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タイトルタイトル: 「小銃も持たない補充兵」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 勝又 馨さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月27日

チャプター

[1]1 チャプター1 壮大な作戦に驚いた  04:28
[2]2 チャプター2 ショックを受けた補充兵の姿   04:26
[3]3 チャプター3 目標達成  06:18
[4]4 チャプター4 追撃命令  09:04
[5]5 チャプター5 反転命令  03:25
[6]6 チャプター6 戦後60年余、いまも戦死者を思う  04:14
[7]7 チャプター7 ひたすら歩き続けた打通作戦  03:15

チャプター

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出発するときに、北支から、われわれは京漢線の信陽というところにいたんですけど、わたしはさっき言った、教育に南京に行っているあいだに北支から来ているんです。打通して。北支が着いたら、さて、これから南だということですから、打通作戦ということはわかっていましたね。

わたしが湘桂作戦で出るときには、もう小隊長で行きましたから、そのときは軍から来たか、どこから来たか、連隊の命令で、大隊長からの話でわかった。これは、もう打通作戦をするということは。

ただ、うんと詳しく言うと、わたしは、その前の常徳作戦のときに、やっぱり連隊本部にいたんですよ。そのとき、イワヤという副官がいまして、常徳作戦が終って、わたしが自分の12中隊へ帰るときに、「勝又さん、次はすごい大きな作戦になる」と。これは、いままで作戦をして、信陽へ戻ってきたんですが、「今度は、信陽へ戻ってこないよ」と。そういう作戦があると。そうですかと。信陽へはもう来られないんですかと言ったら、「そういう作戦なんだ」と。陸軍の上層部に信頼を受けうる証明だと。イワヤという副官は、わたしと別れるときにそういうことを言いましたね。

陸軍の大きな作戦をすることを聞いていると。これは副官だから、師団司令部から聞いていると思うんですよ。この作戦で、連隊はここへは戻ってこないと。そういう大きな作戦だよということを、そのとき聞いていたんです。

だから、さっき言ったように、そのときわたしは教育が終って部隊へ帰ったらすぐ、朝、漢口から来て、信陽へ着いたら、その夕方、夜行でもってまた漢口へ戻ってきて、それでじき作戦ですから。

Q:その大陸打通作戦を聞いたとき、どう思いましたか。

とにかく、ちょっと大き過ぎて。わたしはそのとき小隊長ですからね。これで、この命はなくなるということは思っていましたね。

Q:命がなくなるというのは。

もう戦死するだろうということは。小隊長というのは、とにかくいちばん最初に斬(き)り込んでいくんですから、もう、これはいちばん目標になるんですよ。

Q:かなりたいへんな作戦になるのではないかという。

そりゃあ、もう。下手をしたら、陸軍というのもなくなるかもしれない、いちかばちかだなと思ったんですね。

ひどくショックを受けたのは、補充にした兵隊のなかに、小銃を持っているのがね。1個分隊というと、だいたい15、6人いるんですけど、2丁ぐらいしかないんですよ。それから、みなさん、飯盒(はんごう)とか水筒でも、兵隊の水筒を見ているでしょう、あれが竹の筒ですよ。それから、弁当は飯盒って、それで火で炊いて、ごはんも炊けるようになっている、それが飯盒だった。それが竹で編んだような弁当箱で、これを見たときに、えらくショックを受けましたね。

それで、帯剣だって、タイカクみたいに帯びている剣というのも、2人か3人に1人ですよ。そのときにもショックを受けた。

その次は、さっき言いましたように、忻城で反転作戦というので前へ出ているんですが、そして、敵を払ったあとで、ずっと引くわけです。このときに、初めて補給があったんです、軍というか、師団から。

師団に行って、戻ってきて、連隊を見にきたから、これを各大隊に分けるというので、持ってきたのが、靴下なんていうものは白い靴下、ご存じかどうか知らないけれども、兵隊さんのやっているのは、この色。これが抜けているんです、かかとが。わたしたちも、抜けてしまっているんですよ。だから、痛くてしようがないわけですわ。今度は補給になるぞと喜んだら、いちばん上に新しいの、いちばん下に新しいの、真ん中は全部、ここが抜けているんです。われわれのと同じものが入っているわけです。途中で抜かれているんですよ。途中の兵隊が、みんな抜いているんですよ。

