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タイトルタイトル: 「水不足で脱落する兵士達」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 神谷 秀一さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月19日

チャプター

[1]1 チャプター1 長大な作戦「大陸打通」  07:06
[2]2 チャプター2 現地調達  02:31
[3]3 チャプター3 水不足から倒れていく兵士たち  05:09
[4]4 チャプター4 弾薬不足の作戦  05:29
[5]5 チャプター5 戦地から家族へ出した手紙  08:25
[6]6 チャプター6 終戦  05:38

チャプター

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それはもう、本当になんていうの、もうよく、自分でね、ついていけたなぁ、と思うくらいでね、苦しいアレでしたね。ええ、とにかく、こんな、最初からどんどん、もう強行軍ですからね。だから戦闘地域には、かなり広い範囲で、日本軍は駐留していましたけれども、そこを通り過ぎるまでに、もうかなりの脱落者がでたんじゃないでしょうかねぇ。そんなに記憶してますよ。ええ。

Q:脱落していった人は、何がつらかったんでしょうか?

あの、やっぱりスピードについていけなかったこと? ええ、それが主じゃないでしょうかね。ええ。それとやっぱりあの初年兵はね、あの、古兵と違って、あの、ま、ええと、なんだったか、ええ、泊まるところ? そこへね、ええ、着いた後からも、いろいろ雑用があったりしてね。すぐは休養が取れないもんだからね。休養もろくに取らずに、また歩かされますからね、どうしても、あの、体力が落ちますよね。そういうのもね、影響するせいか、ええ、あの、わたしらよりもあとに来た、18年徴集の現役兵はね。もう早くから、脱落兵が激しくてね。ええ。だからあの、わたしの同年兵もそうですけれども、それから、どうしても、それは初年兵のほうがね、あの、早く落ちちゃうですよ。だからあの、敵と戦って、あの、戦死じゃなくて、もう皆、もう、あの、もうなんていうのか、病気に負けちゃってね。たい、体力が落ちちゃって。あの、マラリア、ね、マラリア、それからあの、赤痢ですか。そういうものが多かったですね。ええええ、抵抗力がなくなっちゃてるしね。ええ。

Q:とにかく、歩き続けたんですか?

そうです。歩き続け、本当に歩き続けましたね。だからあんまり休養なんて、あの、歩いたからじゃ、丸一日たっぷり休養なんてことは、ありません。もう少しばか休養しちゃ、また、あの、また歩くんですね。ええ。だからその歩きがね、何も手ぶらで歩くわけじゃないですからね、ええ。何十キロって、背負って歩くだもんだからね。ええ。だからそれは、どうだったと思う。あの、体力が落ちますよ、ええ。そういうことを毎日毎日繰り返しているとね。ええ。詳しいアレは、あの、覚えていませんけれども、そういうことで宣撫地域から、敵地へ入るまでって、かなりの日にちがあったと思いますけど、ああ、そのころでも、わたし、だいぶもう、兵力がね、あの、減っちゃってるというか、そういうふうに記憶しておりますけれどもね。ええ。

やっぱあの、行軍のきつさでしょうね。行軍のきつさ、それから休養力の不足? そういうものがあるじゃないですか? あとはまぁ、本人の頑張り、体力ですよね。ええ。本当に、あの、ええ、今の若い方では信じられないような、あの、強行軍でしたからね。ええ、それもね、空じゃないだもんだからね。なん十キロという装具をしょって、あの、歩くわけですから。それでなけりゃ、そんなに大勢のね、脱落者はでませんよ。わたしと同じ、わたしなんか、あの、17年や、27、8年いましたけれども。ご覧のように、わたしらも、その当時から、もうやせこけてね、一番貧弱な体でしたけれどね。みんな、あと、いい体格の連中がいましたけど、そういう連中だってもね、あの、なんていうのかな…まいっちゃって。ええ、水が不足している、水がない。ただ、きれいな水なんてないですからね。ええ。水道なんて何もないですからね。ええ、あの、水も少ないし。ええ、それからあの、そういう休養。ええ、例えば、1時間歩いて少し休むっていうような、それくらいのことはそれは多少あったかもしれませんがね。とにかく、夜昼、歩いたじゃないかなぁ、と思うんですよ。だもんだから、それは、ばてて落ちるのは当然なんですよ。どうせ、それで、それ落ちるのは、やっぱりあの初年兵のほうですよね。古兵、いわゆる当時は古兵っていうと15兵と14年兵と。14年は最古参で、15年でしたけどね。14年、15年あたりで、あの、そういう行軍中に、脱落するという人はほとんどなかったですよね。あとの落ちるのは、18年、17年。17年の、あの、今言った招集兵。ええ。あの、そういう人たちは、どうしても初年兵ですね。初年兵っていうことはやっぱり、あの、ええ、あの、やっぱり、そういう戦争、あの、作戦の経験もないし、ええ、15年、14年と違ってさ、あの、作戦の経験もないし、だから、そういう、あの、あの、強行軍なんかにも、ええ、だから着いていけないし。ええ、これはあの、どうしようもないことですね。ええ。本当に、あの、古参兵で、そういうもう、脱落するとか、ほとんどないですものね。落ちるのは、皆、初年兵。ええ。ええ。

