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チャプター

[1] チャプター1 開拓団へ  02:56
[2] チャプター2 豊かだった戦前の暮らし  03:47
[3] チャプター3 移住への準備  01:35
[4] チャプター4 初めての農業  04:22
[5] チャプター5 現地の人々との交流  03:19
[6] チャプター6 去って行った男たち  01:45
[7] チャプター7 「敗戦の知らせ」  03:27
[8] チャプター8 略奪  04:10
[9] チャプター9 逃避行  07:47
[10] チャプター10 麻畑で起こったこと  03:43
[11] チャプター11 帰国  01:44
[12] チャプター12 決して消えることのない戦争を憎む思い  03:30

提供写真

再生テキスト

私の母が妹に切り出したのね。「スミちゃん、おまえ、お母さんと行っておくれ。行ってくれるね」と言ったら、私の妹は気の強い子でね、何て言ったと思います? まだ女学校3年生になったばかりだから、まあ何でも率直に言うんでしょうけどね、「お母さん、だって、私、まだ3年生だよ。お姉さんは卒業したからいいけど、私はまだ2年間勉強しなきゃなんないの」って言った途端に母が涙をボロボロこぼしてね、それっきり何にも言わなくなったのね。それがきっかけ。それで、話が出て、満州に行くことになったんだと言って。「じゃあどうするの? スミちゃん(妹)が行かないんなら、私が行くの?」と言って、母が私の目を見て、私の顔を見て黙ってたのね。何も言えなかったんじゃないですか。せっかく私がね、そういう収入の道が開けて、働くことができて、1人で何とか、まあ、少しでも、多少でも収入があれば何とかやっていけるじゃないですかという気持ちがあったから、親は、私が行くとは最初は思ってはいなかったみたいなのね。で、私の顔を見て黙ってて、ただ泣くばかりでしょう? 妹も黙ってて、妹も泣いたかどうか、私、見てないからわかんないけど。あと、弟たちは小さいでしょう? それで、満州に行くということがわかって、父がどういうわけでどういう、だれ、どこからどういう話が出て決まったんだというようなことを言ったときに、私も考えましたね。「そんなとこへ行きたくないわ、外国なんて」と思ってた。

うちの親がまず先に切り出したのは、中国に行けばね、お米は少なくても雑穀がいっぱいあるから、お腹いっぱい食べられる。今のとこね、こんな苦しくてね、きょうはお腹いっぱいになったけど、明日は何食べればいいんだろう、どこへ買いに行けばいいんだろうというようなことを考えてたんじゃしょうがないから、満州に行ってお腹いっぱい食べることを考えてこようというわけで、まとめちゃって、中国に行ったのね。その食べることが第1の問題だったんじゃないんですか。

父は、ばか正直と言いたいほど、まじめな人だったんで、かえって評判がよくてね、お店も結構繁盛してましたからね、だから、私たちもこう、きょうだい4人でも、別に困ることもなく、心配することもなく、何十年、20年たたないな、太平洋戦争が始まって、後期になるころになるまではそんなに困らなかったけど、結局、戦争が始まって、あのう、商売に使える物資が入らなくなって、それが、それでだんだんとさびれていって、配給品、お砂糖とかね、あと、何か、配給になる品物だけは売ってましたけどね。それ以外のものは何もないから。

うちの父はね、有名なお人好しでした。何だか、何というの、そんなに機転のきくような人じゃなかったみたいで、だから、ヤミとか何とか、そういうことのできない人なのね。だから困っちゃったんじゃないかな。

Q:そういうシャケですとか、そういうものは戦争が始まるとどうなった。

だんだん入ってこなくなるの。そういうものがみんな、そういったね、ほかの軍需工場とか何とか、そういったような戦争に関係してるようなとこに行っちゃうらしいのね。だから、父が言ってました、魚河岸に行っても何にもないって。そんなふうになっちゃって、品物がなくなっちゃったから、結局、商売がうまくいかなくなったのね。

