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証言証言

タイトルタイトル: 「「女だてらに」と言われ続け 男女雇用機会均等法を立案」 番組名など番組名など: 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第2回 男女共同参画社会 ~女たちは平等をめざす~
名前名前: 赤松 良子さん 収録年月日収録年月日: 2015年5月7日

チャプター

[1]1 官僚として女性差別撤廃を目指す  05:23
[2]2 上司と闘う  13:13
[3]3 上司と闘う(2)  09:54
[4]4 女子差別撤廃条約の採択にのぞむ  08:50
[5]5 期限は1985年  08:30
[6]6 密室の攻防 -男女雇用機会均等法の舞台裏-  09:10
[7]7 難産だった男女雇用機会均等法  12:54
[8]8 難産だった男女雇用機会均等法(2)  05:33
[9]9 男女平等をめざし 赤松さんが歩いた一筋の道  13:10

チャプター

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番組名など番組名など: 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第2回 男女共同参画社会 ~女たちは平等をめざす~
氏名氏名: 赤松 良子さん 収録年月日収録年月日: 2015年5月7日

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労働省へ入った最初は婦人課というので、労働問題ではなかったんですよ。ちょっと4~5年たって、婦人労働課ってところに配属になった。婦人少年局に3つの課があって、婦人労働課っていうのは婦人労働問題をやる課で、そこをやらなかったら意味ないぐらいのところのわけなんですよね、婦人労働問題っていうのをやりたいわけだから。それでまぁそこへ配属になった。その頃世の中ではね、女性がたくさん働くようになってた、どんどんどんどん女性労働者っていうのが増えてた。だけど職場でいろいろひどい目に合うっていうか差別があちこちにあったわけなんですよ。その典型的なものが若年定年(制)と結婚退職(制)、もう辞めさせちゃうわけだからね。職場でのいろいろ格差があるとかっていうのより、もっと激しいわけですよ、辞めさせるっていうの。これがもうとても多いっていうのはいろいろなところから、陳情みたいのがあるから分かってた。そしたら訴訟が起こって、住友セメント事件(東京地判昭41.12.20 結婚退職制を争う最初の判決であり,以後一連の男女差別裁判に大きな影響を与えた)っていう有名な訴訟で、後々までもこれはいろんな似たような事件が起こった、全部その判例が生きるわけなんだけども、結婚退職の典型的なものなんですよ。だいぶ前にそのサインをしてあった、「結婚したら辞めます」と書いて。

名前を書いてちゃんとその会社側に渡した、で、そんなこととっくの昔に忘れてた。独身時代に書類やってた、それで結婚しました、うれしいうれしい、新婚旅行に行って帰って来ました、そしたらもう机も無かったっていうんですよね。要するに会社はちゃんと結婚したら辞めますって書いてあるんだから辞めてもらうんだって、当たり前じゃないって思った。だけど辞めさせられた方はとても心外なわけ、一生懸命働いて来たんだと。何も悪いこともしてない、結婚したというだけで辞めさせれるなんてって思った。あんたこの約束してるじゃないって言われた、もう腹の虫が収まらない。で、弁護士に相談したのね、それはちょっと訴訟までやってみようじゃないってなって決心して。訴訟をするということは割と大変なことなのよね、日本では。アメリカは割と簡単にするみたいだけど。だけども決心すればそれはできます。で訴訟して、その時の裁判長っていうのなかなか立派な裁判長だった。私もあとで、ああ、あの人と思ったけどね。それでその裁判の結果は、そんな約束は「公序良俗に反して無効である」と、だから損害賠償払えと、こうなったわけね。これがわーっと有名になったんですよ。その時私は婦人労働課にいた。その前からそういう退職制度っていうのは非常によくないと思ってた。こういうのが出た、非常に力づけられた。私、論文も書いてます、それね。それで力づけられた。だけど訴訟っていうものはその人限りのことなのよね。訴訟があったから、ああ、あれみたいになろうと思って、また他の人が訴訟すればそれはまた勝つでしょう。現にいろいろ(判決が)出てるんだから。だけど世の中全体を律するっていうわけにはいかないんですよ。その世の中全部をっていうことになればそれは法律なのね。で、そういう法律を作りたいと私は、もうその時からずっと思ってたんです。

そこで(電力会社で)女性を、普通の事務職ですよね。当時だんだんにそういう普通の事務職に女性を採用するって会社は増えておりまして、そんな珍しいこっちゃない。ところが、25歳で辞めてもらうっていう制度を考えたんです。っていうのは、今でもまあそういうのはあるかもしれないけどね、女性は若い時はカワイコちゃんで使いやすいしいいけど、もう5年8年なんて勤めてたら、もうノーサンキューって感じになってくるわけ。それで、それには辞めてもらうには、ちゃんと制度を作っといた方がね、はっきりしてていいだろうって。いや、辞めてくれだ、嫌だなんてね、面倒だから。もう25歳になったら辞めまーす、ってはじめっから約束しとけば問題ないだろうと思って、25歳定年っていうの作ろうとした。そしたらそれを、労働組合ですよね、やっぱりちゃんとあって、電力会社って労働組合ちゃんとあったのね。「なんだとそれ、25?」なんてね、で、その該当する女性がいたんでしょ、で、それも労働組合で話し合って、「そんな25なんてひどいじゃない」と。今よりは当時の25ってのはもうちょっとまあ、上の感じですよ。でもそれだってね、まあ若い、働き、これからっていうような時でしょ。それをね、もう女の子はとにかく若いのはいいと、年取ったらごめん、っていうあれがもう見え見えの制度、いやらしい。それでね、とにかく広島に婦人少年室。今はなんか名前が変わってますよね、雇用均等室かな、労働局の中に入ってるけど。その頃は婦人少年室っていうのは小さいながらも独立の機関だったんです。で、婦人少年局の出先なわけ、で、そこの室長さんが、婦人労働課、本署の専門のところの課長に訴えてきた。「そういうあれ(問題)が自分の管内で起こってるんですけれども、どう考えたらよろしいんでしょう」って言ってきたわけですね。で、その時の大羽綾子課長っていうのはなかなかのね、経歴も長く婦人労働行政には大変まあちゃんとした見識のある方。私はそこの係長だったかな、私はうるさ型の、理屈っぽい生意気な女子だったわけよね。大学出てもうしばらくたってたけども、出たばっかりのっていうのとは違うんですよ、もう経験もちょっとあったんで。法規の担当、法律担当っていうのは別に男性がいたんだけどね、まあ女性の目で見るっていう感じでね。連絡調整係かなんか、そういう名前だったと思いますけど、ちゃんといたわけ。で、課長が、「あなた法律を勉強したんだろう」と。「法律として見てどう思う?」って言うから、私はもうそんなのはもう絶対許せないことだって。で、その前にずっとこの女性の定年制っていうのはね、長い間の懸案でね、勉強はしてたんですよ。それで、「それはおかしい」と、「憲法の14条にちゃんと男女の平等って書いてあるじゃないですか」と。それをね、「そんな企業で規則なんかでね、それに違反するようなことをしてはおかしい、それは民法90条で、無効にすることができる」って言ったんです。課長はとてもそれを気に入った、その理論をね。で、それを行政通達で書きましょうってことになって、原案を私が書いたわけね。それで課長まで上げて、で、課長が局長へ持っていった。ところがね、局長が、ちょっと頭の固い方でね、そういう理屈があんまり分かんないのね。

