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チャプター

[1] チャプター1 国民徴用令  04:25
[2] チャプター2 過酷だった炭鉱での仕事  05:14
[3] チャプター3 逃走  04:08
[4] チャプター4 終戦、そして「解放」  01:54
[5] チャプター5 今、振り返る日本での日々  02:23

再生テキスト

Q:日本の炭鉱へいらしたのはいつごろで、どのような経緯からですか?

当時 住んでいた面(=朝鮮の地方行政機関・村役場)の職員から警防団に入るよう勧められました。そこに入れば強制労働もないし徴用もされないと聞かされました。それで、入ることにしたんです。すると数日後にまた役人がやってきて「手続きに行く」と交番に連れていかれました。今でいう派出所です。行ってみると10人ほどの人がいました。若いのは私1人で、ほかは30代の人たちでした。警防団に応募するために来たと言うと、これは日本への徴用だと告げられました。そのままそこで捕まって、ケソン(開城)から汽車でプサン(釜山)へ行き日本に渡りました。家には戻れないまま何も言わず出発したので、日本に着いてから手紙を送りました。そこで家族も初めて私が日本にいると知ったんです。そんな経緯です。

Q:その当時は何歳でしたか?

あれは・・・4月ごろだったと思います。春ですね。プサンでは麦の花が咲いていました。うちの村はまだ花がなかったので覚えています。九州はさらに満開でした。

もちろん みんな“なぜ日本に行くのか”と、不安を口にしながら向かいました。あとから徴用だと知りました。そういう事情で徴用されて日本へ行ったんです。

Q:徴用と知ったのは日本に到着後ですか。

そうです。

Q:理由も分からず連れていかれた心境は?

それは言葉では言い表せません。なぜこんなことになったのか、ひたすら不安でした。

死にに行く気分でした。我々は日本で死ぬんだろうと話しました。一緒に行った人たちはみんなやはり突然連れてこられたと思います。行けば死ぬとみんな覚悟していたでしょう。当時は太平洋戦争の真っ最中でしたから無理もありません。

Q:日本が目的地だとご存じでしたか?

知りませんでした。我々はついて行っただけです。方向的に日本だと思いましたがどんなところかも知りませんでした。

Q:日本に着いてすぐに仕事を始めたのですか?何らかの訓練期間がありましたか?

向こうに着いてから実際に仕事を始める前に1週間ほど研修を受けました。炭坑の内部と同じように作られた場所で、石炭掘りの注意点を教えられながら練習しました。途中で崩れると危険だからと1週間 ちゃんと習いました。それが終わってから実際に炭坑に入りました。石炭を掘ったんです。作業は昼と夜の交代制でした。昼の作業が1週間続くと次の週は夜です。

Q:初めて炭坑に入ったときのお気持ちはいかがでしたか?

中は真っ暗なので妙な気分でした。キャップランプのバッテリーを腰につけて前を照らしました。それでも見えないくらい暗かったです。中にも電灯はあります。外から電線が来ていて坑道にも電灯が下がっていました。炭坑の天井からは水滴が落ちてくるんですが、なんとも言い表しようのない暗闇の世界です。中にいる間は死んでいるような感覚です。

Q:どんな思いで作業を始めましたか?

生きるためにはやるしかないという思いでした。とにかく頑張るしかないと。嫌だと思ってもほかに道がなかったのですから。最近の人のようにやめたいと主張もできないし出ていくこともできません。思ったことを口にもできませんでしたし、身動きが取れなかったんです。小声で話すこともできません。日本人の監督に見つかればひどい目に遭いました。容赦なく人を殴るのが監督の仕事だったんです。殴られるのが嫌で働きました。さもなければ疲れて動きません。黙って見ているだけでは誰も仕事をしないので、殴って働かせるしか方法はなかったんです。

私たちが働いて日本人は監督をしました。彼らの指示で私たちが働きました。彼らと炭坑に入って作業し時間が来たらまた連れられて引き揚げました。私たちは言われるままに動きました。

Q:作業の時間は1日どれくらいでしたか?

朝 入ったらどれくらいなのか、8時間か9時間か分かりません。弁当を持参で一日中働きます。昼になると炭鉱の中で弁当を食べました。仕事が終わらないと中から出てこられませんでした。

Q:一緒に働いていた方は同じ国の人でしたか?

同じ炭鉱住宅に朝鮮の人が500人いました。仕事をしなければ日本人に小突かれましたが、言うことを聞いていれば大丈夫でした。

Q:作業内容はいかがでしたか?

毎日 同じことです。朝食後に炭坑に入り夜 出てくるんです。寝て起きたらまた入る。同じことの繰り返しです。炭坑で働く人には炭坑しかありません。

仕事中の落盤事故でケガをしてしまいました。崩れてきた石炭に埋もれたんです。仲間たちが石炭をどけて引きずり出してくれて、数か月間入院しました。脚がよくなって退院したらまた炭坑で働けと言われました。勘弁してくれと頼むと外の作業場に回されました。採掘した石炭に混ざっている石をより分ける仕事です。数か月そこで働いて、脚が完治したのでまた坑内で働きました。そんなこともありました。

普通の生活はありません。朝から炭坑で働き夜になれば寝て、また朝になれば炭坑に入るだけです。どこかに行きたくても何も分かりません。近くの繁華街さえ見たこともありません。3年もいたのに行けませんでした。一度もです。働くだけです。あまりにもつらくて逃げ出したことがあります。ところが途中で捕まってしまいました。日本の憲兵にです。

Q:どこから逃げたのですか?

