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タイトル 「引き揚げ後の中絶手術」 番組名 [証言記録 市民たちの戦争] “引き揚げ”の嵐の中で ~京城帝国大学 医学生の戦争~
氏名 吉田 ハルヨさん(京城日赤看護学校 戦地 朝鮮(京城)  収録年月日 2010年2月17日

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チャプター

[1] チャプター1 朝鮮半島で生まれ、育つ  03:36
[2] チャプター2 看護学校  10:24
[3] チャプター3 病院で聞いた終戦  01:55
[4] チャプター4 博多港で実感した敗戦  06:14
[5] チャプター5 二日市保養所での看護の仕事  02:28
[6] チャプター6 中絶手術  06:06

再生テキスト

小学校は朝鮮人の小学校が別にありました。別の場所にありました。日本人の小学校と朝鮮人の小学校と。そして、女学校は一緒でした。

Q:じゃ、半分ずつぐらい、日本人と韓国人。

いや、日本人のほうが多かったですね。なんていうか、粋というか、有利な状態でした、日本人のほうが。学力は特に優秀な人は朝鮮の人も入っていました。日本人は試験で落ちてもおかしくないような人でも入っていたって。その当時のね、統治国の有利というかな。

Q:学校の中では、日本人と朝鮮人のお友達は仲がよかったんですか。

公平でしたよ、ええ。日本人であろうが朝鮮人であろうが、気が合えば、日本人より朝鮮人のほうが、気がわたしの場合は合ったんですね。バレー部で一緒だったから。一番仲よかった。朝鮮人の子はね、勉強よくできてました。

Q:教育として、そういう教育がされていたんですか。

もちろん、日韓併合からずいぶんたってますでしょう。そして、女学校が新設の女学校で、わたしたちが常に最上級生でした。だから、先生たちもやりやすかったでしょうね。先生の数も少なくて、初めはね。だんだん、だんだん先生の数も専門職になっていって、だから、常に自分たちの学年が中心でした。1年のときから、下級生いないから、恵まれていました。全職員が上級生を学校の基本にするために一生懸命だったんじゃないのかな。

Q:朝鮮人の子とも仲よくするようにとか。

そんな話は特に聞いたことないけど。分け隔てなく先生の対応の仕方がそういう状態でした。級長と副級長がいたら、必ず日本人と朝鮮人、両方立てる。

Q:それはどうして両方立てるんですか。

やっぱり併合で、同じ日本人だという意識を先生たちは植えつけるためじゃないかな。だから、先生方もまったく隔てなかったですよ。

日赤に行ったらね、小遣いが出るというのでね。学費は要らないけど、試験を受けるにはソウルまで行くのに自費で行くんだけど、通ったら、ソウルまで行くのは自費で行かないといけないけど、入ったら小遣いくれるっていうのでね、これはいいわと思って。母親だけしかいないからね、収入ないでしょう、家にね。自分で生きていかなければいけないって、今のように真剣に考えてないんですよ。だた、給食というか食事が出るんならいいやと思ってね。で、朝鮮人の仲のいい、一番ね、バレー部で一緒だった2人がソウルまで行って試験受けて、2人が通って、2人一緒にソウルに行ったんですよね。

授業はきちっとできてましたよ。ソウルだから空襲ないから。空襲ないけれど、担架の教練、訓練、担架を担いで病人運んで行くという、包帯巻きとか、あんなことはやりましたよ。訓練は。防空壕(ごう)に逃げたり、そんな訓練を受けたことはないです。

