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タイトルタイトル: 「死から逃れられない兵器」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
名前名前: 西村 金造さん(震洋特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(長崎・川棚)  収録年月日収録年月日: 2009年12月2日、4日

チャプター

[1]1 チャプター1 教官として  05:58
[2]2 チャプター2 訓練基地・川棚へ赴任  02:35
[3]3 チャプター3 ベニヤ製の特攻兵器  02:22
[4]4 チャプター4 攻撃方法は集団での突入  01:37
[5]5 チャプター5 2か月間の訓練  02:09
[6]6 チャプター6 佐世保軍港で行った実地訓練  02:22
[7]7 チャプター7 震洋の脱出訓練  02:17
[8]8 チャプター8 死から逃れられない兵器  03:16
[9]9 チャプター9 攻撃できる条件は限られていた  02:43
[10]10 チャプター10 突撃命令  02:08
[11]11 チャプター11 震洋搭乗員たちへの思い  03:31

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
収録年月日収録年月日: 2009年12月2日、4日

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私は、兵科4期予備学生です。兵科4期予備学生というのは、昭和18年の8月に、召集猶予令というのが撤廃されまして、学生は卒業してから、召集を受けるのであって、召集の義務ですね、それまでは、延期できるというのが、認められたものが、廃止されたと。すなわち、すぐ兵隊に、みんな元気な者は来い、と。で、兵隊、身体検査を受けよということ。8月から9月にかけて、一斉に、その大学の者は、ま、医学とか理学は別にしまして、みんな、召集猶予は撤廃されることになって、応召したと。で、検査を受けまして、陸海軍に入ったわけですけども、わたしは、海軍に入った。希望して入ったんですが。


Q:それはお幾つの時?

 入隊したのは18年の12月の10日です。各住所の管轄する海兵団に、入隊しております。私は、横浜生まれなもんですから、東京の大学に行ってましたけども、12月10日に、横須賀海兵団に入団して、そして、あの海軍二等水兵になったと。将来の士官候補ばかり、なんですけれども、4期の予備学生はですね、最初からですね、ちゃんと、一番海軍の位の下の二等兵に、で入団してると。そして、翌年の2月1日付で、一定の試験にパスした者が、予備学生に任ぜられと。そして、2月1日から、半年かかりまして、半年間は予備学生として、士官候補としての勉強、基礎教育をすると。それが、予備学生の基礎教育というもの。

基礎教育が(19年)7月の15日に終わりまして、同日付でもって、今度は実地訓練の実施部隊のほうですけども、水雷学校に入学を命ぜられました。そのときに、水雷学校に行く者もあれば、航海学校に行く者もあるし、後の飛行科に行く者もある。飛行科を希望したけども、身体検査でもって、適性検査だ、適性検査でもって、はねられまして、飛行機乗りにさせてもらえなかった。非常に残念だった。

ま、そういうことで、7月15日に水雷学校の魚雷艇、2期の魚雷艇学生になりまして、そこで2か月、魚雷艇の訓練をしまして、そして、その9月に震洋隊のほうに。回天に行く者もありまして、特潜に行く者もある、震洋に行く者もある。それぞれ、みんな分かれて行くわけですけども。

そのころに、「青蛙」という俗称のですね、小さな船がですね、走ってるのがあったんですね。それは、何かというとですね、震洋なんですけれども、震洋の訓練はその年の、つまり19年の4月にマルイチからマルキュウまでの特攻兵器が軍令部に、決められまして。そして、その一番早くできたのはその、いやそのうちのマルヨンとマルロクが、実行した兵器なんですよ。マルヨンが震洋で、マルロクが回天ですよね。

