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タイトルタイトル: 「沖縄上陸の米艦艇目指して」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
名前名前: 土屋 貞智さん(震洋特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(沖縄・金武)  収録年月日収録年月日: 2009年12月3日

チャプター

[1]1 チャプター1 予科練へ  07:44
[2]2 チャプター2 覚悟していた「死」  02:05
[3]3 チャプター3 訓練所へ  04:56
[4]4 チャプター4 沖縄本島金武湾へ  08:25
[5]5 チャプター5 米軍の空襲  08:59
[6]6 チャプター6 負傷  04:46
[7]7 チャプター7 出撃命令  05:53
[8]8 チャプター8 出撃  02:08
[9]9 チャプター9 発見できなかった米軍艦艇  03:24
[10]10 チャプター10 グラマンの恐怖  02:22
[11]11 チャプター11 沖縄戦を生き抜いて  05:27

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
収録年月日収録年月日: 2009年12月3日

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僕が海軍入るときに、母親は泣いたわね。学問、僕も高等学校、大学の推薦をもらっとってね。で、何も大学終えてから、戦争に行っても、遅くはないんじゃないかと、母親が言われたんだけども。17歳、16歳か、17歳だな、の時の学校へ行くと、朝、すぐ校長室へ呼ばれてね、それで、校長と、担任と、それから生徒係と、それから配属将校ちゅうのがおってね、あの各学校へ軍隊から、将校が配属されとったんですよ。

で、4人が「どうだ、どうだ。もう、お前しかおらん」というようなことを言われてね。僕は目も良かったし、体も良かった。次男坊だった。思想的にも、どっちか言うと、まあ、さっぱりしとるほうで。ま、軍人向きだったなと、自分では思っとるんですけども。そんな関係でね、とにかく「どうだ、どうだ」って。で、4回目に「行きます」と。もう陥落しちゃったんだわね。やはり16や17の坊やがね、毎朝、毎朝、学校の校長室へ呼ばれてさ「どうだ、もう決心ついたか」と、「もういいんじゃないか」なんて責められるとね、4回目には「行きます」と言って、まあ、入隊を決意したんですよ。帰ってきて、母が泣いたから、僕も泣きましたがね。うん。

で、まあ、あんまり親孝行もできずに、軍隊入ったんだが。ううん、これからは、親孝行といえば、軍務に専念するよりほかに、道がないんだということで、一生懸命、トイレの中でも本を読んでね、勉強して、頑張りましたがね。


Q:予科練、予科練時代。あの、もちろん土屋さんは、戦闘機に乗ることを目指してたんですよね?

 もちろんそうです、はい。飛行機乗りを目指してました。だから、飛行機予科練習生とこういうわけ。


Q:それが、あの震洋隊に行けっていう話になったのは、どういう経緯ですか?

 夏休みのね、休暇で帰ってきたのが、あれ、8月のお盆前後だと思うの。ここへね、(もう始まってる? ああ)だと思うんですけど、帰隊して直後ですわ。奈良へ帰って、あんまり時間が経ってない夕方ね、分隊士から全員集合と言って、大きな倉庫みたいなね、暗い部屋に全体だから、いっぺんに入り切らんもんで、やっぱり、2回3回と分けて、やられたと思うんですが。何回目かに僕らも、確か100名か150名ぐらいは入ったと思う。200名近く入っとったかな。

ほれで、下士官もほとんどカットの、オミットして、隊長だけが、うちの隊長と司令だな、奈良分遣隊の一番ボスですが、「戦局は急に、わが方に不利になってきたんだ」と。「だから、軍令部のほうでも、悩んどったところ、新しい兵器ができたので、それに乗ってもらえんだろうか」と。で、「飛行機乗りにあこがれて、いらっしゃったんだろうと思うけれども、飛行機も、水上を走る船も、国を守っていくという上では、何ら変わりはないので、ま、よろしく頼む」と、こういう話だったんです。

で、「強く希望する者は、二重丸。まあまあのものは、一重丸。どちらでもいい者は、あのなしと、無印で提出してくれ」と。こういうことだったんで、まあ当時は、僕は真っ先に二重丸を書いて、提出しましたがね。ほいで、ほとんどの人が、二重丸、書いたと思うんです。8割以上、9割以上の人が。で、まあ、いわゆる分隊長というのがおり、中尉かね、大尉ぐらいの人ですけど、夜の夜中まで、士官室からね、電気が消えなかった。僕は巡検ちゅうのがありましてね、夕方。それで、床の中へつくんですけど、小用に立つでしょ。だから、分隊長の部屋、見えるわけだ。電気がパーッとついてたわね。「ああ、選考してらっしゃるんだな」と、そのときに思った。

で、選考基準の一番のね、基準はね、まず次男坊であることだな。おれ次男坊なんだわ。兄が戦死したけど。それとまあ、性格的にね、軍人向きであるか、ないか、ということも大いに加味されたんじゃないかなと、まあ、そう思っておりました。もちろん体力とか、精神的にも適してなきゃあ、選考には入らなかったと思うだけども。まあ思うと、大選抜で、僕は選ばれたんだろうと、思っておりますけども。ま、とにもかくにもそれで選ばれて。

