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タイトル 「食べ物めぐって殺人」 番組名 ラジオ深夜便
氏名 武田 賢司さん(旭川・歩兵第27連隊 戦地 メレヨン島  収録年月日 2010年7月

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チャプター

[1] チャプター1 昭和19年、満州から転進、南方「メレヨン島」へ  01:48
[2] チャプター2 飛行場への米軍の空襲  02:15
[3] チャプター3 サイパン陥落、見捨てられたメレヨン島  04:47
[4] チャプター4 ネズミ、トカゲ、木の葉まで食糧にした  01:30
[5] チャプター5 激減していく体重  01:40
[6] チャプター6 兵士たちは、極限まで痩せていった  03:40
[7] チャプター7 昭和19年11月、餓死者が急増  02:55
[8] チャプター8 食べ物をめぐって起こる殺人  07:56
[9] チャプター9 階級による配給差別が、死亡率に直結した  07:49
[10] チャプター10 メレヨンの餓死者を悼む  01:12
[11] チャプター11 こみ上げる戦争への怒り  03:12

提供写真

再生テキスト

Q:メレヨン島に最初に着いたとき、初めてメレヨン島を見たときは、どんな島の印象を持ちましたか。

私ら甲板にいましたけれど、「あれがメレヨン島だ」「どこにどこに」って目をこらしたら、水平線上にですね、まぁ椰子や木の緑なんでしょうけれどね、かまぼこ板を浮かべたようなあれですね。緑の横一線の棒が3つ4つ見えるんですね。「あれが島か?」「いや、あれは島じゃなくて、何か岩かなんかだろう」って言ったら、「いやあれが島なんだ」って言うんですね、船員さんがね。水面上から2メートルぐらい出ていますから、島には違いないけれど。サンゴ礁が隆起したっていうんですかね。

Q:武田さんたちのメレヨン島での任務というとどういう任務に。

私らはね、要するにまぁいちばん大きな主たる目的は、飛行場を守るということですね。最前線は例のガダルカナルとかね、ニューギニア戦線、大きな戦線がありましてね、そこで日本軍がやられちゃってね、後退してきまして。真ん中あたりの戦線が、もう最前線的な場所になっちゃった。

Q:武田さんたちが上陸したのが昭和19年の4月12日。

はい、そうです。

Q:そのあとすぐにもう空爆が。

そうですね。18日から始まったんですよ。B24、それがね。最初は23、24機かなぁ。23機か4機いっぺんに来たんですよ。3機編隊でね。3機編隊が8つ組ありますか、サンパ24でね。それが飛行機が大きいもんですからね。20何機ね、そういう大型な飛行機が上空に来ると、暗くなるような感じですね。雲がかかったような感じになるんですね。暗くなって。飛行機が大きいですからね。

Q:最初のうちはほかの島から日本軍の飛行機も来ていたわけですよね。

はいはい、そうです。グアム島から来ていましたですよ。グアム島が飛行隊の基地、本部っていうんですかね。そこから派遣されてね。私らが行ったときにはゼロ戦が約20機。それから一式陸攻っていうプロペラが2つある攻撃機ですね。

Q:日本軍の飛行機はいつぐらいまで来ていたんですか。

18日。4月の18日に最初の爆撃があって。それから4日5日ですね。4日目ぐらいにもうね、こなくなったですよ。滑走路は穴が空いていますしね。

Q:アメリカ軍の飛行機は、攻撃はその後も続いたんですか。

そうですね。飛行場は使えなくするために、彼等は毎日のように、1か月ぐらい続きましたね。その後はね、サイパンを取られてからはね、今度は爆撃にね、たまに思い出したように3機ぐらいでね、来て。偵察方々来てね、ついでに落としていたというような、状況だったですね。

