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タイトルタイトル: 「連れて行けなかった傷病兵」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 見城 兼吉さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月21日

チャプター

[1]1 チャプター1 赤紙  02:48
[2]2 チャプター2 大陸打通作戦  01:17
[3]3 チャプター3 戦友の死  07:00
[4]4 チャプター4 昭和21年に復員  02:18

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私が徴兵検査をね、昭和13年に、適正検査があったわけね。そのときは、目が悪くてね、在学員にはなれなかったです。兵士、兵です。そいで、昭和18年に兵と、さかのぼって、今年、検査した丙丁の人から、さかのぼって6年間再検査したです。それで、片方の目が悪いだけで、ほかはどこにも、欠点がないもんだから、第2国民兵役甲種合格っていうのになったです。片方、右の目は全然、見えないです。生まれつき。

軍隊にはね片方の目が見えなくても、何でも使えるって。行軍兵とか衛生兵とかね、炊事とかね、何でも使えるから、あんたは、甲種をやれって。

だから、戦争が大きくなって、兵隊もだんだん、少なくなったもんだから、男が少なくなったもんだから、そういうことがあったわけだね、ええ。

軍隊がやっぱり、戦争が大きくなっていくごとに、男が少なくなったもんでね、再検査して丙のうちにも、兵隊に何とかして使えるのはないかと、いうことで、再検査したわけだね。たまたま、私は右の目が見えないばっかりで、左の目はよく見えるもんでね、検査官も衛生兵とか、炊事とか、この辺で使えるぞって合格させたね。

「どうも、俺は右の目が悪いばっかりなのに、衛生兵にもなるのかもしれねえかどな」と思って、考えたよ。やっぱり来るものが、来たなと思ってね、正直なところね。

湘桂作戦に入るときはね、みんな不安はあったよね。つらいことだなと思って。

よく「当たって、砕けよ」と言うが、軍隊はほんとに当たって、砕けるよね。命令、ひとつでね。どっちでもええ「あっち行け」って言っちゃ、あっち行き「こっち行け」って言うんだね。ほんとに運だね。

私は「できません」って言ったわけよ。そしたら「何だ、ケンジョウ。上官の言うことが、聞けないのか」としかられるのね。それで、竹刀でぶんなぐられるので、「やります、やります」ってね、やったようなもんでね。

私は湘桂作戦でね、5時間、ゆっくり寝てみたいなと思ったよ。5時間、寝たことは、なくはないけどわずかだね。数えるほどしかないよ。ええ。

夜中に泣く声がするもんで、「コダマ、どうしたか」って言うとね、「おれは、おまえのような、ひとりもんと違う。おふくろがあり、女房もあり、子どもが、3人ある。おれは夕べ、こんな夢を見た。一番小さい女の子が、お母さんのおっぱいを飲んでも、出ないもんで、勝手場の方へハイハイで行って、まはちを取って、しゃもじを舐めていた。そうして、しゃもじを舐めながら、ご飯がないもんで、泣いているところを、夢見た」。そうして、私に話しした。

中国はね、6月時分は暑いもんでね、水筒入れが、出発するとき1杯、持って行軍するですが。1リットルぐらいちょっとしか、入らないわけですわ。あのぐらいの水は、一度に飲んじゃうんですわ。そうだけん、これで1日、とてもじゃないけど、ないと思って節約して飲むんだけど、とても、節約しきれなくて、水が出るところが、ところどころにあるもんでね、水があるところへ、飛んでいっちゃうね、くみ水。

そうして、汲むんですが、水の中には、鉄分がたくさんあるもんでね。おなかを壊して、アメーバ赤痢っていう病気があって、コダマはアメーバ赤痢になってね、軍隊でも体をほぐさなきゃ、悪いからっていって、食料をコダマには分けて、やらなかったんです。そいでコダマ、耐えられなくて、おなかがすいて。それで生のトウモロコシ、ナスとかキュウリとか、かじくってて、食べたんです。夜、行軍でね、そういうものが、あるところを通ったりすると、飛び込んじゃね、取って食べとるです。それで、とうとう、体力が消耗しちゃって、山を、馬をひっぱって、登れなくなっちゃった。それで、しょうがないもんだから、コダマの馬を私の馬のしっぽへ、縛り付けて。

水を汲みに行くんだけども、水には鉄分が入ってるもんだから、非常に体をこわすので。コダマは、水を飲んだもんだから、アメーバ赤痢になって、ついに、行軍が耐えられなくなって。その山を下りていけば、もう、ほとんど死んだような状態で、下りてきた。下りてしまうと「コダマ」って言っても、返事がないし、見たらもう、コダマは息を切って。それで、しょうがないもんだから、帯剣で腕をたたき切って、それをうちの中へ持ってきて、わずかな火でコダマの腕を焼いたです。

夜、真っ暗いときにね、明るくなると、敵の目標になるんです。それで、わずかな火で焼くんです。うちの中で焼くんですよね、外じゃないですよ。

それで、あとの残った腕を、引きずっていって、その辺が一帯のまっ白く、綿の花で、まっ盛りだった。そこへいけたです。わずか、砂が5センチか、7センチぐらい、かぶったぐらいで。あとは、犬が食べたか、カラスが食べたか、ほんとに哀れなもんだったです。

最後はね、声がなかったわね。

そりゃはね、立派な方でね。温厚な親しみのある、笑ってもほんとに仏さんかね、お嫁さんが笑うように、にこにこして、笑っとった。

あれだけ、家族を思っていたコダマが、尽力つきて倒れていく姿は、全く言葉には出ないよ。気の毒で。

あんな、茶陵の辺りの、初めてのしまいじゃけえが、こんなところに、コダマを置いてくけえ、かわいそうだよと思ったよ。初めてこんなとこに来て、もう二度とこんなところにコダマをね。

後ろ髪をひっぱられる思いがするよ。「見城、おれも連れてってくれよ」って引っ張られるような気がしてね。当然、悪かったよ。

しょうがないだね。死骸を連れて、馬に乗せていくわけにはいかないもんでね。

「本人の遺骨をね、全部じゃなくても、どんだけでもいいから届けたい」っちゅう気持ちでそりゃあ、ありましたね。
しょうがない、腕だけでもいいから、本物のコダマの遺骨をね、うちに送らなきゃな、と思って、そういうのはありましたよ。南方行った兵士は、お骨だって、いってそこらへんの灰や、遺骨の箱を開けたら、砂が入ってたとか、灰が入ってたっていうことを、聞いちゃあいたもんでね。子供やお母さんの前にね、「これが本物のコダマの骨だね」って言ってね。お母さんに、戦死してもしかたないけえが、せめて、自分の旦那の骨を、骨か、と思ってね。

名誉のね、そんなに簡単に、天皇陛下のために、尽くしたっていうあれだね。自尊心っていうものが、あったと思う、ええ。

やっぱり今、この平和に世の中になって考えると「つまらないことをやって、苦労したな」と、思うね。

うちへ帰ってきて、しばらく経つと、地道にやったことは、自分じゃ、もう、こうやるのは国のためだ、天皇陛下のためだと思って、やったときには、やっぱり、それは間違ってたなと思って、今、考えるとね。

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。
日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1918年
静岡県大河内村に生まれる
1943年
歩兵第34連隊入隊
1944年
湘桂作戦に参加
1945年
終戦
1946年
復員後は、農協での金融係を経て、材木商として独立

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中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)

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