ホーム » 証言 » 鈴木 峰雄さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「5年におよんだ戦場体験」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~
名前名前: 鈴木 峰雄さん(静岡・歩兵第34連隊 戦地戦地: 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)  収録年月日収録年月日: 2007年7月23日

チャプター

[1]1 チャプター1 果てしない作戦  03:09
[2]2 チャプター2 茶陵での戦い  01:57
[3]3 チャプター3 日本の敗戦を聞く  01:32
[4]4 チャプター4 打通作戦を振り返る  02:06

チャプター

1
2
3
4

再生テキスト再生テキスト

(作戦の内容を)最後まで隠していたから。「敵を欺くにはまずは味方から」だから。(作戦の内容を)発表しないわけですよ。作戦の命令が出ても「どこそこに行け」っていうだけの。だけど、それだけじゃあ、どんだけ支度していっていいんだか、わからないわけだから。普通だったらあの、兵隊さんだって、みなそれぞれ個人の持ち物を持っているわけ。それを置きっぱなしにして、作戦に出ているわけ。「ひとつも置いてはいかんよと。まとめなさいよ」という命令が。

だから、みんなその辺でもうみんな大体、「これはもう、生きちゃ帰れないな」という気持ちになったのじゃないんですかね。

20日か、せいぜい長くて1か月ぐらいでしょう。長い作戦でもね。「行けば帰ってくる」っていう目安があった。今度は「行っても帰ってくる」っていう目安がまだついていないわけですよ。どこまで行くかもわからないけど、いつ帰ってくるかも、わからないわけ。

「いつ内地に帰れる」とか、「現住地に帰れる」っていうことは全くないわけですから。

「大変な作戦だな」といって。「これはえらいことだな」という。

「いつ終わるかわからん」ということなのでね。「いつからいつまで」っていうあれが出ていないものですから。「行けるところまで行くんだ」という。「長いことは事実、長いなあ」っていう。

命令で行くんですから。ただ命令して「行け」って言われているから行くだけなんで。

その当時の心情を聞かれても、何ともいいようがないよね、今ね。今だったらこんなこと言えるけどね。その当時、単純な気持ちで、「どうせ帰れないなら、仕方がない」っていう気持ちの方が強かったからね。まあ当時、「帰ろう」なんていう、一応はね、夢はあったけれども。「まず帰れないな」っていう気持ちもたくさんありましたよ。それに、5年もおっているんですから。普通だったら3年で帰れるのが、情勢悪くなって5年まで置かれて、それも「いつに帰れるかわからない」状況で、反転命令が出ても取り消しになるようなことですからね。だから、あきらめっていうかね、その方が先じゃないですかね。

作戦まあ、戦争好きなえらい将軍さんたちは「面白い作戦」だと思ったかも、わからんだろうけど。やっぱり、いっぺん現地で戦争をやる人間の立場になれば「大変なことだ」「辛いことだ」っていうことはひしひしと感じていると思うよ、それは。誰も口には言わないけども。

小銃の銃弾薬っていうのは、ものすごく欠乏しとって。

「砲弾持っていけ」って、「鉄砲の弾もほとんどないよ」と言われて取った。補給が潰れて来なかった、ということだねえ、基地に。みんな船で沈められちゃって。武漢地区から船で運んだんだわけだから、その船がみんな沈められちゃった、湖に。だからここに来ないわけよ、弾が。

はがゆさはもちろんあるんだけれども、「状況が悪い時は仕方がない」っていう感じじゃないかね。もう、弾なくなった部隊は戦いようがないですから。それを何とかしのがなきゃならんっていうのが、いわゆる戦争の辛さっていうか、それはあるんじゃないですかねえ。

(弾薬が)行き着かないことには、戦争にならないだけだもんね。そのために死んだ人もいるんじゃないんですか、弾がなくて。「石を投げた」っていうんだから、茶陵では。戦闘中ねえ。

「弾薬の無駄遣いをしないで済ませる」っていうことも、ひとつのあれじゃないですか。指揮官の能力じゃなかったんでしょうか。そりゃあ、厳しいことを言う士官もいましたよ。「むやみに鉄砲を撃つともったいない」と、「一発、どれだけ金がかかっているかわかるか」と怒るやつもいたもの。

「1発5円で売り買いがあった」という話がある。兵隊さんの中で。まあ、お金は持ってないけどね。まあ、冗談か何か知らないけれども、それぐらい貴重なものだったということは聞いたことがあります。

「ああ、戦争終わったか」と。「ああ、これで、明日からどうなのかわからんけど、まあ一応、日本には帰れるだろうなあ」という。「戦争が終わった」っていう。それからねえ、終戦になる10日くらい前から飛行機、来なかった。来なくなっちゃった。「おかしいな」とは思っとたんだけども。昼間も歩けたわけねえ、10日ぐらい前から。

「おかしい、おかしい」とは思っていたけども、どこかのところの兵站に泊まったら、夜中の12時に叩き起こされて「今、終戦の宣言が出た」と。「お前ら泊まっておくわけにいかんから、そろそろ元隊に帰れ」と言われて追い出されて。追い出されたけども「やれやれ」と思っただけですよ、ええ。

「アメリカと戦えるかなあ」っていう気持ちはあったね、俺は。僕らが入った時の兵隊の戦力とね、戦争が終わったあとの兵隊の戦力っていうのは、全然違うんですよ。年取った兵隊が多いし、よたよたしている人が多くて、覇気も何もないような人間が多かったから。いくら3師団、強いとか何とかと言われても、「これで戦えるのかな」っていう気はあったね、見ていて。だから、いずれはどうにかなるんじゃないかなっていうふうに思っていたから。

「戦争終わった」と思って、「やれやれ」という気になったんだと思う。

補給のないね、戦争なんてものは、まず、あり得ないっていうことよ。それを無視して、中途半端に、そんなことで計画をやったっていうことじゃないですか。

だからね、考えてみれば、今にして思えば、「この作戦が何だったのかな」というよりも、「何で5年間も兵隊に取られたのかな」っていうことの方が、僕自身の問題としてはね。1年で帰ってきている人もあれば、3年で帰ってきている人もあれば、5年目に死んだ人もあるしね。作戦が終わる直前で死んだ人もあるんですよ。8月10日か、1日か2日に死んだ人もあるわけ。だからね、そういうことを考えると「果たして何だったのかな」と、そういう気はもちろん当然ありますよ。「作戦そのものは何か」っていうことよりも、日本軍が、我々が戦争に呼び出されて、今にして思えば、無駄働きをしたっていうか、見込まれてね、色々なことを言われて。

その5年間、その後の人生にどういう影響があったか、というと、得になることは何もないわね。だからもうそんな、弾薬だ兵器だっていうことは関係ない、今、私は経理の仕事をやっているんですから。

兵隊で覚えたわけじゃないですから。だからまあ、たどり着くことは何かね。教えてもらいたいよ、僕も、逆に。

出来事の背景出来事の背景

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】

出来事の背景 写真大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保すること、そして台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だった。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人。揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、歩兵第34連隊も加わった。

当時、中国軍は兵力で日本を上回っており、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。
日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。

昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、
日本による中国大陸打通の成功を発表した。

しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。

日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1919年
朝鮮に生まれる
1940年
徴集、本籍地が修善寺だったため、第3師団兵器部配属
1945年
終戦
1946年
復員後は、織物会社を設立、税務署勤務を経て、税理士

関連する地図関連する地図

中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード

NHKサイトを離れます