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チャプター

[1] チャプター1 日本本土へ  02:45
[2] チャプター2 初めての日本  02:43
[3] チャプター3 初めての炭鉱労働  04:54
[4] チャプター4 危険だった坑内労働  02:25
[5] チャプター5 束縛された生活  04:35
[6] チャプター6 逃亡した兄  03:33
[7] チャプター7 8月15日、終戦と解放  04:10
[8] チャプター8 戦時中を振り返って  02:18

再生テキスト

Q:一人で来ましたか?

面所(=朝鮮の地方行政機関・村役場)と一緒に。私を動員しに来た人とです。その人がここまで連れてきたんです。

Q:どこへ何をしに行くか、ご存じでしたか?

日本に行くことしか知りませんでした。「日本へ行くぞ」とだけ言われて来ました。

その前に日本行きの令状を受け取っていました。どこで何をするかは書いてありませんでした。向こうに着いてから炭鉱に行くと分かりました。日本に着いたあとです。出発する前は知りませんでした。

Q:拒否はできなかったのですか?

何?

Q:拒否です。

それはできません。召集ですから、「行けない」と言っても聞いてくれません。強制的に選ばれるんです。「お前が行け」と強制的に選ぶわけですから。拒否はできません。全部で20~30人です。カピョン(加平)から汽車に乗ってプサン(釜山)まで行きました。そこで1泊して 翌日は消毒薬が入った風呂に入りました。着ていた服も蒸して消毒してから日本へ行きました。体をよく消毒してから向かったんです。

Q:日本の印象はいかがでしたか?

下関はとにかくすごかったです。豪華で整った感じでした。そこから汽車で福岡へ行きましたが、船が浮いている海の中へ汽車が入ったんです。つまり海底トンネルを通ったんです。

Q:韓国から日本の三井田川にいらっしゃいました。最初に炭鉱を見たときの印象や感じたことを教えてください。

大変な苦労をしたなという感じでした。最初は合宿所に泊まり込みました。そこで2日間くらい炭坑の中がどうなっているか研修を受けました。それから仕事を始めました。

Q:炭鉱近くにあった町を見て回りましたか?

行っていません。着いてすぐ炭坑に入りました。私たちが逃げるのを恐れたんです。外出は禁止でした。管理事務所があったので門の外には出られませんでした。敷地内で仕事をするだけで外出は絶対にできません。

Q:会社の職員の印象はいかがでしたか?

管理する人はとても怖かったですね。

Q:どんなふうにですか?

ただもう心底恐れていたんです。捕らわれの身で自由がなかったので、伸び伸びした気持にはなれませんでした。

仕事はいろいろしました。石炭の採掘に仕繰りという仕事です。石炭を切り出す坑道を掘るんです。主にその2つです。あるときは、あれは何て言うのかな地面に・・ 何て言うか、荷物を引き上げるものです。マンションで上がったり下りたりする…

Q:エレベーター?

そうか。人が乗るのと石炭を積む2種類があります。それで地中に下りると耳が痛くなります。掘った石炭を積む仕事は、指をけがして1日しかできませんでした。主に石炭の採掘と坑道の補修をしていて、「解放」を迎えました。

Q:1つの仕事ではなくいろいろ経験されたのですね。

最初は石炭の採掘でしたが、仕繰り(坑道の維持・補修)という持ち場に移り、穴を掘りました。坑道がつぶれないよう補修する作業もします。そして解放になりました。

Q:韓国では炭坑の仕事をしたことはないそうですが。

ありません。

Q:炭坑の中は暗くて怖いですが、初めて炭坑に入ったときの感じはいかがでしたか?

大変なことになったと思いました。死ぬほど大変でした。暑かったですし。炭塵(たんじん)で顔は真っ黒で、白いのは目だけです。私たちが下りていくと、交代で上がってくる人は顔が真っ黒で目だけがキラキラしています。まったく炭塵にはうんざりさせられました。炭坑とは、言葉では言い表せないところです。まるで生き地獄でした。死んだも同然です。実際に死に損なったんです。坑道の壁面に火が走ったんです。赤く燃えていました。大切な機械を撤去している最中でした。ものすごい爆発音がして真っ赤な炎が噴出しました。もう おしまいだと思って地面に伏せましたが、それでも まゆ毛が焦げてなくなりました。中にいた人たちは一斉に脱出したので、転んで踏まれる人もいました。大変な騒ぎで死にそうになりました。原因は噴き出したガスでした。爆発していたら本当に死んでいたでしょう。ぎりぎりで助かりました。

Q:全員 無事でしたか?

