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タイトル 「八重岳野戦病院からの撤退」
氏名 上原 米子さん(沖縄戦 戦地 日本(沖縄・名護)  収録年月日 2014年6月17日

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チャプター

[1] チャプター1 県立第三高等女学校  05:19
[2] チャプター2 皇民化教育  05:59
[3] チャプター3 看護教育と病院勤務  03:30
[4] チャプター4 水を求める重傷者たち  03:57
[5] チャプター5 八重岳からの撤退  03:10
[6] チャプター6 残された重傷者たち  08:48
[7] チャプター7 山中で聞いた米兵の声  07:23
[8] チャプター8 突撃を目前にした男子学徒兵  04:14
[9] チャプター9 米兵に見つかり捕虜になった  06:16
[10] チャプター10 米兵から伝えられた終戦  05:54
[11] チャプター11 教師の仕事  03:06
[12] チャプター12 語り部となって  07:10

再生テキスト

女学校って言っても名護と那覇にしかないんですよ。ここ中ぐらいに1校もないんです。名護に女学校が1つ、中学校が1つ、那覇には随分あるんですよ。だから、もうこっちはどっちかって言ったら、あっちもこっちもなかなか遠くて、頭のいい人たくさんいたんですけどね、これが無いで、いけない人多かったんですよ。特にまた田舎ですからね、女の子が学問をさせなくてもいいというような、どうせ嫁に行ってよその子になるんだからね。だから、うちの兄なんか教員しながら随分受験をさせようと言って、家庭訪問もしてですね、地元で教員していましたのでね。うちの兄は、なぜ兄は教育を受けたかっていったらね、父が青年時代に青年会長をさせられて、だけど無学なんですよ。父たち9人兄弟だもんだから、学校行ってないんですよね。だから自分は青年会長になったけれども、いろんな記録するのがありますでしょ? できない。母はまた、小学校4年まで出たんですって。母はまた、全部分かるわけですよ。そして、母にみんなさせよったって。それから、「ああ、子どもから教育させんといけないなあ」って。

どっちかって言ったら、教育にとっても関心のある親だったもんですからね、私たち学校を出たんですけど。兄も自分が教員して初めてですね、頭のいい子をみんな回って、「必ず受けさせなさい」って。みんな女の子はね、「よその家の子になるんだから学問させんでもいい」っ言って、みんな紡績に稼ぎに行かすんですよ。だから、うちの親戚のお姉さんで、とっても頭のいい方がいたんですよ。器量もいいし背も高いし運動も何でもできる姉さんがいたんですよ。とっても勧めたけど親が反対して、行けなかった。私が女学校で夏休みに帰ってくると、うちに来よったんです、遊びに。「私ね、あなた方兄さんの言うとおり、女学校行ってたらね…」結核かかって帰ってきたんですよ、結局。紡績から。結核になって帰ってきてね、「あんたの方兄さんが言うとおり女学校に行ってたら、こんな病気にもかからなかったのにね」って言ってね、とっても悔やんでいましたが。親が行かせないんですよ。女の子は学問させる必要はないって。田舎もこういう、あれがあってですね、だから女学校へ行ったのも、本当に私より上はいないんですよ。ずーっと上に、今100歳のもいますけどね、みんな亡くなってるけど、2人だけいました。2人だけは、親がとっても理解があったんでしょうね、行かせて。

Q:上原さんも、そんな中で高等女学校に入られたわけですよね。

そうですね。私は別に先生方が勧めて、兄さんも北部の教員だから、兄が私の学費は全部出してくれたんです。だから北部の学校がいいって言って、向こうに行ったんですけどね。

Q:北部に、まず行かれた?

名護のほうに。三高女は名護にあったもんですから。こっちから通勤できないんですよ。あの時分、沖縄のバスもね、午前中に1、2台通るかぐらいだったんですよ。だから寄宿にいました。寮に。

Q:その頃、何か思い出ってありますか? 寮での、寄宿舎の。

いろいろあります、寮。寮ではもう本当に兄弟みたいに、みんなひと部屋に大体6人ぐらい・・・8畳間ぐらいの所に6人ぐらい住んでいましたのでね。今でも、新聞見たよって電話がかかってきたりね。お部屋一緒だった人たちは、みんなこんなして兄弟みたいになってます。とっても親しく。だからもう、最初は寂しかったですよ。先輩もいませんでしたから。先輩やきょうだいがいる人はとっても楽しそうでしたけど、私は誰も知ってる人がいないんですよ。先輩が1人もいないから。だからとても寂しい思いをしましたけどね。だんだん慣れて、友達もできてね。そういう時代でしたからね、寄宿舎で生活してよかったなと思いますよ。

12月8日に、もう戦争が始まって、それからというものですよね、英語教育廃止。敵の国の言葉を勉強する必要がないと言ってですね。だから英語の先生がかわいそうでしたよ。職がなくて。それで毎日、作業の監督でした。この先生は。「壕(ごう)を掘り下げろ」とか。それから食糧増産のために実習地を耕して、この監督をしておられましたけどね。戦後は収容所でばったり会ったらですね、通訳をしていらっしゃるんですよ、米軍の。だから、「お前らね、英語勉強しないで後悔してるだろう」って言ったんですよ。「先生、私たちが先生をボイコットしたんじゃなくて、上からの命令でね、敵の国の言葉を勉強する必要がないって言って、英語が廃止になったのに、私たちが先生をボイコットしたわけじゃないですよ」ってね。もう大いばりでした、戦後は。もう亡くなりましたけどね。そんな時代でした。かえってね、敵の国の言葉を勉強するべきだったと思うんですよ。だけど絶対。その代わりもう、皇民化教育でしょう。

Q:どんなことを?

