ホーム » 証言 » 上野 寿さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「沖縄の山中で生き抜いた」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
名前名前: 上野 寿さん(震洋特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(沖縄・金武)  収録年月日収録年月日: 2009年12月2日、3日

チャプター

[1]1 チャプター1 特攻兵器搭乗員への志願  04:11
[2]2 チャプター2 飛行機からモータボートへ  02:49
[3]3 チャプター3 沖縄へ  04:24
[4]4 チャプター4 訓練中の空襲  03:33
[5]5 チャプター5 出撃待機  03:43
[6]6 チャプター6 深夜の出撃  05:08
[7]7 チャプター7 早朝の空襲  02:41
[8]8 チャプター8 地上戦  01:54
[9]9 チャプター9 震洋隊員の陸上戦  03:24
[10]10 チャプター10 負傷  03:07
[11]11 チャプター11 投降  02:30
[12]12 チャプター12 人間は鉄砲弾ではない  02:46

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12

提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
収録年月日収録年月日: 2009年12月2日、3日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

そのころは、すぐに飛行機に乗れるって。わたし先ほど言ったように、飛行機に乗れるなんちゅうのもね、突っ込んで特攻で終えども、死ねばいいというような考えじゃなくて、あこがれの飛行機でも乗れるかっていうようのが、18、9の考えだったね。わたしらね。

そのころは飛行機のヒの字もないし、もう何にもない。これが発案されたのも最後の最後の特攻兵器らしかったですから。5月ね、19年の5月ごろは。ええ。

(昭和)18年の12月1日に奈良(分遣隊)に入って、10カ月教育されて、そうすっと9月1日で12か月だから、何月だろう。おお、奈良からね、奈良から長崎行ったのは、10月だと思いましたよ。だからその前に希望は取ったんですね。

大きな広間で集まってね。そしてから、今度新しい特攻隊兵器ができたんだと。それで希望する者を取って。あんとき手を挙げたといって、わたし記憶したど、手挙げたんだ、希望者。分かんないもんね。何かペーパーに書かしたよ、確か。

ええ、「今度ね、あのう新兵器ができたんだ」とね。それには非常に危険を伴う職業っていうんじゃなく何だろう。危険を伴う兵器なんだと。

いや、もちろん、これはもう志願しましたよ。特攻、その新兵器に。ええ、そのころはね、あのころわたしは想像ですけども、予科練に行って、わたしは特攻兵器、危険な兵器に乗るちゅうことは、わたしは希望しませんっちゅう人はいなかったと想像しますよね。250名が全部、まあ丸書いて出したと思いますよ。

Q:あの、その新兵器が何であるか、どんな説明は一切なかったですか。

なからありゃせんでした。なかったですね。

もちろんマル震洋とか、なんかその全然知りませんで、危険な兵器である、危険な命を伴う兵器であるということは知っていた。つまり特攻兵器だね。そういうことは知ってましたけども。

予科練で10カ月も訓練してモールス信号はできるね。手旗信号できるね。そして血の気が多いね。それですから、だから屈強。あのう、ほらなんか20年の5月ごろ作って、これからっつんじゃ。これから召集した人ってのは間に合わないでしょうねー。兵隊検査してね、20年5月に徴集してきた人がね、それでじゃ震洋艇に乗せるんだっつんじゃ、これ、間に合わないから。ほんじゃ、奈良県、予科練で訓練したのが手っ取り早いわ。これだったら明日には使えるというんで、予科練を連れてったんじゃないでしょうか。

だけども、自分が行かなくては戦争に負けちゃうんだ、という気持ちはありましたね。これはありました。

もう日本の国がね、それから、そのころは天皇陛下のためですからね。天皇陛下のためには、ああ、尽忠報国でね、そんな考えはありました。考えも、今の18、9の人よりは気持ちも、大人だししっかりしてましたね。

いやあ、これでモーターボートでしょうが。一番先は、レジャーででもやってるような気がしましたよ、本当に。

モーターボートに乗っていくようなね。小串郷の港が、あの湾から外へ出て、そうして艇隊長から行って、こう散開するとかね。こうこうだって、こう旗でやって。それでグーッと散ったとか何とかって、それの訓練でしたから。乗ってるんですから、そうはひどくないですよ。帰ってきて夜中には、目、視力を増やすのに肝油なんかくれた覚えあるなあ。

