。そこを時々あれ、何を運んでおったのか、そうですねえ、200トンか、300トンぐらいの、小型運搬船がよく往復してました。で、わたしらが慣れてきますと、それに直進しまして、ぶつかる訓練をする。そして、その寸前で急ハンドルを切って、反転するわけです。そういう訓練を繰り返してました。

あれ、確かに小型運搬船、何も言わなかったけれども、小型運搬船も怖かったでしょうね。みんなから狙われるんですから。

土佐清水市の、あの頃、町ですが、土佐清水港というのがあった反対側に、あの、「越」と書いて「コエ」という内湾があったんです。そこが非常に静かな、湾でして。そこに岩山があって、その岩山を掘って、洞窟にして、船を格納しておったわけですね。そこから引き出して、中でも、少し訓練しましたけどね。なんでも狭いですから、そこから太平洋へ出たわけですけども。しかし、今、考えても、よく、ああいう訓練をさせたと、思うんです。ということは、あの僕らは、1型艇でしか、訓練していません。だから川棚では1型しか、見てません。5型艇は見てません。それから、250キロの爆薬も見てません。それから、250キロの模擬爆弾というんですか、同じ重量物を積んでの訓練も、してません。

で、わたしは単純に考えて、1人が乗ったら、あの頃だから、50キロぐらいですね、その5倍の重さの爆薬が舳先、前にかかるわけです。船がこうなるんじゃないかと思った。それで進めるのかなと。それが、ま、なんとかやっぱり大村湾のようなところは、スピードが出やすいですから、出て行くと、やっぱり、これ、こうなっとったのが、だんだんこうなって、しまいにこうなるんですね。よくあの、ご経験があると思いますが、川の水面に、平たい石を投げておくと、トントン、トントンと、こう水を切っていきますね。ああいう形で、船がトントン、トントンと、こう走るようになるんです。

ところが、高知県の土佐沖の土用波になると、とんでもない話です。土用波っていうのは、わたし、初めて知りましたけれども、小山のような波ですよね。震洋艇はというと、こう、波のほうに沈んでいくと、底に行きますと、何も見えないんです。水しか、見えないんです。上は空しか見えない。陸地は何も見えないんです。スピード上げろったって、出やせんのです。ま、20キロぐらいでしたかね。それで、今度はずっとこの、土用波を登りますね。で、土用波の頭に乗ると、船がこういうふうになっちゃう。そうすると、ここの時に、スクリューが空回りするわけです。進まないんです。波に任せたままでいると、またこれが、沈んで。とても、じゃないけども、あの、体当たりどころじゃなかったですね、今、考えてみると。

だから、練習の時でさえ、そこでしょ。練習のときにも、全部もう、爆薬は装填されてますから。それで小型艇は2人乗りですから、約100キロですね。100キロの者が乗ったって、前の爆薬は変わらない、250キロですから。やっぱり、100キロと、250キロじゃ、こう、こうなりますよね、乗った瞬間は。

これで、体当たりどころか、前進もできないんじゃないかと思いました。だけど、「やれ」というわけでしょ。やらないわけには、いかんわけ。本当にあの状態で、その波を乗り越えるくらい、あの、挟むぐらいの大きな船ならばいいですけども、本当に木の葉のようと、言えますが、木の葉のような箱でしょ。これでは体当たりしろと、いうほうが無理でしたね。だけど、そんなこと言えません。だから、言いませんでした。

向こうは、何千トンの船ですから、波には少しは、揺れるでしょうが、わたしらのように、木の葉のようというか、手のひらで玉を転がすような、揺れ方はないと思うんです。わたしらはそれですから。これで、あの大きな何キロから離れたところまで、行けるんだろうか。その前に、ガス欠といって、燃料切れになるんじゃないだろうか。あるいは、波をかぶって、沈んでしまうんじゃないんだろうかと。

震洋艇には、エンジンのカバーがありましたけれども、大波がダボンときたら、カバーどころじゃないですよね。水がかぶっちゃいます。そうすると、かぶってしまったら、エンジンが止まっちゃうんじゃないんだろうか。

カバーは、乗っけてるだけですから、カバーなんか吹っ飛んじゃったらですね、エンジン、丸出しですよ。

だから、幼い心にも「これで本当に、何キロも離れた敵艦まで、体当たりどころか、たどり着けるんだろうか」という気持ちはありました。

だけどそれは、我々、搭乗員仲間では、そういう話はしましたけれども、たとえば、今ならば、意見具申といって、上司の方にいろいろ、申し上げることありますね。そういう時代じゃ、ありませんから、要するに下意上達じゃなくて、上意下達のみです。一方通行です。「こうしろ」「ああしろ」と。「こうしてほしい」ということは一切、だめです。だから、分かっていながら、まあ、特攻で、悪いけども、どうせ死ぬんだから、死ぬのはやむを得ないわと。しかし、敵艦にぶつかって死ぬのと違って、(転覆による)そういう死に方は、本当の犬死にだな。犬死に、つまらないなという気持ちはありました。