Q:看護師さんが不足していたり。

もちろん不足しているから卒業生がいないんですよ、病院の中に。各科に1人ずつしか、卒業生。

Q:免許を持っている方が。

そうそう。免許持ってる卒業生が各科に1人しかいないの。みんな戦地に行っちゃった。戦争中だから従軍看護婦で。病院の中に、大きな日赤病院だけど、内科に1人、外科に1人、眼科に1人、耳鼻科に1人、病棟も、1階病棟に1人、2階病棟に1人、卒業生は1人ずつしかいない。2年生が主に処置をして回る。注射とか、傷の手当てとか、みんな2年生がやる。卒業生は戦地に行っていない。ただ、主任として、責任者として、各科に1人ずつ、各病棟に1人ずつ、卒業生がいた。2年生でできないことは、その卒業生がしないとね。のどに管を通すとか、難しいのはね、やってました。みんな戦地に行っちゃっていないの。

Q:吉田さんも、まだ勉強中なのに患者さんの……。

だから、2年生のやることを1年生がやったり、卒業生がやることを2年生がやったり、本来ならこれは卒業生がやるべきことというのでも2年生がやらないと、みんな戦地に行って卒業生いないから。各科、各病棟に1人しかいないんだもん。1人だけは責任者として残して、あとはみんな戦地に行って。

Q:大変じゃなかったですか、いきなり。

いや、でも、人はそれしかいないんだから、自分がしないと仕方ない。大変だから嫌だなんて……。「困ったな、どうしよう」「ここはわからないけど誰に聞けばいいかな」とか、そんな不安で、それをしのいでやっていた。でも、事故は起こさなかった。

男の人は軍隊で戦争に行く、女子が戦地に行くといったら日赤しかないと思った。だから、そういう意味では誇りを持っていましたよね。行くんだという。そういうのは、あの当時、わたしたちの時代までに育った人たちじゃないとわからないでしょう。いくら言ってもね。自分を弾の下に置きたいなんて思ったことないでしょう。

Q:どうして自分を弾の下に置きたいというふうに思ったんですか。

撃たれて倒れて動けない人がおって、その動ける人はどんどん、どんどん、鉄砲持って行くじゃないですか。その後ろのほうから白衣着たのが倒れた人を助けに行くんだけど、それは、息をしている限り、生きている限り、助けるのが自分たちの仕事だと思っていましたよ。そういうのにあこがれを持っていた。戦争中だから。病院の中で、白いきれいな建物の中で、きれいな白衣着て治療するということは考えたことない。ただ、弾の下で倒れた人を助けるという、そういうのにあこがれを持って入った。

Q:あこがれだったんですか。

そうだよね。女でも戦争で、そういう国のために、倒れた人を助けるということは国のためになるんだと、国のためとかいう言葉をよく聞かされたような気がするね。

もう、分け隔てなくですよ。日本人だから、朝鮮人だからって、そんなことない。分け隔てなく。だけれども、今のように公費ではない。お金がないとかかれない。だから、お金持ちの家じゃないと病院にも行けないのよ。診察を受けることすらできない。みんな実費だから。国民保険てないから。健康保険もないし。何にもない。

Q:朝鮮人の方もそれで来られたんですか。

だから、朝鮮人でも日本人でも、日本人でも貧乏人は病院に行けない人もいたよね、もちろん。で、実費だから。今のように高度な医療ではない、静脈注射か、ここに点滴注射するくらいですよ、外来はね。だから、高度な医療ではないけれど、一応技術を要するから、点数制ではないから病院によって値段違っていたかもしれないね。わかんないけどね。まだなりたてだから、看護婦なりたてだから、事務系の注射料金のことなんか知らない。事務系の人ならわかるでしょうけどね。お金のことは知らない。でも、高かったと思うよ。健康保険ないんだから、あれ全部実費だから。

Q:それはやっぱり裕福な方が来ていたんですか、どちらも。日本も朝鮮も。

だから、少々のことでは病院に行かない。だって、健康保険ないのに、ちょこっと熱出たぐらいで行かないよね。今、健康保険があるから、ちょっとおかしいから行ってみるかということになったりするじゃない。だから医者が大変だよね、今。自分で治すということをしないじゃん。皆保険だからね。

