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チャプター

[1] チャプター1 昭和16年(1941年)12月8日  01:25
[2] チャプター2 満州へ  02:16
[3] チャプター3 父の死  01:45
[4] チャプター4 昭和20年8月9日  01:19
[5] チャプター5 襲撃  04:45
[6] チャプター6 追い詰められた末の悲劇  02:29
[7] チャプター7 生き別れてしまった母親  02:54
[8] チャプター8 人民解放軍へ  01:04
[9] チャプター9 帰国  06:04
[10] チャプター10 戦争の時代を生き抜いて  02:40

再生テキスト

あのときはラジオにかじりついたくらいですから。大本営発表というのはすげえなと思ったりね。いよいよ始まったということで、放送を聞きましたから。それが、何がどうなのかということは一切わからないで、ただね、ということの放送はラジオでちゃんと聞きましたよね。それだけは。

結局、あのころから、いわゆるアメリカ、イギリスに対するね、何ていうんだろうね。あのころはまだ「鬼畜米英」と言ってたかどうかというのはちょっと記憶定かじゃないんだけども、そういうものに対する「けしからん」というものがありましたから、やっぱりそれと戦争するっていうのはね、これはもうすごいことだと。当然、日本は勝つだろうというふうに、勝つ以外は思っていませんからね。これはすごいことだというふうに思いましたね。それこそ、やったってなもんですよ。

やっぱりお国のためにという、子ども心にそういうものはありましたから、やっぱり満蒙開拓という点では、やっぱり夢みたいなのを感じてましたね。

開拓っていうのは荒れ地を開拓するっていうイメージが子ども心にあったけども、そうではなかったというね。それは、やっぱり現地農民の土地を取り上げて分配したんだろうと思うんだけど。取り上げたか、買い取ってやったんだろうと思うんだけれども、その辺は、あまり深くは考えなかったけれども、普通の畑を耕したっていう感じだったですね。

開拓団っていうから、荒れ地を開拓すると思ったら、そうではなかったと。

普通のね、やっぱり畑ですよ。もうできてる畑で、ちゃんと畝もあるしね。


Q:満州にも学校があって、先生もいたと?

 いました。先生と、女の先生含めて2~3人いたんじゃないかね。わたし、その先生の名前全然おぼえてないんだけどね。そんなに生徒たくさんいるわけじゃないからね。

毎朝、学校に着くと、まず宮城遥拝ということで、宮城というのは東のほうだというんでね、「宮城遥拝、天皇陛下に奉り最敬礼」といって、こうやった記憶はあるわ。宮城遥拝ということはやりましたね。あとはね、学校でどういう勉強をしたのかなんていうのは全然おぼえてないわ。

ただ、軍事教練みたいなことはよくやりましたよね。どっか部落の在郷軍人の人が来て教えて、銃剣術の練習だとかなんとかということをやったっていう、そういうのは記憶ありますね。

そういう点では、日本よりも、ある意味ではそれこそ平安というか、安穏に暮らしてたんじゃないかなという感じはしましたけどね。

やっぱりすごい血を吐いた。洗面器いっぱい吐いたのかどうか、血を吐いたなっていう記憶と、それから医者にはほとんど診てもらえなかったということと。

それから、あとね、おやじは山形出身で、「花笠音頭」を死ぬ前に歌ったような気があるんですね。「花笠音頭」だったか何だったか、歌を歌ったんですよ。「野崎参り」かな、民謡みたいなやつね、それを歌ったなっていう記憶は残ってるんですね。

もう一つは、親父の死体のそばに寝たもんだから、親父の、いわゆるあそこにいるシラミね。これが全部おれのとこに来たなっていう感じがものすごくあります。つまり、冷たくなったから、みんなこっちへ来たんでしょうね。だから、そういうことですね。

親父が亡くなったから、恐らく当時は一緒になって泣いただろうと思うけど、じゃ、そんな悲しみでどうだということになってくると、当時のことはあんまり思い出さないですね。だから、さっき言ったように歌を歌った、血を吐いた、歌を歌った、医者に診てもらえなかった、シラミが大変だった、そういうことが残ってるっていうだけですね。だから、あれでおふくろが気が狂ったみたいに泣いてたっていうのは知ってるのと、おふくろさんに言われたのは、「子どもが死んだときより、亭主が死んだときのほうが悲しい」ということを言われたのが記憶に残っているんですね。