で、あのわたしは、あの7月から9月に魚雷艇学生でおりましたけども、片っぽの上で、震洋を見とったわけです。震洋とは知らずに、何か特攻艇だということで。

変わった船が来てると。特攻隊のような船のようなと言ってね、「どこに来てる? どこにある?」と言ってもね、分かんないんです、ちっちゃいもんですから。ちっちゃい船が走ってるんですよね。あの艦尾をこう上げてね。白いこの波を立ててね。あれだって言うけど、あれが何で、兵器かと。そして、わたしが4次の特攻艇の訓練の、川棚で始まる訓練の艇隊長に、第1回目の艇隊長になるわけですから。4次の第2次魚雷艇学生のうちから、50名が。わたしがあの、先任なんですよね。

で、そこに行って、あの艇隊長訓練を。それから2か月になったわけです。それで、艇隊長訓練をして、それで部隊編成して、出ていくわけですけども、どういうものか、4人の教官として、残らんならんということになりまして、わたしはもちろんもう、もう、部隊編成しておりますから、あの3人の艇隊長のうちの一番、上ですから、先任艦隊長ということで。ま、そのつもりで1週間ぐらい、おったんですけども、教官室に戻れという、命令を受けまして、ま、あの嫌な、不服なんですよね。あのやっぱし、第一戦に行きたいですからね。ですから不服なんだけど、命令ですからね、教官室へ嫌々、残ったけども。

今、見えるそこの半島と、こちらの半島の、外側のほうにね、みんな出まして。あれが大崎山っていうとこ、ですけどニッスウの木の向こう側の、その間の海でもって(訓練を)やっとったわけですね。


Q:この辺で、震洋艇がいっぱい出て?

 そうそう、出てね。大体、常時200隻ぐらいの震洋艇がおりまして、訓練用のね、震洋艇がおりまして。それで、ここから、みんな出て、その今、見えるこの前の海でもって、その各艇隊ごとに、12隻ですね。艇隊ごとに、みんな集合して、訓練として外へ出ていって、外の海でもって、訓練したと。それで、夕方に入ってくると、帰ってくるということでしたね。

20年の2月からはね、この海の向こう側の市ノ瀬のね、私の家がある所がね、訓練地に、なっちゃったわけですよ。それで、こことは、無線交信をしてね。で、あそこでもってね、5時に夕方の食事をして、6時に集合して、訓練を与えて。それで、それから出航して、大体50杯ぐらいの船が今度、時津のほうにずっと、沿岸を下って、南に下って、それから大村に来て、箕島とあの本土との間を北上して、今度、大岳山まで来て、それから上浦に帰るんですよ。そういう、大村湾の南部を一周、訓練をよくしたもんですよ。うん。

訓練はいわゆる、その集団で戦う、特攻隊ですからね。1杯で戦うのと、違いましてね、少なくとも12杯一緒に、攻撃に出ていくわけですから、ええ。通常の場合には24杯とか、48杯とか、全部が一緒に行く場合もありますから、そういう編隊航行をして、それで敵の船の500メートル、ま、1000メートル、500メートルまで行ったら散開してですね。ずうっとみんな、300ないし500メートルにずうっと散開して、それで、ぶつかっていくわけですからね。まあ、もう、とにかく、その死ぬ訓練ですからな。つまり、責任を果たして死ぬと。で、1回出たら戻れないわけですからね。そういう状態に、みんなあの搭乗員もみんな、置かれるわけですから。

(震洋艇は)扱い方が悪いと、ベニヤ板ですからね、パシッといくんですよね。補強はしておるんですけどね。だから慣れない者が、われわれが飛び下りるときには、補強材がみんな、こう筋が入ってますから、上手に飛び下りるんだけど、慣れない者は、補強材の間に足を入れると、ミシッてこういくんですね。それを何度も、重なると、破れたりしますわな。


Q:あっ、乗り込むときに?