Q:(操縦は)難しくはないんですか。

ない、ない。あの、自動車のハンドルと同じです。そしてこっちにレバーっちゅうのがあって、これ引けばグーッとエンジンが回って、スクリューが回んだ。で、押せば、それですよ。今んなってみたら、そのころは知んかったですが、トヨタのエンジンでしたね。トヨタのエンジンがあって、それがシャフトプロペラついて。で、前に爆薬が載ると。当時、わたしは230キロと記憶してましたが、後の記録見っと250キロ爆弾ですね、爆薬で。で、それがこう何かぶつかって艇が破れると、なんかショートして爆発するんだと。そういうことは聞きましたがね。ええ。

250キロの爆弾を積んで、走ってんじゃなくて、何にも前にないんだから、そらあ、24ノットか25ノットかっていう速力が出ましたよ。

これで50メートル先に行って艇を固定させる、あるんですよね。で、これで飛び降りることはできるんだということは、聞いたことあったったな。これで本当にぶつかるんじゃなくて、相手の船の50メートル先んなったら、これを固定して降りんだっちゅうことは、聞いたことあったってな。

Q:実際脱出訓練しました。

しません、しません。もうそれで、おれは脱出するんだなんちゅう人も1人も言いませんでしたし。1人もあれですよ、考え、あの思いませんでしたね。もちろんわたしも思いませんでした。これで突っ込むんだというだけでね。ええ。

うーん、みすぼらしいよ、本当にねえ。ですけども、これは当時のぶつかるもんだということだけは認識してましたから、こんなもんでとは思いませんでしたね。思いませんでした。ほんで、これで体当たりすんのかな、それだけは思ってましたね。今んなってはいろいろな、こんな物とは思いますよ。しかし当時はこんな物とは思いませんでした。

ああ、1月の28日かな。こう、一ぺん那覇に着いて、那覇からグーッとマブリガオカっつうとこ通って、金武町(当時・金武村)に入ってね。金武に入って、これから荷物下ろしだね。そうすっと荷物下ろすのには、品物は大発つって何トンぐらいあんだろ、2、3トンあんのかな、あのね、貨物船みたいなとこに品物積んで下ろす。すっと我々は震洋艇をね、今度は陸揚げするわけだ。

壕(ごう)ね。あの壕を、4艇隊だから4つだと思ったなあ。4つ掘って、わたしは上から3番目。3艇隊だから、3番目掘ったって記憶してる。こないだ行ったとき、2つは残ってたからね。わたしの掘ったのはこれだって。これ、写真にも真してきたんですが・・あのうあれでした。あのう壕掘りでした。

Q:何のために掘るんですか。

それ、艇を隠すために。そうですね、あれはこっちが少しなだらかで、こっちが山だった。ほれね、掘んだから。で、ここへ1、2、3、4って4本掘って。いま考えてみれば、あの艇を隠すんだから相当高かったんですわね。わたしは自分の背ぐらいかと思ったけども、そうじゃなかったんですわね。とにかく艇を車に載せて隠すんですからね、少なくとも・・そうか、そんなに高くなくてもいいのか。あの、艇を載せるこんな、あの写真でご覧なりましたね、こんなきゃしゃなリヤカーね。ここにありますけども、このリヤカーでそこに載せて。で、あのうリヤカー持ってこう入れるんですからね、それを。さあ、何日かかったか。ま、3交代、8時間交代でね、3交代で。搭乗員が何人と・・ええ、50人の搭乗員でやったんだから…

Q:これは補助、補助隊員の方だけじゃないんですか。 やるのは。

いや、違った。本当は基地隊といって、余裕があれば基地をつくる方がいるね。そして搭乗員なんかそんなことしなくてもいいわけだ。ところが誰もいないですもの。

「沖縄よいとこ、何とかおいで」とかね、「またハーエの ツンダラカミサンよ(民謡・安里屋ユンタ)」なんつって歌を歌いながら。あのう鉄の棒、このぐらいのね、岩盤をこういうふうに掘りましたね。それで、こういうふうに掘ったかな。そうして発破をかける。

マッチか何かで、ろうそくか何かで点けて。で、素早く逃げて来たと思いますよ。すと、こっち逃げて、ドーン、ドーンドーンドンって、8つかね、6つか8つか知らないけども、あの鳴るの。各壕置いて。そうすとザーッとあの岩盤が崩れてる。さ、その岩盤を今度はリヤカーで運び出すと。そういうようにしてまた行ってする。それを繰り返してから掘っていって。