それは、搭乗員仲間ではしゃべってましたけども、指揮官には、そこまでは言えません。言ったってどうにもならないです。指揮官も、どうしようもないんです。指揮官、自ら乗ってくんですから、船に。

震洋艇の場合は、大ざっぱに言って、10隻の、だいたい10隻から、15隻の集団で、敵艦1隻を狙うわけです。だけど、向こうは見つければ、機銃かなんか、撃ってきますから、機銃、撃たれたら、ベニヤ板でしょ、こちらは。機銃弾1発、受けたら、沈んじゃいますよね。そのために、大体、震洋艇が10隻または、15隻の単位で運用されるんです。集団で行って、敵の船、軍艦を1隻、沈めるんだと。しかし、そのうちの10隻、15隻まとまって行っても、1隻が当たれば、いいだろうと。あとの14~15隻は、もう、そのための犠牲だというふうに、言われてました。

九死に一生というのは、生きて帰る望みは、わずかでもありますね。「十死零生」ですから、十の死んで、ゼロの生きるですから、必ず、死んで生きて帰ることはまったくないわけですね。

「死の作戦」でしょうね、一言で言えば。もう、生きて帰れないんですから。で、たとえば仮に、敵艦が発見できなくて、どうしようもなくて、引き返そうかと、思ったって、燃料がもたない。岸までは遠い。ガソリンがなくなる。波にもまれる。沈没してしまうが、せいぜい関の山だったと、思います。そしてあの、土佐沖の沿岸には、よく見ると、隠れた岩が、結構あるんです。だから、ああいう岩にぶつかったりしたら、それで終わりですね。だから「死ぬも地獄、生きるも地獄」という言葉がありますね。そんなような、もんですよ。敵艦が発見できなかったら、帰ってこれる。たとえば、失礼ながらあの、陸軍のあの、振武隊という、知覧から行ったって特攻機がありますね。

あれは、不時着したり、それから、帰ってきたのもありました。わたしらは帰ってこれません。

わたしら仲間では、そういう言い方というか、そういう見方というかをしたのは、「どうせ、わたしらは、紙屑以下の命だ」と。だから、あんまり、今、おっしゃられているような、平和なこの時代に、深刻に、生きる死ぬとか、理不尽だとか、なんだかっていうようなことは、考えませんでしたね。これは、もうしょうがない、今の時代に生まれた宿命だというように、まあ、諦めるというより、達観と言ったほうが、いいんでしょうか。

わたしがぜひ、知りたいのは、というか、逆にぜひ、調べていただきたいのは、当時も少年法というのはあったはずなんです。今、少年法というのは18歳未満は、人を殺しても、死刑になりませんね。その頃の辞書によりますと、広辞苑によりますと、少年法というのは、あったんです。その当時の少年法は、未成年者の17歳の我々を、死に追いやって、死の命令を下して、どうだったんだろうという疑問は、今でも、残ってる。

なんとか、これを晴らしてくれませんか、逆に。わたしらはもう、そういう時代に生まれましたから、そういうもんだと思って、育ちましたし、あの、こういう時分から、大きくなったら、兵隊になって、国のために、天皇陛下のために死ぬんだという、教育を受けて、育ちましたから、失礼な言い分ですが、今の方々のように、死ぬということ、国のために人柱になって死ぬということについては、抵抗がなかったと言えば嘘、まったくなかったわけじゃありませんが、なかったですね。ま、これは宿命だと、諦めました。はい。

紙クズ扱いですよ。だいたいあの、本当の人間扱い、軍人扱いしたものは、陸軍士官学校、航空学校、それから海軍兵学校。海軍なんだっけ、もう一つ、なんかありましたね。なんかそういうところは、本物というんです。で、俗に本ちゃん。本物の「本」に、何とかちゃんの「ちゃん」をつけて「本ちゃん」という言い方をしていました。我々はスペアなんです。予備学生出身者はスペア。あの、ご覧になったことがあるかと思いますが、神風の空の特攻、陸の振武隊の特攻にしても、陸軍士官学校出身者、海軍兵学校出身者で、何人行ってますか。数えるぐらいしか行ってませんよ。ほとんどが予備学生、予科練出身じゃないですか。それから、陸軍では、少年飛行兵です。航空学校出身者は、少ないです。わたしらはもう、消耗品扱い。それから、そういう学校を出た、職業軍人というのは、人間扱い。わたしらは紙クズ以下の扱い。鴻毛より、鴻毛以下の扱いです、はい。

そうですねえ、分かりやすく簡単に言うと、生きたロボット、だったんでしょうね。ということは、言われるがままでしょ。ということは、先ほど、申し上げましたように、下意上達なんて、絶対にあり得ないんですから、意見の述べようがないわけです。だから、言われるがままでしょ。だから、ロボットみたいな感じじゃなかったんだろうかなあ。今なら多少のことは、言いますわね。あの頃、言えないんですよ。言ったって通じないんですよ。

Q:どんなこと思ってたんだと思いますか? とはいえ、諦めたとはいえ?