天皇陛下の名前、丸暗記ですよ。神武天皇から昭和天皇まで124代の。神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神…ってね、これもう丸暗記。これだけじゃない、教育勅語も「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ…」って言ってね、長い文章を。これが勉強ですよ。普通の国語・算数・数学とかね、英語とか、こんなのほとんどやってないですよ。4か年のうち2か年は勉強したかねっていう。もう本当に皇民化教育ですよね。体育の時間には、長刀(なぎなた)があったんですよ。これがいつの間にか竹やりに代わってね。わら人形を作って、これを刺して、閲兵分列とかね。1列に並んで「頭右」して、北朝鮮の女性兵士がやってます、あんな訓練とか。服装もですね、スカートも床から何センチっていって、背の高い人、低い人もみんな同じ。床から、例えば50センチだったら50センチ。だから並ぶときれいでしょうねえ、多分。こんなしてね。もう本当にあの時分、閲兵分列とか、あとからまた消火活動、運動会にもこんなのさせられたですよ。運動会の演技に。

Q:どんなことをするんですか?

例えば、監視班になるとですね、小高い丘に上って、「どこどこから敵の飛行機が何機来襲、そして爆弾を落とす」というようなね。そしたら、またバケツ持って、みんなが飛び出して、バケツ持つ人、担架担ぐ人。私は監視のほうでしたからね、大きな声で、「南方より敵機何機来襲」とか言ったら、みんなそれに合わせて行動するんですよ。こんなの、運動会の演技の中にあったんですよ。本当にもう、これ一色です。

Q:教育が変化したことに関して、何か疑問というか、なんで自分たちはこんなことするんだろう・・・

疑問も感じなかったですね。だからこんなの感じていたらね、よかったけど。みんなもう洗脳されているわけですよ。それでひどいのになると、高い学校の丘にですね、大きな3メートルくらいの高さの丸いタンクがあるんですよ。水タンクが。これにですね、体育の時間にはしご掛けて、全員上に上げるんですよ。全員入るくらい広かったんですよ。そして全員が上がったらこのはしごを取って、上から飛び降りるんですよ。3メートルぐらいの高さから。下はね、松の木の根っこがむき出しになってるような、固い土地ですよ。上から飛び降りるけいこ。なんでこんなことさせたかねって思う。だから、そして中にケガ人が出たんですよ。飛び降りて腰痛めて、病院に。それから廃止。屋根も、私たちの学校、平屋だったんですよね。赤瓦でなくて、セメント瓦みたいな。そこに、またはしごかけて、「屋根に爆弾が落ちた」って、これを消すって言って、また下からバケツでリレーして、はしご掛けてますでしょ、このはしごに登っていた人がまた落ちてですね、下に噴水があったんですよ。この噴水の角に目、打ってね、この人、戦後まで片目はダメでした。こういう、なんだか、ケガ人が出てね、先生方が廃止にしたんですよ。

Q:いろんな訓練されて。

いろんな訓練させられて。それでも誰も文句も言わんでね、はいはい従ってましたからね。不思議ですよ。だから軍国主義教育っていうのは、もう恐ろしいです。だから私も、これ今、強く言っています。

看護教育が始まったのはですね、ちょうど私たちが3年の時に軍隊が入ってきたんですよ。教室も全部日本の軍隊にとられて、私たち勉強できないですよ。寄宿もですね、寄宿舎15室までありましたね。この生徒、みんな追い出されてね,野戦病院。そして最初はですね、学校に畳の間が。和裁もしますし、それからお作法の勉強もする大きな畳の間があったんですよ。全校生徒が朝会もできる。寄宿の生徒、みんなそこに移されて、あとからまた、そこも取り上げられて、町の旅館を2つ借りて、そこに分宿して、そこから学校に通ったんです。学校に行っても勉強できないですよ。教室ないから。作業。

Q:看護教育っていうのはどこで?

看護教育は一応、体育館がありましたので。野戦病院には軍医がいますでしょう? その軍医が来て、3年生と4年生、最初は看護教育を受けたんですけどね、そのうちに、また兵隊は移動したんですよ。南部と八重岳に。で、今度は八重岳まで10人ずつですね、八重岳の掘っ立て小屋に立てこもって。写真見せましょうね。

これが、八重岳の野戦病院なんですよ。ここに泊まり込みで。ここで10人ずつですね。1期と2期に分けて。こっちで看護教育勉強して。ここに10月10日の空襲でケガした人たちが最初は入院してました。後からも艦砲射撃とか、それから戦車とか、空爆でケガした人がいっぱい入ってきましたけど、私たちここに寝泊まりしながら、このときまで、看護教育を受けるときまでは担任の先生もついてたんですよ。1期と2期が終わったら、今度は最後にですね、「3月24日は卒業式だから、あんた方は帰って卒業式してきなさい」って帰されたんですよ。で、行った日に講堂が焼けてるんですよ。うちの講堂が。2か年しかなりません、作って。もうすばらしい講堂でしたけどね。結局、卒業式の日に焼けてますからね、私たち10人が帰っていったら、みんなバケツリレーで消してるんですよ。それからもう卒業式も中止。できなかったです。それから、すぐその日にまた八重岳に戻ったんですけどね、10人は。それからもう先生もつきません。八重岳の軍隊と一緒に行動しなさいと。

十・十空襲のときはですね、那覇は空爆されたけど、名護のほうは輸送船に爆弾が落ちて、その船員たちがみんなケガして、私たちの野戦病院に運ばれてきたんですよ。そして、大変でしたよ、あのとき、私たちは、まだ看護教育を受けて間もなかったですからね。こんな大きなケガ人を見たことがない。もうヤケドですからね。白いこう薬塗ってるんですよ。石こう像みたいになっている人もいましたよ。私たちの部屋15室までいっぱいでした、患者が。もう本当に丸コゲになっている人もいますしね。「お母さん、お母さん」って言ってね、お母さんを呼ぶ人もいるし、「水、水、水」って水を請求する。水は飲ましちゃいけないって、出血しているときに水飲ましたら、もっと出血するから飲ますなって言うけど、あんまり、もう欲しいと言うもんですから、少しずつガーゼで舌に飲ましてあげたりしてましたけどね。この野戦病院のときにも、たくさんの人が亡くなってます。そして亡くなった人はですね、運動場の片隅に丸太を積んでですね、ここに遺体を置いて、火葬していました。火葬するときもね、ラッパ、弔いのラッパを吹いてね、火つけてましたけどね。だから、ここで、うちの学校の寄宿舎で野戦病院があるときに亡くなった人は、ちゃんと火葬もしています。だけど、この八重岳に行ってからは、もう火葬できなかったです。こっちはもう、こっちより上にちょっと広場がありますので、ここに埋めていました。遺体は。電気もないですよね、山の中ですから電気もないから、ろうそくの明かりで。手術の時もろうそくの明かりでね、こっちから切断するのがあったんですよ。これが見られなくてね。この兵隊、膝ぼうずから半分ぐらい切れて、ブラブラぶら下がってるんですよ。とっても重かったと思うんですよ。だけどね、「もうこれは切り落とさんと腐っていくから、切ろうね」って言って切ったんですけどね。麻酔なしで糸のこみたいなものでね、ごしごしごしごし切るんですよ。私なんかろうそく持って立ってますけど、気絶・・・、もうこれ見ただけでね・・・。血が噴き出しますしね。もう倒れそうになったら、また軍医に怒られて。「しっかりろうそく持ってないと見えないよ」って怒られたけど、この兵隊は、糸のこで麻酔なしで切り落としたから、「ああ、やっと軽くなりました」って言うんですよ。「痛い」ともひと言も言わなかったですよ。「ああ、やっと軽くなりました」って冗談言ってるんですよ。これを聞いたときにね、なんて日本の兵隊は、泣いたらいけないとか、痛いと言ったら恥だと思っていたのかね、と思うくらい、ひと言も痛いと言わなかったですよ。「やっと軽くなりました」って。これを見たときにね、これが私の戦後の教訓になっています。

