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タイトルタイトル: 「食糧は現地調達せよ」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 大塚 敏男さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月18日

チャプター

[1]1 チャプター1 「大陸打通作戦」  02:14
[2]2 チャプター2 絶対に従わなくてはならない「命令」  05:55
[3]3 チャプター3 撃つ弾がない  02:23
[4]4 チャプター4 略奪  03:23
[5]5 チャプター5 落後していく兵士たち  02:40
[6]6 チャプター6 「生きて虜囚の辱めを受けず」  03:11

チャプター

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作戦名っていうのはね、最初は、こういう作戦をやるっていう、そういう伝達はないです極秘のうちに、上層の、まあ、将校クラスには、わかっていると思いますけどね。我々みたいな一兵には、ちょっとわからないですね。ただ、近いうちに、作戦があるじゃないかという予感というか、そういう予備的な感じっていうのは。馬部隊が蹄鉄(ていてつ)っていうか、ひずめを打つ。あれは、すぐに間に合わないから、1週間も、10日前もから、順に順に打って、その臭いが、毎日、臭いが激しくなってくるということで、「ああ、これは、近いうちに作戦が始まるだろう」という、そういう形で、まあ、予感でもって自分に納得して。「ああ、これは近いうちに作戦が始まるぞ」っていうのは、そういうことは思いましたね。

二度と現地、信陽には戻らないだろう、ということは、前もってわかっていたんですね。もう二度と、この信陽には戻ってこないということは。

作戦に出るたんびに、一応、荷物は自分の私物をまとめてね。そのたびに「遺言状のようなものを書け」と言うから、書いてね。まあ、具体的には、「小さい時から、今日まで育ててくれた、親の恩は忘れない」とか、そういう程度のことを書いてね。「死んだら、色々心配するけど、そんなに苦労にしても、始まらんから」ということで、そういう簡単なことを書いてね。封筒へ入れて、残してきた記憶は残ってますけどね。

今度の作戦は、第何軍はどこそこ、どこそこどういう形で通るんだというのを、彼らが決めるんですね、地図の上で。鉛筆で線を引っ張ると。そうすると、地図の上でわずか5cm、鉛筆を引っ張られても、その距離が、出てくるでしょう、勘定すれば。ものすごい線を引っ張ったところを、命令でもって歩かされるっていう、運命があるんですよ、一般の兵隊はね。何もそれを知らず、それはあると思うんですね。

「命令は直ちに、朕の命と承れ」と陸軍勅意でもって、そういうふうに教えこまれているから、これは、もう絶対に服従なんですね。たとえ、非合法であっても。そういう命令系統の中で、生活を余儀させられたっていうのが兵隊なんですね。反抗、できないんですね。

雨が降ろうと、矢が降ろうと「何月、何日の、何時までに、この集落へ集結せよ」という命令なら、何をさておいても命令は、絶対的なものだという、気持ちがあるんですね。「上官の命はただちに、朕の命と承れ」と軍人勅意にそのことが事実、書いてあって、それに入った時から、軍人勅意の精神に乗っ取って、教育をされるものだから。

まあ、多少の疑問は持ちましたけどね。「それでなければ、秩序が保てない」っていう観念もあったし、そういうことで「上官の命令は、天皇陛下の命令だ」と思いこんで「従わなならん」という観念的な気持ちっていうのは、持ったんですね。でも、多少反発的なものはありましたよ。

師団命令とか、旅団命令があると。「何月、何時までに、どこそこの地点へ、進出せよ」という、無線で連絡があるんですね。そうすると、「何月、何日の、何時までに、そこに行かなきゃならない」という、使命感というのがあるんですね、その命令を遵守しようという、そういう、軍人勅意の影響を受けていますから。そのために、雨が降ろうと、風が吹こうと、どうしても、その時間までには、そこまで行かないと、命令違反ってことになっちゃうんですね、汚名を受けるということで、指揮官もまあ、必死で、兵隊が苦労していると、わかっていても、どうしてもそこまで行かなきゃならん、という気持ちになったと思いますけどね。