Q:魚河岸に行っても何もないとおっしゃってた。

うん、売れるような、売りさばけるような商品なんか、ないんだって。入ってこないんですって。特に、このう、半分干物みたいな、そういう保存のきくようなものだと、ほら、日本は昔は冷蔵庫もそんなにたくさんあったわけじゃなし、そういうものなんか、前線の軍隊だとかね、軍需工場とか、そういうところに行っちゃうんですって。そうすると、国内には回ってこなくなって。ほら、日本はあっちこっちで戦争してるから。輸入とかなんとか、そういうものもあんまりないんじゃないのかな。何だか父がとっても寂しそうに言ってましたもんね。お店も売れるようなものもあんまりなくなっちゃって、漬物まで売ったんだけど、それはそのうちに漬物になるようなものもなくなって。お正月らしくタコだとかなんとか入っても長くはないし、だんだんとさびれていっちゃったのね。やらないじゃなくて、やれなくなったの。売るべきものがなくなっちゃったのね。あのころの戦争で国民は本当に大変でしたよ、食べ物も足りなくて。

日本で農業をやれったって、農業なんかできる人じゃないんだから。それで満州に行ったわけ。別の世界でね、様子を見ようという。とにかく、この4人の子どもにはね、お腹いっぱい食べさせたいというのが気持ちだったのね。

Q:農業、全く経験ないですよね。何か日本で勉強されたりとかしたんですか。

研修所は行きましたよ。満州に行くことが決まって、それで、名前を入れたということで、あそこは多摩川のあっちのほうだったかな、そういう訓練所というのがあって、茨城に市原訓練所というのがあったのは有名でしょう? そこの分場なんですね。それで、そこで、ちょうど私が父に差し入れに行ったときなんかね、うちなんか、やっぱし、蒙古人の房みたいな、そういうところに入ってて、中は寒くてね、私、入ったとき、びっくりした。こんな寒くてお父さんは耐えられるんだろうかと思った。そしたら、ちゃんとストーブがあって、そこ、ストーブを入れてくれたんで、ああ、大丈夫かしらと思ったけど、結構寒くて大変だったらしい。それで、その開拓団のね、先遣隊の人たちは、最初、そこに訓練を受けて行ったんですね。

労働は大変でしたよ。何しろ東京の人間、商売人が、その大きな大陸に行って農業をやれったって、できますか。だれができる? それで、父も、行かないわけにいかないでしょう? 体の小さい人だったんだけど、働いててね、半年もたたないうちに、半年じゃないな。5月に着いて、6月、着いて間もなくから農業が始まって、その夏の暑い日にね、ある日、やっぱし畑に行って草取りをやってて、日射病に当たっちゃって倒れて、それで帰ってきて、それから働けなくなって、それで、心臓衰弱って診断されて、労働はできないから、ゆっくり休んでくださいということで、最初は寝込んだんですよ。それで、体が弱い、弱い人がまた、そういう恐ろしい病気になっちゃって、だからもう最初は起きられないくらいだったのね。そういうことで、結局、その年の秋、10月に父は死んじゃうんです。父の死んだときは本当に悲しかった。

本当にかわいそうですよ、開拓団の人たち。病気になっても、病院は、病気を診てくれる先生はいないし、どうしても仕方のないときは獣医さんが駆けつけたり、そんな感じでした。獣医さん。獣医さんはいるんですよ。馬なんか養ってるからね。だけど、人間を養うお医者さんはいなかった。町に病院はあるんだから、お医者さんに行かれると思ったけど、行かせてもらえなかったんだか何だかわかりませんけど、あんまり行ってなかったみたい。病院に行ったという話、聞いたことなかったもんね。満州に行くっていうのがつらかった。私は行きたくなかったからね。

あとは、もっとそれから後ね、悲しかったことは、両親が満足に病院に診てもらえなかったこと。まだあったお金なんかは逃避行のときにみんな略奪されちゃったからね、だから、あのときはもう、お札なんて紙切れの役にも立ちませんでしたよ。母が持って、私が私の腰に巻いて、弟も腰に巻いて、みんな分けて持ってたのに、結局、全部取られちゃって。幾つもあった腕時計も全部とられちゃって。そういうものが中国人とかソ連の人たちは欲しかったみたいね。お金はもちろんだけど、特に時計なんか、時計を見たら、すごいですよ。腕につけてたって、むしりとっていっちゃうもん。

