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タイトルタイトル: 「武器を持たずに突撃」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 酒井 健蔵さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月21日

チャプター

[1]1 チャプター1 打通作戦  02:13
[2]2 チャプター2 武器のない突撃  01:19
[3]3 チャプター3 上官の死  01:00
[4]4 チャプター4 補充兵  01:26
[5]5 チャプター5 帰郷  04:10

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もう、作戦があるたんびに、身の回りのね。死んでもいいように、恥ずかしいものを残さないように、整理しちゃあ、もう、出かけていったから。だから今度、湘桂作戦になって、もちろん、もう自分のものはね。人に後で見られて恥ずかしいようなものは一切処分しちゃって。「もう二度とは(日本に)帰ってこないんだから」というわけで、覚悟はしていたんですね。

もう覚悟はしていましたね、そういう話は出とった時から。「もう二度とここには(日本には)帰ってこれない」と。
「どうせもう、これで終わりだな」っていう気持ちがあったねえ。食料、全然、来ないからね。弾薬なんかも送るには送ったらしいけども、前線までは届かない。途中でみんな爆撃されちゃって。湘桂作戦はほとんど昼間の行動はなく、夜間だったねえ。昼間はもうね、飛行機が来ちゃってね、どうしようもなかったよねえ。もう柳州まで行くまでには、夜だね、ずっと。

期間が長いからね。そりゃあ前進、前進でしょう。大変なところだったよね。糧秣はこないし、弾薬はこないし、着るものももちろんなし。

ほんとに弾がなくてね、節約ですよ。だからもう、突撃の時なんか、もう弾を撃たない。敵が弾をびゅんびゅん来る中をね、飛び出していっちゃあ、敵を奪取。その陣地をね、奪取していったんだけどもね。

何しろ、弾がないなんてね。弾薬もちっともこないし。何しろ、送るには送ったらしいけど、途中でもって、爆撃でやられたらしいんだけれどもね。

銃を持ってないでしょう。(銃を)持っているのは、分隊長1人ぐらいなものだもの。それが3個分隊あるでしょう。それで3~4人、4~5人しかいない、ねえ、小銃を持っている人は。それでもって突撃ですよ。

どうにもなんないんだねえ、だけども。やっぱ「やれ」ということでは、やらなくちゃならないですね。「突撃しろ」と言われたら、突入しなくちゃなんないし。

小隊長を火葬にして、それから部隊の後へ追求していったのは、夜の9時頃ついたで。ついたとたんに、ホリエ少尉に「お前、第1小隊長の代理をやれ」と言われて。部下の顔を見ないのに「あの山を攻撃しろ」と言われたんだからね。
「攻撃せよ」と言われたでしょう、状況も全然、わからないんだから。

ちょっとびっくりしたけどね。びっくりしたっていうわけでもないけれど、状況が全然わからないんだからね、僕は。

1人戦死、2人負傷したかな、犠牲者を出しちゃったけどね。あの時は気の毒だと思ったけど。

ああ、補充はね、ダイヤっていうところに来たわけだよね。その補充はね、何人ぐらい来たかなあ? 各分隊で1人ぐらいかな、20人足らずですかな。その人たちは補充兵で。現役兵じゃなくて補充兵で召集されて、内地で教育を受けないでそのまま戦地に来たらしいんだね。そういう人たちが追求して、だから我々の部隊へ来たんだけど。多分20名足らずと思いますね。

恥ずかしい話だよな、あれだけの装備。小銃持っての、小銃中隊が小銃を持ってこないんだもの。聞いてみるとね、5人に1人しか渡らないらしいね。もう、内地にはなかったんでしょうね。

「帰りたい」とかね、もう言葉に。「戦死したほうがいいや」って、「戦死したいな」と思う時が。苦しくてね。そんな苦しい時もあったね。夜も昼も区別なく歩いたりさ。戦闘ぶっ続けでね、食事もとれないような状態とか、そういう時には思うね。

やっぱ、故郷だけはは懐かしかったね。だけど帰ったところでね、僕は昭和13年に出たっきりでしょう、それで21年に帰ってきたからね。僕も。みんな忘れちゃっているからね、僕を。生まれた子供だって9歳になっちゃったんだからね。9歳の子供がね、19になっちゃうから。僕の顔なんて、出征する時にはね、子供らしい素直なような顔をしていたけど、だけど終戦で帰ってきた時にはやせこけた、ねえ、もう、おっかない顔をしている。まあ態度も違うでしょう。だもんなんで、写真もなかった、なかったんじゃないのかな。僕、「よく健ちゃん、帰ってきたんだな」と言われたことはあまりないもの。「知らない人が帰ってきた」と。


Q:帰ってきてから、戦争のことはお話になってたんですか?

 僕はそういう人のね、関係で。

近所にみんな犠牲者が多かったので、あまり、あのそういった戦争の話は僕はしなかったよ。兄貴にもね、あんまり話をしないですよ。だから割合、僕は「弾のこないところにいたんじゃないか」と思っている人がいたらしいけどね。長くいても無事、生きてるんだから、行ったばかりの人が戦死しているでしょう。だから、そんな長くいられるぐらいだから、「弾がこないところに行ってるんじゃないか」というような。「だから帰って来たんだ」と。

それでね、周りのね、犠牲者の多かったこと。隣組にね、あれ16人ぐらいあってね、十何人かが戦死しているでしょう。僕らのみんな仲のいい人が戦死しているでしょう。2人行って、出征して、2人とも死んだとか、3人行って3人とも亡くなっているし、町内に、隣組にあるもんなんでね。やっぱ、そういう人に気の毒だと。僕らはね、長くても無事に帰ってきた、と。だから、申し訳ないような感じもしたんだけどね。でも僕らだって、2回は負傷しているんだからね。何しろ犠牲者がね、あんまり周りにありすぎたから、故郷もね、なんだか悪いような気がしてきた。生きて帰ってきて、死んでもいい人が生きて帰ってきちゃったからね。

気の毒だと思うね。だけどしょうがないね。ただ僕らはね、「国のため」、小さい時からそういう教育をされてきたもんだから。「自分を犠牲にしても国のために尽くす」と。

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。
日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1917年
静岡県静岡市に生まれる
1940年
歩兵第34連隊入隊
1944年
湘桂作戦に参加
1945年
終戦
1946年
復員後は、清水市の造船所で守衛を務める

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中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)

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