亡くなった人はいません。事故のあと、その坑道は閉鎖しました。表の坑口も完全に塞ぎました。ガスが出たからです。頭が痛くなるほどガスの臭いがひどかったです。間違って坑道に入れば死んでしまいます。

石炭を積んだ車はワイヤで引き上げます。その作業中に炭車が脱線しました。それをまたレールに戻しているときでした。私は こんなふうに石炭の上に手を置いていたんです。すると、たわんだワイヤが手を強打して爪が飛びました。大けがなのに直後に痛みはなく、あとから痛くなりました。その後病院に行きましたが、治療に1か月かかりました。

Q:爪の状態は?

一瞬ではがれて白い骨が見えました。痛くて大変な目に遭いました。貼り付いたガーゼを蒸留水で剥がせば痛くないのに、そのまま剥がすので血は出るし・・医者は手荒くて、そっと治療しないんです。それがつらかったです。

Q:医者が残った爪を剥いだんですか?

最初に全部 取れました。傷口が大きくて肉がなかったので、ガーゼを当てて包帯で巻いてくれたんです。ところが血が固まって、傷口に貼り付いたガーゼを治療のたびに手荒く剥がすのが、死ぬほど痛かったんです。肉が崩れて血も出るものだから、そっとやってほしいと頼みました。でも手加減なしでした。

捕まることを思うと怖くて逃げられませんでした。逃げて捕まった人を見たんです。炭鉱から脱出した2日後にその人は連れ戻されて殴られました。バケツで水を浴びせた上で棒で殴るんです。ひどい光景でした。さんざん痛めつけられたんです。そんなのを見たら怖くて逃げる勇気が出ません。本当に恐ろしかったです。棒で殴って水をかけるんですから。そんなのを見たのは初めてでした。捕まったら死ぬ目に遭って寝込むはめになります。うつ伏せにさせられ棒で殴られます。そこまでして逃げる価値があると思いますか?捕まらずに逃げる方法などないんですから。

普段は殴られたりしません。逃げて捕まった人だけです。何もしなければ殴られません。その代わり毎日、休みもなく仕事をさせられました。殴りはしません。ひたすら働かされました。1日の休みもなくです。

「大出し」と掛け声を上げて仕事に入るんです。

Q:仕事さえすれば殴られなかったんですね?

はい。訳もなく殴ったりしません。

そのころは日本も景気が厳しく、服を買おうにも売っていません。それに買い物には配給切符が必要でした。服によって点数があり切符で買うのですが、私たちに切符の支給などありませんし、空腹でも買って食べる物さえない時代でした。そこでしかたなく家に手紙を出して服を送るよう頼みました。服を縫ってもらったんです。

Q:手紙に、「つらいから帰りたい」とは?


家で家族が心配するので書きませんでした。こちらは元気です、と伝えるだけです。そちらは変わりませんか、という内容です。実家の父には毎月お金を送っていました。父が苦労していたので、毎月給料を節約して、残りは全部送りました。自分で送ったのではなく会社の事務所が送りました。「事務所から送った」と手紙を書くと、「受け取った」と返事が来ました。事務所は“戦時貯金”を給料から天引きしていましたが、そのお金は受け取れないままです。

兄も同じ炭鉱にいて、途中で逃げ出しました。私も誘われたので、思いとどまるよう引き止めました。しかし、「行く」と言って、聞かずに出ていったんです。兄は韓国に逃げ戻りました。

Q:鉱山から逃げた人はお兄さん以外にいましたか?

いません。

Q:殴られる人を見て逃げる人はいなくなりましたか?

兄も、殴られる人を見ましたが逃げたんです。

主導権を握るのは日本ですから言い返せません。「死ね」と言われたら死んだ振りもするんです。支配されているのですから怖くて何もできません。炭鉱の仕事も徴用です。「来い」という徴用令状を受けて行ったんです、何も言えません。「なぜ弟を連れていくんだ」と聞いた兄に、「お前も来い」と言うくらいです。恐ろしくて何も言えません。ひどい話でした。強制にもほどがあります。兄が言い返しただけで一緒に徴用するなんて、あまりに行きすぎでした。兄は気が小さいんです。同じことを言われても私なら少しは抵抗したでしょう。でも兄は何も言えずについてきました。要するに身を縮めて生きる私たちに日本人は強権を振るったんです。

当時、日本は“内鮮一体”を唱えていました。我々は名字まで変えろと言われ変えました。朝鮮の人は全員です。私の名字は“チェ”ですが、ヤマモトという日本名になりました。日本に行くときの書類にもヤマモトと書かれました。そんなふうに改姓まで強要される状況では、言われるがまま小さくなっているだけです。何もできません。