でも、私たちは命はまだそうでもなかったけど、みんなして倒れる、殺されて。ああ、バタバタ倒れていって血を流しているのを見て、見てるだけでもね、もう涙も出なかった。本当にばかみたいにね、何だか自分でもわからないという感じ。「あら、何でこの人が殺されちゃうの、何というの」、名前呼んで、「どうしたのよ、どうしたのよ、ちょっと起きてよ」なんて、そんなことを叫んだって答えは全然なかった。血が口からゴボゴボでしょう? 頭の上から、大きな穴があいてて、血がゴボゴボって流れてるでしょう? それ、殺されたばっかりのとき、目の前で見た光景だったからね。それでも、私、涙も出なかった。どこに行ったのか、涙はかれちゃったのかなあ、後になってそんなふうに思ったことはありましたけど。

つまりね、満州の人たちは、この着るもの、布とか、そういうものが足りないでしょう? だから、食べ物はいっぱいあるから、例えばそば粉だとか、トウモロコシの粉とか、また、このトウモロコシを砕いたのをご飯にするやつがあって、そういうものはとても、とにかく私たちはね、あのう、物々交換がはやってたんですね。うちは父がもうそのときは死んでたから、父の古い着物なんかはみんな物々交換でやりましたよ。そんなことがあって、私が母と一緒に中国人のうちに招かれて、ギョーザをごちそうになったことがあったから。あのう、知り合った人がいてね、その人からね、「うちで今、ギョーザをつくってるから、食べに行きませんか」って言われて、私が母の顔を見たら、母が、「行ってみようよ。ギョーザって食べたことないから」という気軽な感じで、うん。だって、そのときは何でもなかったんですから。中国人なんか、そういうところは結構保守的なんですね。私たちは全然感じなかった。お付き合いというわけでもないけど、近所にいて、物々交換なんかしょっちゅうある人たちなんか、来たり行ったりしてたけど、その話は全然漏れたことない。

そして、終戦になって、私たちが、そのう、終戦の玉音ですか、聞いた後、変わってきましたね。それほど極端ではなかったけど、あのう、どっかのおうちの屋根の上にね、赤い布きれ? 布きれとか、布きれがない人は紙でも、旗みたいなのをつくってね、屋根の上にさしてんの。だから、「これ、どういう意味?」って、最初、私たちはわかんなかった。そしたら、知り合いの中国人の人が、日本はね、戦争に負けちゃったから、これはね、中国はね、八路軍の軍隊が来て、こっちはね、これからはね、八路軍が来て治めるんですよという話は聞いたの。早いでしょう。そんなに簡単に軍隊は来なかったけどね、みんなそういう旗を立てて、うーん、何となく不気味でした。だけど、それほどまでには感じてなかったのね。今までは、ほら、わりと友好的な感じがあったじゃない? 物々交換でね。それで私たちもお金も節約できるじゃない? 例えば、うちの父なんか、着るものなんか、着る人いないじゃない? 捨ててしまえばそれだけ。だけど、そういうものをあげれば、向こうの人は、お米とかね、トウモロコシの粉とか、何か野菜とか、食べるものをくれる。だから、損得も考えもしないで、そういう交流だけはありました。

開拓団が行ったでしょう。それで、年が明けて明くる年になって、2月か3月ごろかな、あのう、赤紙が来たのね。30代の人の男性なんか、ほとんど兵隊に行っちゃいましたよ。

Q:現地にですか。

もちろん。開拓団は兵隊さんはとらないという話でみんな行ったんですよね。それも命に関係あることだから、それは皆さん楽しみだったらしいんだけど。隣り合わせの人ね、あのう、こうお部屋がね、2部屋ずつになってて、私のうちは1部屋かな。こっちにも、こう真ん中があいていて、台所になってんのね。向こう側にもおうちがあるんですよ。それで、向こう側のうちがウシキさんという人でね、まだ30代の若い人で、奥さんが赤ちゃんを産むといって。で、おばあちゃんもいたのね。子どもが2人いたのかな。で、ご主人が、赤紙が来て、兵隊でとられていっちゃって。

