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タイトルタイトル: 「現地で略奪する食糧」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 岡野 欣一さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月21日

チャプター

[1]1 チャプター1 追撃  04:24
[2]2 チャプター2 物資は「現地調達」するしかなかった  03:04
[3]3 チャプター3 気力を失っていく兵士たち  03:48
[4]4 チャプター4 ひたすら耐え続ける日々だった  04:12

チャプター

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2~3歩出て行くね。出て行くと。もう、おっかないもんだで、抜き足差し足でよ。音がしないようにと思って行くだけが、それが聞こえるだか、(中国軍は)すぐ撃ってくるだね。ほんで、撃ってくると体を縮めて。まあ、普通の平地なら、まあ伏せちゃうんだよね。だけど、そんなことをしたら余計音が響くのでね、とにかく音をしないようにしないといけない。体を縮めて。

それでもう、ここまで来たらしょうがないと、もう、度胸を決めてから。

「俺が手榴弾を投げるで」って、手榴弾2発は持っていて。

全然、丸腰だね。全部そう思っている。全然、丸腰で自衛の武器はない。ただ、手榴弾をポケットに2発入れただけでもって。

その手榴弾といえどもね、要領は、まあ教わっていても、実際にやったということはないし。本当に実際にやるということも、作戦でもなかなかないだね。だから、言われたとおりに安全栓を抜いて、それで、下の道が岩盤なもんだで、道へたたいて発火した。それが大体、発火してすぐ投げるっていうのは普通じゃないわね、教わるのはね。まあ1回、2回、3回ぐらいの時になげるというね、2分ぐらい間をおいてね。あんまり早く投げると逆に投げ返されちゃうという、そういうことがあるっていうことでね。だけど、そんなことしちゃいれないわね。
それで、発火してすぐ、投げちゃって、投げて、幸い、その手榴弾を投げるという、その物音で敵が逃げちゃったんだね。ほんなもんだで、撃ってこないっけだね。それで帰ってきちゃったわけだ。出て行ってね、行ってまもなく、帰ってきちゃったんだよ、2人負傷して。

こうやって上り坂をその衆が、登っていったら上から(中国軍から)手榴弾を投げられて。ほんですぐ負傷して帰ってきた。本当に行ったと思ったら、帰って来ちゃったね。

6~7名ぐらい担架の患者がいただね。もう、行くところがねえだね。すぐ前が戦闘をやってるけんが、もうただ、担架に乗っているだけで。

連隊の救護班が、もうどこにいるかわかんねえで。すぐ後ろにいるならいいけんが、担架に乗っていて、すぐ前にはバリバリ戦闘やっているだけえが。もう、どうすることもできねえわけだ。

まず、着るもんにしても、もう僕なんかも、もう切れてきちゃって、全然、補充もないし。シナの兵隊のね、服を着たこともある。だけどこれじゃ、間違えられたら困るねと、脱いだり。

朝になって、宿営地について、宿営地といってもまあ、住民が逃げちゃっていないもんで。そういう部落へ行って宿営するわけだけえが。着くと自分の残っている飯ごうのメシを食べちゃって、そして飯ごうと、それから持っている米を出すわけだ。で、出して、すると一番若い兵隊が、兵器と被服の手入れをする。まあ、洗濯をしたり。

そいで中間の兵隊が、おらは中間だけど、おらは飯炊きをするわけだけど。そのみんなの置いてあった飯ごうを全部洗って、それで米をといでほんで飯を炊くと。古い兵隊は、飯を食って、すぐに徴発に出るわけだ。徴発に出て、まず米と、あと肉、大体、鶏か、豚を取ってくるわけですね。それに古い兵隊が行くわけですね。まあ古い兵隊は要領がわかっているもんだで、どういうところに米があるかと。それで、肉と、肉といっても、まあ豚なら、あれだね。1頭、殺せば、1個小隊ぐらい、モモか、生(せい)ロースだけ取って持ってくるわけだね。それをあれだ、野菜がないんだよね。だもんだで、肉をいためて、塩味で、飯は飯ごうで炊いて。そんで、そのおかずを入れて、それができればそれから、それからね、寝るわけだよね、夕方まで。それはやっぱ、古い兵隊はまあ慣れてもいるし、割合寝る時間もあるだけんが。やっぱり若い兵隊ほど大変で、そういう、休む時間がないわね。