一刻も早くこれを格納しなくちゃなんないと。それまでは、海岸のとこに偽装して海岸に置いたんですから。そのころはね、あそこの海岸がね、アダンの木っちゅうてね、それがものすごい。この、人も入らないようなね、ものすごい海岸でしたよ。そのとこに艇を置いて、あのアダンの木を切って葉っぱをかけてた。だからそれを、早く艇を入れなくちゃなんないちゅう気持ちありましたね。

余談ですけども、そのときに後ろ見たらば、大田少将(大田実沖縄根拠地隊司令官・沖縄守備軍の海軍側トップ)が来てたの、わたし覚えてる。大田少将が来てね、そして壕掘んのを見ててね。わたしらそのころはね、神様だと同じだもんね、将官なんか見んの。ええ。だけどもこう来てたら、将官なんていうに初めてお目にかかったっつうんじゃなくて、見たっていうのが本当だね。だからあの方が亡くなったっていうことを聞くと、何となくね、一遍でも見たら懐かしくて、あのうお悔やみする。丸顔のね、陸戦のエキスパートだったんだ。それも1月ごろ着任したんだそうですね、聞くと。

はい、ええ先にね、第1艇隊がずっと・・から第2艇隊降ろしてったんじゃないでしょうか。わたしそれ、第3艇隊だから。第3艇隊がほれ、わたしの番ね、わたしの番が来たときにどうしたはずみか・・わたしの艇が砂浜へ来て、これから海岸に降りるというときに、向こうに水しぶき上がって。わたしは海に降りなかった。

わたしは海岸にいて、さあ艇を降ろすっつときに、向こうのね、そら1キロほどもなかったろうな、勝連半島だから。7、800メートルあったのかなあ。そこにね、水しぶきがこう上がってた。そしたら、あのコンソリ・・あのB24が来て爆弾でしょうね、あれね。水しぶきだから。爆弾を落としてる。

あれが助かったね。海に降りたり何かした、また少しでも遊弋(ゆうよく)してれば、あのB24に機関銃掃射されましたからね。で、向こうの爆弾を落とす。機銃掃射もしたんでしょう。で、艇は沈む。搭乗員も、海へ飛び込む。

それから、こちらへグーッとわたしの方に向いて来たね、今度。金武のほうへね。そして大発を狙った。で、大発は爆弾は落とさなかった。機銃掃射だった。

ダカダカダッダッダッダ。あのう何ミリでしょう、あれ。20ミリぐらいなんでしょうかね。機銃のようにダダダダッて速くはないんですよね。ダンダンダンダンッつって、こう撃ってまして。

いやあ、こりゃ大変だと。だからあのう、わたしはあわてて艇からおりて避難しましたよ。避難してる途中、もちろん避難しても、そのB24からは見えますからね、見てました。海岸にいて、こうして見てたんじゃないんです。

Q:その後、そのB24はどんな動きをしました。

え、あのう爆弾落として、沖にいる艇を爆弾落として、こうグーッと、帰りにはってっちゃおかしいけども、大発を攻撃して。その後帰って行っちゃいました。

もう阿鼻叫喚つっちゃおかしいけどもね。ほかの搭乗員は上って来るね、戦死。あのう死体をね、こっち片づける。

海岸で、オグリという下士官なんだ、これ。一緒。搭乗員がこういうふうにして、「おなか、痛い痛い」っつって。「どうした?」っつって、いたのが覚えてんな。オグリ何つったかな。おなかを爆弾でやられると、内臓破裂するそうですからね。それだったんでしょう。オグリ兵曹がね。ええ、そんなこと。オグリも亡くなったと思ったな、あとで。けがして機関銃で撃たれた人ばっかりが亡くなったんじゃなくて、そういうふうに内出血で亡くなった方も何人かおるんじゃないでしょうか。

ただ「痛いよ、痛いよ」っつうだけだったね。お母さんとか天皇陛下とかじゃなかったよ。「痛い、痛い」に尽きるよ。確かに、それだけは覚えてる。だからねえ、わたしは、もうそのころは何ともなかったけども、本当、呆然としてましたね。戦友がここで今、死んでるんですもの。ええ、是非とも「よし、かたきを取ってやる」とは思ったね、あのころだからね。