Q:そうすると、開拓団はどうなっちゃうんですか。

残る人は、年寄りとか、あとは女、子ども。うちの父はあのときは53歳だったから、そのくらいの人は少し残ったかな。残った人は少なかった。

終戦はね、ラジオで聞きました。というのは、あのう、部落長さんが、朝、いつも仕事に出るときはドラを叩くんですけど、もう朝早く、何時ごろだったか、私は覚えていませんけど、最初のお話が、「きょう、12時に大事なお話がありますから、皆さん、どこも行かないで待っててください」ということだったのね。その次は、まあ、あのう、戦争が終わったことは知らないけど、もう、あのう、あそこは案外、町がね、もう煙がすごくもうもうしてて、タンクやなんか、列を組んでずーっと町に入っていったのを、姿を遠くからだったけど見たんですよ。だから、ああ、もうこんなになったらだめなのかなあと思って。そうしてたら、お昼、またお昼になってみんなを呼び出したのね。みんなで部落長さんのうちのお庭に座ったのね。夏だったからね。そうしたらね、「これからね、ラジオを出しますから、皆さん、そこに座って聞いてください」と言うの。土の下に土下座して私たち聞いてたのね。そしたら天皇陛下の声が出て、エー? 天皇陛下、最初に何と言ったのかな。耐えがたきを耐え何とか何とかで、そういう言葉が出てきたのね。途端にみんなそこで大声を出して泣きました、みんな。それで敗戦ということを知ったから。負けたということがこれではっきりしたということでね、もうしばらくみんなそこに座ったきり、動けませんでしたもんね。

それで、みんな、それから、じゃあこれからどうするんだ、まあ話し合いましょうということで、それで、部落でね、あのう、飼っていた豚とか、そういうものやなんかを殺して、みんなで分けて食べたりして、それで、部落長の話で、「今夜は、皆さん、ここを離れましょう」と。いつね、町から「匪賊(ひ賊)」たちが襲ってくるかわかんないから、あのう、出発しますという、逃避行が始まりますという話で、えーと、ちょっと私たちのところよりも、北じゃない、西のほうだ、あっちのほう、ミズホ部落と言わなかったかな、ちょっと今は忘れちゃいましたけど、そっちにみんなで避難して。そのときも、母も行きたくないけども、でも、私たちきょうだいは行かなきゃならないし、母を捨てるわけにはいかないから、「頑張って、助けるから」と言いながら、みんな助け合いながらぞろぞろぞろぞろ。雨がすごく降ってました。傘なんか、さしても、ささなくても、関係ないという感じ。ミズホ部落に着いて、中は、みんなの、皆さんのお部屋の中には入り切れないから、みんな……雨が降った後もそのままで座ってました。

それで、朝、明るくなって、あのう、まだ元気な人たちが、「うちに帰って、部落に帰って、様子を見てくるよ」っていう人が出てきたんで、私も弟に頼んで、あんなちっちゃいけども、大人の人もいるから、あの人についておうちに帰って見てごらんと言って、弟、小さいながらもね、やっぱし、自分も男だという気持ちがあったんじゃないかな。で、私と母を残して、部落に戻っていったのね。