“解放”はラジオで知りました。ラジオを聞いたんです。ラジオを聞いて8月15日のうちに知りました、知っていました。当時は戦争の時期ですから、寝ていると夜中にアメリカ軍の飛行機が来て上空を飛び回っていました。照明弾を落とすんです。当時は何なのか分からなくて恐ろしかったです。火の玉が落ちると町中がぱっと光って明るくなりました。「心配しないで、中で寝ろ」と日本人は言いました。飛行機は照明弾を落とすだけで飛び去るんです。そして私が入っていた住宅の近くには小高い山がありました。そこには 米軍の捕虜が収容されていました。終戦になったので、その兵士たちは地面に標識を描きました。飛行機が飛んでくると屋根に上がり、服を振り回して合図を送るんです。するとそこへ救援物資が落とされます。飛行機がパラシュートで落としていきます。服や食べ物だと思います。空から落としていました。大勢のアメリカ兵が町の中を歩き回り、中国の捕虜たちも町に出ていました。喜びの余り、はしゃいであちこち練り歩いたのでしょう。中国の兵士たちのほうは“連合軍万歳”と書いた紙をあちこちに貼って歩いていました。

Q:ラジオの放送で解放を知ったときどんなことを思いましたか?

うれしかったです、解放されたんですから。これで家に帰れると。

Q:解放が何を意味するかご存じでしたか?

つまり、”もう戦争はしない”と日本が降伏したんです。だから、家に帰れると喜びました。私も自由の身になって帰国の日を待ちましたが、韓国人の数が多すぎていつになるか分かりません。そこで仲間と一緒に自分たちでお金を払い、小さな船に乗って日本を出ました。韓国の船です。プサン(釜山)から仕事で下関に来ていた船に乗せてもらいました。韓国の小さな船です。

Q:日本で働いていた場所に行ってみたいそうですが。そう思うのは、どんなお気持からですか?

昔、自分が苦労した土地は、今、どうなっているか見てみたいんです。私が苦労して生きた日本の地に、今はどんな人が生活しているか見たいと思いました。

Q:今、思い返すと戦争の最中に日本の炭鉱で働いた経験は、ご自身の人生にどんな影響を残しましたか?

残ったものは、苦労をしたということ以外にありません。日本で死ぬほど苦労をしてそれでも生きて帰った、それしか残っていません。ガス爆発の事故で死にそうになりました。あの事故のことはよく思い出します。ほかは忘れましたが、死に損なったことは覚えています。

Q:戦争のことを知らない日本の若い世代に伝えたいことがありますか?

私が言いたいのは日本と韓国はとても近い国だということです。韓国は植民地時代を過ごしたことで日本人の心を理解しました。逆に日本も韓国人の心が分かったはずですから、今後は韓国と日本が仲良く、互いを思いやり合って交流してほしいと願います。

出来事の背景

【ヤマの戦争 強いられた増産 ~福岡県・筑豊炭田~】

出来事の背景 写真日本最大の石炭産出量を誇った福岡県、筑豊地方。明治以降、筑豊の石炭が、日本の近代化、工業化を支えてきた。さらに、石炭は、戦闘機や軍艦の材料である鉄の生産や燃料に不可欠の戦略物資であった。
太平洋戦争が激化する中、筑豊の炭鉱には増産が強く求められ、およそ15万人の炭鉱労働者が24時間体制で働いていた。

戦況が悪化すると熟練の炭鉱労働者までが戦場に駆り出され、その不足を補うため朝鮮半島などから徴用されるなどしてやってきた人々が炭鉱で働くことになった。さらに東南アジアから移送されてきた連合軍捕虜も炭鉱での労働を強制された。こうして連行されてきた人々への労務管理は過酷で、暴力をふるわれることも少なくなかった。
また、資材の少ない一方で増産を優先するあまり、安全対策がなおざりにされ、落盤事故なども続発した。戦時中、日本各地の炭鉱で60万人もの労働者が死傷したとされている。

終戦後、炭鉱は復員してきた元兵士を労働力として吸収し、戦後の日本の復興を支えることとなった。しかし、昭和30年代、主要エネルギー源が石炭から石油へ転換されて石炭の需要は急速になくなり、各地の炭鉱は次々に閉山していった。筑豊の炭鉱も昭和51年までにすべて姿を消した。

証言者プロフィール

1927年
韓国・京畿道カピョン郡に生まれる
1944年
朝鮮半島から三井田川に動員される
1945年
終戦後、朝鮮半島に戻る

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日本(福岡・筑豊)

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