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タイトルタイトル: 「兵士を襲う渇きと下痢」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 飯塚 清さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月中旬

チャプター

[1]1 チャプター1 「行き先」は知らなかった  01:26
[2]2 チャプター2 行軍開始  03:16
[3]3 チャプター3 兵士を襲う、渇きと下痢  05:41
[4]4 チャプター4 医薬品がこない  05:08
[5]5 チャプター5 小隊長の死  03:02
[6]6 チャプター6 食料は「現地調達」  02:35
[7]7 チャプター7 戦い続けた兵士たち  04:41
[8]8 チャプター8 戦場の月  05:32
[9]9 チャプター9 反転 そして終戦  03:51
[10]10 チャプター10 今あらためて思う「戦争」  01:25

チャプター

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それはあの、若い兵隊、初年兵だもんでな、初年兵はそういうことは絶対わからないんだよ。おれは荷物を、出発する、戦争に行く層がもらってさ、そんで出発するまではね、どこに行くとかそういうのは全然わからないけどな、それはわからない。初年兵までは全然あれだもの、命令が伝達するわけじゃなくて。分隊長くらいまでじゃない。普通の人はこういった、戦争が始まるぐらいはわかったけんが。それ以上のことはわからないよな。

Q:じゃあどこに行くかとか。

それはわからん。これは全然わからんの、これは。この人はどこに行くのかとか、おれはどこに何をしにいくか、そんなこと全然わかんねえんだよ。ただ言われるままだよな。言われるまま。昔の兵隊ってみんなそうだよな、言われるままに。

大変だというか、しょっている荷物が重いんだよ、重たいんだよ。20キロぐらいあるんだね。20キロぐらいあってさ、それで鉄砲担いでやっているんだよね。それでその、歩くという、歩兵だもんだんで歩くのが目的の兵隊だけんな。戦争の訓練の時に歩く訓練はあまりやらないんだな。地べたはいずる訓練はやっても歩く訓練はやらないだもんで。ほいで戦争に行く前のさ、職業にあるわな、ひとつは。歩く職業。百姓みたいな歩く職業の人、割合そうだけど、やっぱり歩くことはない職業の人が多いんだでな。

それは歩くのはおれね、もともとは百姓でさ、荷物担いで飛び回っていたもんで、それは割合いいけどね。おかげでおれはマメができなかったよ。普通の初年兵とかね、みんなマメ、足の裏が。足の裏にマメができているというわけでしているけど、このぐらいのマメができるんじゃないのね。足の裏が全部なんですよ。そいでそのマメ、水がたまっちゃってさ、こう、皮と肉との間がこう、こんなになっちゃっている。そいで歩けなくなってさ、もう歩けませんって言って、これは転がっちゃって。

転がったらおしまいだわな。しょうがない。衛生兵、病院へ送らないかんのだな。それで「足痛いよ」って言って転がった人たちがね、絶対に起きない。ほんで、まあけり倒してもね、「この小僧」ってけり倒しても絶対起きねえわな。本当に弱った人っていうのはおかしいでね、あの、どこでも転がる。水たまりでもね、どんなところでね、ぴたっと。ちょっと要領のいい、まだ体力が残っているのはね、今度乾いたところで転ぶんだな。そういうのは怒るとね、また立って歩くんだけど。水たまり転がったら絶対おきないな。

見てみると足の裏全部マメで。で、そういう衆を集めちゃさ、それはあんた、毎日毎日出るんだもんね。初年兵ほどすごいものね。それを衛生隊が送ってやって病院に連れて行くんだね。まずほとんど病院に送った衆で、元気になって中隊に戻ってきた人はいないで。たいがい死んじゃっているんだな。