いわゆるソ連軍が入ってきて、始めに町に空襲があったっていうのがね、それがもちろんソ連の飛行機の空襲だなんては思わなかったけれども、いずれにしても爆撃されてるということから始まって、それから2日ぐらいしてからかな、逃避行して。

もちろん子どもながらに「関東軍は無敵である」ということで心から信用したんだけれども、それが町へ行ったら誰もいなかったと。それからどこへ行っても、大人に聞いても、「関東軍はもういない」と。「勝手に自分たちで行動をとれ」というようなことだったんだけど。

いわゆる開拓団幹部、大人たちが、町に行っても関東軍がいなくなったとか、武器弾薬何もない、町もやられてるという、そういうようなことの報告があって、我々も逃避行する、逃げるというふうになって、そのときでしょうね。これは大変なことなんだなというふうに思ったのはね。

やっぱり日本人、さっき言った、土地も取り上げたとかなんとかっていうね。あれ、買い取ったっていう話だったというふうに記憶しているんですけれども。
だから、そういうことが終戦によって我々を……少なくとも生活が全然違うからね。
やっぱりそういうものに対する恨みや何かを含めて襲撃したんだろうというのは。

少なくとも我々、ある意味では中国人を全く蔑視ね。やっぱりさげすんでいて、ばかにしていたし、それから町に行けばやっぱり我々はどっちかいえば威張っていたからね。興安の町に行くでしょう。

やっぱり日本人ということで優越感持って、やっぱり威張って町を歩いてましたよね。物を買っても何してもね。日本人の店からは普通に買うけど、中国の店だったら、何だかんだケチつけてね。

中国人に対しては子ども同士で殴ったり、けんかしたりしたもんな。そういうことは、やっぱりありましたよね。少なくとも最低限、ほとんどつき合いなくてもね、何かあればすぐにもうばかにして殴る。わたしは、体が小さいから、あんまりけんかは強くないから殴れなかったけれども。そういう点は、やっぱり底流にはあったでしょうね。

で、まさに頼みの関東軍がいなくなっちゃったとなれば、もう頼る人間がいなくなっちゃうわけだからね、やっぱりその辺の心細さみたいなものがあったんでしょうね。きっとね。

ほとんど、逃げてるときは夜が多かったですね。昼間も動きましたけどね。だからよく何を頼りに、どう動いたのか知らない。ただ、わかっているのは、川があると思って見てるとそうじゃなくて、ソバ畑ね。ソバの花、真っ白ですよね。あれがよく、きれいに真っ白に見えたというね。月の明かりかなんかでね。割合、夜動くっていうのが多かったんじゃないですかね。

それこそ逃げるときは犬と、わたしが持ったのは、勉強できないくせに教科書だけ背負って逃げたようなもんだけどね。もちろん、当時はおふくろと姉と一緒だったけれどもね。ミズホ部落に集合して。あれは非常に大変だったなということなんだけど、どこで寝て、どうだったのかということになるとおぼえてないんだ。

で、その翌日は(8月)17日か18日だろうと思うんだけれども、いわゆる先導者が2人いて、これ日本軍なのか、かつての満軍なのかわからないんだけれども、その人の先導のもとで、いわゆる白城市(現:吉林省)を目指して行くということだったらしいんだけれども、そこを歩いて、ちょうど山の中腹あたりでね、襲撃されたという。その襲撃されたことはちょっとおぼえてるね。それは、カネコさんのお父さんが始めに亡くなったんですよ。亡くなったというか、とにかく犠牲になって、当たったんですね。

それ、なぜおぼえてるかというと、この小指を、このね、馬草をね、馬にやる草を切ってるときに、これをポトンと切り落としちゃったんですよ。それは、たしかね、カネコ君の、当時はイノウエさんだけれども、あのおじさんが、昔、獣医の経験があるのか、それとも衛生兵で習ったのか知らんけど、そのおじさんが治してくれた。治してくれたというか、治療してくれたのね。それで消毒して、要はくっつけて包帯しただけなんだけどね。それが今でもくっついているんだけどね。ということがあるんですね。だから、この皮だけになってこうなってたのを自分でこうやって、それを消毒してくっつけて、それが治ったんだけど。それをやってくれたのがイノウエさんの、カネコ君のお父さんでね、それでおぼえてるんですね、あの人がやられたというのを。

また襲撃されたっていうんで起こされたときに、隣の人がゴボゴボッと言ってるんで、何かなと思ってひょっと見たらば、弾が頭から突き通ってるのね。で、口から血を吐いて、その音がゴボゴボ、ゴボゴボ言ってんですね。