これは、いわく言い難し。まずシーンとして。寂として声なしっつたったでしょうかね。みんなシーンとして。もうこれは那覇の司令からね、指令が来んのか来ない、ジーッとこの海岸縁に、沖縄で鍾乳洞をガマというんですが、そのガマにわたしたちは入って待機してるんですから。

いやあ、おれもこれはそんときは、「これは出るの、死ぬのかなあ」と、これで。できれば船はここへ来ない。ね、敵艦はここへ来ないでほしいと思いましたね。敵艦はここへ来ないでもらいたいと、ええ。わたしら本当に軟弱な気持ちだかもしんないけども、本心は「よーし、おれがぶつかってってやるんだ」っつってね、自分からっちゅのは、そうはあり得なかったかなあ。うん。わたしは出撃命令来たときにはね、本当に「ああ、来た、来た」と思って。もうなん・・どういう考えだつっても、無念無想でしたよ。

もうほとんどもうね、おお、死刑場に連れられて行く人相じゃなかったかなあ、じっとしててもね。本当に声なかったね。これ死地に行くんですからね。

もう目がつってるっちゅうか。何ちゅうんですね、もちろんニコニコする者ちゅなんかいないし、シーンとしてましたよ。おお。わたし、いつでも言葉いうんだけども、寂として声なし。もう本当にジーッとしてね、これから死地に。ま、悲愴なかんれんでしたね。悲愴なあのう気持ちと、悲愴な顔でした。ええ。本当に死地に赴くというのは、あんなもんかなと思ってね。ええ。おそろしかったっつかなあ。ば、恐ろしかったあれですわね。ええ。わたしも初めて経験したし、生身の体でね、今から死地に行くんだ、あのう死にに行くんだっていうんですからね、これ。19か二十歳でしょう。

あんときに電信がジリジリッて鳴ったか何か知んないけども、那覇からの連絡があったときにはシーンとして、その連絡聞いてましたよ。みんな。ああ、今度はと思ってね。とにかく死に赴くことは確かですからね。本当にあれでした。

いや、やり遂げる自信はありましたよ、我々も。敵艦がいてね、ぶつかるんですから。やり遂げる自信はありましたよ。これでぶつかるんだと。それ、ましてや人間がするんだから確実ですよ、これはね。ですから当時では、何ら疑う者はいなかったんじゃないでしょうか。
上の人はどうか知りませんよ。上の人は、2割か1割か成功すればいいというふうな考え方だったようですから、この本見ると。10杯(隻)行けば2杯ぶつかればいいというふうにね。して数の内には、どれかは成功するだろうといった、そんなちゃちな考えだったようですから。今、考えればね。

いや、那覇から指令が来て、第2艇隊ということになって、「出撃」といって。ナカガワ艇隊長でしたからね、第3艇隊は。で、これで行くということになって。そして水盃っていうのも、水盃はあったかな。だけど「海ゆかば」はなかった。で、いよいよ海岸に降りて、そして乗って出撃ということになって。

深夜ですからね、周りのことは分かりませんでした。ただ補充兵、あの搬出兵っていうんですよ。搬出隊っていうんですが、搬出隊で世話されて。そして船に乗せられて、エンジンを起こして、そして出るわけ。

もう死地に赴くんですからね、艇隊で。それはもうあの覚悟の上で、行こうという覚悟でしてね。もうその他を話すとか何ちゅことは、全然ありませんでしたね。前の人が帰ってきたんだってねえなんて、そんな話もしなかったようでしたよ、しなかったですよ。わたしの記憶では。ただ一念にも行くというだけでね。

Q:で、実際、沖に出てったら、どんな様子でした。 出てったら。

何ですか、あれリーフっていうか、白波がこうあってね。一番オオノが、うねりが大きくて、こう船先が(波に)突っ込んだの。あれだけはただ思い出すね。「これでは…」と思ってね。レバーを何回も緩めてはホールを上げ、また速度を出してはズズズーッと(波に)入っていっちゃってね。

佐世保で訓練したときのようにね、波静かなところを、何も250キロの物(爆薬)を積まないで、訓練したときのようなわけにはいかなかったんじゃないかなあと思うねえ。

前方よりむしろ、ナカガワさんのほうを見てなくちゃない。ナカガワさんは、あのころはね、懐中電灯に赤い何か布して、これで発光信号でやったと思うね。

そうして絶えず部下を見てて、こう懐中電灯で指揮ですから。まあそのころ、何ですか、モールス信号でこうなんすけども、そのころ、トトトツーなんてで、これでやってたって、とてもそんなの解読できませんよ、これがこれとか。これが一番早いですもんね。そうでしたよ。