Q:来てる患者さんはどういう病気が多かったんですか。

大きな病気が多いんだよな。来る人は。軽い、ちょっと熱がある、せきが出たなんていうのは来てない。全然。そんな人は来ない。だってお金もったいないじゃんね、保険がないのに。

Q:吉田さんはそのとき、日本がどんどん状況が悪くなっているというのは気づいていましたか。

まったく気がつくもなにも、新聞なんか読んだことない、ラジオなんか聞いたことない、テレビなんかもちろんない。人とそういう戦争の状況の話したこともない。勤務だけで精いっぱい。

Q:日本が負けそうだとか。

考えたことも、話したことも、負けるんだとか勝つんだとか、考えたこともない。毎日の暮らしだけで精いっぱい。ただ、おなかすいたとかさ、いっつもおなかすいてたから、今度の休みの日には、ソウルの繁華街があるんだよね、闇市が並ぶような、あそこに行って今度あれ買おうとかさ。あれぐらいしか考えたことない。遊びに行く場所も知らないし、闇市みたいなところを知ってるだけだね。

終戦の放送を聞いたのは京城の日赤の病院。それぞれの勤務場所で聞いたわけですが、複数ではなく大抵1人。あっちこっちの病棟、あっちこっちの外来で聞いたわけですね。だから、「ああ、負けたんだ」とか友達と話をした覚えはまったくないです。放送を聞いて、ただ、あ然として「ええ?」。で、上級生が「すぐ部屋に帰って持てるだけの荷物緒を用意しなさい」と言われて、ああ、なんか訳がわからずに部屋に帰った。そうしたら、みんな話しないんですよ。負けたんだから・・今だったら「負けたんだってね。これから日本はどうなるんだろう」って、今の頭なら考えるけれど、その当時は言われたことを着実に守るということしか、生活態度がなされていなかったわけね、毎日の。だから、言われたとおりに持てるだけの荷物を持ってどこどこに何時に集合と、言われたとおりにやっただけですよね。

それはね、北から逃げてきた人を覚えているのは博多の港で。引き揚げ者を迎えに行く仕事に就いてから。博多の港と、葫蘆(ころ)島ってあるでしょう遼東半島に。葫蘆島で行きがけは空っぽで迎えに行って、そこで葫蘆島まで歩いてきた人たちを船に乗せるのね。その時点で初めて葫蘆島からの人を。

手ぶら。荷物がない。逃げてくる間にみんなお金に換えて食べ物を食べたり。手ぶら。北朝鮮からは。南は略奪にあってない人は、南でも略奪があったかもしれないけどね、知らないけど、あってない人はいっぱい持っていたね。でも、持てるだけだから知れてるよ。1軒の家の中から持てるだけ。

Q:みんな様子はどうでした。元気な様子でしたか。

みんながみんなではなく、足引きずってるのもいれば、やっぱり活発に歩けるような人は少ないな。たとだどと。重たいじゃない、持ってれば。人間て欲張りだから、持てるだけ持つね。これは捨てて帰らないけないと思っても、今でもこれ、火事になったら何か持って出るでしょう。持って出てみて、ろくでもないこんなもの要らなかったというものもあったかもしれないしね、わかんないよね。

それはね、見ただけではわからないけれど、この二日市療養所、あそこに入った人はおなか大きい女の人ばっかりだけれど、それ以外も、男の人なんかでも、そうだなあ、保養所に入る前に、ふ頭に、船が着いた場所に収容所があったんですよね。そこで1泊か、人によっては2泊か、病気とかによってはしないと、ふるさとに帰る列車に乗せてもらえない。病気が治らないと。そして、博多の港までトラックで、この博多のふ頭というのが駅から近いわけね、港は。だから歩いて駅まで行って列車に乗って、それぞれの行き場所に。その列車がすし詰めで、立ったままでね。手に持てるだけのが全財産でね。リュックにしても、今みたいにナップザックみたいなものはない。だから自分で縫ったリュック。ないのよ。小学校の子どものこんなちっちゃいリュックしか売ってなかったし、それも高いのよね。今みたいに安くないのよね。そんなものにお金使うのは許されないのよ、逃げて帰るものにとっては。たとえ安くても。