炭鉱からです。偶然、港に出たのですが右も左も分かりません。仕方なく、船に乗せてくれと言うと、韓国へ行く船はないと言われました。そこで さらに逃げるうちに捕まりました。憲兵からは逃れられません。彼らに捕まって私は引き戻されました。それから 言うまでもなくさんざん殴られて、ひどい目に遭いました。あのときは、もう死ぬのを覚悟で抵抗すべきでしたが、殴られて力も出ませんでした。何日も死ぬほど殴られて起き上がれませんでしたが、治ったらまた働かされました。

竹の棒で殴られると竹が縦に裂けて肉をかむんです。竹棒の裂け目に肉を挟み上げられる痛みは、刃物で切られるよりひどいものです。逃げたときはそんなふうに殴られたんです。
刃物と違って肉をちぎられるようでした。耐え難い痛みのせいで1週間寝込みました。

歯ぎしりするほど日本人を恨みました。若かった私が受けた苦痛はとても言葉になりません。同じ韓国人でも境遇が違う人もいました。何事もなく徴用を終える人もいて人により さまざまです。

朝鮮が解放されたとは知らずに仕事に出ました。帰ってくるとみんながひそひそ話をしていて「解放された」と聞きました。最初は意味が分かりませんでした。聞けば、「日本が降伏した」と言うんです。「朝鮮人は母国に帰れることになった」と。それはもううれしかったです。働かされることもないし自由にできるわけですから。

でも帰る船がありませんでした。つまり、船は下関からしか出てなかったんです。ただでさえ朝鮮人の数は多かったんです。解放は8月でしたが、船に乗れたのは11月か12月ごろでした。

Q:帰国されるときのお気持ちは?

それは うれしかったです。無一文になろうともうれしかったです。身ひとつでも故郷に帰れるのは何よりの喜びでした。人間なら同じです。故郷に帰れることほどうれしいことはありません。人は生まれた場所を忘れられないんです。韓国に住んでいる今もケソン(開城・北朝鮮)を思います。

Q:長い時間が過ぎた今、当時の生活を思い出すと日本の炭鉱で働いたことをどう思われますか?

よくできたなと思います。若かったからできたんです。今ならできません。もう体が動きませんから。殴られ、“殺す”と言われてもできません。若かったので生き延びるために働きましたが、今なら死を選ぶでしょう。

Q:日本の炭鉱で働いた経験をお持ちなわけですが、その経験は、その後の人生に影響を与えたり何かを残したりしましたか?

何も残っていないし思い出したくもありません。もうこりごりです。思い出すのも嫌です。うんざりです。過去は思い出しません。日帝時代(日本の植民地時代)だけじゃなく、朝鮮戦争もです。60(年)代のことも考えません。頭にあるのは、今の暮らしです。若いときに稼いでおけば(よかった)という思いや、年を取ってからの後悔です。私のせいで妻も苦労の連続なので、若いときに稼いでいたら今は豊かに暮らせたのにと。時代に合わせて生きたんです。それしか方法がありません。

みんなそうでした。時代に合わせて生きるのみです。日帝時代なら日本の法律に合わせて生きるしかありません。その後の朝鮮戦争も、敵から国を守るために戦わざるを得ませんでした。人は時代に合わせて生きるんです。

出来事の背景

【ヤマの戦争 強いられた増産 ~福岡県・筑豊炭田~】

出来事の背景 写真日本最大の石炭産出量を誇った福岡県、筑豊地方。明治以降、筑豊の石炭が、日本の近代化、工業化を支えてきた。さらに、石炭は、戦闘機や軍艦の材料である鉄の生産や燃料に不可欠の戦略物資であった。
太平洋戦争が激化する中、筑豊の炭鉱には増産が強く求められ、およそ15万人の炭鉱労働者が24時間体制で働いていた。

戦況が悪化すると熟練の炭鉱労働者までが戦場に駆り出され、その不足を補うため朝鮮半島などから徴用されるなどしてやってきた人々が炭鉱で働くことになった。さらに東南アジアから移送されてきた連合軍捕虜も炭鉱での労働を強制された。こうして連行されてきた人々への労務管理は過酷で、暴力をふるわれることも少なくなかった。
また、資材の少ない一方で増産を優先するあまり、安全対策がなおざりにされ、落盤事故なども続発した。戦時中、日本各地の炭鉱で60万人もの労働者が死傷したとされている。

終戦後、炭鉱は復員してきた元兵士を労働力として吸収し、戦後の日本の復興を支えることとなった。しかし、昭和30年代、主要エネルギー源が石炭から石油へ転換されて石炭の需要は急速になくなり、各地の炭鉱は次々に閉山していった。筑豊の炭鉱も昭和51年までにすべて姿を消した。

証言者プロフィール

1926年
北朝鮮・開城に生まれる
1943年
朝鮮半島から三井田川に動員される
1945年
終戦後、朝鮮半島に戻る

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日本(福岡・筑豊)

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