Q:必死で、懐中電灯見ながら進んでるわけ…

そうです、そうです。もちろん向こう、前方は海ですから。視力ですからね、こう見てね。しかしナカガワさんのほうは目離せません。どんな指示があったか。これ、見逃したら大変だね。

敵、敵がどこにいるかっちゅこと、それだけでしたよ、見たのは。艇隊長の顔見て。もう全くもう考えない。これ、入り江はどこだろうと、もうそれでした。もちろんこれは引き返すとか何かって、そういうのは毛頭なかったですよ、出てったからにはね。もう本当にこれは死ぬんだなということは、まあね、ぶつかれば。

1時間の余はたってたんじゃないかなあ。いや、もっとたってたか。帰って来たときには、もう4時、5時だったんでしょう。白々としてたっていうからね、時間的に見れば。ですから、恐らく12時は過ぎてたのかな。恐らく帰って来るには、1時間もあったら帰るし、1時間もあったら行く、そこらの帰り地までは行き着かんですからね。ですから、向こう3時ごろ帰り地にでも。こっち行ったのはそうすっと12時、20何日か、午前1時か2時出かけたのかな、そうすっと。そうじゃないと、あそこでブラブラしてるわけないですからね。ええ。ですから、行ってそしてこれを索敵して、いないとなったら帰って来たんだから。

いや、沖で。これは帰れと。敵艦いないとか何とかってそういうことあったかないか、それは分かりませんでしたけども、とにかく帰るぞと。

いや、そりゃ敵がいないっちゅうのは、わたしらも思ってたから。うんこうして見たらね、いないんだから。まさか艇隊長も敵艦がいて帰るとはいわねえ。まさかね、いたら。それはさていなかった。ほして、何か命令でも・・これ、あとで知ったんですよ。もしいなければ、帰りなさいという命令があったという話ですからね。その点は、あのうよかったんでしょうね。

艇はいなくてわたしはよかったと思った。うん、艇はいなかったんだから、前へね。で、帰ってきたんだから。

だけどもあの艇でね、そんなに30、20何ノットも出たかなあと思って、そればっかり思うね。300、250キロ積んでね。してなぜ川棚で、あの250キロを積んで訓練しなかったかなあと思って。実戦に。それだけが本当に悔やまれる。

帰ってきました。

艇は壕の近くの湾に係留しましたから。

艇をね、あのう係留したのを覚えてます。そしてこのう、おお、偽装といって、ま、覆いはして、そうしてあのう壕に帰って来たと思いましたね。壕に帰って来て。

時間がないね。そうすっと必ず、あのころは午前6時だと思ったね。もう本当にグラマンが、ダーダーダーダー、ダーダーダーダー、機銃掃射だった。うん、機銃掃射。

ああ、もう毎日。その前も3月の下旬からは、もう1週間か10日じゃなかったでしょうか。毎日。この、続きなしに、波状攻撃っつんでしょうか。あれね。それであの、あのグラマンでしたね。ええ、どっか航空母艦近くにあった、いたんでしょう。あれでもってね、ダーダーダーダー、ダーダーダーダー。本当に今でいえばノイローゼになっちゃったかもしんないね。ええ。

Q:応戦したりはしない…

しません。何にもないんですもの。わたしら、180人か183人はね。搭乗員は船上がったら何にもない。そうすっと補充兵っちゅうのが、艇を出しちゃえば、もう何にもないわ、補充兵はね。そうすっと基地隊長っちゅうのが、テラモトさんっちゅうんですが、この隊長と銃は40丁って聞きましたね、わたし。

ああ、それは一晩、どうなったかなと。あ、そういえばものすごい音したのが壕であったな。そうでしょう。あの銃撃がね、ええ、2000何百キロってね、3000キロか、3トンのね。そうだ、あれがダーンっつたのを覚えとったな。

Q:壕ですごい音聞いたときは、これ、震洋かなと思いました?