Q:日本軍の飛行機も来ない、アメリカ軍の飛行機も偵察に来るぐらい。

そうそう。はい、そうなの。

Q:完全にそうすると、両軍に見捨てられたかたちのような島に。

まぁそういう事ですね。それからその時分はもう、マリアナ諸島を占領しちゃってね。どんどんアメリカ軍の主力は日本の方に迫っていましたからね。メレヨン島は関係ない島になっちゃったんですよ。戦略的にね。ところが今度はメレヨン島の守備隊の上層部がね、今度は食糧制限しだしたんですね。それで、あ、これは備蓄がようけないんだなと思ってね。輸送船がないわけですよね。もうその辺は制海権全部向こうに取られているから。空中権も取られているし。海も向こうの潜水艦うようよしていますからね。とっても日本の船なんかね、一隻も通れないんですわ。結局置き去りですね。

Q:餓えとの戦いが。

始まるわけです。

Q:食糧事情についてお聞きしたいんですけれども、配給はあったんですか。

ええ、配給はありましたね。最初はね、通常は720グラムお米で配給になってね。それがね、サイパン取られてから急にね、減量になりましてね。

Q:最終的には何グラムぐらい。

100グラムに。

Q: 100グラムと言いますと。お茶碗一杯も。

ないねぇ。

Q:ないですね。

ないですね。ご飯に炊いたら、普通の湯飲みに半分ぐらいですね。それが1日分ですから。

Q:メレヨン島で、戦時中ずっと付け続けていた手帳があるそうですね。

ええ。「忘備録」って書いてありますね。「アベタイ」と書いてあります。「武田」って書いてありますが。

Q:手のひらに収まるぐらいの小さなサイズですね。縦が10センチで横が5センチぐらいですか。表紙は布で出来ていますか?

ええ、そうですね。

Q:ベージュ色。鉛筆で書かれています。

ええ、そうですね。ほとんど鉛筆ですね。

Q:この記録がですね、日を追うごとにずいぶんと変化してきます。昭和20年の1月31日になりますと、現地自活物資のカロリーと書かれてあります?

書かれてありますね。

Q:トカゲ100グラム80キロカロリー、ネズミ1匹100キロカロリーという記述も見られますけれど、武田さん、これはどういう事ですか。

とにかく食糧は輸送してもらえないんだし、現地にあるものを食べて、命をつなぐ事がこの戦争の目的になったんだと。こういう事なんですよ。

Q:ここに書かれているリストを読み上げますと、海藻、木の葉、ネズミ、トカゲ、ヒトデ、米、かぼちゃ、トウキビ、なす、キュウリ、ヤドカリもありますね。

そうね、ヤドカリね。

Q:これらのものは全部食べた?

これ、ネズミはごちそうですよ。私も50何匹食いましたからね。これはごちそうですね。

Q:どのようにして食べるんですか。

これはね、最初はやっぱり気持ち悪いから、頭も取って、しっぽも切ってね。内臓みんなとっちゃって。肉だけにして食べたんですね。おいしいもんですよね。ネズミは。ところがだんだん足りなくなって来たから。頭や内臓なんかも惜しくなってね。そうして今度あれですわ。丸焼きにするんです。火にかざすんですよ。そうすると毛が縮れてくるくるっとなりますでしょ。その縮れた毛を手で撫でて、縮れを落とす。また新しい毛が出て来る。それをまた火にあぶる。またちりちりっとなる。それを手でこすって落とす。そういう事を5,6回繰り返すと、肌まで毛が焼けちゃうんですね。肌が出るわけですよ。肌も焦げた状態になる。それを頭から食うんです。頭から。ネズミをね、しっぽまで。しっぽにもなにがしかのカロリーが、栄養があると思ってね。

Q:いつ頃まで取れたんですか。

そうねぇ、これやっぱり12月いっぱいでしょうな。ネズミが取れたのは。どうにか取れたのはね。12月いっぱいぐらいですわ。

Q:それから先は。

それから先はネズミがいなくなった。

Q:いなかった。

それからトカゲね。トカゲも最初はね、数はいなかったんですがね、大きなトカゲがいたんですよ。1メートル50ぐらいのね。大きなオオトカゲが。

Q:1メートル50。

えぇ、えぇ。それがね、いたんですが。これをみんなで追い回して穫るからね。そんな大きなトカゲは隠れるところがないから、たちまちいなくなっちゃったんですね。小さなとかげはカナジョロって言いますがね、そうですね、10センチか15センチの。それをね、今のハエはたきのようなものをこしらえていて。それでたたくわけですね。ところがね、たたくスピードが遅いから、わっと逃げちゃうんですね。