水上を走る兵器だと。詳しくは全然、説明はなかった。ただ、飛行機も、水上を走る兵器も、国のために、ということが目的であれば、何ら、変わりはないはずだと。だから、希望する者は二重丸つけて、よろしく頼むと、こういうまあ形だったですわな。強制的ではなかったんだ。全て、軍の命令で強制的ですわな、海軍は。あれしろ、こうしてはならん、こうせよというのが、まあ軍人の中の、中ではそういう掟だったんですけど、あの海軍はそうではなかったね。うん。希望する者は、二重丸。ま、どちらでもええちゅう者は、ま、無印でということだったんですよ。

そのとき、特攻という意識はあったのかなあ。まあ、よく、分かりませんけれども。ま、特攻だろうな、無意識のうちに。だって、当時、特攻のね、飛行機がどんどん、どんどんと飛んどる時ですから。体当たりをすると、飛行機で。それに変わるもんだと、言やあ、船で体当たりをするんだと。で、あの説明ではね、50メートル前から、飛び降りりゃいいんだと。だけども、ま、極めて、高度な危険が伴う兵器だということは、言われましたがね。

飛行機であろうと、船であろうと、もうとにかく、国のために、まあ命を捨てるんだということだけが、頭にあったんで、そのほかのことはもうないね。そうでなければね、そんな特攻志願なんて、できないわね。だってね、一瞬のうちに霧散してしまうわけだから、体が。そら、それ覚悟で、ぶつかっていくんだからね。

ま、飛行機もそうですけども。それをね、こんな兵器で、この間も質問があったんですけども、こんな小さな船で、大きな船がやっつけられるんだろうか、とか、そんなようなことは、思ったこともないですね。ただ、「水漬く屍(かばね)草生す屍」と、国のためにだね、命を捨てるんだという気持ちしかなかったですね、今、思うと。今の若い人から言わせると「ナンセンス」と言うでしょうね。考えられないわね。

ドイツのUボートにも、匹敵するほど優秀な兵器だなんつって言われたけど、「そんなに優秀でもないな」とは、ふとそのように感じたことは、ありますけど。ま、これでもって、270キロか、日本の下瀬火薬というのはね、世界に冠たる、爆薬だったんですよ。それを前に、積んでるわけ。んで、それを積んで、体当たりの練習だね。で、等方位運動つって、向こうは、じっとしてませんから、走ります。こちらも走ります。ぶつかる一点に計算、頭の中で計算せんと駄目ですね。

それの訓練ばっかりでね、やるのと、ロケットをこう2台、積んでましてね、ちょうど直径が20センチ、25センチぐらいあったかな、直径が。長さがこんなぐらいあったか、どうだか。1メーター50センチぐらいあるか。一人でやっとこさ、だったですよ。それを両方2つ、2台積んでね。ほんで、こう綱を引くと、その雷管を打つようになってんですが、そうすっと、一気にビューッと出てって、600メーターぐらい飛んでね。そこから、あのさ、銃散弾ちゅうね、あの散弾がね、バーッと、はぜるんですよ。200発ぐらい出るらしいんですけど。

ほで、敵が「あ、日本の飛行機が空から、来たんだ」と思うじゃないですか。上からバーッと飛んでくるから。で、銃散弾でパーッと花火のように、散るわけだね。だから、あのその隙に、下から敵に、体当たりをするという、まあ、そういう作戦だったと、いうことなんで。それがね、海は波があるじゃないですか。船がグーッと下がったときに、発射したんでは、海へいっちまう。といって、波でグッと打たれたときには、上へ行き過ぎちゃって、効果がないと。だから一番、面がね、ちょっと下がった、下がりかけたとこで、雷管を打って、発射させるという、その頃合いがね難しくて、それが訓練の中心だったように思いますがね。

打つとね、バーッと前が、あの、こう目を押さえたときに、この紫色になるようなもんでね、ああいう、状態になってね。前へフックでとめてあった、エンジンの蓋がね、バーッと飛ぶような風圧があったんですよ。それで、ちょっとあの耳がね、僕は悪くなったんだと。若い時から難聴でしたから。

やっぱり、あのハンドルを固定する装置が、ついとんですよ。ほんで、50メートル前ぐらいから、やるんだけど、海は波がありますわね。ほんで、船がまあ、5メートルちょっとですから、固定したって、波にあの遊ばされて、絶対に船は行かんわけだわね。だから50メートルまで、固定したって、駄目でしょうね。んで、やっぱり30メーターぐらいまでは近づかんと、船は当たらんわなと、こういう、まあ、みんなの思いだったんですよ。

ほんで、固定してやるんだけども、もし敵を、敵艦をそこで、撃沈したとしても、海上は火の海になるんですよ。火の海なって。3分の1を人間、やけどすると、まあ死ぬということを、まあ、聞いておりましたんでね、ああ、助かる望みはないなと。ほな、もういっそ、ぶつかってやね、霧散したほうが晴れ晴れして、いいんじゃねえかなという話も、戦友と、ちょっとした記憶が、中にはあります。

どうしても、操縦桿を握っとらんことには、(米艦艇に)当たることはできないね、そう思った。うん。だから、とても、船から飛び降りて、助かろうなんていうような気持ちは、ありませんでした。

