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タイトルタイトル: 「膝を貫いた手榴弾の破片」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 石井 久作さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月26日

チャプター

[1]1 チャプター1 1500キロの行軍  05:04
[2]2 チャプター2 空襲  03:06
[3]3 チャプター3 追撃命令  05:02
[4]4 チャプター4 重傷を負う  03:07
[5]5 チャプター5 負傷しても前へ進むしかなかった  03:21
[6]6 チャプター6 終戦を知る  03:14

チャプター

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Q:作戦が始まって出発をされてから、最初にまずけがをされたと思うのですが、それはどうふうにされたのですか。

6月18日の夜、暗闇で路上斥候に出されて行きましたところ、ちょうど下り坂だったけれども、上の分所というか、敵の分所の、中国の兵隊が「スイヤ、スイヤ」というわけです。日本語で言えば「誰か」ですけれども、こっちは黙っていたものですから、手りゅう弾を投げてきて、それで5人のうち3人即死で、あと2人が軽傷。わたしはあとから援護にきたスガ曹長が連絡員を連れて来たのですが、それで中隊へ帰りました。

野戦では、どこでも同じことだけれども、それであとの3人を連れて行くには、みんな丸太ん棒で人間を縛って、それで連れてきたわけです。それが第1回ですね。

Q:そういうふうにして、いわばゲリラのように攻撃をされることというのはよくあったんですか。

どこでもそうです。その代わりこっちもやりました。切り込み隊もやりましたけれど、向こうに負けないように、こっちでもやりました。向こうの分所を、こっちは防音措置で全部小銃から着剣したままでも、黒い光らない銃剣を鉄砲に着けたまま、そのまま、行っている、そういう踏み込みが3回ありました。

Q:じゃ、そういうふうにしてゲリラ戦を続けながら戦っていくというのは、かなり大変だったんではないですか。

いや、ものすごい大変ですよ。それはもうとても口じゃあらわせないんだけどな。それも夜行軍が主ですからね。昼間のよく見えるところでやるんじゃないものですから。大変でした。

夜のほうがこっちの負傷者が少なくてすむわけですよ。夜間に乗じてやった。薄暮とかれい明とか、昼間やると損害が大きいから、そうでないように。それで夜とか、れい明、薄暮がいちばんよかったですな。

Q:そのときは、中国軍はかなりたくさんいたと思いますか。

正規軍はずいぶんいましたよ。自衛隊というのもありましてね。部落なら部落の守る同じ鉄砲でもヤンコといって、ガラス玉とか茶わんかけらとか、そういうものを混ぜた鉄砲玉で撃ってくるわけですよ。普通の兵隊が撃ってくるのと違って、正規軍が撃ってくるのと違うヤンコというやつは、土塀のすぐ根っ子で日本軍が通れば撃ってくるし、そういう面で苦労しました。

結局敵が多い。多いには多い、どこへ行っても敵ばかり、全部敵ばかりだから。だからそれいく路上斥候というのが各連隊数からしても1、2、3大隊あって、そのうちの1大隊な石井2大隊が前衛ならば1個大隊が後衛になって、それで連隊本部を引っぱっていくように命令を、そういうふうに地図を見ながら上から出てきていますので、それ行くよりはしかたがないでね、兵隊はもう犠牲になるんですから。

野戦病院もずいぶん大きい野戦病院だったけれども、あれもなんだっけ、桂林と洞庭湖のあいだにあったところでね。病院もずいぶん大勢いたけれど、この前お話したように8月の16日にスイヘイローラーバスに送っちゃって、ほとんどまたやられちゃって、ほとんど赤チンだけです。だってあそこへ行った時分には物資もないし、弾薬はあるにはあったけれど、だけど物資が安くないから、各大隊に軍医もみんないたけれど、なかなか解剖とかして弾を出すとかというようなことはできなくて。零陵あたりでは南支から来た人と一緒になっているから、いろんな設備がありましたけれどもね。