Q:遅いというのは。

体力がないから。

Q:ゆっくりしか、たたけない。

瞬発力がないからね。ゆっくりしか、たたけない。そうするとちゅるっと逃げちゃうんですね。これはしょっちゅう食べました。

Q:木の葉。

木の葉ね。

Q:木の葉ってどういうものを。

木の葉っぱ、みんなあの当時はクワの葉、クワの葉って言ったんですけれどね。おいしくはないんだけれど、毒にならないんですね。他の木の葉っぱは、食べると下痢したりするんですけれどね。その葉っぱだけはね、下痢もしなくて。まぁ腹の足しになるんですね。それはカロリーがないからね。それを食べるとね、沢山食べるとね、それを消化するためにカロリーがいるから、かえってマイナスになるんだろうっていう事をね、軍医が言いましたけれどね。とにかく空腹感がつらいから食うわけですよね。

Q:そうして、もう一つ記録があるんですが、昭和20年の7月20日の記録なんですが、体重がのっていますね。これは身体測定が。

ええ。各中隊でやったと思うんですがね、うちの中隊は私がまぁこれをやったんですが。

Q:記録が残っていますけれども、上の人から順番に体重、52キロ、この方38キロしかありませんね。

これは8月20日に死亡になっていますね。

Q:あぁ、この1か月でですね。42キロ。

これは、うちの小隊長だったんですよ。身体の大きい人でね、180以上ありましたね。

Q:180以上あって42キロ。

これはもうね、この人は私、村上さん死ぬなと思いましたけれどね。

Q:55キロ、54キロ、50キロ、43キロ。この方も少ないですね。

そうね。

Q:53キロ。そうして武田さんの名前がありまして、このとき42キロ。

ええ。42キロ。

Q:武田さんいちばん体格がしっかりしてたときは何キロぐらいあったんですか?

いや、私ね、59キロぐらいだったです。いちばん。

Q:59キロぐらい。

ええ。しっかりしたときにはね。

Q:でも、だいぶ減っていますよね。

そうですねぇ。

Q:いちばん体重が少ない状態では。

まぁ、40キロあったかないか。

Q:でも、この方たちは、この時点で生き残ることが出来た人達ですよね。ですので、健康状態は良かった人たち。

よかった人です。

Q:亡くなった方々は、当然もっともっと体重が少なかった。

ええ。まず30キロぐらいでしょうね。

Q:痩せた状態っていうのは、どんな見た目は。

そうですねぇ。目がですね、くぼんじゃって。眼窩(がんか)がね、眼窩の骨ですわね。眼窩が飛び出すんですよ。この目玉の部分が奥にがっと引っ込んじゃって。周りの骨がね、丸く出て来るんですね。1センチぐらい。

Q:へこむような感じ。

へこむような感じですね。

Q:頭がい骨の、まさに形。

ええ。

Q:が、表面に現れる。

頭がい骨を思えばいいんですよ。それを口をですね、口の横が筋肉と、これがなくなって。口がまずね、大きく言ったら、やっぱり普通5センチぐらいのもんだが、8センチぐらいになるんですよ。

Q:裂けるような。

裂ける。口が裂ける。おっしゃる通り。裂ける。もう人間の顔じゃないですよ。まぁ幽霊ですな。どくろですね。がいこつ。どくろ。

Q:歩ける状態なんですか。

だからもうその、どうにか杖(つえ)をついて。ボッコを拾って。片手じゃないんだね、両手でこうやるんですよ。そうしないともう、安定しませんからね。両手でもってこうやって。

Q:前に突き刺すような感じですね。

ええ、前に突き刺すように。斜め前に突き刺すようにして。こうやって。悲惨でしたねぇ。それが10日や15日じゃないんですよね。みんなですから。誰もが同じ形相をして同じ格好して歩いているんですからね。何て言うかねぇ。まぁあんまり遺族の方にはね、話したくないですけれどね。ひどいもんですね、戦争っていうのはね。