思わなかったね。思わなかった。それは思わなかった。うん。

夕方でしょう。夕方です、日中は行けないんだから。夕方行った。そしたらもう跡形もなく、ここが湾、艇をつないだところかな、思いましたね。ええ。まあ、ないんだから、ここだったんだと。ええ、もう本当にもうこっぱみじんになかったですね。ええ。

武器ない。余談ですけど、銃なんかね、昔は明治38年使って、三八銃っちゅよった。そのころ海軍銃っちゅって、こう短くて。そして昔はこの覆いがあったんだね、この遊底覆いっちゅうの。その遊底覆いなんちゅうのも金具がなくて、これがないんだもう、そのころ。ほんで(米軍が)上がってきたんで、今度は陸戦ということになって。わたしたちの持ってる短刀とかあるいは軍刀を持ってた、みんなね。そういうのは補充兵にやって、補充兵が持ってる銃を搭乗員に渡す。して、搭乗員に銃が1丁で、あと、補充兵が何人かついて竹やり。ま、竹やりですね。それを持って行動した。誠に・・

特攻できないよね。ただしかし今度は陸の上において、何すんだろうというね。だけどもほれ、銃は1丁、わたしも搭乗員全部が銃1丁持ったわけではないんですよ。

(陸戦は)専門じゃない。そらあもう、そうして銃だって何発ぐらいもらったんでしょうか。ああ。そして銃なんかは、ああ、訓練のときには撃ったことは1回か2回ぐらい経験あるけども、銃なんか撃ったことないわね。

震洋の船ん乗ったときには、もうこれ、必ず死ぬですからね。そこで心構え違いましたね。まあまあ。陸の上んなれば、これではまあ、多分にほら敵が上陸してきて危険ではあったですけども、これで死ぬんだっちゅう気はないですからね。まあ逃げ回ってればね、当たんなけりゃ死なないんだし。これ、わたしみたいに怪我しちゃったら、ほれね幸い生きて帰ったから。

その金武から久志岳という、あのころねえ、部隊長、本当にその近辺の山岳なんかも地形も何も訓練してなかったから、何も知んない。夜、撤退するわけだ。すと、トラックに積んで荷物をね、積む。そうすと撤退して、途中まで来たらば、あの喜瀬武原という道路をね、金武から恩納村といって、名護のほう行く道路がきれいに今舗装されてましたね。あの道路が昔の道路があるんですって、今でも。そこへズル、自動車がね、ぬかるみに入っちゃったんだ。ほんで動けなくなっちゃった、自動車。やむを得ず、そこへ品物を下ろしてね、もうたばこでも、食料品でも下ろして、そうして部隊の人は、こっちの道路の反対の山のほうへ避難した。

次の日には擲弾筒っていうんですか、ドーン、ドーンと撃ってきたね、向こうで。で、これはっていうんで、その山の頂上でもない中腹に部隊は避難したの。そこで何日いたでしょう。うん。あそこに部隊でね、まごまごして全部いたら、恐らく全滅だったでしょうね。だから今んなって部隊長にいったんだけども、部隊長はいい判断をしたと。つまり我々がここにいたんで、一戦を交えることはできないから、各々めいめい、陸軍の兵隊と合流して、そして戦いなさいと、こういう命令を下した。

そうすっとほかの、あとんなって知ったら、ほかの部隊はこっちへ名護のほうへ来てたらしいね。わたしもこっち名護のほうへ来れば、もっと危険な目に遭わなかったんだよ。ばか正直に、これはもう陸軍の人に合流してね、那覇のほう行って、戦うんだといった観念のもとにこっち下がって、南にさがったわ。恐らく南に下がったのはわたしとユノキだの3、4人だけだったでしょう。

そのころ、当時わたしはあのね、どういうはずみだかね、アメリカの短銃持ってた。あれ、どうして取った。敵の死んだのを取った。別段、これを殺して持ってたわけじゃなかったなあ。どういう意味で持ってたったかなあ。こう、下に何かこう書いてある。15発が入ったそうですね。で、あれを持ってて、そしてアメリカのジャンパーを着てた。あの茶色のね。そしてユノキとわたしとそれからハヤシか。恩納岳の下に。これ、向こう行けないんだから、ここに、ボサヤブっていうかな、こういうふうにブッシュでね、ここにいた。

そこにね、ジープに乗って3人来たった、ここへね。3人来て、そんでそれを撃とうということんなって、この3人か、よったりかな、それで撃ち合いして。で、その3人を殺したのが、初めての銃撃戦だったね。わたし、初めて。陸軍のように面と向かって機関銃と、このう四つに組んだっちゅうことはありませんでした。