片一方のほうは、こっちの畝の人は、これは大人ですけれども、名前も誰も知りませんけれども、まさにここんところ(顔の鼻下を指して)割られてるんですね。すると口が2つあるような感じなんですよ。

わたしの友達が親父にのどを刺されて殺されてるっていう場面は見ましたけどね。

ただ、あれ、耳に弾が当たったっていうか、かすったっていうか、耳から血出してて。耳って、あんまり痛くないですよね。それ見てワーワー泣くから、その人の親父が、例のごぼう剣という軍の鉄砲の先につけるあれで刺してるっていう。ただ実際に殺したかどうかという、そこまでは見なかったけども、刺してるところを見たけど。それからあっちこっちで、それこそ娘の首を絞めてるとかね、そんな光景がありましたけども。

具体的に、だれがどうのっていうことはわからないけどね。ただ、あんとき思ったのは、これ、もし親父が生きてたら、おれも殺されたんだろうなということは、あれ終わってからかなんか、ちょっとどっかで思い出したことはありますね。親父がいないおかげで助かったんじゃないかっていう、むしろそういうふうに思ったこともありましたね。あるいは終わってから、誰かと会ったときに、そういう話になったのかもしらんけどね。

そんときは、あっちこっちで、そういう、服毒自殺含めて、自分の子どもの首を、絞めてるとかなんとかいっていう光景が、誰かは知らないにしても、そういう光景はあちこちにありますから、その子を特別かわいそうだなとか、特別何かっていうあれはなかったですね。ごく何も、頭真っ白と言ったらいいのかどうか知らんけども、もう全然、気の毒だとか、かわいそうだというあれは残ってないですね。

まあ、大体そうですね。とにかく、おふくろさんが自分の子どもを、赤ちゃんとか小さい子どもをやってるとかあれっていうのは結構ありましたね。そういう光景というかね。

おふくろさんについては全く、もちろん死体も見てないし、どうなったかっていうことはわからないし。ただわたしが最後に聞いたのは、これ、誰に聞いたのかと言われるとわからないんですけど、ただ、「中国人に殺してもらっていたよ」っていう話は聞いた記憶があるんですね。その真相は知りませんけども、いずれにしても生き別れたということだけが、これはやっぱり、今でもその辺の、何ていうんでしょうね、やりきれない気持ちはありますね。


Q:お母さまの最期っていうのは、飯白さんはどういうふうに?

 襲撃されて、「逃げろ」って言われて、初めはぐずってたと思うんだけど、とにかく一目散に逃げて。だけど襲撃が終わって戻ったときにはもういなかったという、姿が見えなかったという。だから、そこで死んだのか、どこに行っちゃったのか、全くわからなかった。


Q:「逃げろ」と言ったのは、どなただったんですか?

 おふくろだったと思うんですよ。姉じゃなくてね。「おまえは早く逃げろ」というんでね。何か、背中を押されたのかなという感じなんだけど、そのへんちょっと定かじゃないんですけど。その後誰かに言われたのは、「君のおふくろさんは、中国人に殺してもらっていた」という話だけは聞いた。だけど、それが死体を確認したわけでも、見たわけでも何でもないですから。

脱出して、ある意味では勝手にこうね、みんな、あっちこっち逃げ出して。あれ、どっかみんなで一諸に行くというふうに決まってたのかどうかわかりませんけれども、わたしたちは全く別に動いたのかどうか知らんけど、とにかくみんなとは別に動いたんですね。

途中で結構、開拓団の人と会ったりなんかしてるんだけども、どういうわけか、じゃ、みんな一緒に行きましょうというあれにはならなかったみたいですね。だから、そのときはみんな、どこに行くかという目的がはっきりしてるような、してないような状況だったんじゃないですかね。誰と一緒だったのかっていうのは、わたしはおぼえてないんだわ。ただ何人かいたことだけは事実だし、さっき言ったように山で襲撃されて、姉が確かもっと前のほうにいたと思うんですね。わたしは後ろのほうにいて、何人かいて、起き上がったらわたしだけだったみたいなね。で、こう死んでるわけだから。

