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戦争の記憶 ~寄せられた手記から~

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少年が叫ぶ「万歳」で出征を見送る

小林 登史夫さん(市民、男性)

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  • 体験地:
    • 東京都豊島区
  • キーワード:
    • 空襲
    • 銃後の暮らし

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朗読

  • 東京都 上水高校 1年 福田明香音さん

1943~45年(昭和18~20年)、私は山手線の目白駅の近くに住んでいた。隣組のお兄さんが出征するときだったと思うが、白いかっぽう着に大日本国防婦人会なるタスキを掛けた母親たちに連れられて、目白駅前で出征兵士を見送る壮行会に参加した。隣組の組長のおじいさんから「坊や、元気よく『天皇陛下、万歳!』の音頭をとってくれないか」と頼まれた。母もコックリしたので皆の前に進み出て間を置きながら威勢良く、「天皇陛下、万歳!」を繰り返した。 その数日後だったか母から、「この前のあなたの万歳が気に入られたらしく、別の隣組からも万歳の音頭をとってくれと頼まれたの。出征される方の気持ちも考えて、男の子だからやりなさい」と言われた。知らない人たちの中で、やや緊張した記憶もあるが、その後は立て続けに何回か(詳しくは覚えていない)、駅の前で「万歳!」を繰り返した。当時は自分の中で「男子たるもの、いずれは自分自身でも出征するのだ」と考え、それなりに心を込めて「天皇陛下、万歳!」と叫び、“軍国少年”になっていた。通学で目白駅を利用する時には、駅員さんたちから「オイ、万歳坊や」とよく冷やかされていた。 「万歳!」をしてくれた“お礼”として、まんじゅうやようかんなどをもらったこともあった。戦時中で物が無いなどと言っても、「有るところには有るんだね」と母と話し合ったことも良く覚えている。 今思い出すと、自分の大役を果たすことばかりに気を奪われており、満年齢で5~6歳の子どもとはいえ、送り出される出征兵士やその家族、知人の悲しみに思いをめぐらす余裕が少しでもあったならばと反省している。 44年4月に国民学校に入学。ランドセルと座布団を2つに折ってひもを付けたような防空頭巾を抱えて通学していた。頻繁に米軍機が飛来し、そのたびに“警戒・空襲警報”が発令され、サイレンが鳴り、授業は中断した。訓練通り整然と、生徒と教職員の全員が地下室に避難した。1階の床下で、間仕切りもなく、土がむき出しになってカビ臭く、遠くまで見渡せる天井の低い空間だった。800人近くがうずくまって警報が解除されるのを待っていた。短くて20~30分、長いと数時間、この薄暗い空間でただ耐えていた。コソコソとささやくことは許されても、トイレを除いて定位置を離れることは許されなかった。 多少の違いは各家庭でもあっただろうが、防空頭巾の頬の部分に非常食として「干しいい(乾燥した米飯)」が一合ほど入っていた。薄暗くて分からないが、誰かがひそかに食べ始めると、静かな空間に「ボリッ、ボリッ」とかみ砕く音がする。この音が聞こえると、次々にあっちこっちで、「ボリッ、ボリッ」、「ボリッ、ボリッ」とひそかな音が立ち始めたものだった。一気に食べてしまえばすぐに無くなってしまうので、我慢しながら間をあけて、「ボリッ、ボリッ」と食べた。恐い先生方も小さな声で「非常食を食べてはイカンぞ」とふれて回るが、音の間隔が少々あく程度の効果しかなかった。 帰宅してから母に「今日の警報で、また食べちゃった、ごめんなさい」と謝って、何度が補充してもらった。薄暗くてカビ臭い地下空間と、我慢しながら1粒ずつ音を押さえて食べる干しいいの薄い味は、私にとって戦争の一断面になっている。 45年3月10日、国民学校1年生の学年末。空襲警報が鳴っても起きなくてもすむようにと、自宅の防空壕(ごう)で毎晩寝ていた。 22時頃であったろうか、父が「今日の空襲はただ事ではない。お前たちも直接見ておいた方がよい」と皆を起こし、家族全員で2階の窓から外を見て驚いた。東の空が昼間のように明るく、庭で新聞が読めるほどであった。父が「多分、下町がヤラレテいる」と言う。燃えている地上の火の手が空に映えて、真夜中にもかかわらず周囲が明るくなっていたのだ。 明るい空には編隊を組んだB29の黒い影が南から北東に粛々と進んでおり、次々と地上からの高射砲の弾跡が追いすがっているものの届かない。しかし、その明るい空で友軍機とおぼしき小さな影が、B29に接近し、攻撃した。そして両者とも2つの真っ赤な火の玉になって落ちて行くのを見ると、我々だけでなく近所の家からも拍手や「天皇陛下、万歳」の声が聞こえてきた。 父から「これが日本がアメリカに負けるキッカケになるかも」と聞かされて、防空壕に戻ってもしばらく眠れなかった。 翌朝8時過ぎ頃であったろうか。母から「これを持って、目白通りに立ちなさい」と、番茶がたっぷり入った大きなヤカンとお盆に小さな湯飲み1つを渡された。通りに出ると目白駅の方から練馬方向に、真っ黒にススけた顔をした被災者が、2人3人と連れだって歩いてきた。中には着衣が焦げ、やけどを負っている人もいたようだった。「坊や、お茶をくれるのかい、ありがとう」と、最初の人たちは1人で3~4杯のお代わりをした。4~5リットル入る大ヤカンが、20分程で空になるほどだったので、子どもながら後半では「1人、1杯……」などと大声で叫んでいた。 母のけい眼には感服した。 次は自分が真っ黒な顔をして立ち飲みをすることになるかも……と覚悟した。父が急いで親戚筋に手配し、3月28日には新潟県に縁故疎開をすることになった。 目白の家は、4月13日(父の誕生日)に、次の空襲で焼け落ちてしまった。

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