Q: 4月16日に撤退命令ということだったと思うんですけれども、それを聞いたときのお話を伺ってもいいですか?

何も考えなかった。ただ命令するから。
 
Q: どんな状態で、そのお話を上官から・・・

私たちが手りゅう弾とカンパンを重症患者に配っているときに、看護婦のお姉さんが、「撤退するから早く配ってきなさい」って言われたんですよ。そうしたら配り終わって、本部の所に行ったら、もうずらっと並んで待ってるんですよ。そうしてそこでね、これから撤退して、多野岳っていう所、また名護にあるんですよ。多野岳に行って、多野岳にはまだ護郷隊が、ムラカミ大尉という方が隊長で、護郷隊っていって、まだ20歳にもならない青年たちの組織があったんですよ。この護郷隊の部隊があるから、向こうに一緒になって立て直して戦いましょうということだったんですよ。実際はそうじゃないんですよ。だけど、そういうことで多野岳に移動するから、歩ける患者さんは連れて、歩けない患者はこういうふうにしなさいって言って、私たちあとから呼ばれていったんですよ。で、患者に配ったあと、自分の待機する壕の中で寝ていたら、足で蹴っ飛ばされたんですよ。2人だけそこに置き去りにされました。お友達と。衛生兵が連れに来ているんです。2人がいないのが分かって、ああ、あの2人まだ来てないからって言ってね、多分これ配っているかもしれないから捜していこうと来て、その人が幸い連れていってね、そのときもう、既に並んで出発準備しているんですよ。それで山奥を上がっていったら、もう艦砲から照明弾が上がりますでしょう。みんな地べたにこんなふうにして伏せて、暗くなったら歩く。これの繰り返し。
 
Q:それは最初、何人ぐらいの・・・

100人ぐらいいたはずです。患者さんもですしね。また、衛生兵もいるし。また、一般の住民も連れてついてきていたんですよ。「兵隊と一緒に行ったら危ないよ、こっちと一緒に来ないほうがいいよ」って言っても聞かない。「兵隊さんと一緒のほうが安全だ」って言って、住民も子どもたちも連れてきてたんですよ。こうして列作って行ってるときにも、照明弾で米軍はもう日本軍が逃げるのが分かっているわけですよ。照明弾が上がったら、もう、すぐ飛んできますからね。これを防ぎながら、幸いこれに当たらないで、なんとか行きましたけどね。

これはですね、私たち撤退したんですよ。八重岳から撤退するときは4月16日でしたけどね。重症患者を1か所に集めて、手りゅう弾とですね、カンパン、これを2つずつ枕元に配ってね、歩ける患者さんをみんな連れたんですよ。歩けない患者さんをこうして1か所に集めて。手りゅう弾とカンパンを配ってですね。私がこんなのを配ったら、この兵隊たちは、「看護婦さん、なんでこんなの配るんですか」って。もう勘づいているわけですね。ああ、自分たちここに置き去りにされるんだなと勘づいているんです。だけど私、聞かされていないから、「隊長が配ってきなさいと言われてるからやってるんですよ」って。私たちが、この部屋から配り終わって出て行ったら、後ろからね、「海ゆかば」の合唱をしているんです、患者さんが。「海ゆかば」っていう歌がありますよね。これをね、歌っているんですよ。自分たちは、ここで死になさいって、こんなのを配られているんだって、もう分かってるわけですよ。本当に、ここで亡くなっているんですよ、この人たち。