それを見てね、負けたと思ったんです。だから、情報は入りませんけど、それを見て、がっくりした。

昔は、わたしたちが行った時分には、第一線にはどんなことがあっても、いいものを届けようと。わたしたちが昭和15年の暮れに召集なって、向こうへ行ったときには、第一線へはいいものをやれと、そういうものが頭にずっと焼き付いているんですよ。

それが、さっき言ったように、靴なんてぼろぼろになっているのに、靴下なんかも、いま言ったとおり。

それから、こんなタルが来るんです。しょうゆタルが来たと、兵隊はみんなで喜ぶ。喜んでいて、出すと、蛇口みたいになっていて、栓から出てきますわな。白いんですよ、水なんですわ。いや、関西は関東と、しょうゆの色が違うんだって、これは白いしょうゆだと、みんな、思うようにしていたんだけど、そのうち中から出てきたのは岩塩です。要するに、中国では、奥のほうに行くと、岩塩を使っているんですよ。海の近くと違って。岩塩というのは、あそこは砂みたいになっているでしょう、それがぼろ ぼろっと出てくるんですよ。

わたしたちは柳州を攻撃というと、柳州の飛行場とか、そういうところも含めて攻撃するということを聞いていますからね。飛行場は別で、柳州も南柳州と川の対岸の柳州とがありますから、南柳州のほうはどちらかというと軍事基地が多い。わたしたちが取ったときには、アメリカの兵隊がいたと思うんだけれども、喫茶店がありまして、温かいコーヒーを何杯も置いてあったんですよ。でも、もちろん誰もいないですけどね。

Q:じゃあ、この作戦において、柳州を攻撃するのが1つの目標でしたよね。

はい。

Q:柳州を攻撃されたとき、占領したとき、どういうお気持ちでしたか。

柳州を取ったときにはね。柳州というところは、実は連隊長がその前に、実際は結核だったんです。わたしが柳州の手前で、軍医から「ちょっと連隊長がたいへんになっちゃったから、お前がおぶって、あのうちで休んでいってくれ」ということで、わたしは夕方、連隊長を背負って、ある民家へ休みに入ったんですよ。連隊長はこんなに軽かったのかなと思うぐらい軽く感じましたね。それは、あとで聞いたら、結核だったそうです。

そのとき、連隊長が病気だということは誰にも言っちゃいかんぞというのは、軍医と一緒に言いまして、第一線に言ったらもちろん。わたしは、2大隊とか1大隊とか、大隊に連絡を入れていたものですから、「そんなことは言うな」というので、それは承知していますということで、連隊長の病気は言いませんでした。

その晩、柳州の攻略は。柳州といっても、南柳州は町の手前にずっと壕(ごう)がありまして、その壕を通り越したところが、よく南画に出てくる、ぼこぼこの山ですよ。そこのところに2個中隊を展開して、2大隊攻撃の真っ最中で。ところが、攻撃をする途中で火薬が爆発したんです。明け方ですけど、ものすごい爆音というか、爆炎が上った。これは、どうも敵が火薬庫に火を点けたらしい。

Q:柳州はそうやって、非常にたいへんな戦いだったと思うんですけれども、それを何とか取ったというときは、気持ちとしてはかなりうれしかったわけですか。

ええ、それはもう。一段落というとおかしいけど、ああ一役目がついたなと、そういう気はありましたね。

いま言ったように、柳州というのは飛行場がありますし、大きな町ですからね。ここから先というのは、わたしたちはわからなかった。そのときには、副官も別におられて、僕 は素人、連隊本部にいて、あちこちへ連絡に行くほうですから、連隊の動向は直接聞くわけではなかったけれども、副官がいますから、ちゃんと連絡、話を。

