50音から探す

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行
ら行
わ行
中村メイコ 中村メイコ

中村メイコ女優・タレントなかむらめいこ

1934年生まれ。東京都出身。2歳での映画デビュー以降、ラジオだけでなくNHKの実験放送でドラマ出演するなど、天才子役としてテレビ草創期から活躍した。バラエティー番組も数多く手掛け、テレビの可能性を拡大。喜劇の担い手としても幅広い世代に親しまれている。代表作はNHKの『連想ゲーム』などの『お笑いオンステージ』などのバラエティー番組、『篤姫』などのドラマ。1959~61年には紅白歌合戦の紅組司会を3年連続で務めた。

実験放送 謡と代用品/ほがらか日記(1940)

実験放送 謡と代用品/ほがらか日記

インタビュー

★謡と代用品

 『謡(うたい)と代用品』は、NHKが1940(昭和15)年に始めた実験放送で4月に放送した『夕餉前(ゆうげまえ)』に続く第2弾のテレビドラマでしたね。小学校入学前でしたからそんなに克明には覚えていないですけど、カメラマンとか照明さんとか技術陣の方はみんな白衣着ているので、レントゲンか何か撮られると思っていました(笑)。6歳の子どもにとっては大病院で検査されるみたいで、怖かったのをよく覚えています。

テレビジョンの実験放送 カメラマンは白衣姿

 おじい様と孫娘の話で、おじい様をなさったのが坂本猿冠者(さかもと・さるかじゃ)さん。後にNHK会長になられた坂本朝一さんのお父さまなんですよね。朝一さんは『夕餉前』を演出するなど実験放送のスタッフの一人として付いていらしたので、私の台本の漢字にかなを振るかな振り係やおんぶ係をしてもらっていて、私はあごで使っていたみたい(笑)。「坂本のおにいちゃまがいないと分からないよ」とか言ってましたね。スタジオに入るのもおんぶにだっこで(笑)。

祖父役の坂本猿冠者と

 とにかく撮影現場にはものすごい数の人がいました。子どもだからテレビの可能性というような難しいことはわかりませんが、なんか新しいことが始まるんだ、新しい波が来たなっていう感じはありましたね。仲良しだった母方の祖母は明治の前の慶応生まれなんですが、「テレビジョン(の時代)に間に合った」って言って喜んでいました。

 私は何でも初めてのことが多くて、榎本健一(エノケン)さんと出演した山本嘉次郎監督の映画『エノケンの孫悟空』では、テレビジョンらしきものを宇宙人みたいなのが見ているという(テレビを未来的なものとイメージしているような)シーンがあるんですけど、どうやら、時代が変わるところ変わるところに私は居合わせたみたいですね。

世田谷区のNHK放送技術研究所から実験生放送

★ほがらか日記

 『ほがらか日記』はラジオドラマで放送して好評だったコメディをテレビドラマ化した番組です。ラジオでは月曜日から金曜日までの帯番組でした。まだ小さいからあまり働かせてはいけないということで、私は1日おきぐらいの出演で、幼稚園にお迎えの車が来て、それで内幸町のNHKに通っていましたね。

 『ほがらか日記』は10分間演芸って言って、徳川無声さんとやる10分のドラマに出演していました。せりふも多くて二人芝居で、結構大変でしたけど、せりふ覚えが大変だと思ったことは、その時から今の今まで一度もないです。

 今の時代の子役さんはいい意味でも悪い意味でもプロ根性があって、私たちにも「おはようございます。よろしくお願いします」って挨拶してくれますけど、当時の私は全然そういう子どもじゃなかった。『ほがらか日記』だけじゃなく、いろんな番組でエノケンさんや古川ロッパさん、徳川無声さんとよくご一緒しましたが、みなさん私のこと気にしていらしたみたいで、スタジオに付いてきている祖母に「今日はメイコちゃんのご機嫌どう?」って聞いていたみたいですね(笑)。

子役時代 1940年8月(6歳のころ)

 私は1941(昭和16)年に1年生になった年代なんですけど、ちょうど尋常小学校が国民学校初等科という呼び名に変わった年で、学校に行っても竹やり持ってこうするんだとか、敵が来たらこうだみたいなことばかり教えられていました。私の父(劇作家・小説家の中村正常)はちょっと変わった物書きでしたから、そういう教育が嫌で嫌で、「なるべく学校休め」っていう人だったんです。ですから私も学校にいるよりもNHKに行ってる方が面白かったんです。ロッパだ無声だ、エノケンだっていうチャーミングな人がたくさんいらしたわけですからね。漢字は徳川無声さんから、お絵描きはエノケンさんから、英語はロッパさんから教えられて、ほんとに楽しかったですよ(笑)。

