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タイトルタイトル: 「苦しさから自爆する兵士達」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 川村 芳太郎さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月24日

チャプター

[1]1 チャプター1 茶陵の戦闘  02:55
[2]2 チャプター2 果てしなく続いた行軍  08:20
[3]3 チャプター3 なぜ歩き続けるのか  06:15
[4]4 チャプター4 終戦  03:18

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茶陵で、敵襲にあったときだね。もう、こっちは13、4人しかいない中、敵はもう、1個大隊ぐらい、もうクモの子散らすようにね、突撃してきたから。もうほとんど終わりと思ったから、けど、ま、ハラさんがよく、「あのときに、僕らもう、普通なら終わってただよ」って、よくね、ハラさんが言いますけど。ま、そのときに、あの連隊長が、救助隊が危ないからってとこで、砲弾を2発撃ってくれて、それがちょうど、あの敵の陣地にさく裂したようで、それで、敵がさーっと引き上げちゃったから、ま、やっと命拾いしたってところ。

すごく多かったですよ、ええ。それか、もう銃剣を、銃の先へ剣をつけてね。それで、それを逆さに持って上がってくるのって、もう13、4人で、一生懸命、あれ守って、何とかかろうじて、こたえたっていうが、それから、それが来るんだからね。「もう10分遅かったら、全滅だったよ」って、そう言ってました。

Q:その隠れる所がなかったというふうに聞いたんですけれども。

結局、あの岩山ばっかりやね、そんなに高い山ではなかったですけど、岩山だもんだから、工兵隊が配属になったけんが、工兵隊でも掘れなかったよね、硬くて。それだから、ちょっとしか、あの掘って、それで、ま、即製の塹壕(ざんごう)を作ったわけだよね。それは、わたし、そのあと、入ったから、わたしはもう、自分がその壕を掘るときに一生懸命掘ったから、浅いってのがわかったからね。まともにあげたら、もう絶対撃たれると思って、あれ、まともに上げなくて、ただ、ひょっと見るくらいの程度で、そして、銃眼のところから足だよね。何人かは、足6文とか10文見てるとね。ほれでまた来たよ、そんな程度で、あれだけどね。もう10分遅かったから、ほとんど全滅になってたじゃないですかね、弾がなかったから。

Q:その最初の行軍、どのようにつらかったんですか、いちばんつらかったという…。

それはやっぱ30キロぐらいのものを背負って、それで完全軍装して、それに無論、鉄砲*で持って、それで、毎日あれだよね。山岳地帯、夜昼問わず、歩き続け、歩くだから、そんな容易じゃないよね。もう大隊長までフラフラしちゃって、お互いに、後ろで、あの、立って、もうみんな居眠りしてるから、お互い後ろで、あれ、助け合うって、あれ、前もう離れちゃうよ、なんて、押してやって、そして、気が付いて、また、あとを歩く、っていうような状態で、本当にもうあのときがねぇ、ま、よくこれだけ歩いた、と思うくらい、つらかったですよ、このとき。そのときに、ナガオマスイチさんっていう方、目的地へ着いたとたんに、雑のうっていうのを掛けてたけど、それでこすれちゃって、もうあれで、軍服脱がせたら、もう腐っちゃっててね、化のうしちゃって、それで、うじが沸いたんだ。ほれで、足もあれ、あの編上靴を切って、衛生兵が切って取ったら、ぷーっと膨らんじゃって、本当にもう、最後まで、あれだよね、歩き続けたってのは、あれかわいそうだったよね、ええ。まぁ、年の招集兵だから、年の多い人だけんねぇ、体は大きい人だったけど、かわいそうだなと思ったっけ、あれね。

それは、ただね、あのそくえって、山へ出るわけです。そうすると、あの先兵で行ったら、敵の部隊が歩いてるから、こりゃ敵と出会ったなって所で小隊長が山へ登れっていうことで、それで、わたしが山へ登ったわけだ。そしたら、そのまだ上に敵がいたわけですね、敵のあの監視役だよね。それが、下でゴソゴソ話したから、手りゅう弾投げてよこして、それで、わたしら負傷したわけ。そのときにムラマツさんとわたしと、2人だけだと思ったけどね、負傷したのは、ええ。それで、部落へ着いて、いろいろ看病してもらったっけどね。