Q:そのあと、皆さんは自決をされているわけですか。

そのあと、私たちはもう逃げたんですよ。逃げるときもですね、病院は病院で、本部は本部で別々に。いっぺんで行ったら危ないからっていうことで、別々に。私たちはずっとあとで、病院は一応、患者さんも歩ける人を連れていますからね。本部は先に行って、私たちは本部が通ったところを通ったら、もう既にやられて、途中で倒れている人もいました。その人たち、また歩けるのは、かついでですね、行きましたけどね。こういう、ここでたくさんの人が亡くなっていますよ。それから、こうして4月16日出発してですね、私たちも2個ずつ手りゅう弾も渡されて。行ったらもう、途中夜が明けてきたんですよ。夜が明けたらもう歩けないから、近くの山に待機しておきなさいって隊長が言ったもんですから、みんな近くの山に入ってたんですよ。そうして、弾の音も何も聞こえないから安心してみんな寝てたんですよ。そうしたら、午前7時ごろ、いきなりドカーンときたんですよ。一発。艦砲射撃、艦砲だったかよく分かりませんが。すごい音でね、それで、そこでまたこっちに休んでる人が、たくさん、またやられて。私たちも職業意識で、すぐ手当てして、それから、みんな逃げ勝負ですよ。私も看護婦のお姉さんがいたものですからね。「ケガ人はいませんか? これだけですか?」って言ったときに、「私、右の足、何か大きな棒で殴られてるみたいに痛いですけど」って言ったら、「あんたもケガしてるよ、見せてごらん」って。ちょうど右足だったんですよ。右足のこの甲、こっちから入ってですね、こっちとこっちの間に破片が入っていたんですよ。で、これを看護のお姉さんが取ろうとするけど、なかなか取れないんですよ。で、そのまま包帯で包んで、そのまま私、歩きましたけどね。それで私らの中でも、もう1人は爆風で飛ばされて下のコブシにはまって、気絶してたらしいですけどね。はっと目が覚めたら、自分は変なところに来てるって分かって、また上にはい上がってきたら、私がケガしてるの分かってですね、「みんな逃げてるから、あんたも早く逃げなさい」って言っても聞かないんですよ、この人。「あんた一人置いていけないから、私が面倒見るから」って、一生懸命私を励ましてくれてね。で、この人のおかげで、私は本当に命をあれするような状態ですよ。そこにまた、もう1人、私の同級生がいましたのでね、衛生班長が先に行ったと思ったら戻ってきてですね、「もう僕たち助からんから、一緒に死のう」って言ってですね、自分の持ってる手りゅう弾を出して、安全弁を取って鉄かぶとにたたこうとしたときに、もうたたいて1~2秒で破裂するんですよ。これをまた、うちの仲間がですね、手にぶら下がって「班長、班長、そんなに死にたかったら、どっかへ行って1人で死んでください。私たち、死にたくないから」ってね、班長の手りゅう弾を奪って安全弁を元に戻したんですよ。とっても勇気があるなと思って。あの頃、上官の命令は絶対服従ですよ。この人はね、すごいですよ。なぜかって言ったら、この人、アルゼンチン2世。アルゼンチンからね、日本教育を受けるために親戚の家に預けられて学校を出ていたんですよ。だから親兄弟、アルゼンチンにいるもんだから、自分は生きて帰りたいっていう希望があったんです。だから今こっちで死ぬわけにいかんって言ってね、今もアルゼンチンにいます。10年ほど前に旅行で来てるとき、同級生みんなで歓迎会してあげたんですけども。もう命の恩人です、私の。この2人は。こんな人もいました。班長の手にしがみついて、もうこの班長がたたいてたら、みんないませんよ。ここにいる人は。

Q:その方に力づけられましたね。

はい。それからそのあと、私がもう足をケガしてるの分かって、看護婦のお姉さんがですね、「私がおんぶしてあげるから一緒に行こう」って言って、先に行ってるんですけど、戻ってきたんですよ、この人。私のことが気になって。うちの班長だったんですよ。「私がおんぶしてあげるからね、一緒に行きましょう」って言うもんだから、私は、「いいです。私はもう歩けないから、ここにいるから」って言っても聞かないんですよ。あんまり言うもんだから、人の親切を無にしてもいかんしって思って、「じゃ、お願いします」っておんぶされて、そして2~3メートル行ったら、またここにも看護婦のお姉さんが、背中に弾が入ってあおむけに、こうやってるし、それから兵隊も頭やられて。小さな子どもの頭も飛んできています。避難民がいたんですよ、この山に。これを見たときにね、前に進んでいっても、またこんな目に遭うんだから、「下ろしてください」って、私、無理に下ろしてもらったんですよ。それでこのお姉さんは、「じゃあ、後でいらっしゃいね、私、先に行く」って行ったこの人の行った先に、また爆弾が落ちて、このお姉さんが、そこで即死。だから、とっても運が強いです、私。おんぶされて行っていったら、わたしも一緒にそこでやられてるじゃない。なぜかしら、行きたくなかったの。戦争っていうのはこんなもんですよ。人の運命なんて紙一重ですよ。この人もとってもいい方でしたけどね、亡くなりました。それからというものは、もう私ね、友達の肩を貸してもらったり、それから兵隊が松の木の枝を折ってきて、「つえにしなさい」ってつえついて歩いたり、もうこれでも疲れて。片足ですから。四つんばいになって、こうして、みんなの後を追っていたんですよ。そうしたらいきなり、日本の兵隊がですよ、振り返って銃向けたんですよ、私に。「女がついてくると邪魔だから撃つぞ」って言って。もうびっくりしました。仲間だと思っていた人が銃を向けたんですよ。そうしたらね、これをまた、うちの班長、一緒に死のうと言ってやってた班長が、後ろについていたんですよ。この班長、「この人たちは一般住民じゃなくてね、今まで野戦病院で働いていた学生さんだよ。それに、お前銃向けるか」ってね、うちの班長が言ったんですよ。うちの班長が、階級が上だったんです。この人それっきり、前にぶつぶつ言いながら前に進んで行きよったんですよ。その後から、また私たちはこうして四つんばいになりながら追うていったんですよね。ここでも助かって。もうこういう状態でしたね。あと、まだまだありはするけど。

Q:撤退のころっていうのは、米軍が4月1日に上陸してるじゃないですか。近くで米兵に遭遇したことはあるんですか?

米兵と会ったことなかったです、幸い。言葉は聞こえたですよ。英語は。山の中腹に私たちが隠れているときに、下の方から機関銃をパラパラやりながら、英語で何かしゃべってるけど、そこに敵がいるということは分かってるんですよ。だからみんなでじっとしていたんですよ。そしてじっとして、日が暮れても私たち動けないんですよ。どこに行っていいのか、道も分からないですから、山の中ですからね。それで、この兵隊たちはどっかに行くみたいだったから、じっとしてたら、上から草を分けて下りてくる人がいるんですよ。銃構えて。もうこれ敵兵と思って、やられるなと思って。敵の兵隊が来てるみたいだからね、手りゅう弾を持ってますし、「投げよう」って言ってね、私たちコソコソ話ししてたら、あっちから「山」って言ったんですよ。そしたら、思わず「川」って言って。これ、山・川は合い言葉。軍隊での。教えられていましたから。あっちの日本の兵隊が、私たちを探しに来ているんですよ。それを真っ暗闇ですからね、こそこそ音が聞こえるんですよ、草をかき分けてくる。これ米軍かもしれないから、手りゅう弾投げようかねってところで、あっちが「山」って言ったから、思わず「川」って言ってね。「お前らはね、なんでこんな所にいるか。みんな下に集まってるよ。早く僕の後ついてこい」って言ってね、この兵隊が案内してくれて。行ったらもう谷間のほうに、私たち仲間もいっぱいいるんですよ。そこで、もうひと休みしようということで、夜中からまたこっちから出発したんですけどね。そのときももう、私は歩けないと思って。そのまま残ろうかと思ったんですけどね、友達がこうして「あんた一人を置くわけにいかんから」って言って、そのままずっと。

Q:ずっと破片は足に入ったままだったんですか?