Q:この身体測定をしたときが昭和20年7月30日現在、生存者20名と書いてありますね。

ええ。

Q:中隊が100名。

100名。

Q:そのうちの20名しか残っていない状況だったんですね。

はい。そうですね。いちばん最初に亡くなったのはね、

Q:昭和19年の6月の。

ええ。6月ですね。

Q:25日。

ええ。それでその次がこれは召集兵で。この人はよく知っているんですよ。ちょっと知的な男でね、体格は私にちょっと似たような、ほどほどの男で。やっぱりね、召集兵でね、27,8、30近いような人がね、割合先に亡くなりました。

Q:若くして兵隊に入って来ている人たちではなくて。

なくて。途中で召集されて。

Q:臨時で召集されて。

奥さんもいる子どももいるっていうような人がね。そういう人がね、先に亡くなったと思います。

Q:それは召集兵の方のほうが。

年が上ですから。

Q:年が上の方がやっぱり体力が。

体力がね。もう1才でも違うもん。この人もね、補充兵で後から入って来た。体格悪かった。だけど年がね、28かな。7か8になっていましたね。「体格劣悪」となっている。「妻帯者」「気の毒」と書いてある。ね。身体は私よりか小さいの、まだ。こういう人までね、召集して集めなきゃ日本に人がいなくなったんだと思いましたね。

Q:記録を見ていきますと、6月7月は1人ずつ、そうして8月もお1人ですね。

1人ですねぇ。

Q:9月もまだ。

うん、2人ぐらいでね。

Q:これが、亡くなられる方が多くなるのは。

11月、12月ですね。

Q:11月、12月。

11月が1,2,3,4,5ですね。

Q:5人。

12月が多いんですよ。

Q:はい。

というのはね、10月頃からね、200グラムになったと思うんですよね。

Q:配給がですね。

配給がね。

Q:お米200グラム。12月はこの資料を見ると何人ですかね。

1,2,3,4,5,6,7,8ですね。9,10,11,12,13,14,15,16,17,18。

Q:あ、18人。

18人。ねぇ、20人近く亡くなっている。

Q:で、年が明けて昭和20年。

1月もすごいんですよ。1,2,3,4,5。6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20。これは20。いちばん多いですね。20。21,22。22人。1月がいちばん多いですね。

Q:そうすると、12月と1月の2か月間で、中隊にいた100人のうちの40人が。

40人も。

Q:亡くなったんですね。

40人、50人近いものが亡くなっていますね。

Q:こうしてですね、次から次へと人が亡くなっていくわけですね。それを間近で目の当たりにしながらですね、武田さんは当時何を思っていましたか。

そうですね。まあね、年内いっぱいぐらいはね、19年の12月いっぱいぐらいはね、いやかわいそうだなっていう感傷的になってね。かわいそうだなーっていう気持ちが強かったですけれどね。もう20年の1月2月になったらね、もうこれ他人事じゃなくて、自分がいついかれるかっていうのでね、人の不幸をあんまり悲しんでいる余裕がないんですよ。心理的にね。もうね、年が明けたらね、この人の不幸はこの人だけでない、俺も同じ運命なんだとこう考えるようになっちゃってね。気の毒だかわいそうだって感傷はね、薄くなりましたよ。ここの場合はまさしく人間はどれだけものを喰わせれば生きておられるか。どれぐらい食べ物を与えないとどれぐらいで死ぬかという。飢餓実験場と自分でそう言っているんですがね。これは食糧を与えないで、人間がどのぐらい生きれるもんかと。いう事を実験したような戦場じゃないかと。あとから考えてね。
そんなふうに私は皮肉に思うんですが。