引き揚げ者を迎えたときね。日本は自分の国じゃないのに、遼東半島にしても朝鮮半島にしても、よその国だったのに、明治時代にぶんどったから、戦争に勝ってよこせといってよこしてもらったから日本の領土にしたのであって、もともとはこれは日本の国じゃなかったの。初めて気がついた。それ知らないから。「ああ、そうか。しょうがないな」と思ったの。それは出て行かないとね。相手の立場に立ったら、それは「出て行け」になるよね。それはわからなかったよね、住んでいる間はね。学校時代と日赤におる間はそんなこと考えたことないよね。

Q:引き揚げ者を見て初めて感じたんですか。

「ああ、あそこは日本ではなかったんだ」と。それはわかんないじゃない。日本地図を見たら赤になってるからさ。遼東半島と半島とは。赤になってるからそう思うじゃん。その中で育ってきてるから、その地図を見て。それが消える。「ああ、そうか。それはそうよね。よその国取ったんだよな」と思って、後で思うよね。歴史のそのところを考えると、きちっと先生は、これはぶんどったんだよと教えてくれないもんね。そんな言い方しないから、「ああ、そうか、ぶんどったんだ。」

二日市の保養所はね。まず引き揚げ者が、博多の港に船が着くでしょう。リバティというアメリカの輸送船が今でも運行していると思うんだけど、輸送船だから人間じゃなく貨物の輸送ね。だから船底に大きな荷物を入れていく。客室はないのよね。で、積んでいくの、船底に。大きな船があるでしょう、リバティ。あの船をアメリカが、無償かどうか知らないけれど、日本政府に貸してくれたわけよ。その船、何隻も貸してくれたのよね。リバティという貨物船、アメリカはいっぱい持ってたみたいね。だから、戦争中は兵隊を輸送するために、アジアに送るためにも使ったでしょうしね、荷物を、弾薬運ぶのにも使ったろうし、あのリバティってすごい船だった。今でもあると思うんだけどね、貨物船として。
 その貨物船を日本の政府が借りたかどうか、そのいきさつは知らないけれど、その船で引き揚げ者を迎えに行ったんです。博多の港と葫蘆島。

Q:吉田さんは二日市の保養所では何をされていたんですか。

看護婦の仕事。二日市の保養所は、博多の港に船が着くでしょう。そして、問診て、言葉かけの診療があるんですね。それで、問診によっておなかの大きい女の人がたくさん出てきたのよね。そういう人をそのままふるさとに帰すわけにいかないので、二日市の保養所で、ハシヅメ先生といったかな、婦人科の先生は。厚生省の働きで始めたんだけどね。堕ろす施設ができたの。

堕ろすの、赤ちゃんを。海軍の保養所だったの、戦争中は。海軍の軍人て船の中ばっかりにいるから、陸に上がったときはそういう保養所で保養させないと精神的にまいるみたいね。海軍の保養所が福岡県の二日市温泉という温泉があるんだけれど、その二日市に厚生省の保養所としてあったし、今もあるよ。そこを日赤が堕ろすための施設として使ったの。

Q:どうして堕胎するんですか。

どうしてって、そのまま帰ったら、誰の子かわからん子を、ふるさとというか自分のふるさとに帰って育てていかないといけない。そんな育てるような余裕ないでしょう。みんな着のみ着のままで逃げて帰った人は、その子どうやって育てる。お金もないのに。その人が生きるための手段として堕ろした。誰の子かわからないでしょう、強姦されたら。逃げて帰る途中で強姦されているんだから。北朝鮮からソウルまでは歩いて帰らないとね。輸送してくれないんだから自力で帰らないと。お金もないし、歩いて帰らないと。ソウルに来たら南朝鮮だから、アメリカ軍が何とかしてくれたわけよね。ソウルから北はロシアだから何にもしてくれない。