そのときに、やっぱあのサクライって方ね、わたしのすぐそばで亡くなられましたけど、その人は命令受領で、それも、やっぱハラさんが書いてありましたけんね、あのサクライさん、亡くなったのをね。それから、担架へ乗って、2日目の晩に、中国人が担いでるから、真っ暗い所で、もう道のね、真っ暗い所を歩いてるから、山道で、そこで、あの中国人は逃げたい一方だから、わたしをぽんと投げて、下へコロコロコロ転げていって、あのもう、クリーク、下にもう、クリークがあったから、小さい木がなかったら、もうほとんど、わたしはドブンと入って、終わったけどね。ま、その木で助けられたっていうことで、そこに、ま、どのくらい居たか、はっきりもう覚えてないだけど、しばらくいくら呼んでも、来てくれないから、やっと負傷して、負傷で助かったのを、またここで終わりかなぁ、なんて、そんなことを考えながらね、あの…おりましたけど、ほれで、ま、やっぱ、最終的には、あの衛生隊が、自分の受け持ちの担架が、何人受け持ちっていうのがあるでしょうから、それでわたしがいないっていう所でもって一生懸命探してくれたらしいですよ。それで、わたし、最後の声を振り絞って、呼んだら、あぁいたいたって、それで、まぁ、こりゃ助かったな~と思って、あれです。担ぎ上げてもらって。それから、まぁ、衛生兵の方が担いでくれたけど、何か気の毒でもって、何とか、これ自分で歩かなきゃ、申し訳ないなぁ、っていう気持ちになって、それで、そのあしたから丸腰でね、あの、ただ全然何も、ただつえだけついて、やっとこさ、あの衛生隊の中へ入って、歩きましたけど。

それはね、あの、茶陵でもって、あの敵襲にあったとき、そのときに、あの、まぁ、だいぶ苦労して、それで、それから、また歩き始めたもんだから、これからもうどのくらい歩くかわかんないわね。わたしら、ただ、あの命令に従って、歩くだけだから、これ、こんなに重いもの背負って、どこらまで歩くだか知らないけん、こんなに苦しい目で死ぬなら、うまく弾に当たってくれりゃいいななんて、そんなことも考えて、事実、考えたっけ。そうしたら、とたんに当たっただけど、ま、何て言うか、わたし、何回もね、あの、死にっぽい目にあってんだけど、今まであれ、戦友会の会長やったヤマナシっていうの、それ、よくわたしのこと知ってるもんだからね、この男は簡単には死なないわって、よく言われましたけどね。ま、運はよかったです。あの、もう今度は終わりか、って思うときに、何かの面で助かったってことはね。何回かありましたよ、それも、大別山のときにも、あそこの中隊長のニシオ中尉って、中隊長の写真がありますけど、あの方が亡くなったときに、わたしが山の上へ登って行ってね、そのときに、あのオオノ軍曹っていうの、わたしと交代したがために、1分ぐらいの差で、それでオオノ軍曹が亡くなって、わたしが生き残った、っていうのが、これはもう、山の上で狙撃されちゃって、あの、もう手りゅう弾を、ワタナベ上等兵っていうのと2人で、一、二の三で、投げるばっかになったけだけど、それ言ったか言わないうちに、バーンと狙撃されちゃってね。だから、もう顔、顔の形なかったです。鉄帽をかぶっただけど、がくっときて、わたしの所にかぶさってきたからね。

やっぱ、みんな健在な衆があれ、頑張って、あとこいいよ~って、みんなが励ましてくれるからね、お互いに。何としても、早く治して、また復帰しにゃあな、っていう気持ちはね、いつも持ってましたけど。

これは、重いものを持ってね、それでほとんど山岳地帯を歩き続け、歩くだから、それで、ゆっくり眠る間もないし、ほとんど昼夜兼行で歩き続けたから、もうこれやっぱり、それはやった人でなければわかんないわね。こんときの苦しさってのは。それで、亡くなったって人は、本当に歩き続けて、足もアレだよね、編上靴きるがとたんにぼーっとふくらんで、だから、本当のもう、最後まで歩き続けたっての、アレだよね。

とにかく、戦争中はアレだよね。あの、落後をしたじゃ、何もなんないですから、なんとかして落後をしないように、行かなきゃ、ってただそれだけだよね。それで、どういう目的でやるとかって、そんなのは兵隊にはわかんないからね。なんの目的でこういうのをやるか? まぁ、大別山は、あとで聞いた大別山作戦は、なんか、司令官か何かが飛行機でね、落とされて、その捜索に行った作戦だ、っていうことは聞きましたけど、そういった目的というのは、わたしらは全然わかんないです、兵隊には。