Q:うれしかったというのは、やっぱり、作戦が一段落ついた、終ったということで。

終ったのではないんですね。そこで1つの役目がすんだというだけなんです。おそらく、まだまだ南寧へ行く道は遠いですからね。そっちへ行くまでには、さて、次の段 階では、どこが目標だということですよね。

Q:では、本部としては、やれやれというか、どういうお気持ちだったんですか。

やれやれというより、ああ取った、次はどうするんだというのが心配だったですね。なかなか次の指示がなかったんですよ、そのときは。

Q:その次で、追撃命令が出ました。それを聞いたときは、どう思われましたか。

もう、当時の日本の兵隊、われわれは1つ取ったら、次に進む、前に進むというのが常道だったですから、ようやく次の命令が出たというような気持ちで進むんですよね。だから、一段落して安心で、ああまた行くんだという気持ちではないんです。

いや、そこは思いましたね。その当時のわれわれと言ったほうがいいと思うんですけど、こっちへ行く予定だと頭で思っていても、こっちへ行けと言われたら、何の疑いもなく、みんな頭をそろえて、そっちへ行ったものですね。だから、最初は、そりゃあ、何だ、こっちへ行くというから行っているのにこっちだと、それはみんな思いますよ。思うけれども、よし、じゃあ、そっちへ行こうという気持ちには、一緒になってしまいますね。それで、獨山へ行こうと。

Q:最初に獨山と聞いたときには、率直にどう思われましたか。

これは、ようやく目標ができたと。それまでは南寧へ行くと、半日か1日ぐらい歩いていて、また戻ってきたことがある。それから、今度は獨山に行く前に、さっき言った13師団の兵隊と競合して、われわれがあとになっちゃったわけ。ちっとも動かないんですわ。そのときに、わたしは中隊長に出されるということを副官と連隊長が話しているのを聞いているんです。耳に入っちゃうんだ。「勝又を中隊長に出そう」と。よし、中隊長にいよいよ出るなと思った。だけど、いつまでたっても命令が出ない。

そのうちに、命令が出ないまま、新しい獨山への道を、敵機の激しいなかをわざわざ戻っていって、それから魏山から飛ばして向こうへ行っているんですよ。そのときは、この道でよし、これで行くんだなと。6連隊が行くなら、そっちに負けないようにして行こうというような、そんなところですね。

不安というのは持たなかったですね。不安ということは、まったくなかったです。それは、あの中隊はとても戦闘能力がないぐらいやられているなということ、それはわかりますよ。だから、それには、まだ3大隊がうしろのほうにいると。1大隊もまだ元気だと。2大隊がいちばんひどくやられた。それで、2大隊のタケシタさんという大隊長が非常に勇敢な方で、とにかく連隊長の信任も厚かったし、連隊長の命令だと、タケシタさんはがむしゃらに行きましたね。

Q:しかし、獨山に向かうためには、険しい山道があります。はたして越えられるんだろうかとは思いませんでしたか。

そこは、みなさんもわたしもそうですけど、全然わからないです。行ってみなきゃ。それで、これはあとでわかったんですけど、獨山へ行く道の旧道、そうしたら、その道は60何年、要するにイギリスが香港を攻略して、初めて外国の兵隊がこの道を通ったという、その道をいま、われわれが60年か70年あとに通る。

さっき言ったみたいに、こけむすというより、もっとひどい、ぼろぼろの道を行くんです。下のほうは、ずっと谷ですよ。こっちは、ご承知のように、南画に出てくる、とがった、針の山でしょう。その横が道ですから、行ってみなきゃわからない。そこまでは、棒で描いてあるんです地図が。地図なんてお粗末ですから、全然地図らしい地図ではない。棒があるから、それが道だろうという。そこに部落の名前があるから、ここらは部落だと、そういうところですから、険しいと思わなかったんです。

それで、途中で新しい道ができていたんですよ。そこのところに敵が陣地を敷いていて、わたしたちは知らなくて、こっちの古い道ばかりを行っていた。ここのところに敵が大勢いたの。こっちを回ったというので、敵が逃げていった。
同じ道が、この道を行かなければならないとなると、後続部隊や馬部隊は荷物をしょっていきますから、人間の重さの何倍にもなるから、さっき言ったように、すとんと落ちる馬が出てくるわけです。ここが行けるのかと思いながら行きましたね。