わたしの分隊長なんかはね、本当に思いやりのあるね、ええ、あの、お話したでしょう?あの、どの辺だか覚えてないけど、マラリアでまいっちゃって寝てるところをね。夜中にちょっと目を覚ましたら、あの、水で頭を冷やしてくれたようなね、そういう思いやりのある分隊長でしたからね。

皆逃げちゃってね、もう向こうの住民は逃げちゃって、いないんですよ。空き家になっちゃってるんですけどね。ですから、探すのはね、簡単ですからね。誰もいないですから、抵抗ないですからね。抵抗者いないわけですからね。だから、あっちこっち、あの、ひっくり返し、とっくり返し、探してくるわけですよね。それから、あの、どこにも、鳥だとかね、豚。ああいう家畜は、連れては行けませんからね。いるわけですよ。それをもうみな、鳥なんかももう、わたしらも経験ありますけど、ただ、頭を靴で踏んづけて、引っ張って、首だけ抜いちゃうわけですね。ほうすると、首無しでパタパタやってるでしょ? それをあとで調理したりするのね、食べる。豚なんか、もう、あの、あれですからね、いますからね。そういうのは、古い兵隊で、特にそういう、内地で経験、職業の経験のある人たちがね、うまく調理してね。自分ら、そんな調理なんて全然できなかったし、食べるほうだけでしたけどね、ええ。だから、そういうとこで、あの、肉類なんかは特に、そんなに、割合、あったんじゃないですか? あの、鶏肉とか豚はねぇ、あっちの…家畜で、多かったですよ。ええ、ええ。

あの、とにかくね、ああいう状況、自分自身もそりゃ、それで同じように行動をとったんですけどね。これが、もし反対側だったらね、反対側だったら、もし日本がこうなったら、そうすると大変なことだろうなぁ、と思ったことありますよね。当時は、あんまりそういう所へ行っても、住民はいませんでしたし、本当に残ってるのは、歩けなくなった年寄りとかね、そういう人しかいませんでしたからね。反抗してくる者はなかったもんですからね、留守宅を荒したっても、さほど罪悪感はないし、ね、現地のそういうものを持ってこなけりゃ、自分らは食べられないもんだからね。悪いとかなんとか、そういうことは考えなかったですねぇ。

水が一番のアレですよね。水があの~、とにかく水道がないですからね。汚い水ばかりでね。そういう、山の中でも入ってね、きれいな沢に当たるようなところもね、たまにはありましたけれどね。大体あの、特にあの、昼間なんかは、そういうところを見つけて、あの、水筒へ注いだりなんかしてたけれども、あの…夜、この前お話したように、あの、暗い時に宿営地に着いて、ほいであの、ええ、すぐ飯ごう炊さん、飯を炊かなきゃいかんでしょ。そういうときなんか、きれいも何もわかりませんから、真っ暗闇ですからね。ですから、あの、そういうとこで、あの、くんできた水がね。明け方、行って見ると、敵兵の死体が浮いていたりね。暗くて…池ですけれども、いやいや、こんなところに死んでたな~ということもあったし。それから昼間でも、あの、きれいな川でもね、こういうように山登っていくでしょ。沢があるでしょ。それきれいな水ですからいいと思って飲むと、だんだん上に行くええ、中国兵の死体がね、その沢の中に転がってたりしていたことも、ありましたよ。ええ、ええ。とにかく水が、あの、一番の大事なアレですからね。ええ、その水が、あんまりきれいな、あの、水ってのは、あんまりなかったけれども。だから、水にアレしたものもあるけどね。あの、ま、良く古い兵隊が言いました、汚ない水でもね、昼間飲んだらね、歩いていたら、みんな汗になって出ちゃうからね。そんな心配要らねぇよ、なんつってね、言ってましたけれども。あの、それでもこれでも、その長い間の中には、わたしは下痢して、もうとてもこれはついていけないな、って、もう下痢しちゃってね。もう、そのときなんかは、もう、薬はないでしょう、何も、ね。それであの、小銃のね、あの三八小銃のね、あの弾。弾をね、あの、何、なんていうのかな、先っぽじゃなくて、反対側のほう、それをなんかね。あの、外してね、取ってね、中に粉が入ってるでしょ。だから、それをね。なんか、飲むといいっていうことをね、古い兵隊が言いましてね。効果があったかどうか知らんけれど、実際に、そういう飲んだ経験もありますけれどね。ええ、ありますけれども、あの、わたしが幸運だったと思うのは、わたしが下痢して、かなりもう1週間なり、10日なり、あの、とてももう、これじゃ中隊に、どんどん言われてるのに、もう、下痢ばっかりしてて付いていけないと思っていたときに、たまたま、あの、中隊が休養しましてね。どのくらいだったか、そこで、下痢が止まって、このときは本当にうれしかったですね。は~、これでよかったな、と思って。下痢止まんなかったら、もう便所ありませんからやたらそのへんでするわけです。そのときに、もう半月ぶりぐらいだったかどうだったか、下痢が止まったのを、自分で発見して。もう本当に、生き延びたような気がしましたねぇ。ええ。