Q:収容されていた数はいかがでしたか。その人たち。

われわれの仲間ですか。

Q:はい。結構たくさんいたのですか。

ずいぶんいましたよ。数えたって、わたしたちが中隊の兵隊を勘定するのと違って、病院ではなかなかわかりませんね。数はどのくらいか、かなりいたけれども。

Q:その病院が爆撃されたんですか。

ええ。

Q:それは突然だったのですか。

そうです。それが8月16日で、それやられてから、その病院がほとんど開業というか、いまのここらの病院と違って、野戦病院ですからやたら外でやっていただけだからね。

Q:飛行機は何がどんなふうに。

B29がだっと平らになってローラー爆撃ね、すでに寝ていて、あ、飛行機がたんと来たぞと言っていたら、しゅうしゅうと爆弾が落ちてきたでしょう。焼い弾とか爆弾ね。

Q:たくさん亡くなったのですか。

そこでもう、だいたい亡くなっているね。あれは桂林と洞庭湖のあいだだったから、みなさんもう死んでいるね。

やつらが逃げたというと勢いがつくわけです。日本の兵隊だって。勢いが付いて飛んでいったら、夜間も柳州へ入る川を渡河して、そのときには日本軍も中国兵も一緒にどんどん柳州に流れて行ったんですから、それで渡河点で橋がないから舟を工兵隊に探させて、渡って、夜のうちに、おれの熱海の花火みたいに、ものすごい火炎を撃つから明るく見えるわけです。それでそのあしたわたしたちはそこへ突撃して取って、朝取ったから、もう明るくなっていた。それであとを追っかけたやつは敵前に逃げたやついるぞ、それ行けで、追いかけていって、敵はどんどん身軽でしょう。洞くつへ逃げちゃうからわけがわからない。

本当にやばくてどうにもならないけれど、後ろへは、あとから後続部隊が来るし、前は敵がいて、行くにも行かれない、下がるにも下がれないで、そこで舎営して、何里も前進して、ロクサイでも何でも取って前へ前進しなければならない。どこへ行ってもそうだった

Q:後ろに下がれなかったというのは。

下がれない。絶対下がれない。命令通り前へ行くよりしかたない。死んでも前へ出なければならないから。

地理的に下がれないようなこともあるし、人間として命令を受けて逃げるようになるわけです。下がることも逃げる。右に行くものが、左に行くということも、これは逃げだから、そういうことはできないですわね。だから、きつい質問だけれども、ともかく逃げようがないです。またそういう岩山の中では行く道もないわけですよね。

もう、疲れ切っていましたよ。疲れていたけれど、行かなきゃ、命令だからやむをえないですよね。兵隊は。兵隊が行けば中隊長、大隊長みんな、命令に従って全員が連隊が動いてくるわけですから。道しるべに先に通っていく中隊がいなければ困るわけですよね。われわれにはそういう指揮権というものは何もない、ただやれということをやるだけですから。

Q:やれと言われてやらなければいけないんだけれども、心の中では、まだ行くのかとそういういう気持ちはないですか。

そういう気持ちはかなりありましたよ。もういつやられてもいいわというような気持ちも出ますよ、みんな。だけど命がある限り、一所懸命にやらなくてはならないからね。だから負傷はしても、おれなんか衛兵隊の4人に担いでもらって、前送、前送で黎明関から前へ出て行ったんだけれども。

Q:いつまで続くんだろうかという不安はありませんでしたか。

不安はあったけれど、どうにもしようがないね。どうにもわれわれの力ではこれを抑止するわけにはいかないし、やめるわけにいかないし、やめれば国賊でいきなり、味方に反逆者としてやられちゃうからそうもいかないし、生きている限りはもうやらざるをえなかった。

それは、夜突っ込んだということは11月の27日です。黎明関突入は。昼間そこへ着いて、夜を待っていて兵隊が通っている脇のロクサイを取って、夜トーチカへ突入したもので、逃げる兵隊を追おうとしてトーチカから出ていったら、まだ上から手りゅう弾を投げてきたもので、この足もとで破裂したんです。ひざを貫通しちゃったということです。

もうだめかと思いましたけれどね。それでも兵隊の方、ほかの中隊のものが勇気のあるものはここだからね。ちょっと見えないでしょう。ここから入ってこっちからたい部を抜けたのです。貫通手りゅう弾破片そう破片そうです。

Q:痛かったですか。

いや痛いも泣きようも何もどうしようもないですよ。正直なもう、ガンときただけで、大きな丸太ん棒をバアンとたたかれたみたいになるんですね、やられると。いつでもそうですよ。これがそう、これがそう、この3回目のときも確かキンタンというところへ食料を徴発に行って、日の昼間突撃して行ったらば撃たれちゃって、ここのところ巻きゃはんのひもが、ちょうど巻きゃはんの真上を弾が通ったもので、ひもが切れて、ずるずるときゃはんが取れちゃったことも。3回目がそうだったけれど。これは20年の2月の10日。食料徴発で行ったのです。