Q:初めてその女性たちを見たとき、どんな様子で、どう思いましたか。

物言わない。とにかくね、黙ってる。物言わない。二日市の保養所ね、海軍の保養所だから、個室もあって、大部屋もあって、わたしたちは大部屋で暮らしていたようだけど、その人たちは辱めを受けて堕ろしてつらいね。わたしも、堕ろすなんていうことも知らないでしょう、まだ18~19でね。わからないでしょう。ただ、かわいそうに、かわいそうにと思うのよ。

そんなに暴れなかったね。暴れる体力も気力も、打ちひしがれて。普通なら、「あんたどこでどうだった、ああだ」って、普通なら話すじゃない、普通の生活してたら。みんなが無口。つらーい目にあってるから。そうよ、そうですよ。みんな未婚の若い、そんな経験生まれて初めて。自分から好んでやったパンパンとは違うからね。犯されて、連れ去られて、もう物言えない。涙も出ない。「何が起こったの、わたし。わたし、これ何。これわたし?」というような、そんな感じ。知らないけど、その経験ないからわかんないけど。じゃないかと思うよ。年いった人は、「わたしは大変な目にあったんだ」とか思ったかもしれないね。でも、若い子は何が何やら訳わからん。ねぇ。と思うよ。
 それから、二日市の保養所に運ぶまで、物言わないんだもの、皆。一言も。バスなんかないからトラックで運ぶのよ。二日市の保養所までぎゅうぎゅう詰めでね。物言わないの。

つらいつらい思いしてここで堕ろした人たちは、一言も物も言わず、言わないのよ。泣き声も出さず、堕ろすとき、今よりは麻酔薬も効き目の薄い麻酔薬だったと思う。戦後だから。今はもう痛くないような麻酔薬あるんでしょうけど、わたしは手術したことないからわかんないけどね。戦後だもの。日本の国が医薬品どころか鉄砲の弾も持ってないような時代に、痛み止めの注射薬なんかなかったでしょうね、あんまり。それがね、ぎゃーぎゃー泣く人いなかったから。それくらいつらい思いして逃げて帰ってきたんだと思うよ。

出来事の背景

【“引き揚げ”の嵐の中で ~京城帝国大学 医学生の戦争~】

出来事の背景 写真韓国の首都「ソウル」。日本の植民地時代、太平洋戦争終結までは「京城」と呼ばれていた。朝鮮総督府がおかれ日本の植民地支配の拠点となっていた。
大正15年、植民地初の帝国大学「京城帝国大学」が設立された。この大学の医学部には、朝鮮半島や大陸の風土病を研究する施設や、最新の医療機器を持つ病院も併設されていた。朝鮮半島からでなく、日本本土からも学生が進学してきた。また、朝鮮人学生も学んでいた。

戦況が悪化すると、日本本土と同様に召集が免除されない文系の学生たちが、学徒動員で戦場に向かっていった。

そして、終戦の直前、満州や朝鮮北部にソ連軍が侵攻。さらに、日本の敗戦によって朝鮮半島の植民地支配は終わりを告げる。朝鮮半島北部にいた日本人がいっせいに南部へ避難を始めると同時に、日本本土にいた朝鮮半島出身者が帰国、混乱に陥った。その際、京城帝国大学医学部の学生や看護婦たちは、そうした人々の医療や看護にあたった。
そのうち日本人学生や看護婦の中には、帰国後、福岡県の二日市に設けられた施設で、避難中にソ連兵による暴行で妊娠した日本人女性の堕胎手術にあたった人々もいた。また、朝鮮半島出身の学生は、1950年に始まった朝鮮戦争にも巻き込まれた。

太平洋戦争時の京城帝国大学医学部生は、戦争に翻弄され、傷つき、失われていく命を目の当たりにした。

証言者プロフィール

 
京城日赤病院勤務
 
二日市保養所勤務
 
福岡県筑紫野市在住

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