だからあの、下痢がいちばん、脱落の、あの、主な原因じゃないでしょうかね。ええ。あの、下痢、マラリヤ。これにも戦死者があの、出てますけれども。やっぱり、あの、病名は出てますけど、あの、やっぱり下痢がいちばん多いじゃないですか? ええ、ええ。やっぱり、水があの、汚いということですよね。ええ。水が悪いということですよね。大体あの、戦死した方の病名は、下痢が、下痢が主でしたよね。ええ。

Q:それだけあの、大変だった、その下痢にかかったときはどうでしたか?

いや、だからね、もう、あの、もう下痢しちゃうともう食べられないでしょ。ね。だから、やせてやせちゃって、それであの、みんなに、中隊についてくったっても、それまで元気なときでさえ、なんとかかんとか付いていくのが、下痢になっちゃったらもう、ふらふらですもんね。ふらふらですもんね。それであの、幸運だったのは、今のあの人に、下痢してどれくらいだったのか知らんけど、とにかく、あの、中隊の行軍は止まって、しばらくあの、同じところにずっと、あの、休養していたもんですから。あれが、わたしの運命の分かれ道だったと思いますよ。あれをもし、ずっと進軍していったならね、わたしもおそらく、この中のひとりになっちゃったと思うんですよね。戦没者の中の人に。ええ。あれは自分にとっていちばん幸運だった。

なんかあの…茶陵は、何回も何回もそばへ行っちゃ、また、撤退したみたいで、なかなか取りにくかったようですけども、あの茶陵のときは、あの茶陵じゃなくて、なんというか、わたしは川のこっち側のところで、向こうのトーチカがあります、そのトーチカを取るために、それまででなくても、茶陵の周辺までは何回も行っちゃ、あの、この、えーあの6連隊かなんかの救援なんかでも、まわったりして、一度は引き返したこともあったりして、その周辺であのずいぶん、タシロさんという小隊長、よかったですけれども、この小隊長が戦死したり、大勢の中隊の戦死者っていうのは、ほとんど茶陵の付近で戦死したと思うんですよね。で、わたしが記憶してるのは、その黎明と言うか明け方、明け方というふうに思うけれども、そのトーチカを攻略するのに、あの一分…一小隊が確か突撃したはずなんですがね。その中で、第一分隊長の竹沢、竹沢さんか、竹沢さんという方、この方は結構、勇敢な方でしたけど、当時、伍長だったか軍曹だったかな、この方が突っ込みましてね。ほいで、あの…そのときに、敵兵は、もう逃げちゃって、人だけが逃げられないようなアレされちゃって、落ちたみたいですけど、それが当たったのかどうか、しらんけども、やられましてね。どこをやられたか、知らんけれども、「衛生!衛生!」と呼んだのを記憶してますけどね。そいで、そこで茶陵までは進んだことができたけれども、その後、茶陵の町を歩いて、あのナニ川ですか、川の…茶陵の町を囲んだ川の外のほうで、中隊が守ったとこから、また敵が、敵がやっていたトーチカをね、当時、中隊が守っていたわけですが、そこを攻められたときが、いちばん、わたしはあの鮮明に覚えてるんですがね。今、さきほどお話したようなカワムラさんや、それから、そこでトーチカで、一発でやられたカワムラさんと同じ、なんていう15年の兵隊でなんとか言ったな、軽機関銃を持ったまま、軽機関銃射手でしたけどね。それから山田3分隊長、4分隊長、ムラマツ分隊長、それから、そのカワムラさんに、あともう一人、トーチカで一発やられた、なんていう方でしたかな、15年の…あと、あと何人ぐらいの方が、そのトーチカにいたか、知らんけども、とにかく小銃も、あの機関銃、軽機関銃も弾薬は何もないもんですから、敵からとった、柄つきの手りゅう弾で、あの交戦した、交戦したわけここまでですね。そいで、その間に、タキグチさんという上等兵とわたしは、あの弾がないから、中隊本部へ、どのくらい離れたか覚えないんだけど、中隊本部へ弾薬をもらいに来るって言って、中国人ですけれども、二人でしたかなぁ連れて、それで、中隊へ、弾薬を受領に行ったんですよ。