(那覇から)ずうっと、南を回って、金武湾へ入ったんです。ほいで、金武湾へ入って荷揚げしたのが、金武村のあの一番、今、変電所か、発電所のある所。屋嘉(恩納村・のちの捕虜収容所)に近いとこでしたわ。

で、まあ、こんなに、あの平和な村があるんだろうかと。「戦争をどこ吹く風と村の衆」つって、これも歌、詠ってありますけども、平和なんだなあと。うん。ほいでね、「荷は頭 暮らしは素足 甲の炭 それでも若い時はと 微笑む老婆」という歌が、詠ってありますけど、そのぐらい、何つうんですか、貧しいちゅうのかね、ほんとに、ひそやかな村だったですわ。だから、しぃんと、静まり返ってね、みんな裸足ですわ。荷物はみんな頭の上に載っけて。それで米は、ほとんど食べずに、サナとおイモで、生活をしとったというのが、大方の暮らしだったんですよ。それで手にこう墨(南西諸島の既婚の女性たちが手の甲に入れた、魔よけのためといわれる、入れ墨・「針突(ハジチ)」)が入ってんですよ、こういうふうに。で、老婆に聞くとね、「これでもあんた、これによっては若い時は、随分もてたんだよ」という、若い時の話をね、思い出話をしてくれましたがね。そんな、記憶があるんです。そのぐらい、静かだったんですよ。

穴(格納壕を)掘ったのはね、1月、2月の初めぐらいからだ。2月の初めからだね、掘ったのは。だから1か月ぐらい、掘ったんだろうか。毎日、兵舎からね、「前へ進め」つって。ダッダッダッダッダッダ、「1、2、1、2」つってね、田んぼん中をすり抜けてね。畑の中を、サトウキビをかすめて、それで、あの横、穴んとこまで、兵舎から通った記憶がありますわ。

ほで、帰ってくると、水くみ場があってね、あそこに。金武村には。水が湧(わ)いてるとこ。そこであの村の人がみんな、洗濯をしたり、おイモを洗ったり。で、すぐ横には、公設のお風呂があったんですよ。そこ、そこは砂でジャリジャリでしたけど。で、色は茶色に濁ってたんですけど、ま、汗を流すぐらいで。その風呂場も入りましたがね。

とにかく、まず艇を格納しなきゃならんちゅうんで、防空壕掘りが、始まったんですよ。で、セラ棒というのでね、どんどん、どんどんと突ついて、穴をずうっと、掘ってって。1メーターか、1メーター500ぐらい、長い、あの僕らの背ぐらいある、鉄の八角の鉄の棒でね、直径が3センチか、4センチぐらいある鉄で、グッグッグッグと掘っては、五つ、六つ、穴をあけて。そうすっと、あの羊羹みたいなダイナマイトをね、導火線を出して、そこへ突っ込んで。ほで、勘定してね、それから、タバコで火つけるんですよ。6個なら、6個だと。そしてシューッと、いいだすから、すぐ、バーッと表へ、出るんですよ。ほで、表で待ってると、ドーンといって、煙がもう、穴からワーッと出てきてね。もう、六つ勘定して、しばらく待たんと、煙が消えんもんだで、表で待機しとるわけですよ。

そのときに、もう、戦争が厳しくなったんでね、各学校が全部、お休みで、県立高等女学校だとか、あの学校の生徒が村へ帰っとるでしょ。そういう子たちがみな、手伝いに来てくれて。ほいで、黒砂糖のお汁粉を表で作ってね、僕たちに振る舞ってくれた、記憶がありますがね。

そういう、それを、まあ飲みながら、待っとるわけですよ。ほいで、しばらくすると、煙が治まるとまた中へ入る。
そいでまた、木でこうちょっと、こう、松の丸太でね、枠を組んでは1メーター、2メーターと掘りながら、進んでってね。船が5台ぐらい、入ったかなあ。そんなには、中へ入れなんだと思うけどね、まあよう入って5、6台で。あるいは、4台前後だったかもしれませんけど。というと、30メーターぐらいじゃないですか。


Q:なぜ、穴掘りしてるんですか?

 特攻隊員、自分たちの船を、守らなきゃいかん。自分たちの乗る船だから。それが、敵に見つかってやられちゃったんでは困るんで、見つからないように、穴へ、穴を掘って入れたと。格納する場所が、なかったんだわな。うん。そのぐらいだったね。

基地隊員だって、そんなたくさんは、いなかったですからね。そら搭乗員のほう多いから、50人もおったんだから、当時はね。だから当然、お手伝いをすると。自分たちの船は、自分たちで守ろうという趣旨だったろうと、思うんですが。うん。

早く、船を収容して、めっからないようにするというのが、目的だったですけど、昼休み、僕が海岸のほうへ下りていくと、ケッケッケッケと笑い声がするのよ。ほいで、ふと振り返るとね、アダンという渚から、アダンの林がダーッとあって、それから松、マツマオの林があって、それから、内陸の丘陵畑があるんですよ。ほで、アダンの木ちゅうのはね、こう、はうようにしてね、こういうふうに枝が。ほいで弾力性があるんですよ。そこへ、ぶらんとぶら下がって足をブラブラさしてね、あっちの子供が遊ぶんですよ。

