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タイトルタイトル: 「十数人に減った中隊」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 梅島 与平さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月18日

チャプター

[1]1 チャプター1 ひたすら歩き続けた「大陸打通作戦」  02:36
[2]2 チャプター2 茶陵での戦い  02:31
[3]3 チャプター3 柳州へ進軍  08:36
[4]4 チャプター4 突然の反転  03:11

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ううん、はじめはもう、はじめの、ひと月くらいは行軍だけですね。戦闘そのものはないですね。だから行軍につぐ行軍、夜行軍、そういうものの、連続でございましたね。

その行軍が続いたもんですから、野戦の経験がない若い兵隊、ないしは補充で来た兵隊、そういう兵隊さんはまめを作ったり、入院したり、落伍したりという方が多かったですね。で、従来の古い野戦にいた、いわゆる2年兵、3年兵、4年兵、私は5年兵なんですが、そういう兵隊は経験がありますから、頑張って、まあ、持ちこたえたわけなんですねえ。

脱落した者は、野戦病院に、野戦病院へ収容される。野戦病院っていうのは名前は病院だけれども、部隊と一緒に馬をたくさん連れて行軍しているひとつの部隊なんです。で、ある拠点に達する、大きな都市に達する、場合に、まとめてそういう患者だけを後送すると。で、からになって、また部隊につれていく、と。というようなことの連続ですね。

私どもは黎明攻撃(夜明け直前や日没直後に合わせて攻撃を行う)してって。夜が明けて、明るくなるときに、ちょうど茶陵の町外れに、小高いある丘がある、その丘を取れ、という命令で。で、私どもの中隊は黎明攻撃して(丘を)取った。ところが、反撃する敵の数が非常に多いですね。まあ、こちらは1個中隊っていやあ、150人くらいが減って120人くらいなんです。向こうは300人も500人も来るわけですよ。そういう、状態のもんですが。弾はなくなるし。もう、長くそこにいたら全滅していたんですよね。で、うちらの横に6連隊という、名古屋の部隊が、後から攻撃して、そこをとったわけです。

ところが、うちの部隊は「弾薬を供給するから」と言って、その6連隊の部隊に、その取った山の周囲ですね。周囲を交代してもらって。ひとまず引いて、それで弾薬を補充に行ったわけです。その留守に6連隊が攻撃を受けて、ほとんど全滅して。機関銃、重機関銃なんかとられたんですね。私どもはその方向で、激しい砲火の音を聞くもんですから。「ああ、6連隊がやられている」ということを直感したわけです。

柳州という町を取って、部隊はやはり休みはなかったですね。そこでまあ、柳州が究極の目的地かというと、そうではなくて、あくまでも現在の状態の連続で。

完全編成で120人くらいの1個中隊が、半年の南方へ行く戦争のために半減。半減どころかね、120人が20人になったんだから。6分の1になってしまったね。

最初はやはり、重慶までいかなきゃええわということは、あれですね。まあ、それまでにみなさん人員が、減っていくんですからね。だから、おそらく重慶に行くようになったら、人間はいなくなってしまうんではないか、という想いの方が、強かったですね。

みんなもう、何て言いますかね、命というものはねえ、大体、順番でなくなっていくんだと。だから、必ずおれの番も回ってくる、というようなことは思っていましたね。しかし、それが直接自分の所にくるというのは、何か戦闘があってだれかがやられたと、今度はあれの番だなと。というようなことでもって自分の所に番が回ってくるけれども、それがいつかどこかっていうことはわかりませんね。

若干、ふてくされた気持ちも、あるかもしれませんねっ。鼻歌を歌う人もあるし、いつかは自分の番になるだろうなっていうような想像はみんなでしとったんじゃ。「今度は誰の番だ」、「誰の番だ」って。そういうような事は誰もが思っていたことですねえ。今度は俺の番じゃないかって。今度はあれの番だっていうようなことは。

で、コバヤシ君ていう静岡の呉服屋の昔。今は、スミヤという大きなアイシンドウの向かいに仏具屋さんがあって、そこの番頭さんをやって、長くいたコバヤシ・ジツタロウという、やはりその人も第2小隊の分隊長ですね。その人が、先兵の一番先に立って、そのスイコウの部落の関門へ、こういうふうに輪を(連帯を組んで)、行ったわけです。それから私は「ちょっと待ってくださいよと。コバヤシ、ちょっと待て」と。私より半年遅く来ているんですね。で、「コバヤシ、ちょっと待てよ」と。「いや、おまえは召集の兵隊だから、家へ帰れば奥さんがいるし、子供がいるわけだ。」「だから、もしおまえが撃たれて死ねばねえ、家で悲しむ奥さんや子供がある。俺はおまえ、一人もんだって」だからねえ、嫁さんもなんにもないですよ。「だから、俺が代わってやるよ」と。と、言って、わたし、男気を出してコバヤシと交代しようと、言ったんですよ。