それから、もう1つは、道というのは右に折れたり、左に折れたり、敵がどこにいるかわからないです。敵が現れるであろう、1本道ですから、角を回るというところに照準をつけておけば、機関銃1つがあったら、いくらでもやれるから。

ところが、そこに行って、みんな戻るんですよ。危ないから、戻りますわね。あそこに敵がいるというので、例えば迫撃砲でいけば、敵のところへ落ちるんだけど、日本の迫撃砲だとか、そういったのはとにかくうしろのほうにいて、前に出てきていないですからね。そのために、しようがなくて夜まで待って、夜、しのび寄って突き刺すとか、突撃するとか、そういうことでもしていかなければ、昼間はとても行けないです。まともに狙われるから。

右へ行きましょうかといったときに、連隊長は「軍はこの道路を行けと希望しているんだ、行くようにと言っている。だから、連隊はこの道を行く」と、こういう人だったですからね。

それは、いま言ったように、横の道があるときは、そういうこともできる。行ってみて、この道はとにかくないんですよ、ほかに。普通だったら、山に登っていって、だっと行くでしょう。山が全部、針ですわ、とがっている。ご存じかどうかわかりませんけど、ハンカンを5月に出てきた。そうして、靴下も靴も着たきりスズメの、何の補給もないですからね。しようがなくて、中国の人たちの衣服を自分の背中の破けたところに。だから、うかうかすると、日本の兵隊だか、あれ土民がいるんじゃないかというぐらい、背中に土着の人たちの衣服を着たんです。  靴なんていうのも、編上靴というので、半年以上歩いていると、とがった山なんかに登れないですよ。半分、靴下で歩いているような。ここのところで、中国の、布を厚くした靴を下に履いて、ひもで巻いたりして歩いていったりする連中もいたんですがね。

反転の目的は、要するに、一応南方との連絡がついて、一段落したと。要するに、これで一段落したので反転するというふうに思っていました。

それから、さきほど言いましたように、もとにいたところには戻らないということを一応聞いているので、果たして、これはどこへ戻るかということは、極端に言うと、わたしもほんとうにわからなかったですね。途中で、ひょっとすると内地のほうに戻る、日本本土の防衛に行くのではないかというようなことを言う人もいたんです。それは、ほんとうのうわさですから。そういうことは聞きましたね。

Q:じゃあ、連隊長から指示、目的は受けなかった。

全然そういうことはなかったですね。連隊長は、もちろん、そんなことを知らなかったと思いますね。

Q:反転の目的をですか。

ええ。反転の目的に関しては、一段落したから。もとのところには戻らないけど。ただ、途中からうわさになったのは、うちの日本軍が初めて知ったときに、杭州湾敵前上陸って、あそこをいよいよ敵がアメリカ船に送るかもしれない。だから、一応上海も北京も、海岸防備に行くと。そして、もし敵が来なかったら、朝鮮部を通って内地の防衛に行くというようなことがだいぶん、ほんとうらしく言われたんですよ。そういうことは連隊長からは聞きませんが。

Q:じゃあ、連隊長は一切把握をしていなかったということなんですか。

いや、連隊長はどの程度知っていたか、それはわかりませんけど、連隊長も「今度はここまで行くよ」というようなことは言わなかったですから、もちろん、こうこうと、経路はわかります。だけど、それが、どういう目的で行くかということは、連隊長もよくわからなかったと思いますね。

それは、軍の上層部がどういうふうな気持ちでやったのか、おそらく、さっき言いましたように、杭州湾敵前上陸というのがあるから、あそこへ行けと言ったのか、内地に戻れと言ったのか、おそらく、どちらもわからないところです。

いま、わたしが思うのは、この作戦がほんとうに日本のためになったのか、あるいは一時言った、東洋平和のということになったのかということについては、極端なことを言うと、おれたちは中国では負けていないよと。南方のほうの、アメリカには負けた、しようがないというようなことを言う者もあるし、そういう考えも確かにあります。