 まだちっちゃかったですけど、ちゃんとお仕事をやっているという「仕事感」はちゃんとありましたね。子どもらしくわーわー遊んでいても、「メイコちゃんそろそろ本番行くよー」って言われると、「はい」っと思って「さあ本番だ」と切り替えていました。

1940年に実験放送された日本のテレビドラマ第1作『夕餉前』

NHK紅白歌合戦

紅組司会(1959〜61)
紅組応援団長(1977)

NHK紅白歌合戦

インタビュー

 司会のお話をいただいた時、ちょうど長女のカンナが生まれて何か月目かで、「娘の物心がついたらお母さんは大みそかは家にいて、おせちを作らなくてはいけない」と考えていたので、非常に生意気にも「3年しかやりません」って言ったんです。その通り、1959(昭和34)年から61(昭和36)年までのちょうど3年間だけやらせていただきました。

 そのころは、紅白歌合戦の台本には歌のタイトルと歌手名が書いてあるだけで、あとは白紙。全部アドリブです(笑)。前奏に乗せて歌を紹介する語りも全部自分で考えていました。公私ともに仲良しだった高橋圭三さんとのコンビだったし、気が楽でした。だから全然緊張しませんでしたし、圭三さんも私もほんとに出たとこ勝負でやれましたね。私はアドリブが得意というより、「大人子ども」っていうか、無邪気に思ったことをすぐに言葉にしてしまう性格だったから、いろいろ話せたんじゃないでしょうか。それに、あのころは紅白自体がラフな感じでしたから、とっても臨場感があって面白かったですよ。

第11回紅白歌合戦(1960)左は鰐淵晴子、右が司会の中村メイコ
白組司会を9年連続で務めた高橋圭三アナウンサー 左は渥美清

 でも一方で全然機転が利かないスタッフもいましてね、上手そででは7分巻き(7分遅れているので進行を速めてというサイン)を出しているのに、下手そででは伸ばして(進行を遅らせて)って(餅を左右に伸ばすような)ポーズをしてるの(笑)。どっちなんだよーって思っちゃいました。でもほんとに「年忘れのいい意味のお遊び大会」。そういうところがあの頃の紅白の一番楽しかったところ。

 出演者の方も皆さん自由でね、美空ひばりさんが生放送の本番中に私に「ちょっと、ちょっと」って言うからそばに行ったら、「(今夜は)一緒に帰ろうね」って言うんですよ(笑)。そこが生放送のカメラに一瞬映ったらしくて、「あれは美空ひばりが司会に何かクレームを付けたんだろうか」ってファンの方からのお手紙がたくさん来たらしくて(笑)。ふたりとも住まいが赤坂だったので、たくさんの人出が来ないうちに豊川(稲荷)さんで早めの初詣をして一杯飲むっていうのが恒例だったもので。

 それと、越路吹雪さんも本番中に突然私のそばに来て「メイコ、私帰っちゃっていいかしら」って聞くんですよ。「歌(の順番)は済んでいるから」って言うんだけど、紅白って歌が終わっても最後まで並んで居ますよね。わけを聞いたら越路さんは「隣のやつが気に入らない」って(笑)。そんなこと言われてもねえっていう感じでしたが、すごく面白かったですよ。

越路吹雪(写真は1957年第8回紅白) 美空ひばり(1962年第13回紅白)
ザ・ピーナッツ(写真は1966年第17回紅白) ペギー葉山(1959年12月撮影)

 1959年の最初の第10回はザ・ピーナッツが初出場。とは言っても歌が抜群に巧いデュオでしたから、(聴いていて)ほんとに気持ち良かったです。それにね、第10回は感動的なことがあって、ペギー葉山さんがその年に大ヒットした「南国土佐を後にして」を歌っていると、私たち司会者もペギーさんも何も言っていないし、何の打ち合わせもリハーサルもしていないのに、突然客席のみなさんの歌声が聞こえてきたんですよ。2017年にペギーさんが亡くなられる2、3日前に、私に突然「メイコちゃん、あれは感動的だったわ。ありがとね」って、その時のことを思い出しておっしゃったの。「歌声が聞こえてきた時にメイコちゃんが『どうぞ一緒に歌ってください』とジェスチャーで合図してくださった。あれは感動的だったね」とおっしゃるペギーさんと微笑み合いました。それが最後になってしまいましたけど…。あの時のお客様の「南国土佐を後にして」は感動的でした。あれが生の醍醐味ですよね。