Q:日誌の方にですね、もう一度戻りたいんですけれど、3月3日の大隊長の注意というところがありますね。こちらに。

あぁ、盗難防止ね。

Q:盗難防止。そうして。

兵を掌握せよと。

Q:「兵を掌握せよ」と書いてありますが、これはそれだけ盗難という事が。

もうね、相当ね、これは戦後いろんな人に聞いたんですがね。ずいぶん頻発しておったらしいんですよ、盗難が。残念ながらね。うちの隊でも、1回だけありました。そういう事が。これは、まぁもちろん名前なんか言えませんけれど、山崎大隊の大隊で保管する食糧があったんですよね。食糧倉庫が。で、そこへバラ線を張って。人が入らんようにしているんですが、夜またね、物盗りに入ったら困るというんで、うちの中隊からね、番兵を一人倉庫にはりつけておいたんですね。で、その人がね、召集兵でしてね。これは大学出ておるんだっていう話でした。温厚な人でね、人柄のいい人だったんですよ。その人がたまたまその大隊の食糧を番兵に選抜されてね。行ってましたのさ。で、うちの中隊の兵隊がそこに行って。格闘になったんですね。夜中ですから。

Q:食糧を

奪いに行った。

Q:あまりにもお腹が空いて。

そうそう。

Q:ある所には食糧はあったわけですよね。

あったわけですね。

Q:最終的な戦争のために備蓄食糧があって。

そうですそうです。はいはい。

Q:その食料庫での出来事、そのあとどうなったんですか。

そうしてね、これはわたしのね、1級上の人が分隊長だったんだです。その人のね。で、彼がすぐ呼ばれて、「あれが食料庫へ暴れこんで大変だ」って言うんでね、彼が押っ取り刀で飛んでいったんだそうですよ。そうしたら、暗闇の中でね、お互いにどこを刺されたか、刺されてね、うーっとうめき声が上がってね。兵隊さんとその召集兵のお父さんとね。お互いに刺しあって。暗がりだから。もう手りゅう弾をしたらしいんですがね、それは慌てているもんだから不発だったらしいんですね。それで、結局ゴボウ剣を抜いて。向こうもやっぱりゴボウ剣抜くかどうかして。泥棒ですからねぇ。立ち向かったんでしょう。番兵している大学出の人もね。そうして、結局大騒ぎになって、いろんな兵隊がそこに駆けつけて。2人を取り押さえた。

Q:番兵の方は傷はどうだったんですか。

傷は深くてね。1週間後に死にましたよ。

Q:ああ、そうですか。

ええ。死にました。それから。

Q:一方でその盗みに入った人は。

盗みに入った人はね、明くる日ね、海岸に連れて行ってね、銃殺されたそうですね。銃殺。私どもの1級下の兵隊なんですよ。まじめな、本当にまじめなね、良い子だったと思うんですよ、私ね。それがね、やっぱりもうあれでしょうね。食糧があそこにあるっていう事が分かって。もうとにかく乾パンでも何でもとにかく腹一杯食ってさ。この世の見納めにね。そうして死のうと思ったんでしょう。きっとね。そうやって自決をした人も何人かいますからね。うちの中隊でね。

Q:ああ、そうですか。

ええ。その他に2人いるんですよね。各分隊ごとにね、スイジ取りに行くわけですよね。そうしたら、たまたま分隊長だった人が1人。分隊長でない人が1人。分隊長だった人がね、「いや、今日は俺が行って来る」って言ってね。それでお前こわいだろうから休んでいろって言ってね。そうして自分が食糧を。まぁ、その自分は兵隊が少ないから3人ぐらいだったんでしょうな。6人の分隊がね。半分ぐらい減って。で、3人分の食糧を自分がもらいに行って。もらって来て。そうしてね、それをね、部下どもに分けないで、自分が1人で食べたんだね。どこで食べたか知らんけれど。そうして、今度は覚悟の自殺ですよ。で、鉄砲を喉にこうやってね。引き金引くわけですよね。自決するときはだいたいそういう姿でやるんだそうですが。銃口を喉に当ててね。指で引き金引いて。ボーンと1発で。ですからね。1人はそうやって自決した。