訴えに来てる人は、そもそも約束を自分がしたんでしょう、と。で、約束して納得してるからそのサインもしてるわけでしょう。それなのにね、その後でもうこういうのはおかしい。で、それは結婚退職についても同じ理屈なんですよ。(後に)事件が起こってくるんだけどね、住友セメントで、結婚退職の。その時も同じ議論で、結婚退職なんていうのは、要するに男に結婚退職なんてやりませんわね。だから女性にだけなんだから、女子にって書いてなくたって明らかな女性差別なんだから、「そんなことは民法90条に反する、無効になります」っていくら言っても局長は、「約束で、“私は結婚したら辞めます”って書いてある」。で、もうこれには参っちゃったのね。で、まず(電力会社の)定年制についてはね、その定年制を勉強いろいろしてあるから、それちゃんとね、理屈として成り立ってるんだって、たくさんの学説があります。で、それを集めて、お見せした。でも、駄目、分かんないって言う。で、もう本(『女子の定年制』労働省婦人少年局編)に出して(自分で本を書いて)、要するに外堀を埋める感じでね。で、なにしろ局長に納得していただきたいと。最後までね、あんまり「うん」とおっしゃらない。で、だから民法90条に照らして、これは無効であるって私が原案を書いた。「無効である」は消されて、「望ましくない」。望ましくないなんてね、何だって言えるんだから、法律の根拠なんかなくたって望ましくないことなんていっぱいあるからね、「望ましくない」ぐらい言うのは何でもないから、そんな何ていうか柔らかい通達になっちゃった。で、私は腹に据えかねて、本は出すわ、それでその、住友セメント事件については論文を書いた。その本が『女性展望』ですよね、市川房枝(創刊)で、今までもずっと出してるでしょ、『女性展望』っていう雑誌。

で、ちゃんと書いてあるでしょ。だからね、一生懸命勉強をして、で、これにも書き、これを私のなんていうか長い間の、行政官としての思いがこもってるんですよね。それが何十年かたって雇用機会均等法になるわけ。

Q:じゃあ、「望ましくない」って書かざるを得なかった時、どんな気持ちでした?

もう腹立たしい、情けない。だってちゃんと法律論で割り切ればいいじゃないですかって言ってるのに 民法90条っていうのをね、よく分かんない方なんですよ、その偉い方が。だから約束っていうのが大事と、契約の中身が大事と。それは納得ずくで書いたことだ、そんな後から法律がなんだへったくれだなんてね、「無効」だなんて、そんなずるいとかなんとか言って。とにかく、その方が印を押してくれなければ行政通達にできないんだから。で、私も課長も無念の涙って感じで。

Q:ちなみにその90条って、 どういうものなんですか?90条。

民法90条っていうのはね、非常に民法の中でも特別な地位を持ってるような、重要な規定なんですよね。で、「公の秩序(又は)善良の風俗に反する(事項を目的とする)」契約は、「法律行為は」だわね。契約じゃなくて「法律行為」、契約っていうのは「法律行為」だから同じことなんだけど、文言は、「法律行為は無効とす」っていう簡単な条文なんですよ。でもこれは非常に大事なことで、要するに契約っていうのは自由、契約自由の原則っていうのはまあ大きな原則はありますよね、法治国家にはね。だから契約はどんな契約したっていいんだけど、でも非常に明らかにね、“こんな契約はおかしい”という契約もあるでしょう。そういうの、そのまんまじゃあ契約自由なんだからいいかと言えば、そうはいきませんよっていう、そのまあなんていうか自由への歯止めなの。限度があるじゃないの、ということなんですよね。それが「公の秩序」と「善良の風俗」と、まあ二つ書いてある。それに反したら、それはいくら契約自由でも、その限度を超えてるという意味の簡単な条文だけど非常に大きな意味を持つ条文で。それはよく例に出されるのはね、妾(めかけ)契約っていうのあるんですね。それ日本はやっぱり明治以降はちゃんと一夫一婦制っていうのは善良の風俗でしょ。で、それがね、「お前さんと私とは妾契約を結ぼう」と、月に何万だか何十万だかね、それはその時によってあれだけど、あれを上げますよと、お金をね。あるいはその家を、この家に住んでいいっていうことにしますよ、とかね、まあ中身はいろいろだけど。それでその自分のまあ二号になる、そういう契約を書いて結んだとするでしょ。で、だけどその女の人が、後で心変わりして、そんなの嫌だと言って、そしたらその契約を盾にして、損害賠償を取るとかね、追っかけるとかそういうのはできない。それは善良な風俗に反する契約だから、そんなのは無効で、その無効な法律を盾にとって迫ることは、法律上認められないっていうの。それをよく例に挙げて、私が法律家の先生の講義を聞いてた時も、確かその例をお挙げになったように思います。で、だから、うんなるほどってまあ思いますよね。それで、だから25歳定年(制)なんていうのも、そんなみょうちくりんな契約は無効だよっていうのは90条でやれる、というのが私の、私のっていうか、私が勉強した多くの学説はみんなそれを支持してたの、その時代でもね。だから、私はだから「これでいけます」って言ってるのにね、その「契約じゃないの」なんて、「納得しておいてそんな後から言うのはずるいじゃないの」とかっておっしゃるんでね、偉い方が。で、参っちゃったの。それでね、自分が局長になったら、そんなことを言えなくするには法律を作っとくのがね、何よりのあれだから。で法律を作っておけば間違いなしにそういう25歳で定年だ、結婚退職だなんていうのを防ぐことができると思いました。

Q:これなんで「赤松」じゃないんですか?

このペンネームも、自分の本名で書いたんじゃやっぱりね、役所の別の課だからね、よその課のことに口出ししたらやっぱりね、あんまり公然とはしない方がいいってんで。すぐ分かるだろうけど、まあ初めは分からない、なんかおもしろい論文が出てるよっていうような。この雑誌はね、今でもそうだと思うけど、婦人少年局というか、その担当のところはちゃんと毎月取って、あれを読んでる人は多いんですよね。だから、「へえー、出てるよなんか」っていうような感じでうわさになって。そのうち「あれは赤松だよ」って、「ああなるほど、“青杉”なんてね」ってなって、それでちょっとあれ、担当のところからはご機嫌悪かったの。だって、自分ちのことにそんなね、口出しをしてるっていう感じはあるでしょ。でもまあへっちゃらだったよね。それだってあんた、これ評判になった論文だからね。

Q:どうしてこれ書こうと思ったんですか?

それはその思い、さっきのあれですよ。その、ちゃんと行政行為としてやろうと思ったのにできなかった。ほんじゃあもう、なんか脇道からでもとにかくそのことが、その議論が正しいっていうことを言いたかったの。確か市川(房枝)先生と話したような気がしますよ。「この事件は有名な事件だから、私はちゃんと書きたいと思うけど」って言ったら、で、「じゃあいいの書け!」なんて言われて。これ結構なスペースでしょ、それで私が「好きなだけ、言いたいことを書けば載せてあげる」って言われた。市川先生にはよく叱られもしましたからね、「もっとちゃんとやれ、婦人少年局は腰が引けてるな、けしからん」ってな感じを言われたこと、私は課長になってからでも何べんもあったけど、でもそれは筋が通っててね、まあしっかりやんなきゃいけないんだと思って。この時はもう、私の方がむしろしっかりやりたいんだから、「先生何とか」って言ったら、「おお書け!」って言われたような感じね。

Q:その(住友セメント事件の)判決が出た時はどう思いましたか?

