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タイトルタイトル: 「2千人を失った連隊」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 山崎 行男さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月27日

チャプター

[1]1 チャプター1 歴戦の部隊  02:15
[2]2 チャプター2 1500キロの行軍  02:05
[3]3 チャプター3 中国大陸を南へ  04:19
[4]4 チャプター4 過酷な行軍  02:36
[5]5 チャプター5 中国南部・修仁で銃創を負う  01:18
[6]6 チャプター6 昭和21年、復員  02:53

チャプター

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静岡の連隊といったら、それは、もうね。日清・日露のあれですから。私の田舎の隣だって、みんな34連隊出身の。うちの隣なんて、同じ山崎ですが、伍長がおりますよ。34連隊の伍長がいた。いつも在郷軍人会で威張っていましたよ。

「三四が通るぞ」と言うんですよ。国軍交差というのがあるんです。作戦間。交差というのは、行き違いがあります。岐阜の六八連隊はこっちへ行きなさい、三四はこっちへ行きなさいというようなことがあるわけです。師団命令で。そういうときに、国軍交差がある。ここをどちらかが開けなきゃならない。そうすると、「三四が通るぞ」と兵隊が自慢しているんですよ。道を開けろという。そのくらい。作戦のたびに34連隊は感状をもらっていたんです。感状というのは、要するに状文に達すると言うぐらいで、それは軍の一番の誉れですからね。感状連隊ですから、だから、誰しもが静岡34連隊というのを非常に、静岡連隊というのは誉れに思っていましたね。それは、どの人に聞いても。「34連隊がだめな連隊だ」なんていうことは誰も。それこそ、一人、一人そうですよ。それは、ほんとうに誉れを持っていましたね。

(訓練は)それは、厳しかったんですよ、ものすごく。点呼でも何でも。それは、経験した者でなければわからないような。ばかばかしいぐらい。

あのねえ、それ以前には、作戦がたくさんありましたね。それはだいたい、「警備地から出て、目的を達成したら、また警備地へ帰る」ということだったんです。いままで、従来ずうっとね。ところが、戦況がこうなりましたね。だいたい、私ども、薄々はわかっておりました。要するに、東京空襲があります。そういうことで、戦況が変わってきましたね。結局、「海もだめ、空もだめ」ということが、だんだん。それで、だんだん、「今度の湘桂作戦はいままで、従来の作戦とは違う」と。

要するに、「南方と手をつなごう」というのですから。それは大作戦なんですよね。南方軍が北へ上がってくる、中朝の派遣軍は南へ下がると。要するに、そういう作戦なんですから、ちょっとやそっとのものでは。もうこれが、なんていうかねえ、決戦だったんでしょうね。考えてみるとね。そんなことは私ども、よくわかりませんけれども。「いよいよたいへんな作戦に出発するんだな」ということですからね。いままでは、出発して帰ってきて、ちょうど1か月ぐらいで終ったんですかね。ところが、いつ果てるともしれない作戦でしたから、こんどはねえ。

あくまでも「日本軍が最後の勝利をする」という考えでしたからね、私どもはねえ。

大隊長には、しょっちゅう中隊長はもう。とにかく、常にそばにいて、大隊長の意図をつかんでおりませんと、中隊の指揮ができませんから。勝手なことはできませんしね。小隊長は自分のところにおりますけれどもね、それは私と一心同体ですから。それぞれ約二百名ぐらいの部下を持っていますので、中隊長はねえ。大隊長のそばに常にくっついて、大隊長がどういうお考えでいるのか、どんな意図なんだろうかということを常に考えておりませんとね。

ひとつ前進するにも「どういうふうに前進したら損害を受けないか」というようなことは考えていかなきゃいけない。
教育をしていかなきゃならない。だから、それをおろそかにすると、やられちゃうわけですよ。けがをする。例えば、「前進するときに、大きな姿勢をしちゃいけない」「人の通ったところは、通っちゃいけない、二度と」と、そういうこともみんな教えるんです。

自分のうしろには一個大隊がついている。何千人で。そのうしろには連隊がついている、本隊がついているということで、ひとつ道を間違えたら大変、でしょう。そういうことはありますよ、尖兵によっては。ぐるぐる、夜が明けてみたら、「これは昨日通ったところじゃないか」ということがなきにしもあらずですよ。というのは、中国には非常にクリークが多いですね。「どこでそれを渡ったらいいか」ということが。同じような地形があるわけです。そういうようなことだって、なきにしもあらずです。

地図だけでは、とてもね。日本のいまの地図みたいな、しっかりした地図はありませんからね。ほんとうに。手で書いて、何か、子どもの1年生が絵を描いたみたいな地図だってあるわけですよ。地図なんて、いつも入手できませんからね。よくても、飛行機で撮った空中写真ぐらいのものです。それが手に入ればいいぐらいな話で。私ども、将校には地図を与えられますよ、将校には。地図の図号というのがありまして、そこには何もなんです。地図だけしかない。地図は常に見ているわけですよ。だから、私もすぐに地図を見るんです。もう、地図がなくちゃ、いられないんですね。

地図ばかりではありませんよ。いろいろな情報を得るためには、「敵の捕りょを捕まえて情報を聞く」とか、「民家の住民を連れてきて聞く」とか。

とにかく損害を出さないことだね、一番考えることはね。「かっこう前進する」とか、「銃を撃つときにはどういうふうに撃て」とか。とにかく「一度出したところからは必ず、撃ってはだめだ」と。同じところ撃ったら、必ず敵が見ていますから。あっ、そこに日本軍がいるということがわかりますから。そこへ掃撃してきますのでね。すぐに位置を変えるとか、前進するときも、こっちから出る、こっちから出る。敵が全然、つかみようがない、というぐらいにして、接敵をすると。「接敵」というのは、敵に近づいていくこと。そういうことなんですよ。突撃するときも、なるべく隠密にやると。マキ突撃をやると。マキ突撃なんていってもわからないでしょうけど、突撃しない者はこっちで「わあっ」と声を上げる。こっちから、黙って、さっと行くというようなことがありますし、「いまから日本軍が行くぞ」というラッパを吹いたりして、それで全然、知らないところからぽっと行くとか、いろいろな偽装があるわけですよ。