上官から、命令を与えられると。それでそれが、「上官の命令は直ちに、朕が命と承れ」と勅意があるから、そういうように、初年兵の時に教育されたから、反発も出来ないですね。合法的な手段に訴えて、上官に意見具申するという、そういう、余地がなかったんです。今の会社を見たって、合法的に、こういう意見なら、上司に言ってもいいという、そうことのは軍隊で、通用しなかったんですね。「よくても、悪くても、命令に従わざるを得ない」という、そういう世界だったんですね。

怖いことは、怖いけども、ええ。だから、一瞬その怖さを、忘れる時があるんですね、弾が飛んでこようが、何が飛んでこようが。その怖さっていうもの。それでないと前に進むことは、私はできなかったんじゃないかと、思いますね。何も、そういうこと、考えない時があるんですね。弾がパンパンと、飛んで来ても、ピュンピュンと、音がする。プスン、プスンって。

歩き続ける歩くのは、まあ、歩兵の通りですね。歩くのが仕事のようなものでね、兵科としては。歩く兵と書きますから。まさにその通りですね、ええ。

今まで、何回か作戦に出てね、足には自信がつくんですね。それで、マメが出来るっていうことも、マメが何回も、何回も、出来て、タコになっちゃうんですね、足が。そうなると、もう何回、歩いても、どのくらいの距離を歩いても、マメに悩まされることは、ないんですね。はじめての作戦に出た時は、ほとんど、マメが出来るんですね。そこが、こう、水ぶくれのような状態に、なるんですね。そうしたら治療は、針先で穴を、メスでちょっとつついて水を出して、衛生兵が、ヨードチンキを出してくれるだけのことですけどね。他に薬はないですよ。それでも、だんだん、それに慣れてくると、それがタコになって、いくら歩いても、マメが出来ない状態に。3年ぐらいかかりますけどね、そうなるまでには。

それはね、もう、苦しいですね。夏はもう、汗びっしょりでね、乾いているところはないですね。夜なんかまあ、暑い時には、蒸れちゃうから、インキンになっちゃいます。そうして、歩いた経験がありますけどね。

暑くてね。水筒の水はなし。

のどが渇いたってもんじゃない、からからですね。水筒には水はなし。どうしようもなかったですね。からからになってね。まったく暑かったですよ、本当に。

苦しいなんて、もんじゃないですね。担いでいる鉄砲も、捨てたくなっちゃうんですね、正直言って。いくら天皇陛下からもらった、菊の御紋章のついた、銃器であっても、そこまでいっちゃうともう、そういう、精神教育を受けたものが果たして、そういうところまで通用するかどうか、そういう疑問は持ったですね。

撃つ弾がないんですよ、鉄砲の弾。それで、敵兵が残していった、小銃を拾って。何も、撃つ弾がないんですよ。擲弾筒にしても、撃つ弾がない。どうしようもなかったんですね。

弾を全部、撃って、何も空ですよ、いくら撃ちたくても。あとは銃剣つけて、突っ込むだけですけどね。それだって、敵兵の守っているところまで、突っ込んでいけば、その途中で、機銃で、ダダダダダっと、慣れたようにやられちゃいますから、とても生きるっていう可能性は、ほとんどゼロに近いですね。

何か、ヨーロッパにチェコっていう国が、たしか、あると思いますけど、あそこで作られた、機関銃っていうか。1分間に200発くらい、よう弾が出るという。弾の格好も違うし、そら火薬の量も違うし、銃身の長さも違うし、日本の兵器とは違って、独特の音がするんですね、

チェコ(チェコ製の機関銃)に撃たれると。だから、まず最初に、撃たれるのは、小銃のようなもので撃たれるのではなくて、撃たれる場合は単発に5~6発音がしたその後で、ダダダダダダと金属音ですね、そのチェコでもってパラパラ、パラパラ飛んで来るんですね。最初ピュンピュンっていう音がするでしょう。