戻ると、びっくりしました、弟が。何にもない。こんな小さな板切れも、私たちが履き捨てた、鼻緒の折れた下駄まで拾っていきましたよ。

Q:だれが。

満人が。それで、うちにはいろいろ、新しい布団だとかなんとか、着るものなんか日本人はいっぱいあるでしょう。全部持っていっちゃった。この小さな??切れだって持っていきましたしね、うちの父が商売の、商売に使っていたまな板、大きなまな板があるのね。シャケとかなんとか、お魚を処理するためのまな板、こんな厚いまな板があるのね。それも、板なんか何の用があるのかと思ったって弟は言ってましたけど、何にもない。父がつくった下駄箱も、入り切れないからって父が自分でつくった下駄箱? それまで持っていっちゃったの。下駄箱、だから、くぎを打った簡単な下駄箱だから、かえってこのほうが役に立つんじゃないですか。何でもかんでもとにかく……あそこに残ったのは、弟がかわいがってた小さな1匹の犬だけが柱につながってました。あと何にもない。私たちが使っていた中国式のお釜もふたも何も、お茶わんも何も、何にもないんですよ。帰ったらもう、それこそ、あそこじゃどうしようもない、生活なんか全然成り立たないですよね。それで、みんな帰ってきて、それは私たち、私のうちだけじゃない、みんなそうだから、みんなそれぞれに言い合いながら、もうあそこには帰ったって何にもなんないよ、米1粒ありゃしないということで。

Q:それを聞いて、その状態を聞いて、そのとき、飯白さんはどう思いました? そういう状態だって、おうちが……

そのとき? 私、どうしていいか、何にもわかんなかった。ただ、母とね、「あら、どうしよう、どうしよう」って。ただね、何とかしてでもね、はいつくばってでも日本に帰んなきゃなんないねっていうのが私たちみんな仲間の合い言葉。何とてしてでも、はいつくばってでも行って、ハクジョウシに行って、ハクジョウシには、そこ、日本の軍隊がいるから、そこでね、何とかして、まあとにかく日本に帰ることしか考えられないねというのが私たちの言葉だったの。ところが、そのハクジョウシの兵隊さんは、私たちなんか、まだ、まだそっちに行ってないうちに、そういう気持ちがあったときでも、ハクジョウシはからっぽ。ハクジョウシの手前の、あのう、今ではウルホトと言いますけど、あのう、私たち日本人がいたころはコウアンガイと言ってたのね。そこにソ連の軍隊が全部入ったでしょう? それで、いろいろな軍の機関なんかも焼いて、煙がもうもうとすごかったから、それが怖かったのかどうかは知らないけど、とにかくもうハクジョウシの日本人はもぬけのからでした。話に聞いただけ。まだ私はそこまで行ってないんだから。大変でしたよ。

Q:どんな速さで、どういうようなものを持って、皆さんどういうような感じで、飯白さんは。

何百人という集団ですから、そんな、そんな速くできるわけはないのよね。年寄りもいれば、小さい子もいれば、赤ちゃんもいるんだから。

そのとき、私の母は体が弱かったから、ずっとそばについてて、最初は私はおんぶなんかすることなかったんだけど、歩いてるうちに、1日もたたないうちに、母はもう力が、既にもう力がなくなっちゃって、歩くのもつらいんで、私、肩を貸してこう抱くようにして歩いてたんですよね。それで、その日の夜に、その誘導すると言ってきた兵隊さんが、やっぱし匪賊だったんですよね。それで、その人に、夜、真っ暗になって、私たち住民がちょうど山の中腹みたいなとこにみんなはいつくばって一休み、休み出したんですよね。それで、そこで休んでいるうちに、何か、「ああ、ちょっと変だぞ」と言う人がいて、私たちは副団長と大体距離はそんな遠くなかったんですけど、何か向こうのほうで、タバコかなんか知らないけど、赤い光が見える、もしかしたら何かの暗号じゃないか、目印じゃないかなというような、疑わしいような話も出てきたのね。
 
野宿です、全部。山は、山の山腹みたいなところでみんなはいつくばって休んでました、疲れて動けないから。そんな調子ですよ。まあ、ちょうどよく雨が降らなかったんで助かったけど、あのときはね。

Q:それは朝から晩まで歩いてるんですか。

歩きますよ、夜でも歩きますよ。それで、そのときは夜が明けるまでそこではいつくばってて、戦争になっちゃったもんで、向こうから来た、鉄砲を撃ってきたから、こいつは敵だと思って、絶対に敵だということで、こっちも発砲して、何だか向こうの人をやったらしいんですよね。それで、向こうから、やったのか、逃げたのか、知らないけど、動けなくなったから、それはそのままにして、明け方になって、夜が明けてきてからまた歩き出したんですよ。