Q:3人分の食事の量と言っても、そもそも配給が少ないですから、それでも大した量ではない。

まぁ、乾パンがね、1袋ぐらいですよ。1袋を3人で分けるんだから。まぁ微々たるもんですよね。腹一杯食ったってね。腹一杯にはならないですよね。

Q:それでもそれを最後死ぬ前に。

えぇ、死ぬ前に。

Q:全部自分1人で食べて。満足感を。

満足感を得て。

Q:死ぬ覚悟だった。

死ぬ覚悟だった。

Q:武田さんご自身は、まぁこう元気にですね、気力を保たれていたというお話でしたけれど、それでも人間性がですね、失われつつある瞬間ですとか、そういうものを感じたときというのはありましたか。

うーん。やっぱりね、これはある程度しかたないと。本人を責められんなぁという感じがありましたね。これは本人は責められないと。彼らの行為をね、憎む気持ちになれませんでしたね。これはね、誰も実行出来なくてもね、やっぱりうつらうつらと考えておったんじゃないですか、誰でも。どんな人でもね。これ、3人分いっぺんに食べたら満足出来るなんて感情はね、100%みんなにあったと思いますよ。100人の兵隊があれば、100人ともあったと思いますね。で、それを実行するかせんかっていうのは、これはまぁ倫理とかね。それを押さえる精神力ですわな。そういうものが強かったから押さえられたんで。みんなそういう気持ちはあったはずですね。

Q:そうしますと、もう本当に同じ軍隊の仲間であっても。

そうなんですよ。

Q:どういう行動を起こすか。

そう、分からないから。

Q:そういう状況になって。

もう親友であってもね、みな、さいぎ心を持ってね。こいつ泥棒すんじゃないかなってね。そういうさいぎ心を持って見なきゃいけないんですね。

Q:他の隊では、どういった事が起きていたんですか。

他の隊ではね、要するに将校がね、将校が自分の小隊のね、備蓄品をね、自分のベッドの下にね、隠してね。兵隊に分からないようにして。そうして寝ておったのがあるらしいんですよ。それをね、今度は自分が1人でね、夜中に開けてね。乾パン食ったとかっていう事がね、部下に見破られてね。その将校をね、殺したことがあるんですね。

Q:食べ物を争って。殺人。

殺人まで。

Q:行われるように。

そうですね。これはね、やっぱりあれですわ。私は暴動が起こるかもしらんなと思ったのはね、食物を区別しましたからね。

Q:食物を区別という言葉がありましたけれど。配給量を、お米の配給量を途中で階級によってですね、違っていたという事ですね。

そうですね。公式にね、公式に発表になったのは、将校も下士官も兵隊も同じ炊事科で上がるおかゆ、重湯みたいなものを飲むんだけれど、その他に将校は将校としての対面があるから。50グラムの握り飯を食わすと。これは下士官は下士官としての業務がね、いろいろあるから。30グラムの握り飯を食わす。兵隊は何もそういう増食がない代わりに、仕事がないわけだから、自分自身で現地のトカゲでもネズミでも取って食いなさいと。命をつなぎなさいと。そういう命令が正式に出たんですよね。

Q:その配給量の増食のまず話が出たのは。何年の何月頃。

19年のね、10月の中頃過ぎかな。と思うんですよ。生き残りの中隊の、あのときはね。まぁ50人ぐらいいましたかなぁ。寝ている兵隊も沢山いましたからね。実際はその中隊長の話を聞いたのは、20人か、ぐらいかもしれませんけれどね。
いよいよね、食料がね、枯渇してきたようだと。10月はもうトウショコで、100グラムになりましたからね。100グラムなんてものはまったく命をつなぐ量じゃありませんでね。それでね、この非常事態宣言ですね。これは。言うなれば。輸送してもらうような見通しがないと。