そういう時は、頭の上を通り過ぎちゃっているから、怖くないと教わっているんですけども、やっぱ「弾にあたれば死ぬ」っていう気持ちが、手伝うでしょ。「死にたくない」っていうのはしょっちゅう、あるんですね、「『名誉の戦
死』だと、言われたくない」っていうかね、現実には。他の人は、知りませんよ。そういう気持ちがあった。「まかり間違えば、助かって、生きて帰りたい」っていう気持ちは、しょっちゅうあったので、当時、そんなこと言えば「非国民」と言われるんですけどね、そういう気持ちはあったんですね。

言葉、出して俺は「死にたくない」って言いませんけれどね、内心じゃ、死にたくない。「もうちょっと、我慢すれば内地に帰れる」っていう。そういう、いちるの希望をつないだっていうことはありますね。

家があるでしょう、集落が。そうすると、現地調達ですから、「何か家の中にありはしないか」と思って、家捜しをするんですね、簡単に言えば。それが、現地調達の原則なんですね。それで、めぼしいものがあれば、持ってきて、自分たちの食料にするっていうか。そういうことをやってきたんですね。

一回、こういうことがあったんですよ。機関銃の中隊の兵隊が、いわゆる現地調達で、物資を徴収しようと思って、こういう入り口から、入っていったんですね。そうしたら敵さんがいて、入ってくる、ドンと撃ってやられて、死んじゃったんです。それでやっきりして、住民を集めてきて、火をどんどん、どんどん燃してね、丸太でも、机でも、腰掛でも砕いて、火に燃して、どんどん燃えている中に、主婦でも、子供でも、追いやろうとしていたことが、ありましたね。火の中へ。

それを僕は見てね「お前たちは、急いで逃げろ」って言ったんですよ。そうしたらね、「シエシエ」ってね、「シエシエ」ってありがとうっていう意味ですけどね、「シエシエ」って言ってね。主婦が、子供を連れて、焚き火の中から子供を連れてきて、逃げたっていうのもありますけどね。後で帰ってきて、「待てよ、あの時に、お前たちは早く逃げろと叫んだけれど、あの時に、子供たちは助かったんだろうな」と思うと、あの時、人助けの、ひとかけらくらいのことはしたかな。あるいは、命を拾ったなって思ったこと、ありますね、ほんとに。

自分の兵が残してきた、家族がそうなってきた時には、どうなるだろうということを、多少、考えたかもしれないですね。それであとで、あれで、あの主婦と子供は、助かったんだろうなっていう、しばらく、忘れられませんでしたね。助かってくれればいいな、いいだろうと思いましたね。欲を言えば、名前を聞いていて、平和になってから、訪ねてみてはどうかという、そういうことも、思ったことも、無きにしも非ずですね、実際に。

聞き栄えがいいですよ、「現地で、調達しろ」と言ったらね。ただ、牛のようなものとか、豚は、逃げ遅れたのがあるんですね。引っ張って、一緒に、逃げるわけにはいかない場合がある。そういうのは、あの、牛なんか、のんびり草を食んでるというか、そういうことはありましたね。でも、私ぐらいなのは、こうしてのたくった豚っていうのは、剣でついたぐらいでは。下手に突きや、剣を折られちゃいますからね。

豚はなかなか、死なないけど、牛なんかは、やっぱ、銃で撃って殺すより他に、方法はないですね。あんな、おっきいものはね。牛なんかは、結構のんびりしていて、置いて行かれちゃってものんびり、草を食んでいますからね。それを小銃でドンと撃って、急いでのどを切ってね。あれは不思議なもので、豚の養豚でも、急いで血をはずさないと、肉はなんか、うまくないですね。

動けなくて、ひっくり返って、半死半生ですね。そういう状態になちゃうんですよ。鉄のかぶとをかぶって歩いているんだから、その上から銃を、こう、ここに付ける。鉄がカーンと、頭にくる、殴られるんですよ。いくら鉄かぶとでもけっこう感じるんですよ、痛く。そういう、ひどいことをしたんですね。歩けなくなりゃ、蛇行していりゃあ(現地の人)にさらわれて、殺されちゃうか、どっちかですね。

最初に我々がついた、ユウガを出発する時に、200何人かあったんですよ。だいたい、1個中隊というのは200人前後なんですよ。それが、何人になったと思います? そこまで、行くのに。みんな負傷したり、戦死したり、わずか10人も、1、2、数えるしか、12~13人しか残っていない、レイメイカンのときでもう、200何人いた。そこまで行って、みんな負傷したり、戦死したりして、亡くなってっちゃったんですね。

わずか13人か、そんなもんでしたね、残ったのは。レイハっていう町に着いた時にね、「まあ、よくここまで生きておるな」と、「生きてきたな」という気持ちは持ちましたね。


Q:何のためにそこまで頑張ったんです?