弾はね、弾はとにかく、うーん、なにか、とにかくなかったですよ。その茶陵の時が、ずーっともう、柄つきの手りゅう弾が、ずっと運んであったですからね。大変、弾薬は不足していたことは間違いないし、大体、そこのトーチカで軽機関銃に当たったって、弾はなかったんじゃないですか、ええ。

ただ、ただわたし無我夢中、無我夢中、うん。あの弾に当たって死ぬとかね、なんとかいうことはね。全然、弾に当たって死ぬんじゃないか、なんとかいう、そういうことをなんか、考える余裕なかったですよ。とにかく無我夢中でしたね、無我夢中で中隊についていかにゃいかんなと。

拝啓長らくごぶさたいたしました。その後、父上様はじめ、家の皆様にお変わりありませんか。小生至極元気にて、第一線に活躍しておりますゆえ、なにとぞ、ご安心ください。約1年近くのごぶさたでありますが、毎日の新聞やニュースで、その理由も、ご了解できることと推察申し上げます。最近…何?最近…、最近母上、ヒサオよりの手紙(昨年5、昨年5、6月、投信したもの)を受け取りましたが、その後、内地には相当の変化があったことと存じます。敵機の空襲の様子はいかがですか。内地も第一線と同様になりましたね。自分も生死の境を往来すること幾たび、今、考えて、よく今まで命を保つことができたのか不思議なぐらいです。自分の同隊に神明町の人がおり、おります。最近往生した人ですが、やはり、鉄道の人で、車掌区に勤めていたそうです。昨年9月、自分も上等兵になりました。久保のおじいちゃんやおばあちゃんは元気でしょうか。ゲンジ、ゲンジケイよりも、ゲンジケイよりも、便りは久しくないでしょう。こちらは大変暑くて、内地とは格段の差があります。ヒサオやフミオも元気で通勤しているのでしょうね。ナオユキもいたずらもので困るでしょう。自分は昨年、写真を送りましたが、届きましたで、届きましたか? 現在手紙を出すことが許可されておらないのですが、幸いに、便を図ってもらったので、ちょっとペンをとったのでありますが、この手紙が届けば幸いです。いずれ公然と、手紙を出すようになることと存じますが、長い間のごぶさたで、父上様、母上様も、さぞご心配くださったことと思って、無事にいることだけでも知らせたいと考えて、一筆記した次第です。まずは乱筆にて、右、お知らせまで。皆様のご健康を、はるか彼方の地よりお祈り申し上げます。久保の皆様にもよろしく、父上様母上様。そういうふうに書いてますよね、ええ。

Q:久しぶりに読んでみてどうでした?

うーんやっぱりね、うん、懐かしいですね、とにかくこの手紙やってくれたけれども、着いたか着かねぇかね、当時はわかりませんでしたからね~、ええ。だけども、おそらく、わたしはこうして自分の消息を知らせることが出来たけども、ほかの誰ひとりって、こういうことは出来なかったじゃないでしょうかね、と思いますよ。ええ、わたしはそれだけ幸運だったのかなぁ、と思いますがね、ええ。

Q:その手紙で、どういう思いを、何を伝えたかった。

だからわたしは、なんといっても、うちの家族、丈夫でいるかどうか、自分がとにかく自分がね、まだどうにか生きてるということをね。知らせたかったですよ、まぁ。ええ、さっきの久保のおじいさん、おばあさんということを書いたけど、久保のおじいさんなんかも、帰ってきたときなんかは、「お前は死んでたと思った、死んだと思った」って言われましたもんね。で、帰ったときには、わたしの祖母、久保の祖母は、家に帰るちょっと前に、亡くなってますよね、会えなかったですからね、ええ。そのおじいさんはね、そう言いましたけどね、ええ。「お前は亡くなったとばかり思ってた」なんて、言われましたけどね、ええ。