 そう、乗りこむときに、飛び下りるときにね。基地からね。ええ。

大変もろいですね。ええ。もうそうですね、7ミリ以上の弾で、ポツポツ、穴があきますからね、撃たれたらね。穴があけば、すぐ水が、浸水してきますからね。

爆薬そのものに、機械をつけて、ぶつかって操縦していくもんですから、消耗品なんですよね、搭乗員がみんなね。そうは言えないから、そうも言いませんけど、われわれはそういう感触、受けるわけで、それで、その非常にその、ぜい弱だと、いうことですよね。で、弱いということですよね。それから、あの無防備だっていうことですよね。あの、弾ですからね。要するに弾。弾の一番、根元にその機械を据えつけて、走っていくというように考えてもらえばいいわけですから。あの筒を離れたらですね、もう向こうに行って、爆発するだけのことですからね。もう、よそのことは考えられないわけですから。

もう、船はない。油もない、ましてね。そういうような状態のとこで、もう残ってんのは、この震洋だけだと。そうなると、震洋を走らすガソリンは、まあどうにか、調達できるんですけど、弾もない、油もないと。あの金物もないということですから、ほかの船がつくれないと。それから、発動機が必要だけど、発動機も、もうないと。しかし陸用の、あのトラックエンジンが幸いに余ってるもんで、あるもので、とにかく船をつくって、機械を据えて。それでその火薬を運べないか、ということが条件ですから。無防備であるし、そういうその防備の兵器を、積むことも許されないし、無防備なまんまで、普通は積んでんのは、火薬だけで、あの突撃するわけですけども。

(250キロの)爆弾を積んで、あの攻撃するんですけども、あれは空から攻撃すると、その速力があの、つきますから、非常に、その同じ例えば、250キロでも爆発力は、つまり破壊力は激しいですよね。まあ、あの魚雷なんかもそうなんで。魚雷は1、5トン、6倍の火薬を積んでるわけですけども、それは水面じゃなしに、水中ですから、ものすごく、その爆発力があの大きくなるけど、震洋は250キロですから。けっこうな爆薬には違いないけど、水面、喫水線で当たるもんですからね、このね。ですから破壊力はね、爆発してもみんな爆発が、あの(振動が)みんな逃げちゃうわけですよね。だからやっぱし、例えば5000トン以上の船になると、2杯ぐらいが一緒に当たらないと、沈没させることはできないというぐらいの、力なんですよね。

まあ、あの、初めの訓練のときには、こんな船でもって、こんなぜい弱な船で、で、無防備な船で、戦えるのかということは感じますわな。飛行機と比べたら、段ち、非常にぜい弱ですから。ま、しかし2か月の訓練を終わるころには、もう、あの腹が決まって、そしてこれでもって、一命をかえて、そして、その敵を攻撃して、少しでも今、とにかく今もう大変、もう負けに、負けて、戦うごとに、負けてですね。

この訓練を始める前は、もうみんな、こんなボートみたいな、ぜい弱な木製の船で、その戦果を上げることができるのかというぐらいに、みんな、思いますもんね。みんな搭乗する人たちは、飛行機の訓練をして、あの予備、予科練習生を終えて、それで飛練という、その飛行予科練習生、飛練の飛行機乗りの最初の訓練に入るときに、飛行機がないもんですから、このボートのほうに、みんな来させられるわけですから。みんなまあ、志願したという、志願の形は取っておりますけど、それでここに来て、そのこのボートを見たときにはですね、みんな、がっかりするんですよね。

訓練というのは、すごいですね。2か月の訓練、終わるころには、もうこれで、戦うんだという腹が、みんな決まってですね。みんなその段階になると、死を恐れないで、もう、これしかないんだということが、みんな分かるもんですからね。それならこれで、りっぱにその役目を果たそう、という気持ちになって、みんな卒業して行くわけですよ。

われわれの、この教官としては、そういう初め来て、非常に、その落胆してる、この予科練生を励まし、そして死ぬことを前提でもって、訓練をしていくと。2か月の間に、死を恐れないだけの兵に仕上げる、という責任を持って訓練をするんですけども、中身を知るだけで。そして、日本のこの負け戦の状態も、ある程度、あのそんなに知ってるわけじゃないけど、ある程度、知ってるもんですから、まあ、かわいそうだけども、これでもって立派に、来た以上は、自分の務めを最大限に、この生かしてやるように訓練して、そういう気持ちを持ちながら、あの指導してきましたけどね。