まぁ、そんときにはアレだよね。まだ、これから先、どのくらい歩くだか、それも全然見当がつかないし、まだ毎日、こんな重いものを背負って、ほうで歩くだ、やっぱ、うまくいったな。これは、自分がただ、アレだよね。そんな気持ちになっちゃうからね。あのまぁ、戦死すれば終わりだから、死なない程度に弾が当たってくれりゃいいがなってことは、こりゃ誰も、そんなことを思ったじゃないかなぁと、わかんないけどね、これは人生いろいろだから。その人によって違うから、わかんないけど、わたしそのものは、「こんな苦しいなら、いつまで、こういう苦しみは死んだらわかんないから、うまく弾が当たってくれりゃいいなぁ」なんて、そりゃ確かにわたしは思いましたよ、ええ。だけが、死なない程度に当たってくれたから、まぁ生命力だけは、あっただなぁと思って、つくづくね、あとで考えただけ。何回か、こんで終わり、と思ったことが5、6回はありますから。

落後するってことは、思ってなかったね、ええ。なんとか、落後しないようにしなきゃ…っていうのは、いつも思ったよねぇ。

Q:それはどうしてですか?

それはやっぱ、目的を達成するためには、落後したじゃアレでしょう? 目的は達成できないから、目的地までは、どうしても行かにゃなんないし、で、その間に、敵と遭遇すれば戦闘もやらなきゃなんないから、それだからアレだよね。何にしても、頑張んなきゃ、っていうのが、いつも頭に思ったよね。だから、わたしはあの、ハダさんに、教養もないから、わたし、小学校6年しか出ていないからね。それで、そんな分隊長になったっても、剣はとれないから、誰かほかの人に代えてもらいたい、ってハダさんに言ったけど、「もう命令が出ちゃってるから、今さら変えるわけに行かないだ。」で、わたし、そのまま任官させてもらったね。

落後したって方は、やっぱ、自分がアレだよね。体が弱いとか何とか、そういう方と、まぁ、意志が弱いってこともないでしょうけど、やっぱアレだよね。ソクエであったとき、いちばん最初の戦死者は、自分の手りゅう弾ね、みんな一個ずつは手りゅう弾持ってるから。その、トイレへ行ってくるって言って、小休止のときに、ちょっと場を離れたと思ったら、自爆して亡くなった人もおりますけんね。そんなのは、もう結局、こんな苦しみは死んだら死んだほうがいい、っていうことでアレでしょうけどねぇ。まぁ、その人のアレになってみなきゃわかんないですよ、どんなか。苦しいですよ、あの重いものを背負って、毎日歩くっていうことは、ええ。
あんまり作戦中は、そういったのはないからねぇ、うん。ただ、やっぱ冗談的には、小休止って、あのね、ちょっと10分くらいの休憩時間があるから、そんなときには、ちょっぴり口へ出したり、「こんな苦労するなら死んだほうがいいなぁ」なんて、ひょっこり言ったりしたこともあるだけんね、うん。

えーと、わたしらは負けた、っていうあれはなかったよねぇ。あの、大体、順調に進んで行ったから。ま、九江の手前で敗戦になったんだけど、びっくりしちゃったよね。「何で?」なんて、ええ。ほんとうはもっと早く、あれだよね、止めたほうがよかったんじゃないかな、と思うけど、そんなに、そういうことはわたしらにはわかんないからね、ええ

まぁ、わたしらは終戦になってから、日本軍が破壊した国道をね、それを、今度は逆になって、シナ兵が鉄砲を持って、わたしらがスコップを持って、道路工事に行きましたけんね。あの、日本軍が破壊したとこを修理に行きましたけど、そんときに、もう、富士のニチレイ食品っての社長さんが、この方なかなか頭いい人だもんでね、「今夜こっそり逃げちゃおうぜよ」って。それだけだけどね。だけど、「こんなとこで逃げても、どうせ捕まるから逃げらんほうがよかないか」ってわたしら逃げる方は賛成しなかったです。で、残って2、3日たったら、やっぱり敵の偉い方ね、中国の偉い方が来て、それで、その方はもう日本の士官学校を出てるから、日本語ベラベラでもってね。「君たちが悪いんじゃないから、日本の指導者がまちがった考え方でいたから、君たちに責任はないから、僕は絶対に内地へ返してやるから、安心して工事を続けてもらいたい」って、そう言われました。そのときには、ほんとうにうれしかったですね。それで、やっぱり、その通り、それからすぐ、丹陽ってとこまで、集結したとこまで返してもらって、それでまもなく終戦、乗船できましたから。
  
結局、もう、あのまちがいなく、帰れるというのがわかったから、うれしいってことだね。それと、まぁ、「君たちが悪いんじゃない」って言われたのもアレだよね。

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
静岡県清沢村に生まれる
1940年
現役兵として歩兵第34連隊入隊
1944年
湘佳作戦に参加
1945年
終戦
1946年
復員後は、静岡市の中心街で茶箱職人の仕事を再開

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中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)

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