んで、そこんとこへ、僕も昼休みに海のほうへ、スーッと、足を運んだら、クスクス、クスクス笑い声が聞こえてね、で、ふと振り返ったら、うちへ来とる、お汁粉をつくってくれた女の子が3、4人おるじゃないですか。ほいで、まあ当然、あの女のほうから、声がかかる。「サータクワ」ってこう、言うわけですよ。「サータクワ」って全然分からないもんでね、そしたら「砂糖を召し上がれ」と、黒砂糖をくれるわけや。「ムクワ」と言って、サツマイモが常食なんですよ、あっちはまだ。米なんて、そんな、ないんだわね。ほいでおイモをくれたです。

ほんであれ、僕はね、沖縄の言葉、全然、分からないですから、この子たちに習ったら、彼女は高等女学校行ってるから、日本語を習っとるわけだからね、だから、通訳はできるわけです。だからね、この子たちにまあ、簡単な言葉を習ったらええと思って、昼はそういう意味で、その子たちと談笑してね、時間を。ま、青春時代ですから、ちょっと楽しいような、思いもさしてもらった記憶がありますわ。

防空壕、掘って、3月14日には、まあ一応、完成したんだね。だから、谷に隠してあった船を、いったん出して、そして格納を、穴のほうへ、格納しようと。そのためには、いったん外へ出すから、長い間、訓練もしとって腕にさび、さびが回とってはいかんということで、隊長が考えたんだろうと思うのはね、艇隊訓練をいっぺんやったら、どうだということが、まあ、隊長士官室で話が出てきたんだと、思いますがね。それで、3月14日あったんですよ。

ほで、朝から、2班に分かれてね。で、大発艇はフジモト艇隊長指揮官で。約半分だから、搭乗員の25人と、それから、機関兵が艇隊長。それから、もう一つ、係のね、下士官が、二人ぐらい乗っとったかな。だから、24人の20、フジモトさんと入れて25人。25人の、あとイシハラ兵曹、そこにおりますけど、これが一人と、もう二人ぐらい機関兵がおったかな。だから全部で27、8人かな。うん。

ほいでまあ、昼近くなって、向こうは、あの艇隊、隊長率いる震洋艇がやっぱり23、4ぐらいだろうな、海へザーッと、散開運動しとったんですよ。ほいでまあ昼、近くだったな。11時30分ごろだと思うのはね、おふくろのね、炊いてくれた、甘からい、あのジイモっていうんですけど、サトイモをおかずにして、白いご飯が食べてえなあ、なんて思ったり、食べることしか、ないんだわね。うん。だから、そう思ったりなんかしてね。

まあ、でも昼、交代時間なので11時30分ごろだ。ずうっと、飛行機が南のほうから、北へ向かって、伊計島の向こうにチラッと、見えたの。だから、あ、錦大艇によく似とる、あの、コンソリデーテッドは。だから、「ああ、日本の錦大艇が行くわ」と思うとったの。ほたら、急にグッと、機首をこっち向けて、ザーッと来たの。「しまった」と思ったら、もう、敵の顔が見えるぐらいでしたから。

アメリカ兵の顔が、あれ5、6人乗っとったろうな。ほいで、後ろにも、前にも、機銃がついとる飛行機だったんですよ。んで「いや、しまったあ」って、言いながらね、あの、オロオロしてたんだ。したら、まあ飛行機がずうっと、向こうで、艇隊訓練しとる隊長のほうのとこへ、バリバリーッ、バリバリと襲いかかっとるわけだ。

今度、僕のほうは、それ終わると、今度、すぐ僕のほうへ来るわけですわ。

(わたしが乗っていたのは)大発って、荷揚げの船です。荷揚げの船で、10メーターぐらいあるかな。ほいで、それに、重いものをみな、積んで荷揚げしたんですわな。だから、当然、あの大発に積んで、いわゆる艇も、爆薬も、荷揚げ作業したと、思いますけど。それに乗っとって、昼から、交代する予定だったんだけども、いきなり、飛行機が来たもんで、僕は逃げ遅れたの。

で、「ああっ、来た」いうと、人間、本能的にね、真ん中へ、機関室のほうへ、隠れようとするじゃないですか。ほうすっと、前の荷物を積む所と、機関室の間にね、まあ人間のあれで、60センチの1メーターぐらいかな、ぐらいの穴が開いてる。人間がくぐって、すぐ機関室へ入れるぐらの穴があるんだ。そこへ、飛行機がもう、ウワーッと、そこへ襲いかかるわけですから、すぐ、逃げようとするじゃないですか。ほで、僕が入ろうとしたら、僕はちょうど、あの船の真ん中かな、舳先に近いほうに、おったんで、そこへ行こうとした。本能的にですよ、行こうとしたら、もう、人がいっぱいで、入れんもんで、思わず左舷、あ、右舷だ、右舷のほうへ、僕は。屋嘉のほうへ、船は向いてましたから、右舷のほうに、沖のほうへ向けて、あのちょっと、身を寄せたんですよ、竜骨というのこう、出とってね。ちょっとこうして、身が隠せるような感じの所が、あるんですよ。竜骨の袖のとこに。