佐世保港内にはいつも、軍艦があの停泊してますから、どの軍艦を敵、敵の軍艦とみなしてですね、それに攻撃をしかける。けっこうね、鎮守府を通してね、その向こうの船の艦長はもちろん、それから、あの当直に、連絡を取ってですよ。無線電話でね、連絡を取って、何時に、襲撃の時間になります、よろしく、というのを連絡をしなきゃなんないんですよ。

いやそういう、いや、いきなり行ったら、大変ですから。間違って、ぶつかることもあるわけですから。ぶつかってもあの、爆弾は積んでませんから。爆弾の代わりに砂嚢(さのう)っていって、250キロの砂袋ね、それを頭部に置いてますから。だから、あのぶつかってもですね、こちらの船が、壊れるだけのことですからね。

よけるつもりがね、もう50メートルで、ま、曲がるようになってんですけどね。ね、50メートル強っていうのはもう、目と鼻ですもんね。こんなもう、大きいんですから、船はね。こっちはこんな、ちっちゃいですから。もう目の前が全部、その壁になっちゃうわけですよ、船の。外板になっちゃう。それが曲がってきて、ようよう、あのすれすれでもってこう、ようやくこう、曲がるんです。だから、100メートルぐらいで曲がるとね、やっぱしちょっと、腰抜けに思われるからね、近くまで行ってね、確かめてこう、曲がってるうちにね、速力が速いですからね、あっという間にその距離が縮まっちゃうんですよ。それでぶつかるというよりはかすっちゃうわけですね。

でも、向こうの船にはあまり傷つけたことはありません。こちらの船は、必ずミシミシやっちゃって。ま、沈没することなかったけども、相当、傷んだ。でもそれはね、やっぱし、訓練ですからね。そりゃあ、思うようにはいかないですよ、やっぱしね。それで事故を起こすわけですけど。

ベニヤ板っていうものは、例えば、もう25ミリの機関砲で、1発でも当たればですね、穴が。あのこんなもんですけど、25ミリは。こんなもん。こんなもんですけどね、当たればですね、裂けますからね。実際あのわたしももう、あの裂けるのを見ておるわけですけども、テストしておりますから。そこからブクブク沈むんですよ、船がね。

浸水すればもう、すぐ機械は停止してしまいますから、あとはもう沈むのを待つしかないですから、みんな泳いで逃げるわけですよね。うん。

脱出というのは敵前のですね、あの100メートル、50メートルでもって、舵を固定して、あの舵は回り舵輪(だりん)なんですよ、このぐらいのね、回り舵輪です。それを固定してですね、動かないようにして、そして脱出すると。そいで体には浮く、あの浮き袋。何ていうんですか、あれね、あれつけてるわけですよ。

(脱出の)訓練はしたんですよ。さて、訓練してですね、その訓練されるほうも、訓練するほうも、感じたことはですね、無理なんだという、有意義に感じられないと。つまりね、ひとつはね100メートル手前で、舵を固定しますね。そしてあの、あの海に、飛び込んでね、そして、あの別な船に乗ってですよ、そばにおる船に乗って、その固定した船を見るとですね、10メートルぐらいは、そのまま行きますけどね、脱出した途端にね、右に曲がるか、左に曲がる。必ず曲がる、曲がっちゃう。なぜ、曲がるかというとね。舵はね、動きじゃないんですよ。波があるため、風があるためにですね。船が、小さいから、そういうその外部から、与えられ、与えられた衝撃のために、右でも、左でも、曲がりやすいんですね。

100メートル手前で、脱出するとですね、当たらない可能性のほうが多い、ということが、はっきり、確かめられるわけですね。そういうことからですね、あの、もう搭乗員のほうも、搭乗員もね、せっかく、この訓練をしてやってるのに、ここで脱出してですね、命は助かるかも、分かんないけども、何のためにその今まで、訓練し、で、攻撃したんだってことになるからですね。脱出などね、精神的にも、できないようになるんじゃないか。もう、その直前になればもう、死ぬことしか、考えないわけですから。もっとも、そういうことも、考えないような状態になってるわけですから。そういう、ことでですね、もう、教官はもちろん、搭乗員もですね、脱出のこの訓練は、やめましょうということになって。