あの、今そんな話をすると笑われるんだけえが、その、一番死んだ原因っていうのが、カショウと下痢だよな、下痢。飲んじゃいかないって言ってね、信陽を出発する時にね、生水を飲むなっていうことを指示されているんだよ、教えられているんだよ。もうこの生水は飲んじゃいけないって教えられているけんね。水筒の水がなくなっちゃうもんだで、水がなくなるとね、夜な、ほんで水のその、あるところにいくとね、その水をくんじゃうんだよ。田んぼの水だろうが、よしの生えている、クリークのお水だろうがな。その水をくんで飲むと下痢になっちゃうんだ。下痢になるというのはアメーバ赤痢で、あの時はアメーバ赤痢といってね、3、4日経っても、鼻(水)みたいな便が出てくる。そうなってくるとやっぱりだめだな。

そんでその、アメーバ赤痢なんかにしているとさ、すぐ出たくなるよな、下痢になると。もう5分もすればそうだよな。もう5分もすると痛くなるでな。くそをするといっても、休憩と休憩の1時間、45分歩いて15分休憩する、そんで15分の間にくそしてついて行って、また次の15分にするという、こういう人はいいが。途中で出たくなった人はだめだ、この人は置いて行かれっちゃう。その人は置いて行かれて、病院送りで死んじゃうんだろうな。小便だってあれだよ、みんなと一緒に小便だってみんないっぺんに、小便なんて列を離れてから小便していれば追いついていけないよ。ほんで小便だって列でさ、歩きながらするで。前の人にかかるぐらいに小便して歩いていたね。

その間に初年兵はあんた、食べ物ないもので米を盗みに行かなければならん、鶏を捕まえなければならん、豚を殺さなならんでしょう。ほいで自分の食料調達してきてさ、ほいで豚料理して、鶏をご飯と料理してさ、ほいで昼飯を作って、夕食の支度をしてあげてさ。寝る暇ないんだよな、初年兵は。古兵はな、つくと一緒にグルグル、グルグルだまされてね、昼飯食ってまた寝ちゃうもんでさ。ほいでその、初年兵は寝る暇ないもんだで、睡眠不足もあるでな。

仲間にしてもほとんど下痢と靴ずれだよな。どの兵もそうでね、鉄砲に当たって死んだやつはいないぞ、そんな一人も。まず古い衆はね、弾に当たって死んだ人もいるだもんで、初年兵の衆で弾に当たって死んだのはいない。みんな病気だな。まずみんな病気だよ。弾に当たった人はまず1人か2人ぐらい。

おれなんかね、初年兵のおれもね、一緒にあの、横に寝てたのでね、おなかが壊れやすいのがいたけれど。そうはいってもあの、下痢になっちゃってね、おれんとこにね、歩きがてら、「飯塚、死にたいよ、死にたいよ」って、「やはり死ぬにはどうしたらええ」って来るんだよ、おれのところへ。「死ぬにはどうするっていったって、馬鹿なことは言うなよ」って。みんな「死にたい、死にたい」だわな。生きていたい人はいないのね、初年兵に。死にたいよ、死にたいよって。それはね、みんな22ぐらいだよな、仲間がな。その衆がね、死にたいよ、死にたいよ、楽に死にたいな、早く死にたいなって。ほかに思うことは何もない。死にたいだけだから。できたら弾に当たって死んでさ、軍神だなんて言われての、家族に金がもらえりゃそれは親孝行やな。死にたいよ、死にたいよ、いくらでもそう思っているんだからな。おれは幸いそういうこと、弾にも当たらず帰ったけんな。みんなそうだったよな。

Q:なんでそこまで追い込まれていったんですか?

そんな、もうえらくてえらくてな、おれは話にならんだで。本当なら22,23だろうが一番ね、活力があって一番元気でさ、ねえ、飛び回れるあれだけどね。夜寝られないもんで。寝る時間がない。それだもんだで、歩いていけないでしょう、歩きがてら寝ちゃっている、みんな。もうそれが毎日でな。

もう茶陵の攻撃はね、茶陵へね、僕の中隊あたり、信陽を出る時220人ぐらいいたのかな、220人、そいでね、茶陵をね、攻落した時分にはね、終点は35人ぐらいだっけよ。信陽出る時に1個分隊14人ぐらいいたんだよな、13人から14人ぐらいいたんだよな。それがあれだもん、茶陵の攻撃時分には1個分隊3人ぐらいだったもん。分隊長以下2人くらい。

Q:何でそんなに少なくなったんですか?

