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戦争の記憶 ~寄せられた手記から~

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ゼロ戦を修理する工兵として

高橋 美好さん(兵士、男性)

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  • 体験地:
    • ボルネオ島
    • シンガポール
  • キーワード:
    • 軍隊生活

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朗読

1941年(昭和16年)9月、14歳の私は志願して海軍特別年少兵(海軍練習兵)になりました。 44年5月にボルネオ島に赴任し、第381海軍航空隊に配属し、バリックパパンの石油精製基地の守備任務に就くこととなりました。赴任当時はアメリ力軍のB24爆撃機による攻撃も散発的ではあったが、45年になるとB24爆撃機の援護にP38戦闘機がやってきて、迎え撃つゼロ戦の数が少なりつつあった。まさに消耗が始まったのである。 バリックパパンは日本の石油供給の生命線であったので、アメリ力軍の狙いは石油基地の破壊だった。最初のころは飛行場が中心に攻撃されたが、ゼロ戦が消耗してほとんど対空防御ができなくなると、攻撃対象は石油基地に変わった。石油タンクは破壊されると2日間にわたり燃え続けるという悲惨なものであった。 45年5月31日、シンガポールへの移動命令が出た。移動中、グラマン戦闘機に追撃されたが、たまたまスコールが発生して逃げることができた。もしバリックパパンに残っていれば、戦死していたと思う。 シンガポールでの任務は南方戦線で故障したゼロ戦を回収し修復させることで、私は主に、尾輪の修理をした。修復させたゼロ戦でシンガポールに飛行部隊を再構築する予定だった。しかしゼロ戦は鹿児島の飛行場に送られ、沖縄に向けての神風特攻隊の飛行機として使われた。 シンガポール赴任からは幸いにも戦闘らしき戦闘もなく終戦迎え、オランダ・イギリス軍の捕虜となった。18歳だった。そして翌年、名古屋港に復員した。 17~18歳という青春の真っただ中で、戦争という体験をしたことはある意味凝縮した人生を送ったと思う。玉砕した同期の戦友のことを思うと、彼らの分まで生きることが唯一の供養になるのではと考えている。

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