昭和19年の、19年の12月以降のですね、もう、あの主たるその特攻隊の、震洋特攻隊の訓練というのはですね、もう、脱出するという訓練は、実施しませんでした。

確実に言えることは、もう、自分たちは、死から逃れることはできないということは、みんながもう、認識してるわけです。自分で初めは、一生懸命、言い聞かせてる。信用しない、しないけども、言い聞かせてる。そのうち、2か月、終わるころになると、もう言い聞かす、必要ないぐらいに、もうそんなことより、この船でも戦ってみせるぞ、という気持ちが非常に、だんだん強くなってですね、もう不安というものは全然、なくなっちゃうわけですね。ただ、不満はありますよ。不安じゃなしに、不満。もっと、いい飛行機に乗りたかったなっていう、不満ね。それは僕は最後まで、だれでも持って当たり前だと、思うんですよ。もっとそのやっぱしね、もう飛行機はすごいですもんね、威力がね。だから、飛行機乗りとして、海軍に入ったわけでしょう。それが、こんな、小さなボートでもって、たった250キロの25番ですよ。もう火薬でもって、自爆しちゃうわけですからね。だから、不満はありますよね。

でも、その不満に対して、われわれのほうから、できるだけ情報を与えて。これしかなかったら、戦わずに、逃げるかね、あるいはこれで戦うか、もう、ふたつしか、道がないじゃないのと。あんたたちはもう、戦うために来てるんだから、今さら、尻尾巻いて、その逃げるところもなければ、そんな気持ちもないだろうと。ならば、男なら、やってみなと。と、そういうかたちに自然になっていくわけですからね。また、そういうことも、あの精神教育では露骨に言うわけですけど。それがもう、2か月の終わりごろになれば、もう、「もう分かってますよ、教官。心配しなくていいよ」と言いいはするものですね、「やっぱし、やっぱし飛行機に、乗りたかったなあ」と。「どうせ死ぬならばなあ」それは否定できないと思いますがね。

わたしは、あの教官としてですね、ま、やるべきことはもう、やってしまった。あのわたしの上には、隊長がおる。その上には軍令部というその大きな組織が、海軍という組織がこうあるんですけれども、組織の中の一員で、そのしかも一番、組織の下のほうのね、一員ですからね、自分で取捨選択は、できないです。命ぜられた、行動範囲があるわけですから、その行動範囲で、やっぱし、教えられるほうもその、その教えられる者としての、行動範囲があるし、われわれも教える側として、行動範囲がこう、決められてるので、それ以外のことは、なかなか、あのできる時間も、精神的な余裕も、ないわけで、一生懸命、そのこう教えよと、言われたとおりに、一生懸命、教えて、しかもそれがもう、例えば、戦争の戦い方、何をおいても一番よく、考えられたあの、内容ですから、それを、あの教え込んで、体にみんなあの、しみ込ませるのに一生懸命ですよね。時間が、わずかしかありませんから、もう、その訓練時間に一定のことを教え込まないと。外に放り出して、第一戦にあの、行ってからは、みんなあの、効果を上げるように、つまり戦うその自分たちの部署の役目を、果たすことは、この教育をうまくするか、しないかに、かかるわけですから、一生懸命ですもんね。

震洋艇はですね、外海では、絶対、戦えません。必ずその作戦のとこで、さっき、まだ、話ししてなかったけども、震洋艇のその運用の仕方が、決まっとるんです。まず敵が、上陸してくるんじゃないかと思われる地点を選ぶ、ということ。つまり、あの沿岸でもって、沿岸に来た船を、やっつけるんじゃなくて、あの海を走ってる船を、こちらの走ってる船から、出ていってですね、それで攻撃するって、いうような、あのそういう、その海洋攻撃は震洋はできない。必ず沿岸でもって、沿岸の基地を守るために、存在するということで。まず、その敵が上陸してくるんじゃないかと思う場所に、基地を設けてやると。