Q:その歩いてるときというのは、食料とか飲物というのはあるんですか。

まあ少しばかりね。そのときはうちも持ってました。うちの親がご飯を、炊いたご飯を乾かして、また、天日で乾かしたんじゃ間に合わないからって炒めて、まあよく乾いてはいなかったんですが、そんなものをしょったり、お米はしょわなかったけど、そういうものをしょって、そのときはまだ開拓団にもお米があって、あのう、大八車に乗せてましたからね。それで、そこからまた行動して、歩いて歩いて、ソウミョウズというところまで行って…

Q:朝から晩まで歩くわけですよね、ずっと。

自分で何か持ってる人は食べますけど、何もない人は食べるものはないわけ。

夜中になって、みんな疲れて歩けないというんで、雨も降ってたんだけど、その岩の間、あっちこっち大きい岩だらけなところだったんですよ。私、夜だからどの辺なのかよくわかんないけど。それで、そこでうとうととし始めたころ、母が、何か母のこう息が聞こえないんで、私、びっくりして、弟を呼んで、「お母さん、おかしいよ」と言ってそばに行ってみたら、う何というの、呼吸がしてないみたいなのね。で、私たち、びっくりして騒ぎ出したんですよ、きょうだいして。そしたら、何分ぐらいだったのか、よくわかんないけど、母が急に言葉が出てきて、「何で私を呼ぶの?」と言うから、「お母さん、何だか呼吸が苦しくなったみたいだから」と言ったら、「せっかくお父さんが迎えに来たのに、呼ぶもんだから、お父さん帰っちゃった」って、こう言うから、こっちは怖くなった。ほんとあのときは怖くなった。「お父さんが来るわけないじゃないの。もう死んじゃったんだから」と言ったんだけど、「いや、そうだよ、お父さん、呼びに来たんだよ。あんたたちが呼ぶもんだから、お父さん帰っちゃった」「変なこと言わないで」なんて、まあ、本気でもない、うそでもない、そんな気持ちするもんだから、後、眠れなくなって、雨の降りしきる中をまた全体的には歩き出したんですよね。

それで、歩いて歩いて、一晩中歩いて、また、広ーい広い広場に出てきたころに雨はやんだんだけど、とにかくあっちこっちでね、洪水みたいに水があふれてましたね。それでもそこを何とか越えていったんだけど、結局、母はどうしようもなくなって、自分で「もう動けない。だめだ」って言って、「この子をね、日本に返しておくれ、絶対日本に返してちょうだい」と言うのね。私はもう、これはもうだめだから、この子だけは、おまえは何とかしてでも送り返せということを何度も言い出したのね。

Q:この子というのは。

弟。私の弟がそばにいたから。男の子だから、どうしても日本に返してね、飯白家の跡取りなんだとか何とか、そんなことを口走ってはいたのね。でも、私、おんぶして、「じゃあ、お母さん、歩けないから、足が痛いなら、私、おんぶするよ」って、あの小さな体、おんぶしても重たいって感じなかったのね。だから、私にはずっと、どうしてそんな力があったのか知らないけど、やっぱし若かったんでしょうね、おんぶして歩いて歩いて、また午後になって日暮れに近くなったころ、とうとう自分から滑り落ちちゃって、下に、はいつくばって、もう動けないからだめだということになって、それで、みんな、あのう、まあ、そのときにはまだ大勢、開拓団の人がいましたからね。青年隊やなんか、その人たちも、このう、年寄りだとか子どもとかを援護しながら逃避行をやってたんですよ。で、みんな遠くに行っちゃったから、母が心配して、「早く追いついて」と言うわけ。つまり、弟を生きて返してくれというのが彼女の言葉だけだったのね。で、「返すのにどうするの? 私がここにいちゃあ弟は動かない。どうするの」ってことで、「早く行きなさい」って催促されて、思い切って、弟も動かないから、私は弟の手首を引っ張って逃げ出しました。それが最後の別れ。

あのときは生き地獄ですね。私、あんまり、親が動けないんで、私、親のずっとそばにいたから、あんまりあちこちまでは見ていないけど、いろんなうめき声があって、「痛いよう」とか、「お母さーん」とか、「怖いよう」とか、いろんなそういう悲しい言葉がね、よく耳にかかりました。私、あんまり動いてはいないんだけど、大きい声もあれば、小さい声もあるでしょう?
 