だけど、じゃあ中国に勝ったからといって、どうなったかというと。中国をやっつけたからと、いま、どうなるのかと。あまり意味がないような気もしますね、確かに。

ただ、わたしがいまいちばん、戦争のことをあまり思いたくないのは、そこで死んだ連中なんですよ。わたしはいま、87歳になったんですけど、わたしたちはちょうど15年兵といって、11年兵とか12年兵から19年兵ぐらいまでの、ちょうど中間なんですわ。このところを中心にして、若いの、兄貴というのは亡くなっているでしょう。そうすると、あの戦争でこれだけの人間が死んじゃったと。いま思うと、はっきり言うと、戦死したほうがよかったという思いもあるんですよ。

なぜかというと、やっぱり、この年まで生きてきて、この先の世の中を見ていて、いろいろ考えますと、はたして、これはおれたちが若いときに持っていた、戦争に行ったときの理想的な国になっているのかということを思うとね。そして、それが亡くなった彼らに少しでも「ご苦労だったな」と言って感謝の気持ちが。もうちょっといい国になっていたらというような気があるんですよ。

実は、わたしはおやじの代からのキリスト教なんです。終戦後、帰ってきて、1回も教会へ行かないんですよ。なぜ行かないかというと、わたしは死んだ連中が靖国神社、あるいは静岡の護国神社、あそこに祭られているので、それらのことを思うとね。靖国神社へ行くのは反対だという教会の連中が言う、それは言ってもいいけれども、もうちょっと思慮のある言い方がないのかと。靖国神社へ行くな、あれは無駄な戦争をしたと、無駄な戦争にしたのじゃ、こっちはたまらないし、いま生きている者として、当時彼らと一緒に飯を食った、それがいま生きている者として、お前たち、無駄に飯を食っていた、無駄なことをしたと言うのには、とてもしのびないですよね。

当時の日本のいろいろなことを考えると、海上輸送が全然できなくなっちゃって、それで、陸で南方とつなげないかんということになると、やっぱり、あれはやらなきゃいかん、やらなければ、南方に行った連中がそのまま逝っちまうと、そういう気がありましたね。だから、おれたちは、そのかけ橋になるんだという気持ちがありましたからね。

行くときの気持ちは、これはえらい作戦だなと思うけど、入ってしまうと、とにかく一応それをやらなきゃいけないという気持ちは、ずっと最後まで持っていました。

わたしたち一線にいる連中は、とにかく極端に言うと、目の前にいる敵さんと、それから、今日は飯を食えるか、夕食が食べられるかという、そんなことですよ、はっきり言いますとね。もちろん、敵がいて、やりますよ。やるんだけど、敵と交わらないときだって、いくらもありますからね。そうすると、今晩、飯が食えるか、山の中へ入って、何もないところで。しかも、飯を食べないと、ほんとうに心細くなりますよ、おなかが減ると。

だから、いま考えれば、どうしてそういうことをしたんだということは言えるかもしれんけど、そのときには、目の前のことを。目を取らずでね、戦争なんて、やめればよかったのにと、いまは言えるかもしれませんが、とても、そんなことまで、われわれの頭の中では。

中国の戦争は、占領しているところは点なんですよ。だから、1つ出れば、みんな敵です。だから、わたしなんかは復員して帰ってきても、1人で歩くのが怖かった、日本が。「ここは戦争でもない、日本だよ」と言われても、「あの山を1つ越えて、隣の村にちょっと行ってくるよ」と、1人で行くと、おい、大丈夫かなんて言うぐらい怖かったですよ。そういう意味で言えば、そういう思いをさせることのなかった時期にやめてもらえば、何十万人、何百万人が助かっていたんですよ。それまでに亡くなった人は気の毒だけど。

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
静岡県富士岡村(現・御殿場市)に生まれる
1940年
横浜高等商業学校(現在の横浜国立大学)を卒業、歩兵第34連隊入隊
1944年~45年
湘佳作戦に参加。作戦の最後は連隊副官となる
1946年
復員後は再び鉱山会社に就職、その後、石油会社に勤務

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