入ったままです。ずっと後になってね、無理してこうやっているうちに、だんだん抜けてきて、ガーゼに包んで持ってたけど、いつの間にか落として、分からないんですよ。

Q:その撤退をしている時っていうのは、食料はどういうふうにされてたんですか?

食料もね、持っていってたんですよ。リュックに。リュックサックに持っていってたけど、これもみんな捨てて、もう邪魔だからってみんな捨てて、薬品の入っている救急袋ばっかし持ってったからね。もう食べる物ないですよ、何にも。だけど、おなかが空くということなかったです。やっと墓場に出て、墓の中にも何日か入っていました、私たちは。そして墓の中から自然壕を見つけて、自然壕って言ってももう、こうして井戸みたいになったところでしたけどね。そこに7人ぐらい一緒に入っていましたけどね。幸い畑があって、そこにニンジンとニンニクが植えられていたんですよ。これを引っこ抜いてきてね、服で拭いてがりがりがりがり食べて。だから、ニンニク食べたおかげで破傷風にならなかったんじゃないかねって。沖縄では、よくね、傷を負ったら食べさせるんですよ、ニンニク。そのおかげでね、大丈夫だったんじゃないかと思いますよ。生ニンジンと。もう水もどこにあるのか分かりませんでした。だから2か月ぐらいお風呂も入らなかったですよ。顔も洗わん。着たまま。だからもう、シラミ。シラミがこの縫い目にね、いっぱいわいて、血吸われて、紫になってました。私、こっち。2か月くらい顔も洗わん、風呂も入らん、着替えもない。こんな生活でしたよ。だけどそうしているうちに、兄が幸いそこの学校の教員をしていたから、避難民の方に聞いたんですよ。ここの学校で教頭をしていた誰々を知りませんかと。「あっ、私たちの先生だ」という子どもがいたんですよ。避難民の中に。それで、どこに家族がいるか分かりませんかって聞いたら、調べてみましょうねって言ってね、山から山を皆、食料を探して歩いているんですよ。この人たちがみんな、探してくれてですね。ようやく分かって。ずっと自分たちが最初いた所の近くなんですよ。ケガしたところの。山の。それからずっと離れたところを私たち来ているんですけどね、幸い兄の家族はそこにいるということが分かって、私、兵隊におんぶされて連れて行ってもらって、家族と、兄嫁と兄の子どもたちと合流したんですよ。そうしたら、そこもまた教え子の家だったんですよ。とっても親切にしてくれたけどね、兄の姿がないんですよ。おいっ子やめいっ子はいっぱいいるけど。「兄さんどうしてるんですか? 姉さん」って言ったら、もう何にも言わないんですよ。言いにくかったと思うんですよ。あとで私があんまりしつこく聞いたら、兄さんも米軍にやられて死んだよと言うんですよ。それが自分たちがケガした山と向かい合ってる山。呼べば聞こえるくらいの場所。姉は気丈な人ですからね、クワを借りてきて穴を掘って、兄をそこに埋めてね、ちゃんと印もつけてあったから戦後、遺骨を取りに行ってきました。遺骨ちゃんとありました。バーバリー(防水加工された生地)のコートかぶせてですね。そうしたら遺体の所にね、子どもたちの貯金通帳とかですね、それから子どもの通信簿、こんなのみんな持って歩いてるんですよ。学校の書類なんかも。それも一緒に埋めてあるんですよ。持って逃げていたわけですよ。だけど国民服を着けていたために日本兵と間違えられて。女子どもはどうもしなかったそうです。女子どもは殺さないけど、兵隊と間違えられて殺されて。だからもう、とっても悔しいですけどね。だから学校出てたから少しくらい英語も知ってたはずなのに、「アイム・スクールティーチャー」と言えば助かったかもしれんのに。私が言ったらもう、「それ言う余裕もなかったんじゃないかね」ってみんな・・。ひと言そう言えばね、助かったかもしらんのに。大体この国民服着けてたのがいけないんですよ。間違えられて。

私たちの学校と同じ名護に、三中(沖縄県立第三中学校)があったんですよ。三中の生徒は時々白木の箱を背負って、爆薬を背負って私たちに挨拶して。やっぱりよしみが。隣の学校としてね。「これから爆薬を背負って戦車に体当たりしに行くから、お前たち元気でね」って言ってから行った人がいるんですよ。それっきり見てないです。戦車が上がってくる道路に穴掘って、ここに潜んでね、体当たりですよ。こんなふうにして亡くなった人も多分いると思うんです。
 
Q:そのお別れに来たときは・・・

まさかと思ったんですよ。まさかこんなこと、本当に実行するとは思いませんからね。全然知らないですよ。話もしたことない人です。やっぱりね、懐しかったんでしょうね。「これから自分は死んでいくけど」と言って、「お前ら元気でね」って。こんな状態でしたよ。だから随分亡くなってますよ。三中の生徒は。向こうで。

Q:兵士なら、まだしもなんですけども・・・

そうです。学生ですからね。しかも1年生までいましたからね。昔は中学校は5年まであるんですよ。5年生は大体兵役に行ってるでしょうね。だけど中学1年まで来てましたからね。1年生まで駆り出してね、と思うくらいでしたけどね。私たちも最上級、4年生ですからね。うちの学校も4年の10人だけが派遣されて、他の人はみんなうちに帰してますからね。
 
Q:男子学徒もそうですけれども、その女子学徒の人たちも、本来なら戦争に動員されるっていうこともなかったかもしれないんですけれども、動員されて実際に犠牲に遭われた方が多くて、そういうことに対して、どういうふうに思われますか?

ちょっと私、耳が遠くて聞きづらい。
 
Q:多くの女子学徒たちが、犠牲になってるじゃないですか。そのことに対して、何か怒りですとか、そういうことはありませんか?