すごかったですよ、それは。だって、死に切れない人がおとなしくしていられる? 苦しむじゃないですか。その妹さんだって、もう気絶しちゃって、うめき声も何にもなかったらしいのね。だから、お姉さんたちは出ていったわけでしょう? その後で彼女はずっと目覚めなくて、それで、満人に見つけられて、やっと助けられたわけ。

Q:(弟さんと)一緒にいたという感じなんですか。

一緒にいました、はい。それで、母がそうやってね、死にたい、死にたいと言うのを、私たちはどうするすべもないから、まあ、行けるところまで行こう、なるようにしかならないんだからって、そういうふうに親を励ます言葉よりほかに何もなかった。だから、よその人のうめき声だって、母だって聞こえないはずはない。だから、死にたい、死にたいって言ったんじゃないの? だって、病気だって、だれだってそうでしょうけど、病気になって、病気が重くなれば、だれだって、もう、「私、死ぬんじゃないの?」とか、「死にそうだよ」とか、死にたいというか、そういう死に対する気持ちがいろいろと浮かんでくるじゃない? そういうことがあったんだけどもね。

死のうと思ったことはありました。逃避行のときにね、小さい狭い川だったんだけど、川があったのね。「じゃあ、エイちゃん、私たちここで死んじゃおうよ」って。もう死ぬしかない、どこまで生きたってきりがない、ここで死んじゃおう、死ねるものなら死ねと思ったのね。で、みんな、河原の外側の石なんかポケットに詰めて、体じゅうあちこちにみんな詰め込んで、川の中に入っていったのね。夏だから冷たいなんて、そんな感じも何にもなかった。夏ですからね。でも、入っていって、沈んではいったのね、一応自分で。その川が浅いの。このくらいの川。その中で沈んだって、私たちが入ったって、そこにはいつくばったって、苦しくて、その苦しさでね、結局、上がってきちゃうのね。結局、死ねなかった。みんなびしょ濡れになって、みんな出てきちゃいました。1人だけ、小さい子がね、お母さんに押さえつけられてて、お母さんはその子を川底に押さえてたのね。それで、お母さんも苦しくてたまらなくなって、家族もみんな、川からまあ抜け出したときに、1人だけ、小さい子、何歳だったかな。まあちっちゃい子だけど、息ひきとっちゃいましたけどね。1人だけ、小さい子が死んだ。

私は、ああ、生きててよかったなと思った。あのとき死んじゃえばもうそれっきりだったけど、日本に帰れたということは、私はまだ日本人ということを証明されてるんだというのがうれしかった。だから、満州にいても、私、中国の籍にも、国籍にも入んなかったし、名前も変えないで、日本人で、ただ、中国語で読むから、飯白タツ子というのはファンダイウンズと呼ばれてました。

そんな楽しいエピソードなんかないんだけど、あのときは、私、あそこへ私1人だけでしょう? で、周りはみんな中国人、子どもも中国人、家庭も中国人。だけど、私は日本人なんだから、ここで私はくたばれない、それだけが私の気持ちだったのね。いつかは、私、あの動乱のときに恥を忍んで生きてきて、それで、中国人と一緒になって、子どももできちゃって、恥を忍んで生きてきたところだけれど、私はせっかく生きたこの命をね、富士山を見るまでは、東京の土を踏むまでは、私は絶対死なない、それだけが私の気持ちだった。

思い出は少ないけれども、私、でもね、夢には見ない、なぜか知らないけど。眠れない、一晩じゅう眠れないときはあっても、夢として出てくるというのは、私の友達なんか、こんな夢を見た、あんな夢を見たなんて言うけど、私、それはあんまりないのね。だけど、昼間になると出てくるんですよね。だから、わからない。何でかしらと思うけど。私はまだ死んじゃいけないからかなあなんて冗談で話なんかしたりすることもあるけどね。昼間は何となく、そういう話になると、出てきますよね。
 