Q:そうやってけがをされたりしながら頑張ってきたのは何のためなんですか。

やっぱり天皇陛下のためだと言っていたけれども、僕が兵隊のときには。でもほんとうは死んでいく人は、「天皇陛下万歳」じゃなくて、「お母さん」と死んでいく人が多かった。実際耳で聞いたのはね。「万歳」なんて言わない。それは陸士でも出たそういう人の戦死だと、「天皇陛下万歳」をやったかもしれない。おれはそういうとき立ち会ってないからわからないけれど。「お母さん」という人は多かったね。

いや、戦争をやめてくれればいいなとは思うけれども、どうにもわたしたちの力ではどうにもならないものですから。それはもうしかたがないですよ。行かざるをえなかっただから。行かなきゃ、自分はじっとしていれば反対に殺されるだけで、どうにもなりませんでした。

Q:そのどうにもならない思いを抱きながら。

そう、そう。日々、行軍をしたり、戦争をしながらもう命令どおり、行けというところに行くしかなかったですよね。だって本当にもう、それしかないのだから。

Q:黎明関から忻城までは、どうされたんですか。

みんな行くまでは衛生兵が担いでくれていた。4人で。

Q:戻れないわけですよね。一本道だから。

全然だめなんですよ。行くときは、もう反転命令が出るまでは、全然、前だけ。もう馬車馬と同じで前へ前へ行くだけ。それで反転命令が出れば、またその道を引き返して、「ああ、ここで誰か亡くなった、誰だったかな、亡くなったな」なんて言って、それでずっと忻城まで来て、忻城で綿ラップして。

Q:後ろに戻れないなかで、石井さんはどうやって。

戻れない。だって患者だから、負傷兵だから。負傷したまんまですよ。

Q:担架に担がれたまま。

担がれて、休憩になれば休憩で、そこへ、地へ下ろされて。衛生隊だって休憩しないとしようがないし。だからみんなと行動は同じだけど、ただ、寝たきりで全然足が悪いから動けないから、どうにもならなかったですよ。

Q:じゃ、後ろに行かずに連隊と一緒に。

はい、そうです。前走、前走。全部その患者も連隊と一緒に付いて行って、帰るときもまた一緒に付いて。

Q:そのとき治療はされなかったんですか。

うん。治療はね。別にわたしらは切開手術とか何とか、そういうことは全然やったことはないから。ただ、赤チンだかヨードチンキというか、ああいうものをはってくれたのは、運がよかったと思います。だから、ああ、よかった、運がよかったなと思うだけで。

Q:でも不安にはなりませんでしたか。

どうにもならない。いくら考えたってどうにもならないものは、しかたがないというだけですよ。

いや、わたしたちがこう来たらば、九江のもうすぐ川のそばまで来たらば、「コウチイサンヤ」。日本人に中国人が言うには、もう戦争終わるんだから、終わりだと。蒋介石が手を挙げたかと言ったら、とんでもない「リイベンダ」。日本が負けたんだぞ、こう言われて、まあ、びっくりしたんですけど、それですぐそこできゅう首会して、中隊から大隊本部へ、連絡したいと言ったら、そうかというわけで。それは報告しただけで、すぐに九江まで来て。そこで、一週間後に聞いて、それから、九江から列車で南京まで直行で全部貨物列車でね、帰っちゃんです。  ああよかった、これでうちに帰れると、こう思いましたよ。ほんとうにとたんに。うれしかった。

Q:しかし、半年間で1千5000、1千6000キロメートルぐいですか、歩き続けた。それはどう思われますか。

いやあ、よく歩いたなと自分でも思いましたよ。間には時々負傷して休みが入ったこともあるけれども。それでもよく、いままで来たなという気持ちはありました。

いや、つらいとき。撃たれたり、つらい思いをすると、いやあ、これはいっそいっちゃってしまったほうがよかったかなというようなときもありましたよ。

Q:その弾が当たったときもそうですか。

そう、そう。当たったときは、いやあ、とうとう当たったか、おれも当たったからしようがないなと思うんですよね。しようがないですよ。もう何が当たった瞬間に、いやあ、やられたという、こう、気持ちは持ちましたね。

Q:そのときの心理状況というのは、「あ、当たった、もう死ぬ、死んでしまう」という気持ちなのか、それとも。

ああ、やられた、何とか残れないかな。生き残れないかなという気持ちもあるし、両方ですよね。あ、だめかな、それと、生き残れないかなという気持ちはありました。両方ありましたよ。

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。
日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
静岡県三島市に生まれる
1932年
松本尋常高等小学校卒業
1942年
現役兵として歩兵第34連隊入隊
1944年
湘佳作戦に参加
1946年
復員後は、国鉄で線路工として定年まで勤める

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