結局入院したりさ、亡くなったりして。まあ多くは入院だよな。

将校はまたやっぱし負傷しても、普通の兵隊が負傷したってさ、豚の子みたいなものでさ。土間にわらを敷いてさ、敷いてごろごろ寝ているようなものだから。将校になるとやっぱり特別なもんだよね、将校の人が入るような部屋に入れてさ。おれはその時にあの、日が暮れちゃったもんでね、その病院へ1日泊まったべ。野戦病院といって、何野戦病院だっけ、病院に泊まったぜ。そんで、ううん…その時は何ともないけんね。朝、あの、起きて、まだ寝てる、宿舎の裏がね、えらい大きなクリークでね、それこそ、ううん、50mぐらいあるかなと思うよな、そういうクリークでさ、泥水だよな、これはまた。びびってね、それにね、ころころこう何か転がっているじゃん。何だなと思ってこうよく見たらな、兵隊で、兵隊のその、「死に水」っていうのかな、そいでたまらなく水をほしがるんだな、人間は死ぬ時に。お水をくれ、お水をくれと言うんだ。見たらまあヒガタのムツゴロウみたいなものだ。その泥水の中に頭を突っ込んでこんなになっちゃった。死んでいるから。ほいで5、6人死んでいたのかな。

そいで日が当たってきたら、衛生兵の、何て言ってるかと思って聞いてみたら、「いやあ、今日も、だいぶ転がっているぜ」なんて言ってね。衛生兵も「かわいそうだな」とも言わんわな。「だいぶ転がってるぜ」と言ってきて、担架持ってきてさ、下げてさ。そしてあの後焼けないもので、どうするのか知らないけど、手でも取るか指を取るのかね。僕はそういうことをやったことないもんだから。取ってね、あとは大きな、4坪くらいの穴を掘ってさ、それを持って行ってクルクルクルクル捨てちゃうでな。それとその穴がいっぱいになったりするわけだな。あの、おれはいやだなと思って、その時に初めて、いやあ、これは他人ごとじゃないな、今に自分もこの衆の仲間に入るかなと思ったけ、おれは。

それもね、そういう情景を見てもね、その、毎日それを見ているとな、何ともなくなっちゃうんだよな。何ともない、何ともない。かわいそうだとも思わないし、何ともないんだよ。それでも、だって戦争、ここやけんな。これをね、毎日見ているんだもんね。

とにかく、その、薬がないものだでさ、後方からね、全然来ないの、薬が。薬も来ない、包帯も全然来ないんだ。

9月の末に給与するまで全然ないけんな、補給が。空っぽだけえ。ほだで、手のつけようがないでよ。負傷した人がどかどかどか、腹痛い人がどうだとかって言ったって何もないからね。本当にね、同情もなんもないでな。かわいそうだとも、思いもせんし。

小隊長なんかやっぱし、おれ、小隊長にそんなところで死んじゃうんじゃないかなって思ってた、だって小隊長、窓から飛び出してさ、手りゅう弾を持って敵へバンバン撃っているな、腹をぶち抜かれてさ、それでケンジョウさん連れてきて、あの、したけんな。ほいで、ううん、おれは薬が何もないもんだでさ、ここから食べたものが出ちゃってるわ。包帯がないもので、三角巾で縛って、「飯塚、ここに拳銃があるで、拳銃に弾が入っているでな、これでおれを撃て」と。そんなことできるわけない、しっかりしてくれよと。「痛み止め撃ってくれよ」と言われても痛み止めないもんね。そんでカンフル注射して、そしてたまらんで。「飯塚、とても助からんだでね。軍刀がある。軍刀でおれの首を切ってくれ、切ってくれ」と言われて、「小隊長、とてもできるわけないでよ、何とかして頑張ってくれ」と言って、でも食べたものがだらだらと出てきちゃうしさ。それでも1時間半ぐらい生きてたな。