1977年第28回紅白歌合戦では紅組応援団長を務めた

新しい動画 3つのはなし(1960)

新しい動画 3つのはなし

インタビュー

 『新しい動画 3つのはなし』はNHK初のアニメ番組だったんですね。あまり詳しいことは覚えていないのだけれど、絵に合わせて声を出すというのは私にとってもこれが初めてのことでした。

 その後、実写とアニメを合成した『宇宙人ピピ』でもピピの声を担当したのですが、当時はワンロールといって途中でカットすることなく出てきた画面に合わせて、その場でとっさに声を変えなくてはいけなかったんですよ。とくにピピの場合は、動画ができるまでに時間がかかるので、まだ「ここが口です」といった感じの線画を見ながら「ウチュウジンピピ」なんて言っていましたね。

 こんなふうに絵本や動画に合わせていろいろな声を出すことはとくに難しいことではなかったのだけれど、さすがに『白雪姫』の7人の小人さん全員をひとりでやったときには少し悩みました(笑)。よく“七色の声”なんて言っていただきましたけど、7人7様のキャラクターにしなくてはいけない。そこでクレヨンを用意して7人を色分けしたんです。この役は緑、この役はピンクとかね。その色がぱっと目に入るとその色のキャラクターの声でしゃべるという工夫をしました。

 私は現実の生活でも、いつも面白いことを考えるのが好きなんですね。おそうじしながら、もし私がほうきだったら大変だろうなとか、雑巾ならぎゅうぎゅう絞られて痛くないのかしらといった具合(笑)。それは小さいころから変わらなかったようで、よく母が笑いながら私がお人形遊びをしていたときの様子を話してくれました。最初のころは西洋人形やかわいい女の子のお人形でしたが、戦争が激しくなると母が毛布や前掛けの端っこでお人形を作って「これは八百屋のお兄さんよ」なんて言って渡してくれたんです。そうすると私が「きょうは大根を持ってきたぜ」なんて言って遊んでいる(笑)。だから“七色の声”と言われた時も、「あなたはお仕事が始まっても子どもの時と同じことをやっているのね」と母から言われました。

連想ゲーム(1968〜69)

紅組キャプテン

連想ゲーム

インタビュー

 1968(昭和43)年に始まった番組『みんなの招待席』の中のコーナーが独立するかたちで69(昭和44)年から放送されたクイズ番組です。私は女性チーム「紅組」の初代キャプテンを務めました。男性チーム「白組」のキャプテンは加藤芳郎さんでした。アシスタントから渡された紙に書いてある答を、司会者から指名された解答者の人たちに答えさせるために、キャプテンがヒントを出すのが基本です。ヒントを次から次から出していかなきゃいけなくて頭を高速回転させる必要があるので、みんなが「キャプテン大変だったでしょ」って言ってくださるんですけど、性格的に全然そんなことなかったんですよ。例えば「お酒」を当てる問題だとして、解答者がすごくお酒の好きな人だったら、「はしご」っていう言葉を出せば、すぐはしご酒から連想して「酒」という言葉が出て来る。だから解答する方の性格や私生活をたくさん知っている方が有利ですね。 

初代キャプテンは白組が加藤芳郎、紅組が中村メイコ

 逆に大変だったのは、解答者が外国人の方の時。はしごという言葉を解答させるために、「酒」っていうヒントを出したら「アルコール」って返って来ちゃいまして(笑)。

 ヒントの例はNHKのスタッフがカードにばあーっと書き出したものを、番組が始まる5分前ぐらいにキャプテンに手渡してくれるんです。参考にはしますけど、つまんないのもあって、やはり自分で考えないといけないんですよ。そういう意味では非常に知的なゲームでしたよね。私は(そういう知的な感覚を楽しめる)生放送だからやっていたところがあったんです。

1984年9月 15年ぶりに紅組キャプテンとして出演
昆虫、緑色などのヒントで解答者・三林京子から正解『かまきり』を引き出す

お笑いオンステージ(1972~1982)

レギュラー

お笑いオンステージ

インタビュー

 いろんなコーナーがあるんですけど、私は『てんぷく笑劇場』というコメディ芝居の部分に出演していました。『お笑いオンステージ』をやった1972(昭和47)年からの約9年間で、女優として怖いものがなくなりましたね。女学生から婆さんまでありとあらゆる役をやりましたから。今考えたらよく引き受けたと思うんですけど、女子プロレスが流行っていたころに、グラマラスなあき竹城とやせっぽちの私とでレスラーの役をしたこともあります(笑)。分かりやすい喜劇だし、手っ取り早く笑える。それでいで品が悪くないという。そういう勉強をあの9年間でしましたね。