真ん中を、真っすぐ、ど真ん中をビューッと抜いてったんですよ、弾が。ああ、ほんとに、正確だったんだな。

ほんで、一番初め、聞こえたのは「隊長、足がありません」という言葉が、耳に入るわけだ。で、こうやっとって、ふっとこう、機関室の穴を見たら、よう忘れもせんけどね、ゴミ兵曹。三重県の伊勢の人ですわ。ゴミ・チュンという名前の人ですから。足がなかったの。それから、アサノ・レイチョウというのがおるわね。京都の兵隊だけど。これが、ね、はらわた、ぶち抜かれてね、腸が飛び出てね、もう、ここ血の海だったんですよ。もうそら、もう、心臓が止まるぐらいびっくりしてね。で、あの穴から、水がブワーッと、噴き出してね。で、血と肉と、足の千切れたやつ。ほいで、もう、わやくそ、なんだわね。25ミリの機関砲だとね、ここ、あたるとね、すっ飛んでいっちゃうんだな、足ぐらいは。ええ。だから「隊長、足がありません」という、ゴミ・チュンのね、あの言葉は今でも残ってます。うん。

んで、びっくりしてね、「隊長、船から離れます」って、僕は、まあ、その竜骨の上へ上がってね。隊長後ろのほうにおってね、「おう、あの材木や、何か、みんな放り込め」と、こう言っておられたんだわね。だけど、そんな上に材木や何か、あれへんわね、何も。だからね、ううん、とにかく、船から離れるしか、方法がないと思ったんで、隊長にそう、申し上げてね、で、海へ飛び込んだんです。

そのあともう、また、飛行機上が上を、グッグッ、グッグ回りながらね、今度、浮いとる兵隊を目がけて、バーッと撃ってくんだ。僕もまあ、ほんの1メートルかな、1メートルぐらいの所を、ババババーッと機関銃が行くんですよ。ほんでね、もうそのとき、よう忘れもしませんが、なるべく人間は、本能的に飛行機から、少なく見せようとしてやね、立ち泳ぎするわけね。

で、こう、真っすぐしとったら、ドカーンときてね、体が一瞬、こう硬直しましたわ。だから「あっ、やられた」という、思って、思って、硬直、体がした。すぐ何秒か、5秒か10秒、経ってからね、何かこう、ブワーッと硬直した手や、足が、こう、ほどけていくような感じでね、「あっ、助かったんだな」と。これは、ますますあの泳いで、岸へ逃げないかんわっちゅって、兵曹と一緒に、岸へ泳いでいったんですけど。一番、近かったからね。

あと、飛行機が夕方になって、去ってってから、こっちの残った震洋がね、あの兵隊を拾いに来たんですけど、僕は一番、後回しですわね。

僕、上がってきたのは、一番最後だからね一番。、一番、岸に近かったから、一番、後に、拾われたんですよ。考えればね、遠くから、拾ってくるわね。ほいで、しっかりせよって、頬をなぐられたんだけども、陸へ上がった。勤報隊(勤労報国隊、動員された中学生や女学校生たち)は女の子が、ワイワイ、ワイワイ泣いてる。ナカムラ兵曹長が「おおい、担架、担架」つって、担架、僕、乗せて、で、学校まで運ばれた。

で、学校へ入ったら、途端に、校庭を、あの、こうロープでね、飛行服やシャツが、やったんだけど、血だらけでしたわ。ずうっと。ほいで、病室へ、まあ、特設病院だわね、病室へ、僕も担架で、運ばれたんだけど、「ううん、ううん」と、呻なってるわけですよ。あのう、もう腹がこんな膨らんじゃって。ほいでね、オノデラ兵曹だな、が「ううん、ううん」つってね。あれ満州から来た兵曹ですわね、断末魔の呻めきをね、耳にしながら、一番、奥の部屋へ入った。


Q:土屋さんも撃たれたんですか? どっか?

 いや、水中爆傷つってね、ダイナマイトで。飛行機、爆弾落としとるんだわ、そのあれに。内火艇に、大発にね。大発に爆弾2発、落としてジャンプしてね、ドーンと破裂した。それでやられたの。だからね、水中爆傷という病気ですな。みんなあの、ダイナマイトで魚殺すと、一緒で、腹、こんなんなってね。ほいであんた、ガッガッガッガ、かっ血したり、反吐、吐いたりして、苦しみながら、みんな死んだと。こういう有様ですわ。

いや、こちらの戦友は亡くなる、こっちはようなって、出てった、イシダ兵曹は苦しんどる。僕もまあ「土屋兵曹、ガスが出るか」って、隊長が、軍医長がね、聞くもんですから、あれ、3日目かな、4日目にスーッと、ガスが出てね、「あ、おまえ、ガスが出りゃあ助かるぞ」と。ま、軍医長から、言われたのは記憶にありますが。その間ね、とにかく思ってた。早く、良くなりたいということが、まず第一。第二はね、ううん、国はどうしてるかなと。両親や、きょうだいは、どうしてるかなと、やっぱり思いますがね。それから、早く良くなって、敵討ち、敵討ちをせないかんな、ということぐらいでしょうね、思ったのは。あと深くは、どっちにしても、単細胞ですから、あまり深く考えなかったんじゃねえかなと。うん、そんな記憶がありますが。うん。