いや、もう素晴らしいと思いましたよ。だって私の言ってることがもう判決の中に書いてあるっていう感じだからね。で、後でその裁判長は大学の先輩だから、パーティーかなんかでお会いした時に、「あの判決、すごく私はもう嬉しかった」って言ったらば、「僕はあなたのあの(本)」、この本(『女子の定年制』)のことだけどね、「参考にずいぶんしましたよ」って、「むしろこちらがお礼を言いたい」とおっしゃったような感じだった。私も非常に満足をしました。

Q:世の中が明るくなったような気がするって書いてたから、すごいうれしかったのかなと。

そりゃうれしかった。だって、今までは自分のあれでしょ、あの、個人の見解でしょ。で、役所の公意としてやろうと思ったのに、その表現を和らげられちゃって、生ぬるい表現になってるから悔しかったわけ。それが判決がばしっと出たからね、とてもうれしい。で、判決より更に法律の条文になればより広くなるから。だから法律を作った時も満足でした。

Q:もともとこういう問題に取り組みたいっていう思いがあったんですか?そもそも。

それはね、私はだから女性への差別っていうのは、子どもの時からずいぶんその自分の身近に、「なんだ女の子が」って言われるは、私はおてんばだったから、悪口になってくるわけですよね。「女のくせに」、「女だてらに」だって言葉が。今時「女だてら」ってあんまり言わないね、「女のくせに」ぐらいは言うね。で、私の頃はさ、「女のくせに」は当然だけど、「女だてら」っていう、もういやらしいね、私あれ大嫌いだったんだけど、言われる。で、それがもう耳にタコぐらい言われてた。それはそのくらいおてんばだったってことだけど。まあいまいましい思いをしてるわけですよ、女性がいっぱい、「あれはいかん、これはいかん」ってね、言われて。で、自分は、それまで自分のしてきたことは、要するに「女だてらに」のもう標本みたいなことをしてる。私の入った(東京)大学は、いい大学だから、女性はその頃は本当に少なかったでしょ。特に法学部は800人のうち4人なんだからね。で、私の学年はそれでも「4人もいるか」って言われた。前の年は1人とかね、そんなんですから。そういうとこへ、なんかこの殴りこみでもないけどさ、入ってるわけでしょ。で、その後も学校の試験をちゃんと通って、男性と同じスタートラインで職業生活を出発したっていう、まあなんていうか自負がある。で、それの延長戦なのよね、いわばね。差別を受けてる人を何とかしてあげたいでしょ。で、それをどういう方法でやるかっていうのは、その時の置かれてる立場によっていろいろあれですが、ひとつはだから、役人になってるんだから、行政通達なんてのを書ける立場だから、その立場を利用して、いい通達を書くっていうのがひとつありますよね、それでそれを書いたつもりだった。が、そんないかんって言って表現を和らげられて、まあソフトって言えばいいけど、つまらん表現になった。それが悔しいから、その悔しさをなんとか表現しようとしたのがこういうものなんですよね、これだとかこれだとかね。その他あっちこっちで言いまくってたかもしれない、そんなのは誰も覚えてないだろうけど、文章にしとくとね、残りますから。いまだにね、そんなの書いてたんだなって思うけど、言葉では私いっぱい言ってたと思いますよ。もうあっちゃこっちゃ行って、もう、うちの局長ったらバカで!なんて言って・・言ってたでしょう。

Q:やっぱり他人事じゃないっていう思いが・・立場は違うけど。

そうそう、だって女性の差別を悔しく思ったっていうのはもうずっと長いあれだからね、子どもの時からあるんだ。あのね、その当時ではね、女の子っていうのは本当に損な立場だったんですからね。家父長制でしょ、で、親の相続権っての、親への相続権ってのは、たった1人のね、その一番上の兄貴だけ。で、後の次男・3男はやっぱり同じように腹が立ってたんじゃないかと思うけど、女の子はまず、女だっていうんでもう全然ダメだからね、もう話になんないっちゅうわけ。で、それでそんなふうに言われるからシャクにさわるじゃないですか、私は負けず嫌いだったからね、何さ、と思って。で、ありがたいことに民法改正でそれ(家父長制)がなくなりました。だけどこうやって残ってるわけよね、法律以外のことではいっぱい残ってたわけでしょ、差別は。で、それをどうやったらなくしていけるかっていうのは、私は長い間ずっとずっと続けてきた、生涯の課題だと思って。いまだに、差別とはいえないほど、言えないかもしれないけど、格差っていうのはね、いっぱいあるんだから。その格差っていうのはやっぱり差別の一種なんですよね。それをどうしたらね、なくせるか・・少なくともこんだけの格差をこのくらいにできるかっていうの、いまだに続いてる課題だと思います。

国連代表部の公使になってニューヨークへ行った。初めての仕事がたまたまだけど、女子差別撤廃条約(「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」)の採択。条約をまず採択するわけでしょ、採択を国連総会でやる、その採択の場に私は公使として、日本国政府代表ですから、賛成っていう、あれだった役をできたわけですよ。それでね、この条約っていうのは非常に重要ないい役を果たす条約だと私は思ってた。その条約を批准するかどうか、まず採択の時の賛成っていうのがまず第一歩なんだけど、批准するかどうかを署名っていう形でやるんですね。署名しないでいきなり批准ってことだってできるけど、まずは署名をして意思表示、日本国政府は近い将来この条約を批准しますよっていう意思表示をね、署名をやる。日本政府ばっかりじゃなくていろんな国、たくさんあるでしょ。その署名式っていうのをやろうって国連が思った、これなかなか利口な戦術でね。ちゃんと立派な署名式をやればね、大勢の国が我も我もってそこへ行って署名します。その作戦が成功したのは、1980年のデンマークの第二回女性世界会議だったわけ。79年に採択になって、80年にデンマーク会議なんです。そのデンマークの会議に日本を代表して出たのが、日本で初めて女性が大使になったっていう時なんですよね。高橋展子さんって後々有名になる方だけど、大使。今でこそね、それでも今だって日本から女性の大使で出てる人ってそう多くないですよ、五指に入る程度ですよ。その時は何しろ日本で初めてだから大騒ぎになって、飼い猫の毛が抜けたっていうぐらいのね、取材。 ほら今日だってね、いろいろピカピカやったりして、取材っていうのはなかなか大変でしょ。それが毎日のようにあったってんでね、飼い猫がヒステリー起こして毛が抜けたって言われてるぐらいの大騒動で(高橋)大使が出たわけ。その方の第一の仕事がコペンハーゲンで、たまたまデンマーク大使だからね、コペンハーゲンで行われたその署名式に出て、サインをするっていう仕事だったんですよね。その方が私の労働省時代直属の上司だった人だから、とても印象に残ってる。私は代表じゃないから、いや代表って言うか、代表団の一員ではあるけど主席代表じゃない、主席代表がサインする。だから私は後ろの方で見てて、“おお、やってるぞ”と思ってた。そういう条約だね。で、この条約を批准するためには国内法を作んなきゃいけない。その国内法っていうのは何だって言えば、女子の差別、雇用における女子の差別をなくすための国内法っていうのが必要だと、それがなければ条約の批准はできませんよってことだった。