よく浮かんでくるのは、母を捨てたときですね。母のことというと、あのときが。もう苦しくて動けなくて。地面にこうはったまま。半分お水なのに、そこに入ったまま、動かなくて、顔だけ上げて、手だけ上げた、それが母のあの姿。あとは、父が死んだとき。悔しくて憎らしいと思ったこともありましたよ、何でこんな死に方になっちゃったのって。
 
この戦争だけは何とかしないと。また戦争が起きたらどうします? これよりもっとひどい目に遭うかもしれない。わかんない。私、それが一番怖い。戦争は絶対いやです。私、目の前で憲兵さんに鉄砲を向けられて、「戦争をやめろということを言っちゃいけないんだ」と言って、もしそんなことを言ったら、「戦争に反対だったら殺すぞ」と言われても、私は負けるつもりはない。今の気持ちではね。私、戦争には絶対反対です。だれにでもこれだけは言える。この戦争のためにだれが死んだの、一体。みんな一般の人ばっかりじゃないの、死んだ人は。苦しんだ人はこういう人たちだけ。お金持ちはもうさっさと自分で帰っちゃって、日本で楽な生活してるのに。情けないですね。お国がもっとしっかりしてくれなければ。だれの責任か知らないけど、この貧しい国民に責任はないはずよ。何もやってないんだから。ただ、こうやって使われて、あちこち行きなさいって、はい、行きます、はい、行きます、行きました、だめでした、戦争、負けました、じゃあ私たちはそこで犠牲になるんですね。それだけじゃない? いいことなんかちっともない。何十年も日本に帰れなかった。何で? 私たち、何にも悪いことなんかしてないのに。

出来事の背景

【強いられた転業 東京開拓団 ~東京・武蔵小山~】

出来事の背景 写真かつて、日本の事実上の支配下にあった中国東北部、「満州」。
国策によって、満州に渡った日本人開拓民は30万人近くにのぼる。
戦前賑わっていた東京・武蔵小山商店街は、山の手の5大商店街の一つと数えられていたが、太平洋戦争での戦局悪化に伴う深刻な物不足と軍需産業優先の政策で、多くの商店が廃業を余儀なくされていった。
武蔵小山商店街の商店経営者やその家族たちが希望を託したのが満州への移民だった。昭和19年春、武蔵小山商店街の商店経営者を始めとする「東京開拓団」1039人が満州に渡った。
しかし、農業経験のない商店主やその家族の中には、過酷な寒さや慣れない農作業に耐え切れず、帰国する人や病に倒れる人が出た。
さらに、南方に部隊が転出し弱体化した関東軍に代わり、男手が次々に国境警備のために召集された。
昭和20年8月9日、ソ連軍が国境を越えて満州に侵攻を始める。関東軍は開拓民を残しまま撤退、8月16日終戦の翌日、東京開拓団の人々は、逃避行を開始する。女性や子供が中心の開拓団の人々は、日本人に反感を抱いていた現地の人々や「匪賊」などから略奪や襲撃を受ける。そして、8月17日、襲撃を逃れて人々が逃げ込んだ「麻畑」で、虐殺されるよりも自決すべきだと主張する人があらわれ、親が子に手をかけるなどといった「集団自決」が次々におこった。
「集団自決」を逃れた人の中にも、その後の逃避行で病気や襲撃で命を落としていった人々がいた。一方、助かった人のなかにも、現地にとどまらざるを得ず、日中国交正常化後の昭和50年にようやく帰国を果たした人もいた。
総動員体制のもと、経験のない農業に将来を託すしかなかった、東京開拓団の商店主やその家族1039人のうち、800人が大陸で命を落としたと言われている。

証言者プロフィール

 
戸越銀座から一家(両親・長女・本人)で開拓団参加。
1944年
渡満2か月後に父親病没(53歳?)
1945年
農家に拾われる。その後、結婚。8人の子供を育てる。
1975年
帰国

関連する地図

満州(興安・白城子)

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