零陵っていうところで野戦病院のね、援護を2日やれ、という命令が出て。ほんでそこで2日も動員の援護をやったけどね。下痢患者が、多いですね、患者は。戦傷患者とかっいうのは、わりあい少ないのね。やっぱ、疲労するもんだよね、どうしても水を飲むのが、水がもとでね。俺も、水、いっぺん下痢をしたことあるけんね。

雨水を、道にたまった雨水を飲んだっていうのが、記憶があるけんね。

川があって、ほんで土手があって、土手の中っかわにこう、藪みたいなのがあったでね。そいでこっち側に部落があったよね。そこへ入ったわけだよね。

藪の中だから、もう本当に糞だらけだよ。ああいうところは本当に、下痢患者が多いよね。

宿営についたら「後ろの1大隊がやられているので、援護に来てくれ」って、そういう命令が来て。援護に行っとったけが。

おとなしいようなんでもねえ、ちんぴらのような、そういう頑固なのが3人ばっか、うちの班にいたっけね。その時にね、その援護に行く前に、「貴様ら、へなへなしているな」って言ってびんた張ったことあるけど。実歴4年いたけんが、そういった、びんたしたっていうのはその1回だけがな。そして、気合を入れてやったで。まあ後で、その衆も生きて帰ってきたけんがなんとも言われないし。まあ、俺もあの時に気合を入れてやってええけな、と思ったけんが。そういうふうにやっぱあれだね。上の、兵隊だったってもう、気合を入れて、やらないと、やっぱついちゃいけないですね。もう、気の弱い人、意志の弱い人なんかはもうだめだといったらもう、作戦中はね、逃亡しなくったってね。部隊をちいっと離れりゃもう、置いて行かれちゃってね。逃亡する気はないけんが、もう疲労しちゃってて、もう本当にあのね、死んだほうがええで。おらだってもう、死んだほうがよっぽどいいと思ったで。たとえ1時間でも30分でもええで、寝て。寝りゃあ、部隊を離れりもう、捕虜になって殺されるのは、わかっていてもそのぐらいに思うんだよね。
そんなもんだで、気力のない人が、意思の弱い人は、(死んでいく)。

本当にあの作戦は、よくやり通してきたなあ、と思って。いくら、農家の出で、達者とはいえ、まあ本当に、やっぱ、気力っていうのは確かに、あるわね。それから、体力だけじゃ、やっぱね、だめだね。精神的にやっぱ、気の張った人でないとやり遂げられないよね。

先頭ばかり、歩いたもんだで、とにかくあれだね、あの作戦をやり通したっていう。とにかく我慢強い、強くなったっていうことは確かだよね。だで、それは、あんな作戦をやって、本当に運が悪いっけなと。しかし、丸4年ね。それでも自分がまあ我慢強くなった、そういうこと。色々まあ、勉強になったこともあるなと、思うけんがね。

相対的にこういう苦労をしたな、ということは、話をしたことはありませんので。まあ、みんな知らないで、知らない人が多いですね。まあ、本当は「もう、戦争ってこういうもんだ」と、「絶対しちゃいかんな」ということを、言う。
知ってもらいたいために、話をしてやると思うけんが。しかし、そういう話をすると、あの人は自慢話って、いうふうに、思うんじゃねえかと。思うもんだで、そういう話はしたことはないけんね。ほとんどの人が知らないよね。こっちが言わないもんだでね。

やっぱり、そういうふうに見られる、自慢話だというふうに見られるなと思うもんだで、やっぱり言えない。

本当に戦争はやっちゃいかんなと。戦争っていうものは、本当に、最悪の、なんていうか、残酷な、ものはないじゃないかと。

絶対に、戦争はやっちゃいかんなと思う。

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。
日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
静岡県焼津市に生まれる
1942年
歩兵第34連隊入隊
1944年
湘桂作戦に参加
1945年
終戦
1946年
復員後は、農業を再開し、茶・みかんなどを栽培

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中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)

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