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タイトルタイトル: 「人間魚雷の搭乗員」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~
名前名前: 坂本 雅俊さん(回天特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(山口県大津島)  収録年月日収録年月日: 2009年1月17日

チャプター

[1]1 チャプター1 海軍へ  07:01
[2]2 チャプター2 志願した特攻兵器への搭乗  06:30
[3]3 チャプター3 死と隣り合わせの訓練  04:04
[4]4 チャプター4 出撃前夜  08:26
[5]5 チャプター5 帰省  02:54
[6]6 チャプター6 出撃  14:58
[7]7 チャプター7 何のために志願したのか  09:21

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~
収録年月日収録年月日: 2009年1月17日

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Q:昭和16年に太平洋戦争が始まってるんですけども、そのときは、坂本さんは。

中学の3年、3年ですね。3年の12月ですから。

Q:中学校にいると、戦争が始まった、アメリカと戦うんだっていうことっていうのは、みんなどういうふうに受け取ってた?

もう既にそのころは、支那事変(日中戦争)の最中ですから、もう以前からやっぱり、男は兵隊に行かんならんと、こういうもう教育なり、学校もそうやし、家もそうやし、地域もそうだったから覚悟はしてましたけどな。で、その大東亜戦争が始まったときは、これはまあ、いよいよ、我々若者の出番やなと。好むと好まざるとによらず、これはやっぱり家のため、家の名誉のため、やっぱり地域の名誉のため、やっぱ国のため、そういう心っちゅうのは、下心っちゅうのは、もう皆持ってましたな。そやからしゃばに出て、それぞれ好きな道を歩むというような、そういうあれは中には戦争は絶対嫌やと、嫌いやというやっぱり生徒もおりましたな。うちの兄貴らは、やっぱりそういうタイプの兄貴でしたな。だから「おれは戦争に行かんでええように、そのう学校の先生になる」と。こういうあれをしてましたから。そうです。先生は、第一線には、召集にはあとでなった人もいますけど、現役で検査は受けても、赤紙はこなかったんですね。

Q:それまで、戦争が始まる前までは、坂本さんは、将来、大きくなったら何をやろうとかって思ってました?

わしも弟の立場やから、都会へやっぱり出て、やっぱり、まあ、会社なりそういうあれで、企業に入りたいとかね。で、わたしはね、電気関係が好きやったから、そやからそういう方面のあれに行きたいなという希望は持ってましたけどな。

Q:太平洋戦争が始まってですね、海軍に志願したのはいつだったんでしょうか?

海軍に志願したのは、昭和18年の、7月ごろですな。6月か7月ごろですな。あのうそれでその当時、大竹(広島県)まで第2次試験に行ったのを覚えてますな。

戦いにいったん出た以上は、そらもう生きて帰るっていうようなことは考えてないわけですわ。そやから、その当時は自分の身は鴻毛(こうもう)と思えと。鴻毛っちゅうのはそこらのこう、毛いうか、ひげみたいなもんで、そういうふうに、また、七生報国っていうんか、もう一遍死んでも、またこの世に生まれ変わってくると、そういうやっぱり空想的な感覚やな。そういうのは、やっぱり軍歌とか、あるいはまたその先生たちや、友達同士のそのあの中で、やっぱり教育をされてましたからな。だから考え方が違うわけですわ。それから学校の教科書にも、この肉弾三勇士とか、そういうのがもうはっきりと載ってましたからな。そういうなんを、やっぱりあがめるっていう、軍神というようなその考え方ですな。そういうなんをやっぱりまあ、それはそれっていうのは、教育勅語はもちろん、そやからな。そやから、そこらにまあ目標を置いて、自分の体みたいなもんは、まあな、行ってんもんは、死ぬのは決まっとると。早いか遅いかくらいのことやと、そのぐらいの気持ちでやっぱり行ったちゅな。

