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証言証言

タイトルタイトル: 「津波の町で医療を守る」 番組名など番組名など: 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2013年度「地方から見た戦後」
第6回 三陸・田老 大津波と“万里の長城”
名前名前: 黒田 仁さん 収録年月日収録年月日: 2013年11月3日

チャプター

[1]1 叫び、背負って、逃げた(一)  11:59
[2]2 叫び、背負って、逃げた(二)  11:11
[3]3 おむすびに涙  05:36

チャプター

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番組名など番組名など: 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2013年度「地方から見た戦後」
第6回 三陸・田老 大津波と“万里の長城”
氏名氏名: 黒田 仁さん 収録年月日収録年月日: 2013年11月3日

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Q:診療所の跡は?

診療所はここの一区画なんですね。そこの。緑色のポールが立っているところ全部診療所だったんですよ。

僕はその日往診から帰ってきて。どっちかな、こっちから入ってきたのかな。この真ん中に止めてですね。みんなが避難訓練でしたように、みんなが外に出て、車いすの人、ベッドに乗っている患者さん、それからスタッフみんな火元の点検をしたり、大事なものを出してここら辺に来て。僕はこっちから入ったのかな。向こうの方から入って来て「どうしたんですか」って聞いたら、「消防署に電話をしたんですが、消防署からは避難の搬送はできませんので、自力で行かなくちゃいけないんだけれど、先生どうしましょうか」って言うから、ベッドの人は1人はそこに寝台付きの車がありましたから、それを出して乗せて、あとは車いすが乗れる車があったので、それを持って来るように言って(それを)乗せて。自分はここに戻って来て、もう津波が来るかもしれないと思って。窓を開けて。往診の車。窓を開けて、それでラジオを大きなボリュームにして、みんなに聞こえるようなふうにして、みんなに避難誘導かけながら。じんましんの人が1人いたので、揺れる診療所の中に入って、あの辺に外来があったんですが、外来に行って薬を持って来てその人にちょっと渡して。「これ1日3回飲んでください」って渡して、「すぐに行きなさい」って。すぐに彼は向こうの方に住んでいましたから、向こうに行かせて。自分はこっちで避難誘導をやっているところを手伝いながら。号令をかけて、車の人にどんどん。公民館は向こうの青い建物のこっち側にあるんですけれど、中学校の体育館があるんですが、そこが避難場所にする予定だったんで、そこに向けて避難するように話をしました。 あとから聞いたところによると、町の人からかな、車が入れるのは公民館の方なので、公民館に行くようにと言われて、そちらに避難したそうです。車のベッドに1人乗せて、寝たきりの人を乗せて運んで。車いすの人を車いすの・・に運んで。あと3人残ったんですけれど、ベッドのままの人で酸素が必要のない人がいたので、その人は職員に手で押して行くようにって、3人一組になって。それから車いすの人も1人。その人も手で押して行くように誘導して。最後寝たきりの人が1人残ったんですけれど、その人は1人搬送して戻って来た搬送車に乗せて、最後にその人を出して。出すときにそこにちょうどリネン室があったんですね。布団とか。それをみんな出して。逃げるように言いました。来たときは津波が来るか来ないか分からないけれど、来なかったら来ないで戻ってくればいいじゃないかと。戻ってくればいいし、布団も使うか使わないか分からないけれど、もし使うようだったらいいじゃないかってことで、みんな持って行って。逃げてよかったと思います。昭和の津波のときにここまで来なかったものですから。その辺にいた方々が「津波が来っぺかな、どうだべかな」っていうのを見ながら我々はさっさと逃げる準備をして逃げて行きました。あのときにそういう人にね、声をかけていれば、もうちょっとこの辺の地区で亡くなった人が減ったんじゃないかなというふうに思います。

Q:防ろう堤(防潮堤)があるっていうのは少し安心材料というか、そういったのはどうですか?