あのときに、訓練は当然、だれでも指揮官なら、考えることだろうと思いますけどね。だけども、ううん、もう少し、敵の情報が入ってこなかったんだろうか、という、それは、思いはありました。でも、司令からのほうの、まあ、いろんな情報がね、どの程度、入ってきたか、そういうようなことでは、僕らでは分かりませんもんね。うん。

そのことについては、ほんとに、悔しかったですよ。そら、思いますわ。「何でこんな、分からなかったのかな、隊長は?」ということは、まあ、ふと思ったことは、みんなそう思ったんだ。

だからまあ、状況判断が甘かったかなあという思いは、ありますけれども。何しろ、隊長も23歳ですがね、当時。だから、僕らが19歳か。だからね、まあ、そこまでね、思うのは、無理なことじゃないかなと。やむをえなかったんじゃないかなと。おれが隊長でも、まあ、ついでだから、ここで訓練しようなんてことは、ううん、だれしも考えるわなと、こう言って、戦友と話し、したことはあります。うん。

いよいよ来たなと、やるぞ、ということですわ。やるぞ、ということは、敵をせん滅するんだぞと。目にもの見せてくれるわと、こんな思いですわね。

そのときにやっぱし、父母や母、きょうだい、特に妹のことなんかも、思ったりしましたね。で、まあいよいよ、お別れだなと。覚悟してきたものの、少し寂しい気はありましたがね。

これで、この世とも、おさらばだと、と言って。父や、父や母にね、苦労ばっかりかけて、孝行も、できなかったなあと。

今さら、もう、やめたなんていうことは、ならんし、覚悟はできてましたから。立派に死のうと。んで、恥をかかんようにしとかないかんでって、頭も全部、きちいっと、散髪してね、待ちかまえておったんです。

したら、大田司令(海軍沖縄根拠地隊 大田実司令官)から、打電が入ってね、「港は、糸満南方20マイルの地点、ええ、敵輸送船団。ただちにこれを、索敵攻撃すべし」と。豊廣部隊、一艇隊隊をもってって、いうことはあったな、確か。

とにかく敵をめっけて、ぶつかってやるんだということしか、頭になかったですね、うん。

もうとにかく、もう国に、捧げたんだと、わたしの体は、天皇陛下のもんなんだと、自分であって、自分ではないんだと、こういうまあ、徹底的に洗脳されとったんかなあ。ううん、今、思うと。今の人たちから見ると、ナンセンスだとお思いになるでしょうけど。当時はね、それが、ごく当たり前でしたでしょう。国のために、「水漬く屍草生す屍」は当然のことだと。まして、特攻志願のわたしにとっては、うん、そんなことはもう、当たり前のことで、ううん、その他意は、全然、なかったですね。うん。


Q:その出撃の夜。浜辺でどういうことが行われました?

 ああ、それはあのね、整列、するでしょ。まずきょ、皇居の遥拝ですわね。皇居遥拝。で、ええ、皇居の遥拝ちゅうのは、天皇陛下の見える二重橋に、向かって捧げ筒だわね。それから、隊長の訓話。その内容は、激しい訓練に耐えてきたのは、きょうあるために、訓練してきたんだと。男子の本懐、これに優るものはないではないかと。かくかくたる戦果を期待すると。わたしも後から、行くからなと。で、「海ゆかば水漬く屍」を歌った。


Q:どんな歌ですか?

 ご存じかな。「海ゆかば水漬く屍」。「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ」という歌が


Q:盃、交わしたりするんですか?

 あの飲むっていうほどはみな、飲まなんだね。ちょっと、口汚す程度ですよ。お酒、ずっと用意してありましたけども。


Q:仲間とどんな話し、しました?

 全然、話し、しないです、そのときは。もうずらっと、並ぶでしょ。いや、もの言わんですわ。うん。12人とも。隊長の訓辞があって、話し、して、それで船に分乗して、出撃と、こういうこと、手順で。そのとき兵隊同士、あるいは、搭乗員同士で、話はなかったですよ、全然。静かなもんでした。まあ、みなもそれぞれね、万感尽きるものがあったと、思うんですわ。行くぞと。日本のために、命を賭けるんだと、命を賭して行くんだということしか、頭になかったね。3月14日にやられたから、敵討って、やらないかんとかね。ま、そんなまあ、ことばっかりでしたわね、頭にあるのは。

まあ、命令を待っとるときは、思ったですけど、もう、一の谷へ、集合と言った、言ったときは、あ、出撃だなと。もうそれからは、何にも雑念はなしですわ。ただひたむらに、ひたすらに、陛下のおんために、国に尽くすんだと。そして、行くんだということしか、頭になかったです。だから、怖いものはなかったですね、うん。もうそんな、死を恐れるとか、死んだらどうなるとか、そんなことは、もうなしですわ。もう無、です。うん。そんなんでしたね。

もう、そのときは兵隊が準備して、そして12杯、ずらっと、並んどったですわ。

それでまあ、粛々と出て行ったんだけどね。月はあんまり覚えてないけど、満天の星でね。星がもう、たくさんきらめいとったですよ。ほいでね、今度、あの海の上はね、プランクトンでキラキラ、キラキラ、キラキラ光ってた。外海はね。で、船が走るとウエキ、あの後ろの波がね、プランクトンが光るもんだから、飛行機から発見されやすいわけよ。んで、2回ありましたがね、飛行機が上ずうっと、南のほうへ通過していくのが。そのときは、発光信号でエンジン停止。しばらく待機だわね。そういう合図をしてね、僕は1番艇だったから、信号灯でね。こういう布をやった、赤い電気で、後ろへ全部、連絡して、エンジン停止で、しばらくプカプカプカ浮かんで。こうなるわけだ。うん。外海は波がえらいからね。伊計島の中は、静かなもんですから、スーッと、鏡のようなもんで、ええんですけど。