Q:戦地で、お父さんやお母さんや、その…日本を思い出して、やっぱり、便りも送れない、ということ、申し訳なさ、ってのはあったんですか。

うーん、これは作戦と言えばね。全然、その作戦間はね、書いてる余裕もないし、また幾日か、どのくらいいたかなぁいたからこそ書けたので、本当にあの、移送中だったら、とても書いてる余裕もなかったしね、ええ。あれですけどねぇ、だけども、やっぱり、あのとにかく、行軍、行軍行軍で、あのじゃあ休んだときに、そういう家族を思い出すか、というと、今、考えたってそういう余裕もなかったように思いますよ。何考えてたのかなぁ。もうとにかく、中隊から離れちゃいかん、ということだけは思ってましたけどね、ええ。

あの作戦のためにね、死ななくてもいい戦友がたくさん死んでるでしょ。そういうあれは、思ったことありますけれども、その戦争に対する、たとえば罪悪感とか、侵略戦争ってことは、あとで考えてみたら、あれは当然な話ですよね。中国へ、他国へ攻めていったから、侵略戦争になったことは間違いない。当時は、侵略戦争なんて思いませんもんね。ですから、終戦後、長くなってから、どうのこうのって言ったってもう、特別これっていうことも考えずに、ただのんびり、丹陽にいて、内地へ帰れるのを待ってるのがいちばん、そのときにはもう何も初年兵たって、もう殴られることもないし、さきほども言ったように、歌を歌ったりなんかしてるような状態で、何もせずにぶらぶらしてたですから、あのときがいちばんのんびりしているにはいたですね。丹陽で待ってるときがね、ええ。

だから、自分が悪運があったのか、いちばんの危機ってのは、自分がいちばんに危機ってのは、さきほどから出てる、茶陵のあれですか。反転するまで、まぁ一番苦しいですよね。そのとき、わたしの分隊長であったムラマツさんて方がね。たびたびたびたび言うけれども、部下をおもんぱかったしね。わたしばかりでなく、自分の分隊に、分隊の生徒をね、かわいがっていた方ですからね。あの…わたしは、今日まで生きながらえてきたのは、ムラマツ分隊に編入されたのが、一つの幸運だったなぁと、それは間違いなく言えますね。全部が全部、そりゃムラマツさんみたいな方ばっかだとは思えません。ただ、ムラマツさんていう部下思いの方に軍隊にいたからこそ、編入されたからこそ、ひとつのわたしは幸運だったというかな、そういう思いがしますね。大体が大勢おりましたけども、戦没者ったっても、敵の弾に当たって戦死したって人は、そんなにはないですもの、ね。もうほとんどって言っていいぐらい戦病死ですもんね。戦病死ですもんね。ですから、そういうことでね、下痢をしても、その当時、下痢をして悩んでたころが、隊が行動していなかった幸運もあったし、本当に、そういう点ではね。自分は本当に幸運だったっていうのかな。そういう分隊長に恵まれたこと、そういうその、自分の体力が弱っちゃったときには、幸いにして駐留していた、このことね。そういうことなどがね、自分が九死に一生を得た、っていうのかな?一人っきりね、どんどん、これがね、もったっていうことですね。

それで、うちへ帰ってきたのは、もう夜明けごろでしたかなぁ。妹、あとの人たちは、なんかそのおばあさんが、そのときに、わたしが帰る前に亡くなったのかな、ちょっと前に。久保っていうとこですがね。行っちゃってて、母親も在所へ行っちゃってて、妹だけが一人居たような気がしましたがね。それ…なんかね、明け方でしたよもう。列車、浜松から一番の列車で帰ったと思います。当時はね、風呂なんて全然入らないでしょ。だから、体なんてもう、汚くてね。しらみだらけでしたよね、ええ。しらみから何からもう…、本当に風呂なんか入ったことないですからね、ええ。

Q:神谷さんを見た妹さんは、どうでしたか?

それはびっくりしたでしょうね。家に帰るなんて全然思っても、いなかったでしょうしね。何も知らせて何もなかったですから、そりゃ、びっくりしましたわね。ええ、やっぱりしました。まだ父親があのときは大変喜びましたからね、ええ。

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。
日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
静岡県掛川町(現・掛川市)に生まれる
1943年
現役兵として歩兵第34連隊入隊
1944年~45年
湘佳作戦に参加、
1946年
復員後は国鉄で車掌などを勤め、その後、鉄道病院で事務を担当し定年を迎える

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