 (メインキャストの)三波伸介さんは素敵な方でね、たまに特集もので時間を長くするときに、水谷八重子さんがやった「婦系図」みたいなのをちょっとまっとうにやったりすることがありましたし、殺陣もできますしね。三波さんはもともと子どもの時から児童劇団で勉強したベースがあるから、演技もすごくしっかりした方。だけど、演技力で笑わせるというだけでなくて、例えばめちゃめちゃ面白い顔を作って、それをどう崩していくかっていう、そういうことを追求する方でした。

『てんぷく笑劇場』あるときは撮影現場の小道具係
映画監督役を演じるのは由利徹

 一応台本はちゃんとあるんですけど、由利徹さんは周りのみんなが「いまどこやってるの」「どこ行っちゃったの」って思うぐらいの時があるんです。「なんか違うこと言ってたなあ」って平気な顔して台本に戻って来る(笑)。そういうのも込みで面白かったんですよね。

 この前、小松政夫と久しぶりに会って笑ったんですけど、その芝居の始めの方で、「おまえさん、ここへ隠れなさい」って、押し入れの中に小松さんが隠れる。それでちょっとお芝居があって途中で「出てこい」っていうせりふがあって出て来る、そういう段取りがあったんですが、由利さんだったか東八郎さんだったかが「出てこい」っていうせりふを飛ばしちゃったんですよ。だから小松さんは押し入れに入ったきり出てこられなくなっちゃったんです(笑)。なんとか出てきてもらって顔も見たいし、芝居も続けたいんだけど、どうしようって思っていたら、押し入れの中からノックが聞こえるんですよ(笑)。コンコン、コンコンって。私はそれの方がおかしくて。あー、きっかけがなかったから出られなくなってノックしてるんだって分かっておかしくておかしくて。そういうことばっかりでしたね、毎回。トニー谷とか無茶苦茶な方ばっかり登場しますから(笑)。

またあるときは白髪の老婦人役
東八郎は不気味なアパートの管理人を演じる

 私はある時から自分は喜劇女優だということで通そうと思ったんですね。これはユーモア作家だった父の願いというか、家庭内命令みたいなものがありまして。子どもに「お母ちゃん、行かないで」なんて言って涙をこぼす役だけはやらせたくないと言うんです。だから小さいときはエノケンさんとかロッパさんとか柳家金語楼さんとかとそういう喜劇をやっていました。きっと父はハリウッドの喜劇路線に魅力を感じていたんでしょうね。

 山本嘉次郎さんという監督さんが明るい喜劇を作ることが多い方で、父のそんな願いから、私は山本組の映画によく出ていました。その時の助監督がすごくて、ファーストが黒澤明、セカンドが谷口千吉、サードが市川崑と後の巨匠ばかり。出演者控室からオープンセットまでは遠いので私が「おんぶ、おんぶ」ってせがむと、大人は「お迎え誰が良い?」って聞いてくる。私が「黒澤のおにいちゃま。背が高いから景色がいいの」って言っちゃうから、黒澤さんは私のおんぶ係だったの。なんともすごい、贅沢な子役さん時代でしたね。

あるときはとろろ汁が名物の食堂の女主人
ゲストは榊原郁恵

大河ドラマ 八代将軍吉宗(1995)

千代姫役

大河ドラマ 八代将軍吉宗

インタビュー

 大河ドラマ初出演作品ですが、この当時、私はとても忙しくてほとんど大河ドラマを見る時間はなかったと思います。出番もぎゅっと凝縮されていて、収録も徹夜の作業になった記憶があります。だからみんな眠くてね(笑)。

 私が演じた千代姫は津川雅彦さんが演じられた五代将軍綱吉の姉で、尾張徳川家二代藩主の正室。気が強くて、将軍綱吉も頭が上がらない人物だったというけれど、本当に私が演じたような感じの女性だったのかしらね(笑)。

 津川さんはこの作品だけでなく大河ドラマで徳川将軍の役をずいぶんなさっていたでしょう。津川さんのお兄さんの長門裕之さんもそうですが、あの兄弟はどんな役でも深く解釈して自分なりの演技をされるんです。だからとてもお上手でしたね。そうそう長門さんは私と同い年なので、ふだんは「長門くん」と呼んでいました(笑)。

 津川さんとは何度もご一緒していますが、日本の男性には珍しい“レディーファースト精神”の塊みたいな人。女性には本当にみんなに優しくて親切で素敵でした。

連続テレビ小説 さくら(2002)