そういうの2回、あってね。それでみな、港のほうへ、どんどん行って、中城湾、勝連半島過ぎると、中城湾だわね。それも頭にあって、分かりました。入り口にね、リーフがあってね。リーフっていうのは暗礁が。ほんで、暗礁に船が引っかかってね、ガリガリガリーッと、スクリューが傷つきかけたので、大慌てで左。取り舵っていうのは左、面舵が右、ようそろは真っすぐですわ。だから「取り舵いっぱあい」ちゅって、やね、船を左へ切って、沖へまた出てったという記憶が、ありますがね。

沖へ沖へと、向かって行ったんだけど、おれへんのだわね。霧がもうガーッと降ってね、舞ってて。そいで、なんか海はね、ちょっと一瞬、静まったような感じでね。これが浄土か、弥陀の世界かなと、いうふうにね、瑠璃色に輝いていたような記憶がありますがね。ほんで、どこへ行ったんだろう、敵は、と。おかしいな、どうしてもおれへんのやね。だから、それもう、探して、探して、はい回ったんですよ。

もう、とにかくもう、おらんのか、おらんのか、おらんのかっていうことですわ。どこ行ったんだろう、どこ行ったんだろう。「索敵攻撃せよ」というのが、命令でしたから、索敵にもう、一生懸命でしたわね。影も形もないんだもの、行っても、行っても。ワーッとかすんどるだけでね。なんかもやがね、一面にこう、立ち込めて、海の上をはい回っとるような、感じでしたわ。だから「くそう」と思ってね。「おれはぶつかってやる」と、そればっかりだわね。

ほんでもう、隊長はね、東の空がしらっと、夜明けが早いがね。4時ぐらいになると、もう少しあか、赤みが出てくるんじゃないかな。

まあ、キシ艇隊長はね、あの当時30歳ぐらいかな、あれ。もうちょっと、いっとったかな、32~33歳だろうか。まあ隊長が、一緒に乗っとるもんでね。隊長、命令どおりに、船を動かすわけですよ。「土屋兵曹」って、言ってね、「は、何ですか」って言ったら、「きょうは、まあいかんぞ」と。「探しても、これ夜が明けるで、夜が明けたらまたグラマンの餌食だ」と。「だから、また来りゃいい。きょうはいったん帰る」「はい」

と、艇隊長は僕に言われたんで、命令ですから「はい、分かりました」ほいで、またさらに、取り舵いっぱいで金武のほうへ向かって、巡航速度で帰ってきたと。

それは、ちょっと怖かった記憶がありますね。それはグラマンの襲撃を、また夜が明けると、受けるんじゃないかという思いがあったからね。で、途中でガソリンが切れれば、プカプカでまた餌食になるし。ガソリンが切れると困るし、まあ心配しながらね、金武村のほうへ向かって、伊計島を回って、金武へ帰ったと。

3月14日の痛ましい事件を体験してるから、また、あの二の舞になったら、何のためにもならんで、いったん。やっぱり夜が明けると、その危険性が大だから、いったんは引き揚げて、捲土重来を期すと。これはもう、賢明なあれだ、選択だと、こうわたしは、思いましたね。

それは、飛行機の空襲が怖かったんですよ、死ぬことじゃなくて。無駄死にするがね、グラマンにやられると。それが怖かったような、思いですわ。

で、時間を苦にしながら、夜明けを苦にしながら、敵の空襲を苦にしながら、船を金武のほうへ、金武のほうへ、走らせて来た。そのときに敵が現れるのが怖いなと。だって無抵抗ですもん、グラマンに会ったら。1機のコンソリデーテッド(米軍爆撃機)でね、完膚なきまでも、戦友がやられたわけですから、あの二の舞が、あってはならんという思いで、ちょっと、恐怖の念が湧いてきたという記憶はありますね。


Q:特攻で死ぬのは、怖くないけど、やっぱり逃げるっていうのは怖いんですか?

 そら怖いね。だって、あのまた、あの3月14日のようにだね、「隊長、足がありません」って言うんだもの。飛んでっちゃって。そんなあの惨劇にね、また遭遇するかと思うと、そりゃ怖い、怖かったですよ。うん。

ぶつかっていくのはもう、覚悟して出るわけですから、いっそ、怖くもなかったし、覚悟して出てったわけですがね。うん。そいで、靖国の神社へ帰っていくんだと。国のために散華するんだということは、もうそのために、訓練もし、教育も受け、一緒に頑張ってきたわけですから、そのことについては、何も思いませんだけど、帰るようになってちょっと、怖いなという思いがした記憶があります。


Q:出撃するつもりでした?