Q:その時、(女子差別撤廃)条約の内容はどんなもので、それに対してどう思われたかっていうのを。

それは、条約の中身っていうのはずっとまあ前から勉強してましたから、採択の瞬間に見たわけじゃなくて、中身は割と分かってた。で、これは非常に日本の女性の地位に対して大きなインパクトを与えるに違いないと。ただ、今の法律のままでは批准が無理だっていう点がまあ3点あると。もっとあるかもしれないけど、少なくとも3点ははっきり分かってる。国籍法の問題と、教育のカリキュラムの問題と、そして雇用平等法っていう法律がないっていう問題。で、それはとても難しい問題で、簡単には解決できないかもしれない。で、国籍法だって法務省は非常に苦労するんじゃないかと。で、特に雇用平等については自分のあれだからよく分かるけど、これは大変なことで、そんなに簡単に解決できるとは思えない。つまり法律をね、通せるとは思えない、その時点で。これは容易なこっちゃありませんぜ、と。条約自体は大変ね、インパクトの大きい立派ないい条約だと思うけど、批准するにはえらい苦労だなあと思いました。それは、現実になりますよね。

やっぱりあらゆる形態の差別をっていうところがやっぱね、あの条約の正規の名前そうでしょ。あらゆる形態の女子に対する差別を撤廃って、あらゆるっていうのすごいって思った。その中ででも、あらゆるの中でいちばん難しいのは雇用だとも思った。雇用ってね、現実のね、あれ(問題)だからね。そんなただの意識とかって、意識を変えるのはもっと難しいけども、ホワンとしたもんだからさ。現実にさ、早く辞めろとか、結婚したら辞めろとか、賃金は男が100で女が60だとか、そんなもんじゃないんだからね、その違いってのはある。だから意識を変えるのは大変難しいけど、雇用の場での差別はもっと目に見えるものだから、それを変えることはもう大変だし、でもそれをやらなければ駄目だっていうことも非常にはっきりしてる。で、それは差別撤廃条約が採択になった時、私は国連の公使であって、婦人少年局の責任者ではありませんけども、私はまあ労働省に入った時から将来は婦人局長と思ってたから、それはなんか思い上がりだったかもしれないけど、でもなんとなく私は思ってた。で、だからそれから二十何年たってて、その思いは変わってませんから、やっぱり私はやるんだよという、なんていうか覚悟みたいなものがその時できた。

Q:やるしかない。

私がやる仕事だと思った。まあ何年後、3年後かな、なるわけだから、そんな遠い将来のこっちゃないんですよ。だからもうだいたい射程に入ってたわけね。

Q:じゃあ分かってたんですね、自分の中で。

もう大体なってくるなと思った。

Q:自分のとこにくるのが。

だからまあ、こうちょっと身震いがするっていう感じはね。

 (女子差別撤廃条約の)採択の時も政府代表だったし、その翌年の署名の時は、高橋さんが署名するのを私は代表団の一員としてコペンハーゲンにおりましたから見てたし。次の日だかなんか大使と「よかったわねぇ」って言って、コペンハーゲンの人魚の像を見ました。

Q:その時のね、お気持ちを知りたいなと思って。どういう気持ちだったか。

これで日本の女性の地位は格段によくなると思いましたよ。非常にうれしい。

Q:日本の当時の男社会の考え方もやっぱり、条約とはすごくかけ離れて。

かけ離れて。だからその根回しがものすごく大変だったわけで。でもだからそれは覚悟してたわけよね、こんなに差があるんだって、それをだから埋めるのは大変だよなって。自分はまさか自分の肩にビュンとかかって来ると、まぁ半ば思ってたけどね。

Q:その条約。

いや私やっぱりさ、将来、婦人少年局長になるってことはだいたいまぁ予想してたから。どの時点でなるかっていうのがあれだった。だから私の前任者がある程度はやっといてくれる、地ならしして準備室っていうの作ってそこへ精鋭を集めた。そこまでしといてくれたからさ、私はそれに乗っかって。それで今度、外回りをやるわけだからね。労働省の中だって、中の社会だって男の社会だからさ、「そんな法律いいよ」なんて思う人がいっぱいいたと思うんですよ。そういうのも、私がなった時だって結構いたけども、もう特に“あの人は”なんていうのいたけどもさ、まぁ(前任者が準備作業を)減らしといてくれた中で、その準備室みたいなものまでもう出来てたっていうのはやっぱりなんて言うか、私へのあれよね。階段がこんだけあるとしたらこの辺までは行ってた。そのあと私はこの辺までやればいいということ、見えたわけよね。

Q:もう覚悟が。

世の中やっぱり、うおって動きまずぜって思ったね。高橋大使とそういうお話もしたと思うよね、コペンハーゲンでね。

批准をしますっていう約束だけはしたんですよ。だけど約束したってね、約束を守らないこといっぱいあるんだから、本当にその約束を守らせるかどうかっていうのは、その後のずっとちゃんとフォローアップしないとダメで。そのフォローアップするっていう仕事が私のところへ来るわけ、婦人少年局長になっちゃったもんだから。それで頑張ってフォローして、その条約を批准するために必要条件である雇用機会均等法を作る仕事をやりました。文部省は文部省で教育のカリキュラム、高校のカリキュラムに女性にだけ家庭(科)教育っていうのはあると。男には家庭(科)教育しなくていいのかっていうのを文部省としてはやんなきゃいけない。まずは法務省がね、法務省としての担当のところをやった。

国籍法(改正)が法務省ね。国籍法をまず法務省がバーッとやったんでね、それで力づけられたってことあるんですよ。初め法務省がグズグズ言うからダメなんじゃないって思ってたらね、うまい偶然なんだけど、ドイツとフランスがね国籍法を改正しますってバーッとやったんですよ、条約の批准に必要だからね。日本の国籍法っていうのは、そのドイツとフランスの影響下において作られた法律なんですね、明治時代でしょ。ご先祖様っていうかね、親が改正するっていうんじゃやっぱりね、うちもしなきゃって法務省はやっぱり思った。それで法務省がまず、法務省としては条約批准に必要なこれこれのことは法務省として責任を持ってしますって連絡会議で言ったの。それで最後まで文部省は無理かもねぇなんて言ってたらね、文部省はね幸いに法律条項じゃないんですよ。省としてのあれ(通達)を作りさえすればいいわけ。法律を作るっていうのはやっぱり大変なことだからね。