ところが、わたしがそのときには、本当に死ぬつもりだからね。

ところが、運がいいことには、私がそこへ、陣地へ行っても、うんもすんも音がしない。だから、後で気がついたことには、丁度、私どもが行くということは、その敵の部隊にもわかっていたわけですよね。だから逃げようと。で、すぐに部落へ逃げちゃった。向こうにトンネルがあってそこに逃げたんですよ。

私がその関門へ立った場合に、味方の後ろから撃って、弾に当たって倒れた敵の視界には、田んぼを走っていく敵の姿が、まだこの、関門のところから眺められたわけです。


Q:みんなで、何か日本の話をしたりしとか、そういうことはしたんですか?

 日本の話とか、そういう話までする余裕はなかったですね。

「自分が生きるか死ぬか」「今度の番は誰か」という、それくらいのことですね。


Q:たった20人になって行軍を続けて、まあ、寂しくなってですね、何か思い出したりしませんでしたか? 日本のことを?


 そんな暇はなかったね。とにかく満足に食べること。

早く反転作戦が出て、そこから早く戻ることと。この2点しか考えなかったですね。で、反転作戦の命令が出れば、自分たちは必ず助かるんですからね。

そこで、弾に当たって死んだ場合、単に「戦死」でもって片付けられるわけです。どうせ死ぬ、だったらねえ、もっと派手っていうのかな。「華々しい戦闘をやって、戦死したい」という考えと、百幾人いた中で20人残って、またその中でだんだん減って、十幾人しかいなかったですね。十幾人残っているんだから、稀少価値っていうかねえ、そういうことをお互い思っていたんじゃないですか。そりゃあ、いま真意をねえ、思えばそういうあれもでるけれどもねえ。そのときの、現場の空気というものはね。やはり、おれたちは第六中隊を代表してこれだけ残っているんだから、ここで死んじゃ犬死にだと。というような、そういうあれはあると思うんですよね。

みんな万歳したよね。こんな中国の、こんな大きな鍋にしるこをいっぱい作った、ねえ。それで、これを皆で飲んで、独山は行くんだと、というつもりでしるこを作ったわけ。ところが、命令従者っていうのは、大隊長から中隊へ命令を伝える人です。モリヤのおやじさんです。モリヤ軍曹。モリヤが飛んでいって、「おい、もう今から、反転だ」といって。みんな、口には言わないけれども、「ああ、助かったなあ」という万歳ですよね。で、そのせっかくできた、鍋へ作ったしるこを全部、ぶっ壊して。


Q:食べなかったんですか?

 食べなかった。嬉しかった。それほど嬉しかったっていうこと。

命が助かったっていうようなことは、いま、現代のみなさんの感じなんですが。そういう気持ちはみんな持たれたと思うんですよ。それが動作として、いわゆる、せっかく作ったおしるこをひっくり返した、という動作に現れたわけですね。

、そこでもって、もう、みんな、万歳をしましたよね。残った十幾人ですよ。十幾人で、宜山を出るとき20人で。
トミオカ・キンゴっていうここにあの手紙がある、それが死んで。スズキ・キクジっていうシマダのオダジマヤっていうそば屋の息子が死んで。オオムラ・ヒロオというのが死んで。17人で万歳しましたよ。おれたちは命が助かったって。そういうわけで、そこからそのう、なんていいましたっけ? なんとかていうところ?


Q:忻城?

 えっ? なに?


Q:忻城?

 おお、そうそう忻城、忻城。忻城まで戻るときは、それゃあ、みんな、朗らかでねえ、ええ。もう、命が助かったって、ということで、喜んでいましたね。

だから、みなさんの気持ちというのは誰にも通じる同じ気持ちだと思いますよ。

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。
日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1917年
静岡県藤枝市に生まれる
1939年
歩兵第34連隊入隊
1944年
湘桂作戦に参加
1945年
終戦
1946年
復員後は、家業の古物商店を継ぐ

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中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)

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