まったく無かったですね。それは自分は病院の医者をしていましたので、年配の方々と付き合っていて、いろいろ言われた事は、「明治の津波は震度とは関係なくて大きいのが来た」と。「明治級のが来たらこんなのはおもちゃだ」と。「これは壊れるかもしれないし、これは先生あてにならないよ」って言われていました。だから防波堤があろうがなかろうが、来るものは10メートルだか15メートルだか分かりませんから、そういった意味では防潮堤があるっていうのは津波がここに来たという証みたいなものだと思っていて、防潮堤があるから安心だっていうつもりは全然ありませんでした。

Q:基本はやっぱりいざとなったら逃げるっていう。

そうですね。

Q:そこら辺の哲学っていうかあるわけですね。

どうなんですかね、ここら辺の人たちは大いにあると思いますけれど、ただ知らない外から入ってきた人たちだとか、そういう人はいたかもしれませんけれどね。僕はたまたま外から来た人間ですけれど、そういう人たちとの関わりがあったのと、自分が住んでいた地区が中町っていっていちばん津波に襲われやすいところなんですが、その自治会の中でいつも集まりがあれば、必ず津波の話が出て、例えば年配の人を、高齢の人をどうしようかなんていうのが話題になるところだったので。ここは荒谷(宮古市田老荒谷)っていう地区なんですけれど、こっちと向こうの真ん中らへんの地区とやっぱり防災意識がちょっと違ったような印象がありました。

Q:この辺は逆にあんまり。

ここら辺はだからさっきもお話しましたけれど、ここに住んでいた人たちが昭和8年のときには来なかったところだから。来なかったし、しかも防潮堤もあるから「来るかな、来ないかな」って言っていたんだと思います。

診療所には車が全部で4台あったんですね。寝台車の車と、それから車いすが乗せられる訪問看護で使う車と、あとは事務屋さんが使う軽(軽自動車)のワンボックスと。それから訪問診療で使う軽のワンボックスと。この4台があって、事務用のとそれから私が乗ってきた訪問診療の車には、付き添いの家族だとか、それから酸素のボンベだとか、そういうのを乗せて向こうに逃げて行きました。みんなベッドで押すときに半信半疑だったかもしれませんけれど、こうやってゴロゴロ押しながら。逃げて。

Q:ベッドを押して逃げて行ったんですね。

今のベッドはタイヤが付いていますから、それをゴロゴロ押しながら逃げました。たまたまその日は5人しか患者さんがいなかったので。前の日に退院した人もいたんですが。本当に金曜日だったんですけれどね。少なくてよかったと思います。当時職員は医者が私と看護士が13人と、事務員が何人だったかな、3人かな。あとは嘱託の事務の人が2人と、給食と、あとは清掃員っていうんですかね、病院をきれいにしてくれる方と。二十何人、確か、職員がいたんですが、夜勤もあるので、全員が全員出てきているわけじゃないんですけれどね。

Q:とっさにいろいろな事を判断しないといけなかったから大変な・・

結果的には大変だったのかもしれないんですけれど、必死になっていましたから。とにかくこっちに行くっていう頭しか無かったんですね。だからもちろんここにも家がありましたけれど、そこは消防署だったんですね。それでですね、2回寝台車で寝たきりの人を1人運びましたよね。あそこのちょっと今見えないけれど、青い屋根の向こう側の公民館に1人運んで、戻って来て。もう1人運びましたね。もう1人運んで、その車がもう1回戻って来たんですよ。それでこの辺だったかな。運転手さんのうちの事務の方と、あとは付き添いのナースが1人いたんですが、「先生あと何か持って来るものないですか」っていう話を言われたので、「ポータブルトイレがあれば助かるな」って話をしたら、「じゃあ持って来ます」って言って、彼らは取りに行ったんですよ。自分はその後ですね、ちょうどこの辺を歩いて来て、ちょうどあそこのプールの所に行って、向こうの方角にしぶきだとか煙みたいなのを見て、あー来るなと思って自分は一目散に逃げたんですけれど、そのときにトイレを取りに行かせたあの2人がね、心配で、大丈夫かなと思っていたら、後からそのフェンスのちょっと向こう側なのかな。津波が来るのをバックミラーか何かで確認したらしくて、車を乗り捨ててその2人はわーっと逃げたんですね。まぁ、もちろん地域の人を引っ張って逃げたんだと思うんですけれど、それで助かったんです。それでそこに置いた搬送車が、ちょうどそこに堀があるんですけれど、そこの中に落ちていました。あとで写真をお見せしますけれど。そこに川があるんですけれど、その中にポータブルトイレを3つぐらい積んで。落ちていました。ぐじゃぐじゃになって。

Q:しぶきを見たのはどのあたりですか?