法律条項じゃないから、まぁまぁ何とかなるだろうと思って反対しなかったんですよね、条約の批准に。それで最後っていうか同じ時期だけど労働省は大変だよと。条約批准しますはいいけど、法律はないじゃないですか、法律を作らなきゃいけない。どうする気なのよと、みんなが思ったらしい。その時、労働省になかなかの次官がいた。もう亡くなられましたけどね、あとで九州の(福岡)市長になった桑原(敬一)さんっていう非常に頑張る次官だったんですよ。その様子、そういう時代の流れを彼はちゃんと見て、労働省だけが反対したためにこれ(条約)が流れるなんてことになったら、それは恥ずかしいことだぜと。それからつい最近デンマークへ大使を送り出したのは労働省じゃないか。その実家が反対したために流れましたっていうのは、それは送り出しておいて梯子(はしご)外すのかと、そんなことはやっぱりできないじゃないかって。まぁいろいろ考えられたらしい、あとでお書きになったものあるけどね。それで難しいかもしれないけど“5年あるからな”っていうこともあって、それでOKって労働省も言った。省の連絡会っていうのは、ひとつでも自分とこできませんって言ったら無理なんですよね。だけどみんなそうやって関係ある法務省、文部省・・もね、OKってなったから、それじゃあって政府全体としてやりましょうってことなんですよ。だけど期限付きなのね、あれはディケイドフォーウィメン(国際婦人の10年)っていうのが1976年から85年まで。75年がインターナショナルウィメンズイヤー(国際婦人年)でしょ。次の年から10年間がディケード(定められた10年の期間)なの。そのディケードの終わりまでにっていう期限を付けた。まだだいぶ先だからねとみんな思った、その当時の人は。だけど私はそうはいかないの、私の任期中に(法整備を)やんなきゃディケードは終わりなんですよ。考えようによってはすごい貧乏くじかもしれないけど、考えようによったらすごいグッドチャンスなわけね。

Q:プレッシャーは感じませんでしたか? その当時。

ものすごい感じましたよ。だって反対がものすごく多いんだもん、その法律を作るのに。条約はだいぶ離れてるから条約まで反対だっていう人はそんなにいなくても、法律についてはみんなピンと来るからね。財界は自分たちがやってることはみんなこれダメだぜって、結婚退職制なんかみんな持ってるでしょ。若年定年制って、女を30で辞めさせるなんてザラにあったんだから。それ見て、「アレアレ、これやれなくなるんだぜ」って思うじゃない?だから大変だよっていうことになって、みんな連絡会かなんかで、「あんな法律が出来たら大変だぜ」ってなった。それで皆がわーわーわーわー反対。一方、労働組合は、この条約を批准するため、そして「今度作ろうとしてる法律は労働基準法の(女子の)保護規定もやめるって言ってるんだぜ」って。そんなことになったら今禁止になってる深夜労働、長時間労働、女性のみ禁止なんだから、「それが取っ払われれば男並みに働くことになるんだぜ」って、「そんなことはどうだね」って。労働組合側のほうの、それ男が言ってるじゃなくて女の方がわーわー声が大きかった。男の人たちは、まぁ女ばっかり保護規定あるのも変じゃないかと思ってる人もいたと思うけど、その労働組合の女子部の代表が、労働省の審議会の、労働側の筆頭なんだ。それは並大抵の闘士じゃないんですからね、山野和子(1927-2003 総評婦人局長など)って言ったけど、私の好敵手だったんだけど。ジャンジャカジャンジャカやり合って、とにかく審議会を通さなければ法律の上程が出来ませんから、法案のね。審議会を通すっていうのがまず大きな壁なんです。その壁をどうして乗り越えるかっていうところが私の局長としての大仕事の始まりです。

Q:当時は板挟みに合って大変でしたね。労働側と経営側の…

そうそう。両方から違う問題でだけどものすごい反発があるわけ。それをなんとか、そんなこと言ってないでって言って。「鬼の根回し」と私はあとで言うんだけど、すごい個別撃破でやったのね。

Q:例えばどんな根回し。

だから、何々会社の社長がいちばん、その頃、日経連っていう非常に強力な経営者団体でしょ。その日経連の会長はもうもちろんすごい方なんだけど、その方には年中接触してる。副会長っていうのは何人もいて、その人たちは発言権がある。あそこの社長が副会長・・何人もちゃんとリストアップして、「この問題についてちょっとお話をさせていただきたいから局長が伺いたい」って言うと、それは局長が会いに来るっていうのにお断りなる方はそうはいなかったですよ。だいたい「おいでいただくなら会います」って、社長室へ行く。それで、このことが解決できなかったらばこの条約は批准ができないんですと。条約の批准っていうのは日本政府が約束してることであり、先進国である日本がこれだけの経済発展をしてるのに、この条約の批准国になれないっていうのは非常に恥ずかしいことなんだと。そんなことでは日本という国は、要するに女性を差別して女性を搾取して、そしてこの経済発展を進めてるんだと。そういう悪名が世界的に広まったんではやっぱり日本としてはとても良くない、日本の企業としてちょっとやっぱり恥ずかしいんじゃないんでしょうかっていうふうに言うと、やっぱり日本の代表的な企業の大将(トップ)っていうのはね、その理屈はとってもよく分かる。日本が国際的になんかやっぱりまずいって言われるのは困るわなぁ、それは。局長もちょっとうるさいけどさ、言うてることはそんな変なことを言うとらんなとなって。寄ると触ると、どうする?なんて。ある程度は我慢して、法律がね、あんまり厳しい法律じゃちょっとつらいけど、柔らかいソフトな表現で、具体的には義務規定なんだけど、ソフトな表現ならまぁ我慢してやろかってだんだんなって来たわけ。半年とかだいぶかかりましたよ。83年の夏ぐらいっていうのがいちばんひどくて、私は声が出なくなったんだけどね、喉が潰れた。

Q:しゃべり過ぎて。

だって毎日のように夏の暑い時にさ、財界の大物を訪問しては、今言ったような理屈を言うわけだからさ。それでちゃんと言わないとね、やっぱりね相手がお年寄りだからね、今の私よりは若いとしても、お年寄りのおじい様でしょ。だからちゃんと大きな声で話をさ、同じ話を何十ぺんもしなくちゃいけないからさ、喉を使い過ぎで声が出なくなったのは83年の夏だった。

稲山嘉寛(1904-1987 新日鉄社長、会長をへて経団連会長)って言ったね、経団連の会長(1980-1986)。それがあなたもう、それになんか私は翻弄されたって感じだわね。 もうすごいおじいさんで、柔らかくてねきれいなおじい様だったね。で洋服がよくてね、

上品なね、イングリッシュジェントルマンって感じだけどさ、さっぱり女性のあれ(権利)については理解してくれなかった。なんだかいい加減な話ばっかりされちゃってさ、せっかく会ってんのに。帰りに佐藤ギン子さん、婦人労働課長と、今日はダメだったねぇ、あのおじいさんにやられちゃってなんて思って。

Q:どんなことを言われたんですか?