それからですね、そういう基地が、敵に発見されて、艦砲や飛行機でもって、爆撃されると、すぐ全部、駄目になってしまうということで、もう分からないように、隠匿しておくこと。この2つがですね、もう最初の最低条件なんです。

攻撃はですね、必ず、夜陰に紛れてすること。日中は絶対、攻撃しないこと。日中、発見されると、どんどん向こうの兵器で、やられてる。こちらは船は弱い。船に防備力がない。だから、たまったもんじゃない。そこでもって、必ず、夜、攻撃すると。ですから、命令が下りるのは、前夜の10時から、11時です。9時から、11時かな。前夜に、出る。それから、2時間かかって、あの出撃準備を。つまり、掩体壕(えんたいごう)から、あの海に浮かべて、信管も取りつけて、それで爆発ができるようにすると。それを海に浮かべる。2時間か、3時間かかって、あの出航用意を、出撃用意を完了します。だから、必ずその、そして2時か3時ごろの間に出航していって、それであの1時間か2時間後に、散開をする距離の所まで行けるようにして、それでそこに散開して攻撃すると。

攻撃は大体もう、日出の1時間か2時間前っていうこと。そのころは少し白み始めますから艦影を認めることができると。もうそのときを逃がしたらですね、必ずもう、向こうの、その飛行機だとか艦艇に、あの発見されて攻撃されて死ななくちゃならないから、もしそのそういう時間に、つまり例えば、3時から4時、5時ぐらいの間に、敵影が、敵の船を発見することができなかったら帰ってくると。基地に帰ってくるってことある、そういう例はある。それは帰りそこなうとですね、もう敵の船にやられて、基地の近くでもってバンバンやられちゃう。

ただ、わたしは教官ですから、あの、搭乗員たちよりは、戦況を少しは知っておりました。残念ながら、少しはです。たくさんじゃなくて、少し。それから、だんだん負けて、つまり魚雷艇がどういう戦いをしてきてる、沖縄でね。それから、震洋がフィリピンと、沖縄でですね、こういう戦いをしたと。

震洋はあくまで、団体行動ですね。

そういうことですから、1杯や2杯で、攻撃するんじゃなしにですね、少なくとも12杯でもって、攻撃する。そしてその、一定の、その攻撃の幅をもって、向こうの船を、あの、どっちに逃げても、捕捉できるようにする。しなくちゃならんわけ。速力が少ないから、そうせざるをえない。(震洋艇)1杯、2杯や、3杯でもってね、攻撃することは、あの効果は全然ありません。ところがね、沖縄ではね、4杯でもってね、攻撃しろという、指令がね、司令から出てるんですよね。僕はね、それ、このごろ知って、このごろって戦後、知ってね、ああ、やっぱり基地のわれわれの部隊長までは、分かってても、震洋がどういうその性能で、どういうその戦い方をするのか、ということについて知らない、例えばあの部隊、ま、45特攻戦隊の司令ですね、トップね。それが、命令を出すんですけども、何杯でもって、攻撃しろなんて命令を出しております。もう沖縄でね。

そういうもんじゃないです。やっぱしね、あの攻撃のその弾幕、張るっていうか、船を10杯ぐらい、並べないとですね、敵の船を捕捉することが、できないわけですね。だから3隻や、4隻で、攻撃するということはですね、あの無駄弾になることが、多いです。だから、あの10隻が、出撃してようやく、1杯の船を沈めることができると、いうことなんです。

わたしはこの40年間、特攻というものは、統率上の外道である、ということも含めまして、特異な、あの戦い方だということを、よく知ったわけです。その中の1つに、自分が教官として、あのう、戦争の一番、敗戦の厳しい中でね、そして一番、その将来性のあるところの、若い17歳から、20歳までの予科練を主とした、訓練をつけてきたというようなことに対して、深く身にしみる、いろんな思いがあるんですね。