自分は救急カートといって、いろんな薬が入ったりとか、酸素を押したりするアンビューバック(マスクを使って他動的に換気を行うための医療機器)とかそういう道具を持ったカートを持ってゴロゴロゴロゴロのんびり押してきたんですね。ここにいるときはあんまり感じなかったんですけれど、ここからこの中学校が一応避難場所だったと記憶しているので、僕らの診療所のみんなでは、中学校の体育館に行こうっていう話になっていたと記憶していたので、ここを回ったんですね。向こうまで行かないで。それがかえってよかったのかもしれないんですけれど。ここをゴロゴロ押して行って。結構段があるのでカートをよったりなんかしながら操縦して。ここにプールがあるんですね。プールの角はどこだろう。それであそこまで行けないんですよ。ここが土だから。だから救急カートをここら辺に置いて、乗り捨ててこう見たら、向こうの方で何か煙りだかしぶきみたいなのが見えるんですよ。でね、これね、津波じゃないかと思ってですね、こっちを見たら保育所の子どもたちが歩いているんですね。へりを。中学生とか避難している人がいっぱいいて、ここで「おーい、津波が来るぞ逃げろ」って何回か叫んだんですよね。そうしたらみんながうわーっとちょうどあの車が置いてありますけれど、あの後ろの斜面目がけてみんなうわーっと逃げて行ってですね。中学生たちは保育所の子どもを引っ張り上げたりしているのが見えてきましたけれど、自分は逃げようとしているときに、向こうから押し車を押した90(歳)のよく知っているおばあさんがやって来まして、耳が遠いんですね。その人の家はちょうど橋の脇のあたりなんですけれど、「どうしたのアヤさん」って言ったら、「いや、家に鍵をするの忘れちゃってさ、これから鍵を閉めなくちゃ」って言うんですよね。「そんな事言ってられないでしょ」って、あそこにもう見えているんですから。「もうこっちに来るかも分からないから、そんな事言ってないで行きますよ」って言って、そのおばあさんを背負って。僕のそばに診療所の職員が2人いたんですね。薬局の手伝いをやってくれている2人の女性がいて、その方の1人が押し車を持って。僕はアヤさんを背負って。あそこの端、崖(がけ)っていうかヤブを目指してわーっと「逃げろ」って言いながら逃げて行きました。多分あそこまで100メートル以上あるのかな。あそこの斜面を逃げて、後ろを振り向いたら、もうガレキと波がサーッと来て。ぞうっとしてですね。こっちは普段の運動不足だか、足が上がらなくて、途中でアヤさんを降ろして、背中をちょっとずつ10センチとかそれぐらいで持ち上げながら必死になって上へ上へと思って。そんな感じでした。