 あのね、頑張ったっていうか、全て「軍隊」っていうのは命令でもって、動いている組織なんですね。命令がなければ、昼寝をしていようが、どこであぐらをかいていようが、何も関係ない。いったん、命令を受けたら、何はさておいても、死のうが、生きようが、そこまで、行かなきゃならないっていう、使命感のようなものがあったんですね。

下手な、恥をかきたくない。そういう、死に方だけは、死にたくないっていうかね、それはありましたね。弾が飛んできても、みな飛び出したのに、おれ自分だけ、ひとり伏せていたなんて、そういうことはやっぱ、したくないっていう気持ちはありましたね。

「何とかして、生きて帰りたいな」っていう気持ちは、しょっちゅう、心のどこかにあったですね、正直言って。僕だけじゃないと、思いますよ。実際に、弾が飛んでくると怖いです。誰だってね、死にたくないって。

誰だって死にたくないですよ、正直、言ったってね。いくら美しい言葉で飾ってもね。

結局ね、まあ、負傷したり、あるいは逃げたり、行方不明になるというと、内地にその通達が来るでしょう。そうすると、残してきた家族に対して、恥をかかせるっていうことになっちゃうんですね、当時の人のいわゆる考え方では。だから、それだけはしたくないっていう気持ちは、頭の中にあったんですね。敵に捕らわれたくないっていうか、捕りょになりたくないっていうことはね。

戦陣訓に、「生きて、虜囚の辱めを受けるな」っていう言葉がありましたけどね、「生きながら、捕りょになるんじゃないぞ」と「生きてて、恥をかくんじゃないぞ」という、字の通り戦陣の教えですね。「生きて、虜囚の辱めを受けず」ってことだけは、やっぱり肝に銘じて。いまだに、覚えていますけどね。それほど、捕りょになることは、恥だったんですね。

その当時は、まあ、そういう、モード的なものは、軍国主義というか、そういう見方があったですよ。勇ましいとか、そういう表現で言われたように、報道の真実を見たっていったって、ほんとうのことは書いてなくて、嘘のマンパチことを報道されて、それを信じ込んでしまったというか、そういうことは往々にして、あったじゃないですか。昭和のその戦争の時期っていうのはね。

それも運命なんですね。宿命というか、運命というか、どう違いがあるか、よくわからないけど。本当にそうです。今になって思えばね。そんな、帰ってきてからね、「何で、こんな戦争を始めてたの」と、「自分の青春は、何だろう」ということを疑問に、持ったことはありますよ。正直に言ってね。ろくな恋愛も出来ずにね。そういうことを思うと、そう、思ったことはあります。そんなんだから、「いったい誰のために、こういう戦争を始めてしまったのかな」ってことには、ものすごく、疑問を持ったんですね。

ウソのことを教えられるより、本当のことを知りたいという。だから、自分がそんなに苦労して、生命をなげうったのはいったい、何で、そういう結果になって、歴史の流れだといってしまえば、それでもう、終わりですけどもね。それでも何か腑に落ちない、もっと奥に含まれたもの、隠されたものは何だっていうのを、探ってみたいというか、そういう気持ちになって、戦争に関する本を、ずいぶん読みましたね、本当に。

やっぱり、自分なりの結論は、未だに出ていませんけれどね。ただ言えることは、時代の流れに身を任せるより、他に方法はなかったんじゃないかということは、感じているんですけどね、未だに。

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。
日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
静岡県藤枝市に生まれる
1939年
歩兵第34連隊入隊
1944年
湘桂作戦に参加
1945年
終戦
1946年
復員後は、米・茶・みかんなどを栽培

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中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)

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