あのね、心苦しいという表現は、ちょっと、当たらないけども、近いですね。心苦しいんじゃなくて、すまないと。もっと、りっぱな、あの効果のある兵器でもってね、効果のある戦いができるような、戦争を何で、できないんだろうかという、あの恨みがましい、気持ちは持っております。ですけど、もう少し、いい兵器、同じ死ぬならば、もう少し効果的な兵器でもって、戦わせてやりたいもんだなと。それにしては、この震洋は少しこの子らをみんな死なせるには、もったいないなと。かわいそうになと、こう思いますもんね。それが偽らないあの当時の、感情ですよ。

われわれ、生き残った者は、せめて、ご遺族さんたちに、できるだけのことはしようと。まず戦死者の霊を祭ることは(優遇に)しようと。ご遺族さんと、一緒に、戦死者の霊を祭りましょう。そして、ご遺族さんが寂しくならないように、そして、その自分のその親類縁者は、身内が戦死してるのも、意義ある、その戦死だったというその慰めを、いう気持ちを世間の人は、みな考えてくれているんだということを、示さなくちゃならんということで、碑を守って。碑を守り、慰霊祭をこう、続けることによりまして、教官として、当時の、どちらかというと、戦死者なり、遺族に対する残された者の、務めとして、十分に果たさなくちゃいかんなと、思って、やってるわけですよ。

いや、無理ないと、思っておりますよ。それで、その真実というものはみんな、知らないわけですからね。だからあんまりその、お互いにみんな、一生懸命、みんなやったことは間違いない。お互いに、そういう点は信頼してるんですから、あの特別特攻隊員だからといって、何か、あの尊敬の念を、気持ちを持ってもらうとかは、考えない。

しかし、戦死者に対してはね、やっぱり、特攻隊で戦死した者に対してはね、むごいところがあるんですよね。本人の意思というよりは、環境によってもう、死なせてるわけですからね。その環境というのは、国民の意思だし、国の意思であるわけですから。だから、もう少し、その特攻隊員に対しては手厚い、その何かのその手厚い、何ですかな、処置がね、あっていいんじゃないかと。

出来事の背景出来事の背景

【“ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、大規模な特攻部隊が海軍で組織された。その名も「震洋特別攻撃隊」。“太平洋を震撼させる“と謳い、6200隻を製造、およそ5千人をこの作戦に動員した。
その多くは、航空機搭乗員を目指していた予科練出身者や学徒兵の若者たちだった。しかし、秘密兵器「震洋」の実体は、ベニヤ板製のモーターボート。長さ5メートルの船首に250キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たり攻撃をしかけるという兵器であった。

開発を強く主張したのが海軍軍令部・黒島亀人。連合艦隊の参謀として攻撃を成功に導いた人物だ。

長崎県の川棚で訓練をした「震洋」の部隊は、米軍の侵攻で上陸が予想されたフィリピンや、沖縄本島や石垣島、奄美大島などの離島や本土各地の海岸などに配置された。しかし、作戦がはじまってからは、輸送中の爆撃や設計の不備によると見られる爆発事故が続出し、特攻作戦の前に多くの若者が命を落とした。狭いボートの中に、燃料タンク、4トントラック用エンジン、そして爆薬が詰め込まれていたのだ。しかし、海軍軍令部がこうした事態の改善に乗り出すことはなく、「震洋」による特攻作戦は終戦まで続行される。結局特攻に成功したのは数隻のみといわれている。5000人の兵士のうちおよそ半数が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1943年
横須賀海兵団に海軍二等水兵として入団
1944年
川棚臨時魚雷艇訓練所に配属
1944年
震洋艇教官となり、搭乗員の指導に当たる
1945年
第68震洋隊艇隊長として、千葉県笹川町へ配置
1945年
復員、真珠養殖会社に入る

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