ここは中学校なんですけれど、ここも1階が浸水したんですね。それからあの体育館の裏にもがれきが来ていまして。ちょうどその日は卒業式の練習だか何かをしていて。中学生はあの中にいたんじゃなかったかな。患者さんたちは僕はてっきりあそこの体育館に運んだんだとばっかり思っていたんですが、崖を上がってうちの職員に聞いたら、「皆公民館に連れて行きました」って言っていたけれど、公民館も波が来ていたんですね。ですから看護士さんたちはみんな泣いててですね。「患者さんたち置いて来ちゃった」って言って。泣いているんですよ。中の職員から出て行くように促されたらしいんですけれど。後から通れるようになってドロドロ状態でしたけれど、波が収まって水が少し引いてから行ってみたら、中にみんな無事だったんですね。だからちょっとほっとしました。酸素が必要な人、それから痰(たん)を吸わなくちゃいけない人、意識が無いような人もいましたから。それからこの地域に住んでいる人たちもここに逃げていましたんで。みんなで後から彼らを夕方になって戸板に乗せてそっちの上の方に運ぶんですよね。ちょうどそこに畳の部屋があるでしょ。そこに患者さんを寝かせていたんですよ。ちょっとあそこだけほんのちょっと高いんですよね。だからあそこは床上になってなかったかもしれないけれど、ギリギリ、しかも季節が3月だったんで、みんな閉めきっていたので、外から波が来ても建物の中にはこっち側からはたぶん入らなかったんじゃないんですかね。 ちょうどこの辺のどこかを上がったんですよ。この水が出てくるところの左側だったのは覚えているんですけれど、ここを上がったんですね。それでもう冬が終わって春を迎えるときだったので、葉っぱがみんな落ちていて。ここの斜面をアヤさんを背負って。必死になって。後ろを向いたら津波が来ていましたね。 ここにね、うっすら跡があるの分かりますか。これはみんな一生懸命消したんですけれど、ここだけ消えないんですよ。ここまで来たんですよ。だから僕の、僕は身長が179(㎝)あるんですけれど、腰よりも高い所まで。女の人の胸ぐらいまで。車がプカプカ浮いてそっちにこう打ち付けられたりして。こんなの来たら絶対無理ですよね。がれきとかそういうのに潰されちゃったりして。

さっきのプールの所からね、自分はたまたま海が見えた所なんですけれど、この建物の陰にいる人たちは見えないわけですよ。自分があそこの場所にいてよかったなと思って。昭和8年の津波のときに浜にいて逃げた人たちの話を聞いてね。その日は早朝だったんですけれど、昭和8年のときは。外から「津波が来るぞ!」って声がいっぱい聞こえてきて、それで起きて逃げた話もいっぱい聞いているので、ここは叫ばないとよくない、叫ぶべきだと思って、自分は大きな声、あらん限りの声を聞いて逃げました。

夕方になってから、ここの上にね、総合事務所って前の田老町の役場があるんですけれど、そこに向けて公民館の中にあるふすまとかそういうのを持って来て、寝ている人を運んで。それで夜はそっちで過ごすようにしました。ここもがれきがいっぱいあったんで、足元気を付けながらみんなが手伝ってくれて上がったのを覚えています。雪があったんでね。あの日は確か少し凍っていたような記憶がありますけれど。

こっちはお墓があります。そのときはここも危ないとみんなが思ってですね。ここよりももっと高い所高い所っていって奥へ奥へとみんな逃げて行きました。 足元、気を付けてくださいね。

Q:結構高いですね。ここも。

高いでしょ。

Q:体育館の屋根より高いですもんね。

これでもみんな不安でしたね。

ここ何回上ったり下りたりしたかね。

ここにね、いっぱい人がいたんですよ。本当に人がいっぱいいたの。

ここから見えるんですよ。波みたいなのがね。すごい揺れて。もう防浪(ぼうろう)堤がどこか壊れちゃったなんて話もありましたし、そこは海みたいになっちゃっていましたから。また来るかもしれないと。揺れるたんびにそこのお寺の本堂から皆を出してですね。ちょっとでも高い所に移して。それを1日中何回やったんですかね。翌日はずっとそれでしたね。ケガをした人も中にいましたから、そういう人を担いでね。上がったりして。

夜になったら気が付いて、気が付いたらお腹が空いていて。なんだか物を運んで来た人たちがいてですね。“おむすび”だって聞きましたけれど。うれしかったですね。

Q:結構高いですね。本当に。ここを皆さんが上がって来たんですね。

そう、みんな上がってきたんですよ。だから足をくじいちゃった人なんかもいましけれど。

Q:(おむすびが届いたのは)その日のうちにですか?