最後にね、あの、ケンジョウとおれに、「2人でおれを東の方角を向かせて」と。それで2人で抱いて、こっちが東の方と。そうしたら、たたき出してさ。第一番に、中隊長の名前を言ったけな。「中隊長、大事な部下を預かって。損傷をして申し訳ありません」と言って、中隊長に謝ってね、それからまたお母さんの名前を、「お母さん、お母さん、この、こんな奥地まで来てね、このツトムはね、ここで死ぬよ」と、「長らく世話になりました、ありがとうございました」ってね、それこそ涙を出して言ってさ、その後大きな声で「天皇陛下万歳!」を言って、絶叫して死んでいったね。その時は本当に、うん、ああ、何とかしてなあ、薬もあれば、医者もいればね、この人助かるわと思っでね。

信陽を出発する時に、「食料は現地で調達をしなさい」っていう命令だもんだで、そだけん軍隊はそれをその、格好のいい徴発という、徴発をして、やってきなさいということになってきたけんな。徴発というとお金を払ってさ、集めてくると、徴発、徴発になったけんが。かっぱらってくるということに。かっぱらってくるっちゅうのは出発する時の命令だもんでさ。ずっとそればっかだぜ。1年半。それを休みゃ自分たちは食えないんだで。ほんだで、あの、出発は、行軍をしていくだろう、晩方になると「今日徴発」という命令だろう、そいで宿舎にはいると、工兵でも何でも、先だって、荷物をほかしといてさ、部落の中に飛び込んで早い者勝ち。襲う気はないんだよ。

それで早い者勝ちって言ってさ、米を探す人、鶏を捕まえる人、それから豚を殺す人ってやっているわけだ。ほんでまず夜盗っていうかの、徴発なんてたまたま名分掲げたけんが、名分いいがそうじゃない、日本の軍隊は夜盗だったよな。鶏なんて捕まえたら首きゅっとひねくってさ、頭ぽいっとやっちゃう。いつだか捕まえちゃってひねっちゃった。それで首がないものを拾って集めてきて、それで皮、びりびりにむいてさ、やるっていう。まるで昔の夜盗のようなもんでな。それを毎日繰り返す。それは自分たちが生きるために、やらなきゃ損だけでの。誰のためでもなく、自分らのためだけ。

Q:柳州着いて少しほっとしたとかそういうことはあったんですか?

ないない。柳州はね、僕らが入ったときはまだあれだよ。あそこにその、柳州の市民が住んでいてたのが見えてさ、町の中に入ってね、掃討作戦をやるよな。まだクラブみたいなの、「音楽堂」だかな、中国語でクラブを。そうしたら飲みかけのビールとかウィスキーとかあったけど。それで、そこを通り抜けていったらね、汽車がさ、逃げてくる、飛行場のところ、汽車が。そうしたらその煙を出している汽車ね、人で真っ黒でね。屋根から何から逃げて行く逃げて行く。そんでね、まだ柳州に入ったばかりだけどね、逃げ遅れた人が汽車に乗って逃げていくだろう。おれは汽車なんか見えやせんだ。人で。屋根からありに虫がたかったみたいになっている。そういう汽車なんだ。

それで柳州の攻略終わってか、終わってあの、柳州、柳州を出てね、宜山、シオンなんていう方を向いていくだけが、南の方を歩いていたらな、そのみんなの、兵隊がね、あの、昼間のほれ、来ないから。ほんでやせこけちゃってさ、人によっちゃあ中国の兵隊の服を着ちゃってるんだね。それでぞろぞろ並んでいたら、だもんで北柳州にいた連中が間違えたからな。大砲で部落を撃ってこいってさ。その時速射砲って言ったけんな。速射砲が陣地に出てた、無数に撃ってこられてみんなびっくりして逃げたことあったけんね。ずいぶんこう、かわった、無謀なことも時々あったでな。

そしてほとんど鉄道線路、この人も知っている鉄道線路、国道と鉄道線路を重点でこう行っているのね、進んでいっているので、ほんで地雷を枕木の下にこう持ってきました。それでかなり死んだね。夜歩くな、枕木みたいなのはわからないもので、しまいには「線路の外を歩け、線路の中を歩くな」とわめきだしてね。ずいぶん行軍でも苦労しているよね。

Q:あの、行軍中その、線路沿いだったんですか?