これ、ちょっと後の話になりますけどね、昭和23年、1948年にわたし、姉のとこから離れて、いわゆる昔の海軍(中国人民解放軍)に入ったんですけどね。そこには、それこそ看護婦さんも、お医者さんも日本人だし、わたしは昔の満鉄、チチハル病院の院長さんだった人の小使いというか付き人みたいになって仕事したんだけども。それも何か月ぐらいか知らないけど、当時のいわゆる解放軍と蒋介石の国民党軍の戦いの進展によって、ずうっと、移動していくわけですね。それがいつ、どこに、どう移動したかというのが記憶ないんですよ。当時は15~16歳になっていながらね。つまり、みんなにくっついて行ったということなんだけども。でも、与えられたことはきちんとやってきたつもりなんだけどね。

当時、拾われてね、中国人の中で生活して、それで何か月たってからですから。

中国人の家へ行ってから、そう言われましたから。もう日本敗けたと。降伏したんだということは、その時点では知りましたけどね。

昭和28年に相当多くの人たちが帰ってきましたよね。わたし、あのときは中国人の中にたった1人いたもんだから、帰国ということ自体あんまり知らなかったんですね。知らされてなかったんですが、何かで偶然知って、軍(人民解放軍)やめて復員したいというか、おれも日本に帰りたいんだっていうんで、帰る手続というか、そんときは即刻「いいよ」ということになって。

それで招待所に入ってるときに……招待所っていうのは、どういうのかね。中国ではね、全部、招待所って言うんですが、大体そこで待機してるのが多いんですね。そのときに、今の瀋陽、昔の奉天ですけれども、その町を散歩してみたら、みんな「帰国日僑」と書いて、それこそバリッバリッと……しれてるけれども、きれいな服装をして、大きな荷物を持って買い物したりなんかしてるんですね。こっちはまだ油の軍服着て、とてもじゃない帰れないななんて思ったんだけども。何もないしね。そういう時代だったですから、わたしはすぐ帰れるような状況じゃなかったんですね。ほんと、中国人の中にたった1人でしたから。ということもあって、しばらくそこにいて。

だから日本に……その年じゃないよな。あれは昭和28年ぐらいだから1953年、そうですね。それから3年ぐらい後、56年に……53年だったかな。56年に姉のとこに行ったんですね。

わたしの姉に「おれはもう日本に帰るよ」という話をしたことで別れて。

考えてみるとね、姉と一緒にいて、昭和23年に別れるときも、非常にあっさりしてたと思うんだけどね。わたしは軍に入って、それである意味では残留孤児にならずに済んだんだけども。そういうときも、姉の気持ちはどうだったかね。わたしは完全に無視したんですよ、自分の都合だけで行こうと思ったし。

ただ、そうですね、田舎に拾われて、助けられて、姉と一緒に生活して、それ以後ずーっと、やっぱりおふくろさんのことについては何らかの形で頭には残っていたでしょうね。だから、どこで、どうなったということはわからないけれども、片隅に何となしにそれだけは残ってたし、帰ってくるときにも、やっぱりおふくろさんのことだけは残っていましたね。

これ、生き別れになってるから何となしに気がとがめるというのか、少なくとも息子としては何かできなかったのかということもあるのかもしれないけど、もやもやっとしたものとして残っていますね。

Q:満州で生活を普通にされていますよね。それがある日突然、襲撃を受けるわけじゃないですか。それについては、どういうふうに当時理解するというか、どう思っていたんですか。

でしょうねぇ。ある意味では、自分でその気持ちを全く整理できてなかったんじゃないですかね。まるっきり、だから、それこそ15日を境に町とは連絡とれなくなる、大人は右往左往してる。これも事実だっただろうと思うんですよ。で、17日の日に集合して逃避行を始めたと。皆さんと同じ行動をとったんだけれども、じゃ、そのとき、わたしがどういう気持ちで、どういう考えで、どうだったのかということになるとね、何にも残ってないんですね。もちろん後からいろんな皆さんの手記を見たりなんかして、ああ、こういうことがあったんだなということはわかっても、当時の自分の気持ちがどうだったかというのはね。まさに突然の変化ですよね。

そうね。あともう一つ、しいて言えば、これは昭和23年になってからだけれども、軍に入ったときに、あれもね、非常に偶然が幾つか重なって軍に入ることになったんですけどね。なぜ、そんなにそこに行きたくなったのかというのはいろいろ、国民党と蒋介石の軍隊と毛沢東の軍隊がけんかして戦争してるときに逃げてきたのが、たまたまわたしが日本人だということを知って、「我々の解放軍の中にも結構日本人がたくさんいるんだよ」という話でね。病院にこういう医者がいるとかなんとかといろいろ聞かれて、それがきっかけだったんですけどね。