その日のうちに。その日のうちに食べられたんですよ。こっちの本堂にももちろんね。

Q:結局それが同じ町内から来たものだったと。

そうなんですよ。後から「どこから来たんだ」って聞いたら、神田末前(田老末前は確認できますが神田末前、確認できませんでした)方面から来たって言うから。いやーもうありがたかったですね。水を運んで来た人もいたし。どうやって運んで来たんだか分からないんだけれど、この線路を伝ってね、運んで来たんですけれどね。

もう山手の人たちが見に来てくれるんですよ。例えば老人ホームがあるんですけれど、そこの職員が見に来てくれて。「何か手伝える事ないですか?」って。ただここまでしか車が無いから。途中からは手で運んで行かなくちゃいけないんだけれど。そういう人がいたら運ぶ準備をしますよって言ってくれたりしたんで、あぁ温かいなと思って。過ごしました。でもそのうち夜はバーンバーンって音がして山が赤くなるんですよね。目の前はがれきがその辺まで、ここら辺まで来たために、こっちに行けないんですよ。ここ、がれきだったんですよね。この辺までがれきが来ていましたから、こっちは歩けないから。ここを通って。通りましたけれど。だからおむすびもたぶん向こうから来て。ちょっとずつ小学校とかここで分けたりして。ここをこう通って。総合事務所まで。またおむすびだけじゃないんですよ。水も来たんですよね、ポリタンクに入って。確か。あとから聞いたんですけれどね。本当に津波が来る前からそういうのは決まっていて、自治会でね、町の中心部が津波でやられたりしたときは、みんなで炊き出しして届けようって決めていたんですって。しかもいつまでっていう期限が無くて、断られるまで届けようなんて言ってくれていたそうなんですよね。それを聞いたら何かね、涙が出そうになったり。その言ってくれた人が見たくなったりして。感謝して、しかも自分たちが食べるお米をみんなに出しちゃったわけだから。「我々食べちゃって申し訳なかったけれど、自分たち食べる分残っているんですか」って話をして。「多分あとで返ってくるから大丈夫だよ先生」って言ってくれて。実際に後から町の方からちょっと出した分よりも多めに返って来たって聞いてほっとしましたけれど。でも停電の中ね、精米しなくちゃいけないお米を使ってですね、出してくれたのは本当に助かりました。

Q:そういうのが田老の地域の力とかそういう。

そうですね。

恐らく昭和と明治と2回津波があって、ここにお墓がいっぱいあるでしょ。これね、私の大好きな人もこの中で寝ているんですけれど、その人なんかは明治の津波で家が断絶しちゃったんですって。それで、でも先祖がいるわけだから。江戸時代からの。その先祖の墓守をする人が、家を再興する人が必要ですから。血縁を頼って頼って、こっちのさっき言ったおむすびを手配してくれた地域だったり、北の方の地域だったり、そういう人たちがみんなこう、血縁を絶やさないようにして再興した家がものすごく多いんですよ。この辺はたぶん何割かはそういう縁なんじゃないかと思うんですけれどね。詳しい事は住職に聞いていただければいいと思うんですけれど。 そういった意味でね、山と町はこの地域は繋がっているんじゃないかなと感じました。繋がっているんだなって。

プロフィールプロフィール

埼玉出身。東日本大震災時、田老唯一の医療機関・国保田老診療所の医師。2001年4月~2012年3月まで勤務。2007年から医師一人体制で地区の医療を担った。大津波で診療所は全壊。スタッフと共に入院患者全員を避難させた。被災直後も休まず仮設診療所で診療を続けた。2014年4月から母校・東北大学病院にて再び被災地の医療に向き合い始めた。

1968年
新潟県上越市に生まれ、埼玉県草加市に育つ
1991年
早稲田大学理工学部物理学科(高分子物性物理学)卒
1998年
東北大学医学部卒
2001年
岩手県下閉伊郡田老町国民健康保険田老病院内科長
2005年
宮古市国民健康保険田老病院内科長(市町村合併による)
2007年
宮古市国民健康保険田老病院院長
2008年
宮古市国民健康保険田老診療所所長
2011年
3月11日 東日本大震災に被災。診療所は全壊
2012年
自治医科大学附属さいたま医療センター 総合診療科 助教