私どもが「しっかりやれよ、歩けよ」と言って、こうやって止まっていると、そこで立ち止まってしまうんですよ。歩きながら寝ているんですよ。寝ている暇はないですから。

第一線まで、ついてこられないんです。それぐらい厳しいんですよ。「歩きながら寝ている」なんていうことは、普通の方はわからないでしょう。作戦というのは、それぐらい厳しいんですよ。

敵にぶつからないときは、どんどん前進しますしね。もう、ぶつかって戦闘が始まったときに、やっと休憩するぐらいで。そんなことぐらい。大陸作戦というのは、そうだったんです。

戦うか、歩くか。「休憩する」というようなことはめったにありませんしね。

戦闘に夜も昼もありませんよ。もう、敵にぶつかったら、夜も昼もありません。いく日も寝ないでやらなきゃならない。これは、そんなことは言っていられないですよ。「もう10時になったから寝よう」なんていうようなことでは、とても戦争なんてできません。歩きながら寝ていたとか。それこそ、ばたっとひっくり返ったら、がっと寝るんですよ。

状況によって夜も昼もないの。要するに、状況が許せば、昼間だって寝ますよ。夜も寝ます、状況が許せば。そのときの状況いかんによって、すべて。状況によっては、もう夜も昼もなくて攻撃していく、と。ご飯も、炊いている暇もないですよ。例えば、飯盒を置いて、ご飯を炊くやつは残しておいて前進していっちゃうんです。それで、今度は、飯ごうで炊いたやつが、それを持って一所懸命追及していくんです、3時間も4時間もかけて。そういうような戦闘だったね。

ずっと厳しかったね。どこが緩やかだなんていうことはありません。

「敵のここが弱点だ」というときには、そこをぽんとやるし。例えば、向こうの旧正月がある。旧正月のときには、こっちは攻撃するわけです。ところが、日本は1月1日の正月になると、向こうが攻撃してくるんですよ。休ませないんですよ、お互いに。

私は意識不明になっちゃったんですよ。出血多量でね。だから、そんなのはありませんよ。やられているときにね。それこそ、痛いんですよ。それからね、痛いということが記憶にあるかどうかわかりませんけどねえ。焼けた鉄の棒で殴られたみたいなものですよ、それこそ。ひどいものですね。

とにかく、生きるか死ぬか、わからないんですもの、私自身が。そんなだったからですから。毎日、痛くて。痛いんですよ、それこそ跡が。傷がまだ生ですから、痛くて痛くて。どうしようもなかったんですが、だんだん治ってきて、少しは伝い歩きができるようになったのが1か月後ですよね。それで、後送しようということになって、第一線は追及できないので、第一線で使い物にならないから。後送しようというので、うしろへ下がり始めた。

当然、やむをえないのではないですか。とにかく、粤漢線(えつかんせん)打通というのは当然のことですよね。だって、南方との連絡が何もできないですから。そうでしょう、普通の人だったら。海もだめ、空もだめだったら、陸しかないですよ。

だって、空がだめ、海がだめだったら、しようがないですよ、陸しかないんだから。


Q:それで二千人が亡くなりました。それでもしようがないですかね?

 しようがないということはないですけれども。戦闘ですからね。

それは、犠牲がひとりもなくて、打通ができれば一番いいですよ。ところが、二千人どころではないですよ。中国、中支大陸にいる、南方にいる、どれだけの人員ですか。これは、えらいものですよ、ねえ。だから、もう当然、いくさというものにはつきものですよ、犠牲が、すべて。すべてそうでしょう。私らが飯を食うっていっても、みんな犠牲になっているものがいるのではないですか。ネギだって、タマネギだって、ニンジンだって、ゴボウだって。みんな生き物ですよ。食物一切、犠牲の身ですよ。それで、私ら人間が生きているのだもの。そんなことを言ったら、切りがないですよ。生きるためには、みんな。

それで民族がいくさをし、宗教がいくさをし、みんな自分たちが、いいほうになろうということの欲ですよ。人間、欲です。欲がなくなったら、だめでしょう。私は貧乏して、飯を食わなくてもいいという人は一人もおりませんよね、そうでしょう。やっぱり仕事を人一倍して収入を上げて幸せになろうと、女房も幸せにしようという気持ちは誰にでもあるでしょう。それと同じですよ。

たしかに、あの戦がどうであったかというようなことはね。私らにしてみれば、そんなに悪く解釈したくないね。というのは、なぜかというと、亡くなった者がたくさんいるわけ。亡くなった者は、ほんとうの純心で亡くなったんです。

「天皇陛下万歳」と言って、亡くなりましたよ。そういう人たち、友のことを考えてみると、ほんとうの純心な気持ちで、自分に与えられたことだけは、しっかりやるということでもって、それぞれ、みんなが思っていたのではないですか。そんなに悪く考えたら、それこそ、立つ瀬がありませんよ。

立つ瀬がない!

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。
日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1918年
静岡県小山町に生まれる
1939年
歩兵第34連隊入隊
1944年
湘桂作戦に参加
1945年
終戦
1946年
復員後は、公務員、自営業を経て、学校の事務員を務める

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