そうだよ、ほとんど線路沿いで。結局、初めて日本の人が行くだもんでさ、地図があったかないか知らないよ。だけどその、線路たどっていけば大きな駅が必ずあるもんだでな。ほんで線路づたいに行ったでな、おれ等は後から着いているからわからんけんが、ほとんど線路づたいだったよ。

それから黎明関攻略が始まるんだな。それは本堂に行かずに黎明関に行く細い道を、本道行けば茘波に着いた。それをこっちの細い道に入って茘波攻略をやって、何でやったかおれはわからんけんね。細い道。それで黎明関を結局落とすのに、日またうっちゃったもんだで、あんなせんまいところへ部隊がまずすし詰めになっちゃってさ。そんで食料なくなっちゃうから。みんなあんた、徴発してきた砂糖をなめてきちゃ水を飲んでいたよな。それで下痢になる人がいて。中隊長あたりもやっぱりないもんだで、砂糖なめくっちゃ下痢になって死んじゃったけんがな。

あの、下痢をしている人はやっぱそれで、後ろに下がったけどね、その時に何か見えたけどね、月夜だっけかな。

月夜、20日ぐらいの月じゃないかなあ、月夜だったよ。12月のね、20日かだったけな、月夜だったよ。

それであの、結局困った問題だな、わけのわからんね、連れて行けなんたってどこの兵隊がと思って行ったらば、ぞろぞろスコップをこう担いでさ、馬を引っ張った人もくるじゃない。兵隊のような兵隊じゃないような、ずっと見たら日本の兵隊だ、衛生隊じゃなかった。その人がスコップかついでな。馬を引っ張っていた、首輪。

一つの馬のしっぽにくっついている人が10人ぐらいいるんだぜ。ほんでみんながあんた夢遊病者みたいなもので、フラフラフラフラ、前に行くでもない、後ろに行くでもない、歩くでもない。こんなとこにこりゃ死ぬと。

何の目的で行ったかという一つの疑問もあるわな、それは。じゃけんがその、戦争しているその当時はね、何も、何も思うことはない、正直。何とかして生きて帰りたいなとも思わないし。ああ、ふてくされたようなものだな。

何をしに来たって思った。何の目的でこんなところまで。最初にね、みんな兵隊の間のこのうわさっていうかな、兵隊間の衆のうわさじゃ、貴州省の貴陽まで行くっていうことを言うてるな。貴陽っていうと岩山からかなりありますね。しまいには、中には重慶まで行くという人もあるしさ。兵隊には行き先なんて全くわからなくてね。ただ上官がさ、行けっち言うもんだで、ほんだで、中隊長ぐらいの下級将校じゃ、全然戦争目的わからんけえの、大隊長ぐらいしかわからんけんな。ただ言われるままに、ちいっと偉くなると、どこそこの一番のりをしたとなると、大隊長にほれ、ほめられるとたまらん嬉しいけどな。兵隊はたまらんけどその衆はうれしいっていうのはわかるけどもな、何でも。

おれはその、作戦のはじめのころに、場所はわからんだけんが、国道みたいなところをずっと行くというとね、国道の中国の衆だけが、まずね、100mに1人ぐらい死んでいたんだぜ。それが骨と皮ばかりになっちゃった人、死んだばかりの人、それから3日も経つというと膨らんじゃってさ、ガスがたまっちゃって、鼻と口と目にウジがたまっちゃって臭いっていう、そういうね、死んだ人が100mに1人ぐらいいる。それを見たって別に嫌だなとも思わないし、ただ臭いというだけ、鼻について。同情するとか戦争は嫌だななんて出てこないんだよな。そんで戦争の時の人間の心理と平和な時の人間の心理っていうのはまるで違うだよね。