なんだかさ全然話をそらせちゃうのね。でね、私は「でも近頃は女性が一生懸命職場ででも働いてちゃんとやってるじゃありませんか」って言ったら、「そらそうだ」って言って、それには賛成したのね。「僕の秘書も、セクレタリーもとってもよくやってくれてる、もう感謝してる」と。「それでその方にどうなさったんですか」って言ったら、「いいところへ後妻の口を見っけてやった」って。これにはもうさ、その立派な仕事をしてくれたからちゃんといい管理職にでもしてあげたとかって言うんかと思ったら、後妻の口だって言うんだもん。

もうだからそのセンスのズレてることね。だけどその当時の80代の偉い財界のトップなんてのはその程度なのよ、女性の働くってことについてのセンスは。

Q:どうやって説得したんですか、山野さんを。

山野さんを?あのね、山野さんっていうのもよく分かってる人なの。この条約を批准するってことがとても大事だっていうことだけは彼女は認識してたんです。それでそのためにやっぱりだいぶ譲らなきゃいけないなとは思ってた。だけどそんなやすやすと譲れるもんか。それから彼女の後ろに女子労働者がわーっといるわけでしょ。その人たちの顔色を見なきゃいけないのね、そこから選出されてるんだから。だから彼女たちをどのぐらいのところでだったら納得させられるか、それをいつも気にしながら発言してるわけ。だから最初はそんなものもうゼロですよ、絶対ダメ。でもだんだんに、この法律を作らないと差別をなくすためにはダメだと。差別はやっぱり皆が遺憾を、腹が立つと思ってるんだから、それとのバーターですよね、だからある程度はしょうがないと。長い時間働かせるっていうほうを守るか、深夜業を守るかどっちが大事ってあれがあったんだと思うんですよね、葛藤がね。それでやっぱり深夜業は守らないかんと、深夜の夜中まで女を働かせるのはどうしてもよくないことだと。時間の方はちょっとぐらい、非常に厳しい残業制限だから。2時間しかダメだってんだ、9時~5時で2時間って7時でしょ。7時になったらビューっと帰るってんじゃね、もうちょっとあれしてもいいんじゃないのと、そこんとこ、緩めてもいいんじゃないのと思ったようです。最後のあれはね、そこんとこで妥協しようと。それで一方の差別をなくすって方は、差別をしてはならないっていうのはいろんな段階で、採用の時、中へ入ってから賃金の問題、昇給、昇格の問題、それから最後の辞める時の女にだけ結婚退職とか若年定年とかそういう厳しいあれを付ける、そのいろんな段階があるでしょ。もうひとつ訓練がありますよね、訓練も当時は男にはちゃんとした訓練をして、職場の入ってからオンザジョブトレーニングでちゃんとやって、それでそれを条件にだんだんに上へ上げて行くっていうのあるでしょ、それが女にはないわけ。訓練なんて女にしたってしょうがない、もうすぐ辞めんじゃないかって思ってる。それをだから女に対しての教育も大事なわけ。ちゃんと訓練を受けて、そんなに訓練受けました、はいもうサヨナラなんていうんじゃ、とてもダメよと。訓練を受けたからにはそれを活かして仕事を長く続けると、覚悟がなかったらダメなのよっていうのがありますよね。

だから入る時、女は採りませんなんていうの、それはダメよと。昇進昇格も男だけよって、これもダメ。そのため必要な訓練、男だけよっていうのもダメ。辞める時に結婚だ、年だなんて女にだけそんな厳しいことを言うの、それダメよと。全ての段階での差別をちゃんと禁止規定として書くというのが私のしたいことだった。だけどそんなことしたらとんでもないって、財界の方からの、企業側の方からのものすごい反対があるから、妥協をね。で、最後の辞めさす時の差別がいちばんやっぱりひどいから。これは裁判で確立してるから企業だって諦めやすいでしょ、裁判に出りゃ負けるっての分かってんだから。だからそれはちゃんと法律に書くと。

あとは努力義務規定で、差別してはならないと本当は書きたいんだけども、平等に扱うように努めなければならないっていう、いわゆる努力義務規定ですね、努力義務規定に和らげた。それはだから、ものすごいけんけんごうごう、労働組合側からは非難の的ですよ。なんだこんなもうザル法だとか腰抜けだとか散々言われた。それから労働組合に対しては、そんな何も一切ね(労働)基準法に手を付けてはならないって、そんなこと言ったんじゃあこっちのほうの法律は出来っこないじゃないですかと。お宅のほうだって少なくともどっちかは諦めて下さいよって言って、時間も5時7時じゃなくてもうちょっと遅くまで大丈夫だっていうふうになった。深夜業はだけどそのかわり残した、深夜業禁止はね。

それで法案を提出する。審議会がOKっていうんではないんですよ。審議会は三者構成でね、労働側はこれについて反対、使用者側はこっちの点について反対、でも真ん中の学識経験者の方がなんとか取りまとめて、反対があるが建議としては出すことを、その法案を出すことっていうあれをしてくれたわけね。してくれたって、一生懸命根回しして、山野さんにもちゃんと出て、反対って言ってくれと。反対って言う分にはいいのよ、反対って書けるんだから。出ないとその審議会が出来ない。だから労働側が本当にこれ(均等法)を潰そうと思ったら出ないっていう作戦があるんだけど、山野さんは条約の批准は大事だと、彼女は思ってた。だからそこまでの反対はしない。ただ反対、この点、基準法の改正に労働組合は反対であると、それさえ書いてくれるんでいいっていう妥協ですよね。条約を批准するっていうことを非常に彼女は大事だと思ってた。

Q:でも一回、(山野さんが)審議会に出ないって言った時がありましたよね。

それはね、内容的なことじゃなくてね、ちょっと行き違いなんですよ。法律の名前をね、法制局とのやりとりでね、これはまぁ労働省の国会対策上の技術的な問題なの。ていうのはね、(労働)基準法は改正案でしょ、でこっちの雇用機会均等法の方は、新しい法律を作るっていうんだと国会提案が二つのものになるわけ。二つのものだとね、どっちか食い逃げされるって。「食い逃げ」ってよく言うの、法律をいろいろ出してて、本当はバーターでね、こっちだけのいいとこ取りされちゃってね、こっちが通らないないなんてことは国会の運営の中でよく起こることなの。そんなことされたらかなわん、で両方とも改正にする。そうすると二つの改正を一本の法案で出せるんですよ、それは法制局のいろいろやり取りで分かって来たんだけどね。だから基準法も改正、こっちの方は福祉法の改正、勤労婦人福祉法っていうのは十何年前だかに(出来て)ある、婦人少年局のたった一本持ってる法律を、それの改正っていう形で両方を一個の法案として、二法案の改正ってのに出せるっていう、悪知恵なのね。それがね、悪知恵だけどとても大事なんですよ、技術的にはそれやらないと通らないんだから。その悪知恵を考えて法制局といろいろやり取りして、ギリギリのね土壇場までそれやってたもんだから、山野さんに言うのが遅れた。遅れてね、基準法の改正と、福祉法の改正を一本にしたあれ(法律)だというのをね、言いそびれてたの、その担当者が。それで彼女がそんなこと知らないで新聞にボンと出ちゃったから、ものすごい怒ったわけ。

それでそんな審議会には出ないってなった。それで私はもう、それは申し訳ないと、早く言わなきゃいけなかったのにこういう事情で、法制局とのやり取りがいつまでも長引いて連絡が遅くなったのは、それはもうこっちが悪いんだから謝るから出てくれって言って。一生懸命電話をかけて、電話にも出てくれない。そいじゃあダメかと、それでもうギリギリの瀬戸際になってて、審議会がストップっていうんじゃ私ももうこの職にとどまれないから辞めましょうねと思って、辞表を書こうとしてた。そしたら山野さんが労働省の中のある部屋にいるよということが分かって、じゃあっていって連絡が付いた。だけど山野さん、私が一生懸命謝って、「出てよ」って言っても返事しない。もうダメだねと思って、審議会が始まりました、したらちゃんと出て来た。反対はしましたよ、反対でいいんだから、出てさえくれればいいんだから。で、出て来て、私この点で基準法のこの改正のところは反対である、それでそれは議事に残るんだから、向こうの顔も立てば、私としては審議会を通ったってことになるからね。で、通って出したんです。最後までハラハラドキドキがあった。