わたしは恩納村には何回もあそこへ上がったから、こうね。そしたら友軍の人がいて、陸軍の人を攻撃しようと思ってアメリカ軍がこの周りを取り囲んだ。で、わたし、ここにいられなかった。そんでわたしはサツマイモだの何かして、このマアタイ袋に背負って、銃を1丁持って、そして与論島のほうへ、北のほうへ、逃げようとして。して、夜の7、8時ごろ、そこの恩納岳のふもとへね、北のほうへ逃げた。そうして明くる朝んなって、金武から恩納岳のほうへ行く喜瀬武原の道路、あそこへ来た。そうしてフルナ、夜の11時だと思ったなあ。あ、その前に朝方、その前の朝方、敵に遭遇しちゃった、その3人。一緒に北へ逃げようとした戦友はね。ほんで、わたしはそのう山のふもとへ逃げる、ふもとっちゅうか下だね。で、あの戦友は2人でこの頂上へ逃げて行った。わたしはここに逃げたからね、この、このブサにいて、アメリカ人がこちらの方に、撮影してる人ぐらいの近くでね、「ジャップ、ジャップ」って、上見てんだよね。わたしはここの真ん中にカーッと手りゅう弾くわえてた。こうしてね、その夜、3月2日の夜だったもん。あ、4月か、4月2日の夜。そんでそこでね、ようく助かったなあ。目の前で1メートル、2メートルでいたときに、わたしの見つかんなかったね。あれ、アメリカのジャンバー着てたからね。して、こうしてわたし、相手の顔見てんだからつらかったなあ。今でも。で、そのころ夜の11時かだったか、サーッとこう逃げ出して、そんで今度はあの道路のとこ来て、あの山んとこ上がったら、歩哨がね、何とか言って。で、わたしはあの道路を逃げる。ダダダダ、ダダダダ撃ってきた。そんときやられた。4月3日の夜だと思ったね。

Q:どこをやられ…

ここ、貫通。こっちからね、ものの10メートルたってないでしょうね。ここに歩哨がいて、銃、おろすの分かったんだ。うん、何とか言ったよ。誰、何したんでしょうね、「誰だ?」って。で、こうして、この左足の擦過創。今、跡で。ここの左だ。今考えれば右ひざをね。骨やられてなかった、歩けたんだね。歩けた。ほんで、わたしどうしたはずみかね、あのう沖縄の着物を持ってね、仮包帯を持ってたんだね。あれ、大したもんだったな。仮包帯を持って、で、ここをグルグル、グルグル巻いてね。

で、そのときは、次の一昼夜そこに動けなくていて、次の日の朝方、5時ごろでしたか、サーッときて、今来た道をね、山道をね、帰ってった。

結果的に山ん中に1人、1家族がいた。その人に行き会った。で、その人に助けられて、マイシダさんっていうんですがね。その人のうち行って、約2カ月、6、7、8、2カ月ぐらい食べさせてもらった。そんで、傷はこっちは治りましたね。だけどこの傷はとうとう食わないから治んなかった。ええ、そしてその内に、これは親切にされたんでしょ、あとにして。で、その人がマラリアにかかったんで。周り、周り誰もいませんでしたよ、もう9月でしたからね。

マラリアになったもんで、その人があの恩納村の部落へ、この家族帰ってったわけだ、6人。うんで上野さんが兵隊だちゅうことが分かると、わたしら一家族が殺されっと困るんで、あのう悪いけどもここで別れると。わたしも一家族死んだんでは申しわけないというんで、わたしはここにいると。わたしはそのころね、沖縄の住人の着物着てました。ここへけがして。包帯巻いてね、着物着て。銃だけは持ってた。

うん。敵陣真っただ中で、わたし、1人だったよ。

Q:捕虜になった。

捕虜んなったつのは、体裁がいいけどね。あの山キシを1人で着物着てった。それがこんなびっこ引いてね。銃は64発、弾持ったまま、山キシウメテね、あれでも、ああ行ってみたいと思うよ。