Q:命令が下されたときはどんなふうにそれを受け止めていましたか。

将校は将校としての対面があるとおっしゃったからね。これは、随分苦労してこしらえたお話だなと思ってね。

Q:理屈だと。

理屈だと思ってね。まぁ、しかしまったく正直な話でね。正直な話なんですよね。で、将校がね、ヤドカリ取りに行ったりね、ねずみ捕まえて食う姿を見たらね、これはまぁ兵隊もね、何も将校に対する尊敬の念がね、薄くなると。これはまぁそうだと思うんですね。だから、将校としての対面があるというのはね、これは随分考えてしゃべった言葉だろうなと思うんですよ。しかし、その反面、戦争っていうのはね、やっぱり危険な所にね、いちばん先に行くのは兵隊だって。やっぱり将校は後ろでそれを監督したり、指揮したりするのが将校の役目だから。将校は安全な、比較的安全なところにいなきゃいかんと。これは分かるんだけれど、いよいよ食糧を差別するとなったらね、これは兵隊は食わないで死ねという事かと。で、将校だけが残るのかと。非常に反発するね、その言葉に反発する気持ちがね、ムラムラとわいてきましたね。

Q:戦後ですね、当時の防衛庁が調べたものによりますと、階級ごとの死者の数、生存者の数が載っているんですね。陸軍でいきますと、当時メレヨン島に3205人が駐留していました。将校は188人のうち、生存者126人、死者62人。亡くなった方の割合は、およそ3割ですね。そうして、下士官は、総数515人、生存者185人、亡くなった方、330人。割合にしますと6割から7割。下士官以下の兵隊になりますと、総数が2463人、生存者445人、亡くなった方が2018人という事で、8割以上の方が亡くなっているわけですよね。この将校が亡くなった方の割合が3割。下士官6割から7割。兵隊にいたっては8割以上という風に階級によって差が明らかに出ていますよね。これを武田さんどのように受け止めていらっしゃいますか。

これはまぁ給与の差ですね。給与っていうか、食べ物の差が歴然として数字に表れていますね。

Q:武田さんは下士官というお立場。6割から7割近くの方が亡くなられているわけですよね。

えぇ。

Q:で、その中で生きて帰って来られたっていうのは、ひょっとするともし何かが違っていれば、運命は違っていたとかそういう事も考えてしまう事ってありますか。

私はそれ以外に漁労班長しましたから。漁労班員が取ってきた魚をね、まぁもらって食べたという役得もありましたからね。正直言って、彼がね、こそっとね、魚1匹焼いて。15センチぐらいの魚をね。丸焼きにして。

Q:小さな魚ですね。

ええ。小さな魚ですよ。もうほんの一口ですけれどね。まぁそれでもね、その一口でも違うもんなんですね。精神的にも違うもんなんですよ。魚1匹食べたっていう満足感がね。気分的にも違うものなんですね。涙がこぼれるほどうれしかったですよ。

Q:そういった事の部分で、生死の境目があった。

あったんですね。

Q:わずかそれだけのことで。

わずかな事でね。そうしてやっぱり体力を維持しているとね、現地のものは拾って食べる力があるんですね。でも衰弱してしまうと、何かトカゲ1匹おっても取れないんですよね。トカゲ1匹、片っぽは取れない。片っぽは取れると。そういう事で違って来るんですね。自分で現地物資を取って来ると言う力がね、多少でもあるとね。うんと違って来るんです。80%が亡くなったんですが、その人たちがみんな生きておったらね、もう全員あそこで19年のうちに死んでいるはずなんですよね。死んでくれた人がいたおかげで、食糧がその分浮いたから。我々生き残ったものはそれを食べて命をつないだという事だから。まぁ死んでくれた人があったがために、我々が今日あるんだと。みんなそう思っているわけですよね。生き残った連中はね。みんな罪の意識って言ったら、大げさですが、申し訳なかったという気持ちがみんなにあるわけですよ。これは他の戦場と違うと思うんですね。メレヨンの場合はね。

Q:メレヨンのタナという物をですね、ご自宅の書斎のところにですね、神棚の隣に作っていらっしゃいます。メレヨン島の写真ですとか、あとまぁ現地で作られた木彫りのですね、人形などが飾られているんですけれど。そこでご飯をですね、お供えをしていらっしゃいますよね。

まぁ、これは白いご飯だからね。腹一杯食ってくれよと。まぁお前たちの食った、食い残したやつを私が頂くからというふうな思いがね、いつもあるわけですよね。今それはそこでつぶやいたり、言葉にしませんけれどね。心の中ではいつもそう思ってね。やっているわけですね。