ですけど、何となしに、このままいたんじゃ中国人になっちゃう。いわゆる昔で言う支那人ですよね。支那人になってしまうんじゃないかというような気持ちが、とにかく解放軍であろうと日本の軍であろうと、軍そのものはどうでもいいわけだね……というような感じで行ってますから。だから、どういうあれなんでしょうね。ある意味では、中国人には絶対なっちゃ嫌だという気持ちが軍に入れたことも事実だし。自分の気持ちをけしかけて軍に行ったんだけれども。

特別に何かというのはないけども、この前ちょっと話したかもしれないけど、ただ、わたしたちはそういう境遇に生きてきたということは、ある意味では非常に悲しいことが多かったし、ある意味では自分史そのものがわかんないみたいな感情ですから、やっぱりそういう点では、それこそ今から考えれば悲しいことだろうし、決して残留孤児の皆さんと同じ、二度とそういうことがあってはならないことだなということが、ある意味では生き方の原点になったことだけは事実でしょうね。

もう二度とああいう、つまり、日本の国としてそういう過ちは犯しちゃいけないというね、そういう気持ちだけはありますよね。それで何ができるかというと、もう本当に何もできることはないんだけれども、力としてはね。ただ、そういう点では、平和の問題については常に考えていくということでしょうね。

結局、その戦争の結果というのは、いちばん弱い年寄りをはじめ女、子どもにしわ寄せが来るというね。やっぱりそういう結果になってるんじゃないかと。

そういう国として起こした戦争というのは、結局はそういうものにしわが寄ってくるということじゃないかなというふうにわたしは思ってるし、それから、今は時代が全く違いますから、そんな簡単に戦争を起こすということはないでしょうけども、やっぱりこういうことは、国の過ち、戦争ということは二度とあってはならないというのは、やっぱりわたしの生きる今の原点ですね。

そういう意味では、平和の9条を変える何とかというのもいろいろ首を突っ込んだりもしてますけれども、ある意味では憲法の9条というのが、日本が本当に平和に生きていく最大のよりどころだと、今の憲法が……だというふうに思っていますんで。9条を守るいろんな市民運動や何かにも加わったり何かしてますけどね。何もできないけれども、顔だけ出すしかできませんけれども。そういうことでしょうね。

出来事の背景

【強いられた転業 東京開拓団 ~東京・武蔵小山~】

出来事の背景 写真かつて、日本の事実上の支配下にあった中国東北部、「満州」。
国策によって、満州に渡った日本人開拓民は30万人近くにのぼる。
戦前賑わっていた東京・武蔵小山商店街は、山の手の5大商店街の一つと数えられていたが、太平洋戦争での戦局悪化に伴う深刻な物不足と軍需産業優先の政策で、多くの商店が廃業を余儀なくされていった。
武蔵小山商店街の商店経営者やその家族たちが希望を託したのが満州への移民だった。昭和19年春、武蔵小山商店街の商店経営者を始めとする「東京開拓団」1039人が満州に渡った。
しかし、農業経験のない商店主やその家族の中には、過酷な寒さや慣れない農作業に耐え切れず、帰国する人や病に倒れる人が出た。
さらに、南方に部隊が転出し弱体化した関東軍に代わり、男手が次々に国境警備のために召集された。
昭和20年8月9日、ソ連軍が国境を越えて満州に侵攻を始める。関東軍は開拓民を残しまま撤退、8月16日終戦の翌日、東京開拓団の人々は、逃避行を開始する。女性や子供が中心の開拓団の人々は、日本人に反感を抱いていた現地の人々や「匪賊」などから略奪や襲撃を受ける。そして、8月17日、襲撃を逃れて人々が逃げ込んだ「麻畑」で、虐殺されるよりも自決すべきだと主張する人があらわれ、親が子に手をかけるなどといった「集団自決」が次々におこった。
「集団自決」を逃れた人の中にも、その後の逃避行で病気や襲撃で命を落としていった人々がいた。一方、助かった人のなかにも、現地にとどまらざるを得ず、日中国交正常化後の昭和50年にようやく帰国を果たした人もいた。
総動員体制のもと、経験のない農業に将来を託すしかなかった、東京開拓団の商店主やその家族1039人のうち、800人が大陸で命を落としたと言われている。

証言者プロフィール

 
戸越銀座から一家(両親・長女・本人)で開拓団参加。
 
武蔵小山商店街の乾物屋さんに誘われて。
1958年
帰国

関連する地図

満州(興安・白城子)

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