ありますよ。なんで学生までもね、第一線に。私あの・・、小学校の同級生で女子師範に行った人がいるんですよ。この人も戦死してます。だからこんなしてね、友達も失って、また自分たちの仲間も1人戦死してますからね。なんで私たちみたいな学生までも・・でもそのときも国のためにという。私たち嫌々ながら行ったんじゃなくて、喜んで行ってるんですからね。はじめは。だから戦後、初めてね、バカみたいなことあったねと思うんですよ。そのときは、もう、行くのは名誉と思ってますから。だから、名誉と思って行ってるんですからね。何もそこにね、不満も何もなかったですよ。だからそういう教育をされているわけですよ。怖いんですよ、だから、教育の恐ろしさ。洗脳されて。だから、こんな目に遭うとは夢にも思わないからね、行くときは。

それからですね、度々米軍が山探しに来るんですよ。日本兵がいないかって。トラックで来るけど。ある日のことね、6月の何日だったか、もう日にちは忘れましたけどね。トラック2、3台来てからね、住民をみんな連れに来ているんですよ。だけど私たちはね、連れて行かれたらどこかでやられると思っているから、みんな山に逃げたんですよ。ちょうど小川が流れているところの山があったので、そこに逃げて隠れていたら、もう銃をバンバン撃ちながらアメリカ兵が来たんですよ。水しぶきを上げながら。「ああ大変だ。早く出よう」ってまた誰かが言ったんですよ。一緒にいる仲間が。殺されてはいけないから、こんなして手をあげてですね、降参しましたって。小川の中にひざまずいて、こんなして手を上げて。家族全部。手を上げて。隣近所の人も一緒に手を上げてね。幸いね、この日、難民を捜しに来ている人の中に2世がいたんですよ、2世が。ハワイ2世が。ちょうど、この土地の出身だったんですよ。それで高等科まで出てからハワイに行ったらしいんですよ。だから日本語もできるんですね。で、この人が、「むごいことはしないからね、みんな泣かないで。大丈夫だから。たくさん食べ物もあるところに連れて行くんだからね。泣かないで。」って言うけど、みんなもうワーワー泣いて。それでまたトラックが来たもんだから、そのトラックに、みんな、隣近所の人もみんな一緒に乗せられて、そして名護市を、本部半島を回ってですね、名護市を・・・、羽地、羽地の田井等という所に収容所があったんですよ。そこに連れて行かれたら、もういっぱい住民がいるんですよ。もう住民みんなね、楽しそうに暮らしているんですよ。最初、有刺鉄線、とげのある、あれを張った所の中に入れて、2日ぐらいそこで寝泊まりさせて、それから、何日に入ってきた人はどこどこの地域に行きなさいって言って。あっちはね、やっぱり最初からね、そういう収容所にするつもりだったのか、爆弾を落としてないんですよ。民家残ってたんです。だから米軍はね、ちゃんと、どこどこは収容所にしようと、考えていたと思うんです。最後はね、残ってる民家にね、みんな入っているんですよ。もう、1軒の民家に、5~6家族ぐらい入って、私たちもそうしてね、入って、そこの民家で長いこと暮らしていましたけどね。それから人づてに、私の家族がどこにいるか、父や母たちがどこにいるかって聞いたら、石川の収容所にいるということが分かってですね、こっちは石川に近いんですよ。石川の収容所に、うちのところはみんないるってこと聞いたもんだから。石川に行くトラックがあったんですよ。米軍のトラックが行ったり来たりしていたんですね。これに飛び乗りして、子どもたちもみんな乗せて帰ってきたんです。石川の人らは。やっと家族と会って。だけどもう、父はタバコ吸わなかったけど、兄はヘビースモーカーだったんですよ。もうタバコが無いときには、桑の葉っぱでもね、乾燥させて吸うぐらいだった。父は兄がタバコが好きということが分かるから、米軍から支給されたんですよ、Cレーションというこれぐらいの箱にね、いろんな食料も入ってる、お菓子も入ってる、タバコなんかも入ってる、これが配給があったんですよ。これみんなためてね、長男が来たらタバコをあげるって言って、たくさんためてあったけど、兄は死んでますでしょう。がっかりしていました。私たちだけ行ったから、「なんで? 兄さんはどうしたの?」って言うから。「実はこんなこんなしてね、あっちで戦死したよ」って言ったら、もうがっかりしてね。せっかく自分はタバコをためてあったのにって言って。こんなんですね。

Q:ちょっと話は戻りますけれども、手をあげて諦めた。そのときに2世の人と一緒に米兵が来るわけですよね。そのときに初めてアメリカ兵を見たわけですよね。

そうです。アメリカ兵っていうのを初めて見ましたよ。

Q:そのときは、どう思われましたか?

なんか怖かったですね、とっても。本当にね、目も青いしね。髪の毛も赤いし、顔は長いしね。最初の印象はあんまりよくないですよ。アメリカ兵ってこんな顔だったのかねって。

Q:それまでは、どういう人たちだっていうのは、聞いてたんですか?

別に米兵というのは日本人と同じと思ってたんですよ、私は。

Q:では、初めてその小川で見て、あまりにも違うと?

あまりに違うのでね、びっくりしましたけどね。幸い、2世がいて、この2世がね、「絶対殺さないからね、安全な所に連れて行くから泣くなよ」って言ってね、お菓子なんか子どもたちにも配ってあげて、でもこれもね、「毒が入ってるはずだから食べるな」って、大人はそう言うんですよ。だけど、この兵隊、自分が食べて見せてね、「大丈夫だから食べなさい」って。だから米軍もね、そういうふうに、特別にそういうあれがいたんじゃないでしょうかね。避難民に対応する人が。だから、とっても優しかったですよ。