Q:白いご飯。

白いご飯。いちばん憧れたものですから。メレヨン島の兵隊がね。白いご飯、白米の白いご飯。これがいちばん憧れたものなんですよね。

Q:戦後65年がたちました。メレヨン島の戦争ではおよそ6500人のうち、5000人が亡くなり、そのほとんどが餓えで亡くなるという、特殊な戦争でした。その戦争を今振り返ってみて、武田さんどんなお気持ちですか。

そうですねぇ。当時はもう、一兵隊ですから。一つの細胞ですね。ですから全体的な戦争の様子もまったく分かりませんし、ほんの自分の身の回りの身辺の事だけしか分かりませんでしたから。まったく無謀な戦争をしたというふうに。今あらためて怒りがこみ上げてきますんです。

Q:怒りという気持ちが強いですか。

ええ。まず怒りですね。まず第いちばんに怒りです。国の首脳部ですね。首脳の方。要するに国を動かしている政治家、軍人、国のトップの方々に対する怒りですね。これね、孫子に残すとすればね、メレヨンの戦いなんて悲惨さばっかり言ってたんじゃ、何もならないんです。一つも一歩も前に進めません。この戦争を起こさないようにするにはどうしたらいいか。これは我々庶民が出来る事は、民主主義の世界ですからね。選挙で持って立派な政治家を選ぶという事でしょうね。私はこれに尽きると思いますよ。それ以外に言葉はありませんね。

Q:この手帳は、とりあえず資料の整理はされましたけれど。今後どうしますか。この手帳は。

私が死ぬときにね、お棺に一緒に入れてもらいたいと思って。メレヨンのこの手帳を持って、私はあの世に逝くわけですね。

Q:中の記述内容は、丁寧に写されましたよね。

メレヨンの戦いの片りんはね、ここに記されていますからね。メレヨンの戦が無駄な戦だとは思いたくないんですけれどね。こういう戦では、こういう戦も中にはあるんだよと。いう事をやっぱり皆さんに知っていただきたいと思いますよ。勇ましい戦ばっかりが戦じゃなくて。こういう負け戦。こういう悲惨な戦もね、戦のうちの入るんだと。いう事をね、知ってもらいたいと思うんですね。

Q:そうしないと、死んでいった人たちのために。

申し訳ないです。まったく申し訳ない。何のために死んだか。ただ犬死にではね、本当に申し訳ないです。犬死にとは絶対に言いたくないですね。戦訓として、後世の人に見てもらいたいと。死に方を見てもらいたいという気持ちは、生き残った私らみんなあります。それが生き残った人間の一つの努めでもあるかなと、おもいますね。

出来事の背景

【5000人餓死のメレヨン島】

出来事の背景 写真太平洋戦争中、現在のミクロネシア連邦のウォレアイ環礁を日本は「メレヨン島」と呼び、米軍のマリアナ侵攻に備えて、6500人の陸海軍部隊を駐屯させて飛行場を建設していた。しかし、米軍の空襲で飛行場は破壊されて使われることはないまま、サイパンやテニアンは陥落。メレヨン島は前線の背後に置かれて補給もないまま放置されてしまった。耕作地のほとんどない環礁に置き去りにされた将兵たちは、トカゲやネズミを食料にせざるをえず、伝染病と飢えに苦しめられた。将校と兵士と間の給与(食糧配給)の格差や、食糧倉庫からの盗難などをめぐり、殺人が起こったり、処刑されたりする兵士も出た。
昭和19年末から餓死や病死が増え始め、最終的には7割の兵士が戦わずして命を落とした。陸軍下士官としてメレヨン島で1年半を生き抜いた武田さんが、餓死による「玉砕の島」を語る。

証言者プロフィール

1921年
北海道多度志村(たどしむら・現深川市)生まれ
1942年
1月、陸軍旭川歩兵27連隊入営し満州に配属される
1944年
3月、メレヨン島に転進
1945年
9月、復員

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メレヨン島

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