神山はま役

続テレビ小説 さくら

インタビュー

 朝ドラは『ノンちゃんの夢』『風のハルカ』などでナレーションをさせていただいているけれど、出演したのは『さくら』が初めて。私の役はヒロイン・さくら(高野志穂)のおばあちゃんで、下町の金魚店のおかみさんでした。チャキチャキの江戸っ子気質で毎日を明るく一生懸命に生きている。古い典型的な日本人だけれど、娘が日系人と結婚しても対処できる順応性も兼ね備えているという人物でした。

 キャラクターは私に近いけれど、実は私自身はほとんど下町のことは知らないんです。父も母も本当にモダンな人たちで家の中に畳があったのは祖母の部屋だけ。私はようやくあんよができるころから、きれいな足になるようにって家の中で靴を履いて歩いていましたね。そんな環境で育ったのに、昔から私は庶民的な長屋のおばちゃんとか地方から出てきたお手伝いさんの役を演じることが多かったんです。でも役づくりって自分から遠いほうが面白いんですよ。だから楽しく演じることができました。

大河ドラマ 篤姫(2008)

庭田嗣子役

大河ドラマ 篤姫

インタビュー

 私が2008(平成20)年放送の『篤姫』で演じたのは仁孝天皇の代に典侍になり、孝明天皇の代になっても宮中にとどまった庭田嗣子。和宮の降嫁には反対しましたが、幕府に押し切られると和宮と共に江戸城に入った女性です。かなりきつい物言いをする役なんですが、お話をいただいた時は喜びました。それまであんまり意地悪な役はしてこなかったので、こんな役がいただけてすごく嬉しかったんです。それに、実は私の祖母のきょうだいが嗣子のように御殿で仕える人だったんですよ。これも何かのご縁ですね。この役をいただいた時に夫の神津善行からは「君は初めて役作りができる。しっかりやりなさい」って言われました。だから、どうすりゃいいんだろうと思って、いつものように「もうそろそろご飯いいか」って言われた時、「知りません」ってきつく言ってみたんですけど、笑われただけでしたね(笑)。

孝明天皇(東儀秀樹/中央)の妹・和宮の徳川家降嫁の話が持ち上がる
武家嫌いの嗣子は反対するが…

 でも実際に役を作っていく過程で困ることはありませんでした。芸能界に小さい時からいると、すごく怖い女優さん(と会うこと)が多いんです(笑)。昔、ベニヤ板で仕切っただけの楽屋で「お隣メイコちゃん?」とある女優さんの声が聞こえてきたので、「はーい、おはようございます」って返したら、「お静かに」って言われちゃって(笑)。そういうのをピッと覚えるわけですよ。そういうのを活かします。そういう方を小さい時からたくさん見ていたから、「冷たい言い方をするときは何々さんのようにやればいい」という引き出しがたくさんあったの。いいか悪いかは別にして声帯模写みたいな、まねをすることから始まると、演技ってわりと楽しく作っていけるんです。今回はあの人でやろうっていうふうにこっそりと自分の中で思っているんです。

和宮(堀北真希)に付き添い、観行院(若村麻由美)とともに江戸に同行する
14代将軍家茂の正室に

 苦労したのは大垂髪(おすべらかし)の衣裳。平安時代から続く貴族の女性の典型的な髪型なんですけど、(自分の)髪が引っ張られて痛いんですよ。でも皆さんが難しいっておっしゃる都言葉には苦労しませんでしたね。戦争中に疎開したのが奈良県の生駒山のふもとだったものですから、関西弁(のニュアンス)には自然に入っていけました。

 嗣子はきついきついって言われますけど、悪い人じゃないんです。和宮を大事にしたいっていう愛情の気持ちが強いだけなんです。でもね、私はなんていうか、あんまりマニアックにいろんなことを調べて、それを見てる人にも押し付けてっていう形式があまり好きじゃないんです。ひと目見ればいじわるなおばさんっていうふうに分かった方が見る人も楽。単純かもしれないけど、その方が好きですね。

 嗣子のようなきつい役柄も珍しかったですけど、私、おむつしてる時からこんなに長く女優やっているのに、犯人の役をやったことがないんです。『相棒』の水谷豊には「私を犯人の役で使いなさいよ。テレビ見てる人はみんな最後まで絶対犯人ではないと思っているから面白いよ」って言うんですけど(笑)。すごくかわいそうな死に方もない。だからきっと私、喜劇チックなんですね。

その他の出演番組を見る ※類似の氏名が検索される場合があります。
一覧から探す

敬称略

」の検索結果(0件)

お探しの検索条件では見つかりませんでした。
人物名を入れてください。