羽地の収容所にいるときに、軍作業というのがあったんですよ。アメリカ軍の洗濯。軍作業を募っていたもんですからね、私も友達と2人、「行こう」って言って、行ったらもう、ずらっと並んでる、女の人たちみんな、軍作業に行くって言って。なぜ軍作業に行くって、軍作業の行った場所に畑があったら、イモ掘ってきて子どもたちにもあげられるっていうことで、袋も持って、行ったら、「はい、この4人はこのジープに乗りなさい」って言って、4人だけですね。私、後輩が1人いて、2人はまだ知らない子だったけど、4人だけジープに乗せられて、着いたところ、名護市内にある酒屋だったんですよ。今でもまだ残ってます、そこの酒屋は。津嘉山酒屋っていうところですけどね。そこの酒屋の中に通信隊がいたんですよ、アメリカの。そこの洗濯だったんですよ。そしてもう洗濯して、芋畑はないかねって、もう全然畑はないから、お土産持って帰れないなってがっかりしていたら、この兵隊がですね、たくさんのお芋、自分たちと同じ食事、私たち4人においしいの食べさせてですね、洗濯の仕方なんかも教えて、それで帰るときには、お菓子なんかもいっぱいですね、パンとかお菓子なんか持たせて、お土産も持たせて、もううちの子どもたち喜んで。いいところに入ったねって。そうしているうちに8月15日、そこで終戦を迎えたんですよ。私たちもお昼時間だから、ひと休みしようって、食事済んでひと休みしているところに、この私たちの面倒を見ているアメリカ兵が来てですね、とっても言いにくそうに私たちに言うんですよ。「東京、ブンブン、ノーモア、ヒロヒト」こうしたんですよ。この米兵が。東京ブンブンって言うのは、もう空襲でみんな無くなったって。「東京、ブンブン、ノーモア、ヒロヒト…」天皇陛下が、もう降参したと。もう戦争終わったという意味ですよ。ここで聞かされたんですよ。もうそのとき私たちワーワー泣いてね。まだ勝つと思ってたんですよ。アメリカ兵の洗濯しながらも、まだ神風が吹いてね。戦争は、絶対に負けていると思ってなかったんですよ。今考えたら本当に幼稚だったと思いますけどね。もうそれ聞いて、本当に、ヒロヒト・・聞いたら、もう戦争ないって言うんですよ。あのときは、みんな泣いてね。

Q:悔しかったですか?

悔しかったです。それでもアメリカ兵の洗濯しながら、いつか勝つと思ってたから。だから今考えるとね、本当に幼稚だったねと思いますよ。そこで終戦っていうのは知らされて。
 
Q:よく女性なんかは、米兵に捕まるとむごい目に遭うっていうふうに、そういう教育は受けていましたか? 

私たちは、そういう教育も受けたけどね、幸いいい方だった、みんな。米兵は。職場は。もうみんな大事にしてね、どこも触りもしなかったですよ。日本語習いたがってました。私たちはローマ字は分かるんですよ、習っていたから。日本地図が壁に貼られてたんですよ。そして友達と二人ね、後輩と二人こうして、こっちローマ字でみんな書いてあるから、「こっちは韓国だ、中国」とかみんなやってたら、後ろからこうして指すんですよ。あっちこっち。本当に分かってるかなと思ったんでしょうね。みんな言ってね。「ユー・スクールティーチャー?」と言うんですよ、私に。これが読めるって言って。ローマ字が読めるってことはね、「スクールティーチャー?」って言うから、「ノー、ハイスクールの学生」だって言ったらね、それからはね、とっても楽しました。「あんた方ね、洗濯しないでこっちに来てね、私に日本語教えなさい」って。おかげでね、ごちそうもしてもらいましたしね、楽もしましたけど。だから残りの人に対して申し訳ないから、「今日はあんた方行きなさいよ」って。食堂のテーブル拭きだったんですよ。洗濯はさせないで、「食堂のテーブルを拭くだけでいいからね、あんた方は。私に日本語を教えなさい」って言うんですよ。おかげで、ただローマ字が読めるというだけでね、大事にされましたよ。だけど自分たちだけごちそう食べてね、楽しちゃいけないから、今日はあんた方行って、私たち洗濯するからって交代したら、また呼びに来るんですよ。だから最初、靴ひもから習いよったですよ。「これ、何ていうね」「靴ひも」って言ったら、「靴ひも、靴ひも」って言ってね。

Q:上原さんは、羽地で終戦を迎えられて、それから石川の収容所に移るわけですか?

はい。石川の収容所に行って、そこで宮森の学校に入って、それからまた、こっち側に移動することになったんですよ。山田の地域が全部、恩納村が移動になったもんですからね。みんな共同で、男の人たちみんな石川から歩いてですよ、掘っ立て小屋をあちこちに立てたんですよ。みんなが入るようにして。もうみんな焼けてますから。ここら辺の家も全部ないですからね。掘っ立て小屋を作って、みんなが入れるようになってから移動したんですよ。そのときに学校は、まだ一棟だけ残ってたんですよ。空襲に遭わないで。一棟だけ残ってるから、床をみんな取って、アメリカのモータープールになってました。山田の学校は。だけど、やっぱり生徒も移動しますからね。教員もいないといけない。だから幸いね、3人だけ教員がいたんですよ。地元の人が。1期先輩の人と、また2期先輩の人がいて、この3人で学校を築いたんです。最初。校長・教頭もまだ配置されないころ。3人でね、石川から来て、それで1期先輩のお姉さんは1年から3年まで、私4年、5年、6年、もう1人の男の先生は中学、こんなふうにして、3学級1人で持ってですね、道具も何もないですよ。だから米軍が引き揚げたあとに板きれがたくさんあったのでね、4年以上の子どもたちを連れて、この板きれを使って机・腰掛けを作ったんですよ。だから、こんなにしてね、最初は青空教室。だんだん、民間のお父さんたちが木を切り出してきて、かやぶき小屋を作って、あとから、私たちがある程度築いてから、校長・教頭が配置になったんですよ。

Q:文教学校に通われたのは。

その後また文教学校に行ったんですよ。そのあと校長が、那覇の方だったんですけど、「文教学校があるけどね、ずっと教員するんだったら、文教学校に行って免許取ったほうがいいですよ」って言われたから、「先生、私行けるかね、勉強もほとんどしてないのに行けるかね」って言ったら、「まず試験受けてごらん」って言ったから、試験を受けに行ったんですよ。そうしたら偶然、合格したもんだから。あの頃はね、教員して、給料ももらいながら学校を出たんです。給料もありました。だから家族も困らなかったです。

Q:今も語り部のお仕事をね、すごく積極的にされていると思うんですけれども、いつからその昔の戦争体験をお話しされるようになったんですか?