 もちろんそうですよ。もちろんそれは、来たら、も、もういっぺん出て行ってやね、やっつけないかんと。戦争ですからね、アメリカとの。そういう気持ちはもう、十分ありましたね。

「無駄な戦争だった、ばかな戦争だった」と言われておるわけでしょう。だからね、何をかいわんやと、いうことですよ。だからやっぱり、わびしい気持ちですね。うん。

だから、これはやっぱり、自分で胸の中に納めていくしか、仕方がないんだなと。戦争をしちゃいかんよと、争いは駄目だよというあの教えをしたくて、孫に話しかけたら、「おじいちゃん、それがどうしたの」って言われて。ああ、これはまだ、孫に話しても分からんのだと言って、それからぷっつり、話をするのをやめた記憶がありますけどね。分からないんだ、今の若い子は。だって、アメリカと戦争したことを知らない人が、たくさんあるんだから。ね。

戦地でね、おい、マッチ箱ぐらいの爆弾で、島一つ、ぶっ飛んで、吹っ飛んでしまうような、大きな爆弾ができたんだぞと、広島の話をちょっと、耳にしたことがある、隊長から。よその隊長から。だからね、そのぐらい向こうと、こっちの軍の力が、開きがあったんだと。だから、まあ当然、負けて当たり前なんだと。随分、敵も知らずに、無謀な戦争をしたもんだなというのは、済んでから思う、終戦になってから、思うことで、終戦前にはそんなことは、思いもせなんだですわ、はい。とにかく国のために、殉ずるんだと。お国のために命を捧げるんだと、逝くんだということしか、頭になかったですね。


Q:当時は考えられなかったと、思うんですけども、今、現在、振り返って、今、現在、振り返って、あの震洋っていうものは何だったと思いますか?

 今ね、今、思えば震洋を発明した人が、自分の息子が、震洋に乗るということだったら、どうだろうなと。自分の息子が次は特攻隊員だったということになると、ううん、果たして、あんなものを発明してやね、日本の国民にやらせるだろうかなあと、というような思いはありますね。

しかしまあ、それもこれも、みな、うたかたの夢といいますか、過ぎ去った夢といいますか、まあ大変な時代を、生きてきたんだなと、思いますけど。ううん、ま、とにもかくにも、生きて帰った者はね、まあまあ、それから、立ち直ったり、努力をしたりして、今、平和に暮らしてますけど、亡くなった兵隊は、ほんとに気の毒ですわな。まあ、ほんとに、どうしても、申し訳ないなと、ごめんねという、気持ちになりますね。うん。

18だものなあ。何にも学校、出てね、小学校出て、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」習ってさ、それから、中学行って、17歳になった時に、もうね、戦争にはや駆り立てられて、航空隊へ入ったというわけですから。あの時にやっぱり、国のため、国のため、国のためと、国民のため、国民のため、国民のためと、命を賭けて、国を守るんだということしかなかったですね。

でも、誰かにね、話をして、争い事は駄目だよと、必ず手を取り合って、世の中とは、仲良くしていかないかんなと、うん、それが人の世の一番、大切なことなんだと、いうことを誰かに伝え、伝えてもらいたいと。自分からはなんか、「何だ、おまえ、特攻隊へ行っとってやね」と言われりゃ、それまでですから、誰かに伝えてもらいたいな、という気持ちは大いにありますわ。うん。

でも、あまり分かって、聞いてくれませんね、今の人は。だからまあ、変な世の中になってしまったなという、情けない部分もありますけど。

まあ全体的に見れば、よくもここまで、復興して、世界のためにね、尽くせるような国になったんだなと。やっぱり戦友のお陰、かな、ご加護かな、というふうに、思ったりもしますねえ。

出来事の背景出来事の背景

【“ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、大規模な特攻部隊が海軍で組織された。その名も「震洋特別攻撃隊」。“太平洋を震撼させる“と謳い、6200隻を製造、およそ5千人をこの作戦に動員した。
その多くは、航空機搭乗員を目指していた予科練出身者や学徒兵の若者たちだった。しかし、秘密兵器「震洋」の実体は、ベニヤ板製のモーターボート。長さ5メートルの船首に250キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たり攻撃をしかけるという兵器であった。

開発を強く主張したのが海軍軍令部・黒島亀人。連合艦隊の参謀として攻撃を成功に導いた人物だ。

長崎県の川棚で訓練をした「震洋」の部隊は、米軍の侵攻で上陸が予想されたフィリピンや、沖縄本島や石垣島、奄美大島などの離島や本土各地の海岸などに配置された。しかし、作戦がはじまってからは、輸送中の爆撃や設計の不備によると見られる爆発事故が続出し、特攻作戦の前に多くの若者が命を落とした。狭いボートの中に、燃料タンク、4トントラック用エンジン、そして爆薬が詰め込まれていたのだ。しかし、海軍軍令部がこうした事態の改善に乗り出すことはなく、「震洋」による特攻作戦は終戦まで続行される。結局特攻に成功したのは数隻のみといわれている。5000人の兵士のうちおよそ半数が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1943年
三重海軍航空隊奈良文遣隊に入隊
1944年
川棚臨時魚雷艇訓練所に入所、震洋搭乗員となる
1945年
1月、第22震洋隊として、沖縄県金武村へ出発
1945年
3月、一次攻撃に参加するも、敵艦を発見できずに帰還
1945年
9月、復員、建築業を経営

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日本(沖縄・金武)

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