やっぱり、そのときもあんまり、深刻に考えた思い出は残ってないんですが、今、改めてそういうふうに聞かれたりなにかしますと、やはり死ぬということは、怖いというよりも、死にたくなかったというのが本音でしょうか。本当に、例えばですよ、敵艦にぶつかって、敵の船を沈めて、敵の何百人か、何千人かを、犠牲にして、道連れにして死ぬならば死んだ値があるにしても、今、申し上げる、申し上げてきましたように、ああいう状態で行ったら、当たる前に死んじゃいますね。それから、発見できなくて、帰ってこようと思ったって、死んじゃいますね。そうしたら、これ、犬死に以下です。それだけは、したくないと思ってました。だから、やっぱり、ほっとしました。

ほっとしました。これで、死刑囚から、解放されたと思いました。ただし、終戦の詔勅がおりて、8月15日に戦争が終わったというのに、その翌日の8月16日の晩に、4度目の出撃命令が出ました。これは待機という時間がないんです。待機というのは、要するに、敵との距離があることによって、6時間待機、12時間待機というのがあったんですけども、これが8月16日は、戦争が終わったというのに即、出撃なんです。それで「何で戦争が終わった後に出ないかんの」こう、思いました。そうしたら、これはやっぱり誤報ということで、済みましたけれども。


Q:あれで、同じぐらいの年の人が、あの作戦で亡くなっていったっていうことに関しては、どう思われますか?

 ううん、まあ、一言で言うと、やっぱり宿命だろうかな。かわいそうだなあと思いますが、当時はやはり、状況上、やむを得なかったという、気持ちがあったんでしょうね。だからあの、震洋艇で戦死したうちの半分以上は、今、おっしゃられたような、あの、日本本土から、外地に向けて行く途中に、船が沈められて、その乗っていた震洋と一緒に、死んだ方が2500人だかおりますね。

なぜ、そこまで人命を軽視したんだろう、どうせ、あの頃って、もうすでに、輸送船だけでなくて、日本の軍艦だって相当やられてるわけでしょ。ほとんど無傷な軍艦も、潜水艦も、いなかったですよね。最後の大和が、一番、いい例でしょ。ああいう時代に、あの海に出て行くという、外地に向かって、震洋艇を積んで出て行くということ自体が、わたしは無謀であったと思います。

今、生きて、生き延びてきたから、過去を振り返って、まあ言えば、言わしてもらえば、あえて言わしてもらえば、ずいぶん、バカなことをしたもんだし、させたもんだなと思います。

もっと、言葉を悪くすると、ずいぶん、人命を軽視したバカな作戦。作戦、特攻は作戦じゃないんですね、外道だそうですから。を、やったもんだと思います。

出来事の背景

【“ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、大規模な特攻部隊が海軍で組織された。その名も「震洋特別攻撃隊」。“太平洋を震撼させる“と謳い、6200隻を製造、およそ5千人をこの作戦に動員した。
その多くは、航空機搭乗員を目指していた予科練出身者や学徒兵の若者たちだった。しかし、秘密兵器「震洋」の実体は、ベニヤ板製のモーターボート。長さ5メートルの船首に250キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たり攻撃をしかけるという兵器であった。

開発を強く主張したのが海軍軍令部・黒島亀人。連合艦隊の参謀として攻撃を成功に導いた人物だ。

長崎県の川棚で訓練をした「震洋」の部隊は、米軍の侵攻で上陸が予想されたフィリピンや、沖縄本島や石垣島、奄美大島などの離島や本土各地の海岸などに配置された。しかし、作戦がはじまってからは、輸送中の爆撃や設計の不備によると見られる爆発事故が続出し、特攻作戦の前に多くの若者が命を落とした。狭いボートの中に、燃料タンク、4トントラック用エンジン、そして爆薬が詰め込まれていたのだ。しかし、海軍軍令部がこうした事態の改善に乗り出すことはなく、「震洋」による特攻作戦は終戦まで続行される。結局特攻に成功したのは数隻のみといわれている。5000人の兵士のうちおよそ半数が命を落とした。

証言者プロフィール

1944年
海軍に志願して、甲種飛行予科練習生として入隊
1945年
川棚臨時魚雷艇訓練所へ入所、震洋搭乗員となる
1945年
6月、第132震洋隊として、高知県土佐清水市に配置
1945年
終戦後は、陸上自衛隊に勤務

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