Q:ギリギリですね。危ない橋をいっぱい。

危ない橋を、そうそう、渡った。だから。でもね、とにかく非常に苦労をして出した法案だけども、修正わずかでね。国会に出てからはそれちょっといろいろあったことはあったけども、まぁその難しい法案だってことはみんな分かってて、非常に協力体勢もちゃんとしてたから通りました。あの法律はウルトラCだって言われたの、出すまでは。

ビューンと飛び跳ねて、こんな二回、回転してバッと着くとかってウルトラCっていうの、難しい時に言うでしょ。ウルトラA、B、Cってあるじゃない。あの法案はウルトラCだよっていうぐらい難しい法案だった。でもとにかく国会に出せばまぁ通ったのね、与党の強い時ですから。

Q:あの時、国会にいる赤松さんの表情をカメラがとらえてるんですけど。

最後にバーッとね。

Q:どんなお気持ちだったんですか?

だからもうちょっと涙ぐんでたんじゃない、こぼしはしなかったけどね。

Q:そうですね・・どっちかって言うとちょっと残念そうにも見えたんですけど。

だからその妥協の産物だからですよね。私が書きたいと思った、全ての差別はいかんって書いてないんだもん。だからあの時の担当者だってね・・「小さく産んで大きく育てる」、最初に出来た時は、みにくいアヒルの子か。「みにくいアヒルの子が白鳥になる」って言って、なだめたんだ私を、「局長、我慢して下さい」。だから我慢してるんですよあれ、やっぱりね。

Q:じゃあちょっと後悔みたいなのもあったんですか?

いやまぁねぇ。この程度でしかたがないんだなと思ってた。

Q:今思うとどうですか、今。

いやそのあと改正がね、二回ぐらい大きな改正もあって、最後のなんか私が考えもしなかったセクハラまで取り上げてるんだからね。私の時代はセクハラの問題なんてあんまり表面化してなかったから考えもしてなかった。だから改正でちゃんと出来て行くから。改正ってものだけど、本法あっての改正なんだからね。それは改正はちゃんとやってくれてありがとうと。でも本法あってだぞぐらいは思ってるわね。

Q:じゃもしあの時に、もし法律が通ってなかったら、どうなってた?

条約を批准できませんわね、日本は条約批准国になれなかった。そのじゃあいつまで待てば批准国になれたって言ったら、あのぐらいの大法案を通すっていうのはなかなか容易じゃない、ウルトラCなんだから。ウルトラCの出来るのはいつのことだか、それはちょっとね、何年待てばいいんだか。まぁかなり待たなきゃなんなかったでしょう、あの時にできなければ。みんなそう言ってなだめてたんだから、これでここで出す。とにかく法案を成立させて、そして条約を批准できれば、あとまた法律は改正ができるんじゃないか、と言って。でも最後まで何か、こんな法律じゃあの(女性差別撤廃)条約の条件を満たしてないんじゃないかっていう説までありましたよ。

Q:けっこう外でね。ハンストやってる人とかいっぱいいましたよね。

そうそう、国会の前でみんな、労働省の前に座り込んだのね。それは基準法の改正がけしからんということと、努力(義務)規定なんかけしからんっていうのと、けしからん、けしからん。でもその程度でなかったら提出ができなかったんだから、私はそんなもの悪口言いたかったらどうぞ。ここよりもっと上だったもんね、私、18階だからさ。あんまり聞こえないんだけど、なんか「赤松、出て来い」とかいろいろ言ってたけど、まぁ出ては行かなかった。上で聞いてましたけどね、しょうがないでしょって思ってた。

労働組合の女性たち、あるいは婦人団体が、「こんな程度のものなんて」って本気で怒ってる人たちはそりゃいましたよね。でもあとで条約、法律が成立して、批准が出来たら、やっぱりよかったんじゃないって思って。

今はだから、なんだあの時にあんなことしてなんて言う人はあんまりいないでしょ。あの時はあの時。生ぬるい法律だとはいえ、それを作ってあったから改正も出来たんだと。法律があったから批准も出来たんだって。ちゃんと理屈の分かる人はそう思っていて下さるでしょう。

みにくいアヒルの子。みにくいアヒルの子は今や白鳥になったでしょ。

Q:最初はやっぱりみにくいアヒルの子だった。

そうねぇ。こうあるべきだって自分で思ってたものとはそりゃ違ってましたよね。だからあの(国会での)表情はその表情よね。もうちょっとマシなものしたかったなっていう表情じゃないですか。

Q:均等法と同じ年に(労働者)派遣法が通っていて・・

全く同じ国会の。あれ関係は実はないんだけどね、あれは派遣法安定局でやってて、あっち(均等法)は婦人少年局でしょ。私はそれが気になったの、私は実は。とても気になったから、だいぶたってからね、その時の安定局長っていうの、私の大学の1年後輩なの、いつでも年中しゃべれる飲み友達でもあったの。だから、「あの時ね、あなたのとこでやったあれ(派遣法)はね、(均等法と)関係があったの?」って聞いたら、「全然なかった」って。それはね、彼はね、私は本当に正直に返事をして欲しいと思って聞いたんだけど、なかったってはっきり言いました。

Q:偶然の皮肉?

まあね。それほど頭が回ってなかったの。あれ(派遣法)は必要だったわけなんだと思うんですよ、ああいう、あっちの方のやつも。で、安定局としては必要だと思ってやったんでしょ。あの時たしか、あれもあった、雇用保険法の改正もあったと思った。雇用保険法の改正でしょ、確かね。保険料率を上げるっていうのあったんですよ。で、それは金に絡むことだからね、とてもね、省全体として。特別会計だけどね、雇用保険の財政がこんなガタガタすると省は嫌なの、とても嫌、それはよく分かるんですよ。だからね、均等法よりも雇用保険法の改正を先へ先へってやった。で、私は、「ふん、金に絡んでるから」って思って、ちょっと半ば腹立たしいの。いや私のとこのやつ(均等法)をもっと早くに上げたいのに、まず雇用保険法の改正、料率をアップするっていうことばっかりね、幹部連中は考えてるじゃないか。まあ女は後回し、なんて思ってる、思ってやがるというように、ひがんでたのかもしれないけど。それだけまあね、確かに財政ピンチっていうのは困るから、それ(雇用保険法の改正)を一生懸命やって、それでそれ通して、次に均等法に行こうぜっていう感じなのね。原案を作って出すのまでは婦人少年局だけども、なんていうか国会対策ってなるともう男の世界だからね。もう婦人少年局なんか「素人が何言うとる」って言われちゃうから。