Q:で、捕虜になった先で終戦を知ったわけですか。

うん。そうしたら…

いや、負けたっちゅうだから、わたしはあのうまあ沖縄に残るっつっていいましたよねえ。戦友がここで死んだんだから、沖縄、負けたっつってもね。だけどその、初めてその1人捕虜んなったときに、今でいえば、『ライフ』っつって、あの週刊誌の写真集があんだね、向こうね。そんときにミズーリ号で重光さん(重光葵外務大臣)と梅津さん(梅津美治郎参謀総長)がサインしてるとこ載って。日本はこれだというふうなとこは覚えてた。それからこっち日本語、アメリカ語かして、こういうふうにして、通訳以上に会話はできた。「山に兵隊さんはおりますか?」「いない」とか「きません」。「わたし腹がすいた」っつって、これ、一番にこれ下げましたね。で、「あなたは軍人か、軍人じゃないか?」 「軍人じゃない。船員で船沈んでる間で、ここ上がって来て一般住民だ」 「じゃ、住民では住民の捕虜収容所行きなさい」と。こういう命令で、1人であそこ行きなさいっつうんだよ。

ばかな戦争したな、一口でしたね。わたし、思うには。今この歴史を読むのには。しかし死んだ戦友はですよ・・わたしが世帯を持ちね、子供を持ち、孫を持ちして。たった18、9の人間。もちろん補充兵もいますけども。こういう送り出した兄弟親戚ね、どんな心境だろうと。今、わたしんなったら、わたしはね、孫の腕折っても兵隊には出しませんよね。
だけどあのころは喜んでね、出したとね、日本のためにといって喜んで出したんでしょう。いやまあ本当に自分の孫息子がね、喜んで出すちゅことはありえたのかな。世間体も少しはあったんじゃないかと思うわね。あれ、与謝野晶子じゃないけどもね、「君、死にたまふことなかれ」。本心だとわたしはいつでも思いますよ。

ああいうふうな大きな犠牲者があったからこそ、降伏、降参して。そして日本はこういうふうになったというんですから。一応ね、死んだ人はむだ死につっちゃこれは申しわけないけども、そういう犠牲のなったために、こういう平和が来たことは確かですわね。

今、考えてみれば、なぜこのようなバカげた、この勝ち目のない兵器を考え出して、そしてあたらこの若い者を殺したかと。そういうふうに、この上の作戦者ですね、参謀者っていうんですか、大本営ですか。そういう人は、なぜそんな考えのもとに戦ったかなあと思って、そういう人をわたし、恨みますね。

あんなにベニヤボートで戦争がつとまんなか、つとまったのかとね。それを知らずに、わたしらは一心不乱に尽忠報国にね、燃えて、そして訓練されたとね。何もかも分からない若者をね、これだけ訓練して、そして鉄砲弾に使った上層部。これを恨むっちゃなんだけども、何たる考えしてたのかね、上層部はね。本当に。もう少し根本は、人間を鉄砲弾に使ったということに間違いがあった。うん。

出来事の背景出来事の背景

【“ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、大規模な特攻部隊が海軍で組織された。その名も「震洋特別攻撃隊」。“太平洋を震撼させる“と謳い、6200隻を製造、およそ5千人をこの作戦に動員した。
その多くは、航空機搭乗員を目指していた予科練出身者や学徒兵の若者たちだった。しかし、秘密兵器「震洋」の実体は、ベニヤ板製のモーターボート。長さ5メートルの船首に250キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たり攻撃をしかけるという兵器であった。

開発を強く主張したのが海軍軍令部・黒島亀人。連合艦隊の参謀として攻撃を成功に導いた人物だ。

長崎県の川棚で訓練をした「震洋」の部隊は、米軍の侵攻で上陸が予想されたフィリピンや、沖縄本島や石垣島、奄美大島などの離島や本土各地の海岸などに配置された。しかし、作戦がはじまってからは、輸送中の爆撃や設計の不備によると見られる爆発事故が続出し、特攻作戦の前に多くの若者が命を落とした。狭いボートの中に、燃料タンク、4トントラック用エンジン、そして爆薬が詰め込まれていたのだ。しかし、海軍軍令部がこうした事態の改善に乗り出すことはなく、「震洋」による特攻作戦は終戦まで続行される。結局特攻に成功したのは数隻のみといわれている。5000人の兵士のうちおよそ半数が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1943年
海軍に志願し、三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊
1944年
川棚臨時魚雷艇訓練所に入所、震洋搭乗員となる
1945年
1月、第22震洋隊として、沖縄県金武村へ出発
1945年
3月、二次攻撃に参加するも、敵艦を発見できずに帰還
1945年
4月、陸上戦に参加、左腹部と右膝に銃弾を受け負傷、捕虜となる
1946年
復員、氏家町役場に勤務

関連する地図関連する地図

日本(沖縄・金武)

地図から検索