実はきっかけはですね、私はその前にNHKからですね、戦争体験者の募集があったんですよ。それに応募したら入選して、本になってるんですよ。沖縄県で戦ったという本に。これが全国版だったわけですね。これを岐阜県の小学4年生ぐらいの子どもがね、読んで、質問が来たんですよ、私に。『戦火の中の青春』という題名で出したもんですからね、何人かのものが一緒になってますけどね。これを読んだ子どもからね、沖縄戦について、こういうことを知りたいということが来たもんですから、それから文通を始めて、ああ、こんな子どもがいるんだなぁと思ってね、これは語り継がないといけないのかなと思っているうちに、また今度、福岡の中学3年生の女の子からも来たんですよ。あんたの本を読んでね、戦争というのはどんなもんかっていうのが分かって、私はね、家庭でも面白くないことがあって、学校でもイジメに遭ってね、自殺しようと思ってたけどね、この本を読んで勇気づけられて、死ぬのをやめましたという手紙が来たんですよ。この子とも何回かやっていましたけど。これを見てね、ああ、戦争体験っていうのは語り継いでいかないといけない、そうしてこれを見ただけでね、命拾いをした子もいるし、私はこれをやらないといけないなと、この子たちに勇気づけられて、それから始めたんですよ。もうずっと前ですよ、これやったのは。どれかに書いてあったけどね・・。最初始めたのはですね、2002年からですね。2002年から・・あの子たちとはもっと前からだったけど、書いてないな。1996年ですね。1996年に岐阜県の尾崎小学校というところから手紙が来て、感想文も来たんですよ。この本を読んで感想文なんかも来たから、あっこれは語り部しないといけないなと思って、それから、私はやり始めたんですよ。
 
Q:どうですか? 大勢の子どもたちの前でお話をされて、子どもたちはどんな様子ですか?

子どもたちは真剣に、とっても一生懸命聞いてますよ。だからあの姿見たらね、本当にやってよかったと思います。小学校1年の子どもたちも、もう一生懸命こうして。あの真剣な顔をね、こんなかわいい子どもたちが大人になったときに戦争が起こったら大変だねと思って。そういう気持ちになります。一生懸命聞いてくれるから、こっちもやりやすいです。とっても。子どもに励まされています。
 
Q:今、平和な時代が続いていますけれども、この先、この平和で在り続けるためには、何が必要だと思われますか?
 
そうですね、何が必要ってこれは、国民全体がね、戦争ノーということをね、言い続けないといけないと思います。もう、1人、2人がそう言ったってあれだから、全員がね、戦争は絶対反対だということをね。

だから戦争を知らない世代の人が上に立ってるからね、絶対にこちらから、年寄りがどんどん叫んでいってね、絶対に戦争を起こさせないようにする必要があるなと思いますね。だから子どもたちにも、小さい子どもにも言って聞かせておけば、ああ戦争ってこんなことがあるんだなっていうことを、大きくなってもノーと言えるはずだからと思って。そういうふうにするしかないですね。私たちも長くは生きないはずだし。あと何年生きるか分からないから。これからの子どもたちがね、絶対に戦争を起こさないようにしてほしいなと思って、語り部をやってるわけです。

Q(男性):あの戦争を通して、いちばん、何が悔しいっていう思いがありますか? 何がいちばん悔しかったですか?

悔しいのはもう、身内を亡くしたことですね、いちばん。もう自分の父も兄も、しかも一家の大黒柱ですよね。だからもう家族がいないということを、戦争さえなければ、みんな元気でいたかもしらんけど、どこの家庭も1人以上犠牲者いますよ。その後はもう、建物もみんな焼けて、本当に、だから、いちばん悔しいのは、それですね。自分の身内がみんないなくなったということ。地上戦さえなければ、こんなにまで犠牲者は出なかったと思うんですよ。“平和の礎”見ました? 大変ですよね、あの数。あれだけの人間が、沖縄のこの土地で死んでいますからね。
 
Q:重なるようですけど、次の世代が、そうならないためには、何が一番必要ですか?

そういうふうにならないためには、教育が大事でしょうね。教育で子どもたちに教えていって、いちばん私たちが軍国主義教育を受けてこうなっていますからね。絶対にそういう教育をしないようにね、教育がいちばん大事だと思いますね。

出来事の背景

【沖縄・なごらん学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月下旬に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出しました。そのうち沖縄住民の死者は9万4000人にのぼりました。
この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に動員され、多くの命が奪われました。男子生徒は、伝令や弾薬の運搬、壕堀作業、女子生徒は、看護助手や食事の準備などに当たらされたのです。
昭和19年6月29日、沖縄へ向かう将兵たちを乗せた「富士丸」が徳之島沖で米潜水艦の攻撃を受けて沈没すると、県立第三高等女学校の寄宿舎は急きょ負傷兵の野戦病院に当てられました。10月10日の空襲では、本部港や運天港に停泊していた艦船が猛攻撃を受け、多くの負傷者が出て、三高女の生徒たちは治療の手伝いに駆り出されました。続々と運ばれてくる重傷の負傷兵に十分な治療や看護はできず、麻酔無しで足などを切断する手術にも立ち会いました。
三高女の生徒20人は、「なごらん学徒隊」として組織され、現在の本部町にある八重岳の病院壕に10人ずつ2回に分けて動員されると、負傷兵の看護などに当たりました。4月1日の米軍上陸以降、戦闘による負傷者が次々と運び込まれ、女子学徒たちは不眠不休の看護に当たりました。4月16日八重岳の病院から現在の名護市にある多野岳へ撤退することになりました。撤退していく中、1人が命を落としました。
県立第三高等女学校は、戦後も復活することなく消滅してしまいました。

証言者プロフィール

1928年
沖縄・恩納村山田に生まれる
1941年
沖縄県立第三高等女学校に入学
1944年
7月、寄宿舎が陸軍病院になり動員される
1945年
3月24日、八重岳の野戦病院へ動員される
 
7月頃、捕虜になる
 
戦後は、文教学校で学び教員となる。戦争体験を絵にして平和講演を続けている

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日本(沖縄・名護)

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