なんか正面きっての差別っていうのはね、まあ均等法のみならず、いろいろ法律や制度とかで防ぐことができる、まあだいぶなくなったと思います。だけど、そういうんじゃない、だから男女だとその男女差別になるけど、正規と非正規だと、非正規が全部女で正規が全部男ってわけじゃないんだからね。やっぱり正規の中で少しだけは女性もいる、非正規に少し男もいる、というんだから、男女の差別とは言えない。だけど、よく見ればやっぱり圧倒的に非正規に多いのは女性だ、ということは、形を変えた差別であることはよく考えれば分かるはずなんですよ。だから格差そのものを、なくすということはなかなかできないと思いますよね。だけど、その大きな格差か、小さな格差かってことを変えることはできる。それからね、これはまあ具体的に言えば、例えばパートタイマーっていうものの雇用条件っていうのはね、それは変えることはできるんですよ。で、例えばフランスはパートが結構多いんだけども、日本みたいにね、その格差が大きくないのは、なんていうか基本的な条件っていうのはね、何も時間が違うだけなんであって、1時間の単位のあれはね、賃金っていうのは同じにしなきゃいけないじゃないか、同じ仕事ならの話だけど。同じ仕事を同じところでしてるのに、こっちの人は千円だと、こっちの人は5百円だと、それはいかんということは、それは言える、法律で決めることはできる。で、フランスは現にそうやって、パートのあれ(待遇)を良くし、格差を少なくしてる。で、日本はそれまだあんまり手をつけてない。同じ労働時間、同じ時間の中で同じ仕事をしてるのに、格差があるとかないとか、どのぐらいならその限度内だとか、限度を超えてるとか、そういうのはあんまりちゃんとやってない。それを今後やることによって、格差そのものはなくすことはできないまでも、格差を縮めることは可能だろうと思います、そういう努力をしなきゃいけないでしょう。で、それから非正規そのものをやっぱりね、その正規にできるのに非正規に留めておくっていうのもずるいやり方よね。そういうずるさをちゃんと見抜いて、なんで自分は正規になれないのかっていうことが言えるようにしてあげるっていうことも大事だと思いますね。いろいろね、やるべきことがまだ残ってると思います。だから今の法律のままではうまくいかないかもしれないから、それをちゃんとよく考えて、現場のあれ(問題)をよく見て、こういうふうにすればそれをなくすか減らすかできると、考える人が必要だと思います。

(男女共同)参画基本法っていうのは、20世紀の終わりよね、出来たのね。だからあれはやっぱりね、その基本、均等法やなんかの延長線上にあるわけでしょ。で、均等法で書けなかった差別禁止っていうのが禁止条項になったあれが、修正案が通って、その後で(基本法が)出来てますよね。だから均等法の方は雇用の場での、っていうことでもう限界が、範囲が決まっちゃってる。だけど後で出来た方(基本法)は、それを範囲を超えて全部、雇用ばっかりじゃありませんよね、全ての場面で均等にっていうことだから、共同参画。あれはやっぱり女子差別撤廃条約のあれを受け継いでると思う、精神っていうかね。範囲も差別撤廃条約の方は全部ですからね。雇用は4条だか6条だかあるけど、それを含めてもっと広く条約は書いてるわけでしょ。だから共同参画基本法も、その条約の範囲を網羅してる。だから範囲を広く、条約の精神をちゃんと全部をこう取り入れてるっていう点で意味があって、広いものになったことは結構なあれだと思いますよ。で、そのだから均等法も、だんだんに改正を重ねて、元あった限界みたいなのをちゃんと克服してると言えるでしょ、努力義務だったものがみんな禁止規定になってるんだから。だからその点では満足のいくものに、2度の修正でなった。まあプラスアルファとして、あの頃にはなかったセクハラだのね、ついての規定まで出来て、均等法が出来た時はセクハラだなんて言葉もなかったもんね。だからそれはその時代に出てきた問題について、それは法律はあれを考えるっていうのはいいことなんだから、あれ(均等法)には書いてなかったの、そんな余計だなんて思ってません。ちゃんと新しい時代に作られた法律は、その時代に生まれてきた問題をすくい上げるっていうのは正しいと思ってます。

Q:その上に更に(女子差別撤廃)条約のね、到達点みたいな(男女共同参画)基本法ができ・・それは。

それは条約が出来て、それを批准するためには均等法はぜひ必要っていう、まあ必要最小限のもん。必要にして十分な、ではなかったのね。必要にして十分になるためには、共同参画基本法が必要だった。で、今や必要にして十分になってるのかどうか、もうちょっとよく細かく見ないと、まだ不十分かもしれないけど、でもかなりよく満たしたんじゃないですかね。幅が広がったし。

Q:じゃあ参画基本法が出来た時はうれしかったですか?

うれしかったですよ。「白鳥」だもん。

いやまあ、均等法の方はほら、自分が産んだやつだからさ、直接だし。基本法の方はね、また別のルートでこう育ってきてるんだから、ちょっと違いますけどね。でも、日本の女性のためにとっては大変重要なものだと思いますよ。

まだ格差が大きいとやら、いろいろ非正規がね・・それが女性の差別として残ってるって、そらいろいろあります。そんな何もかもね、解決したわけではありませんから、今からまだ頑張っていただきたい。やってる方たちには期待をしたいと思います。時々その方たちともお会いして、一杯飲みながら頑張ってねというような機会もまだありますし。

Q:じゃあ赤松さんの中ではやっぱり参画基本法が出来たところでこう、条約から来る到達点みたいな感じだったんですか?条約から基本法までが赤松さんの中の到達点っていうか。

そうね、ずっとやっぱり一筋の道ですよね。一筋の道、こういうとこから始まった。だから、労働省に入った時からの一筋の道であり、労働省に入るまでの更にもっと子どもの時からの続いている思いっていうのは、やっぱりあんまり変わらないって感じ。

プロフィールプロフィール

家父長制が残る戦前に少女時代を送り、敗戦後、男女平等をうたう。
新憲法のもとで大学を卒業、労働省の女性官僚のパイオニアとして雇用における女性差別をなくそうと尽力し続けた。
1979年に日本政府代表として国連の女子差別撤廃条約の採択に参加、
条約を批准するために必要な、男女雇用機会均等法を立案した。
労働者側と使用者側の狭間で根回しに奔走、苦渋の選択をした舞台裏を語る。

1929年
大阪市に生まれる
1947年
津田塾専門学校英語学科に進学
1950年
東京大学法学部政治学科に入学
1953年
労働省に入省、婦人少年局婦人課に配属される
1963年
婦人少年局婦人労働課長補佐となる
1966年
青杉優子の筆名で住友セメント事件に関する論文を発表
1970年
婦人課長になり、勤労婦人福祉法立案に関わる
1975年
女性で初めて山梨労働基準局長に就任
1979年
国連日本政府代表公使に任命され、
 
女子差別撤廃条約に賛成の投票を行う
1982年
労働省婦人少年局長に就任
 
男女雇用機会均等法の立案にあたる
1983年
労働省の組織改編で、初代婦人局長に就任
1986年
在ウルグアイ特命全権大使に任命される
1989年
文京女子大学の客員教授となる
1993年
細川内閣の文部大臣に就任
2003年
女性として初の旭日大綬章を受章
 
現在、公益財団法人日本ユニセフ協会の会長を務める