ほんだで、僕がいつも思うことはね、今その、戦争の悲惨さを後世に伝えるために戦争体験を書いてもらいましょうとかってね、言うでしょう。したってね、今の衆がそれを読んだってね、ただひとつの小説を読むようなもんだでね。別にひとつの小説っていうのはひとつのロマンがあって、この、主人公というのは小説には必ずあるわな。ドラマにない、主人公なので。ほんで小説は主人公があってするもんだで、読んでいて、だんだんその自分の心理が主人公みたいになって引き込まれていって、涙も出てくるし笑いも出てくるけど。戦争体験っていうのは主人公はいないんだわな、何も。ただその、話を聞いてみるだけ、読んでみるだけになっちゃって、こんなこともあったねということだけだ。

反転の目的はね、その当時はあの、若干古い衆のね、話を聞いたりしたもんだでわかったけど、何だか満州へソ連軍とか、攻めてくるので、ソ満国境へ34(連隊)は行くだとかで、そういう話を聞いているからさ。そいでそのソ連の大型戦車だが、来るで、そいでその、中隊でね、5、6人、戦車攻撃の特攻兵っていうのがさ、選ばれていたんだけど。そして、戦車に爆弾を落とすと。一間半ぐらいあるかな、竹の棒の裏に爆弾が付けてあってさ。それを持っていって、こう、戦車のキャタピラか何かカタンとやって、はねて戦車をつぶしちゃうという、演習するんだね。その時5人ぐらいかな、あの、中隊で選ばれてな。衛生兵のおれまで引っ張りだして。

Q:そういう訓練をして。

そう、一週間ぐらい行ったっけなあ。それであの、一回ね、こう、こさえたんだよね。籐、籐を集めてきて、戦車、それ飛んでっちゃってバンと。おれは質問した、その時に。こうなるとね、もう、バンとはじけとってね、地べたはえと言うんだよ。チャンとはじけて、地べたはえって。それでね、「ここら辺に這(は)ったら死なないのか」と言ったら「這ったら死ぬ」と言うて。それならはわん方がいいんじゃないかとそういう訓練をやって、そうしたら反転命令が出て、あれだよね。

Q:反転命令を聞いた時にどういうお気持ちですか?

これはソ満国境は危ないから反転せよと言われたもので、これはまた歩いて帰るだがやと言う衆もおるわけで。別に命令だもんだで、兵隊なんだよな、命令出たら行かないかん、別に何も不審に思う必要もないしさ。いいあんばいに途中で終戦になったので。

Q:終戦って言うのは8月15日の、それは知らずに歩き続けたんですか?

途中で終戦になったって言ってくれたんですね、わたしたちに。あまり兵隊に言わないからな。だからその、行軍がね、何月何日までにほれ、どこそこに集結するという命令だから、ほんだで強行軍だよ。弱い衆をうっちゃってくる(ほうってくる)。ああ自分さえよければええがな、あれ、あの。それでその、もう間ものすごいけえの。

Q:その、脱落した人はどうなったんですか?

しかしわからんでな、帰ってこんけん。おれが知っとるのはこの近所にあるだけんね。名前を言われはしないだけで、やっぱりおれのところも問題だしね、逃げちゃってさ、探されない。探したけれどいない、部隊、行っちゃうんだよ。逃げたい人は逃げるわで。

この戦争は一体何であったか。若い、若干22歳ぐらいの若者が戦場に行ってね、ひたすらに国の勝機を信じ、ひたすらに国の平和を念じて、そうして敵の弾に当たり、ある者はそこで病気になって死んで、「天皇陛下のおんためだ」と死んだけえが。果たしてこの死んだ者の死は、天皇陛下のためになっただか、あるいは国のためになっただか。この戦争は一体なんだっけなと言うと、今改めて考えてみるとね、これ死んだ者の死が惜しまれるのと同時に、今あなたと別れることと同じように、やはり寂しいですよということをね、結びに必ず書いておれは賞状を読むんだよ。ほんでね、この戦争は何であったかということ、おれはわからない。わたしらの戦争は一体何であったかと言うことね。ことをやっぱし一つの基本として持っているよな。

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
静岡県金谷町に生まれる
1943年
歩兵第34連隊入隊
1944年
湘桂作戦に参加
1945年
終戦
1947年
復員後は、茶農家を営む

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中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)

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