それはね、もう卒業、8か月、訓練受けて8か月ぐらいのときですから、もうかなり、軍人精神注入棒、バッターでやな、しりも殴られ、厳しい内務と訓練を受けて、もう8か月になってましたら、かなり、心身共にもうこの海軍魂が入ってました。そういう時期に、この練習生をほかの教官やとか、班長クラスの下士官やとか、一切入れずに、練習生だけを、いちばん何人すし詰めに詰め込んで、で、そこで司令が、からその戦況と実況をこんこんと話ししてくれたわけです。それのときに、その日本の置かれているいわゆるミッドウェー作戦以来、この、台湾沖の海戦、それも含めて、非常に、本土に迫られてると。そしてもうアッツ島は玉砕してたかな、そのときに。そういうようなことで、各前線の島々が、アメリカに上陸されて、で、玉砕をしてるということも、まあ、知らされましたしな。そやからそういうときに、これは航空機だけには頼っておれん、今の日本の現状だなということは、その行くとき、まあ、志願した、手を挙げた連中は思ったんでしょう。わたしはもう、あ、こりゃもうそんな飛行機の生産は追いつかんわ、そんだけこう、いわゆる包囲網で攻められて、物量でいかれてるという。しかし日本はこの、神国やというのは、神風が吹くぞぐらいのことを思うてるしやね、絶対勝つ、勝てると、勝つという、それにやっぱり、若者が命を捨てて防戦をせんだら、だれがこの戦争を挽回すんのやと、ま、こういう気持ちで、「よし、もうそれいこう」と。で、まあ、志願したわけです。

そういうときはもう一切兵器の名前はいわないし、特攻であるとものいわない。「新兵器」っていう、それ一本です。この戦況を挽回できる新兵器と、こういう表現で、練習生には説明をしたわけです。

そういうその兵器については、その全然そのときは触れなかったです。そんでとにかく新兵器で、この戦況を挽回できる新兵器やと。それはもう貴様みたいな若者でなければ、そしてまた軍人精神の、そのあれ注入された人間でなかったら、これはとてもそういういい方で、志願を求めたわけ、希望者を求めたわけです。

まあ、「特攻兵器であろうな」と、それは思ってますから、練習機に爆薬をつけて、まあ、突っ込むぐらいかなと、ま、そんなんはその当時でもありましたからな。各基地、基地で。そやから、そやからこそ、人間魚雷、魚雷の中に入るっちゅう、これがその当時はもう全然、思いつかなかったですな。

Q:それで初めて大津島でしょうかね、行かれて、その現物を見られたときは、どういう…

やあ、このときはやっぱり、わたしも覚悟はしておったけど、ギョッとしましたな。んで、「はあ、これが、この中へ入って突っ込むんか」と。

Q:初めて乗ったときのお気持ちは?

で、そらもう初めて乗ったときは、やっぱり、だいぶに気持ちが高揚しておったっちゅうか、血圧が上がっとたんやと思うけど、そら、ま、緊張しましたですな。

非常にまあ緊張して、そして上からピシャッとハッチを閉められたら、いよいよこれは1人で何もかもこうここへ無事帰ってくるまでは、自分で操作をして、あれだなという、ま、そういう不安、不安な気持ちと、視界が見えないと、それで、だからこの特眼鏡(小型潜望鏡)、これ1つに頼らなきゃならんという、それのまあ、不安ですな。それで、まあ緊張はもちろんしてますけども、ま、一種のあがったみたいな、そういう心境になるわけですな。そやけど「落ちつけ、落ちつけ」と自分で言い聞かせて、そして、第1回のその搭乗訓練は、自分自身で、あとであれしたら、まあ、70点か80点かなあとそのぐらいのところで済みましたんでな。それでちょっと自信がつきましたよな。

ひとつ間違えたらもう回天にぶつかるか、突き刺さるか、島にぶつかるか。船、そら、通行止めにしてないのやから、だから追従艇と上から、飛行艇、水上飛行機や、水上飛行機で追跡してくれてるだけで、何の印もないわけや。そやから一般の船はですな、航行してますわ。そやからそれにぶち当たるとか、特眼鏡おろし忘れてそれに回転したけど、特眼鏡が折れて水没したと。そういう事故もわたしはもう見てますし、あのうそういうちょっとした失敗が、秘密なわけやから、で、そやけどもわたしは潜航中は特眼鏡にいたら、足をな、バッとこのあれして、当たったときに緩衝になるようにと思うてな。そういう習慣っていうか癖っていうんか、そういうの持ってましたからな、もしもあのう島へ激突したりするときに、訓練中に殉職せんでええようにと、そういう気持ちはやっぱりありましたな。

そやからもう出撃が決まって、同じ部屋で寝泊まりをするわけですが、そやからそれはお互いの話やから。そやから励まし合うたり、慰め合うたりしもって、そして、そこら議論したりしまって、あとは軍歌を歌ったりという、その精神的に悩むときは、そういう軍歌を歌ったりして慰めたり、あと山へ登って軍刀持って行ってそこらの竹や木を憂さ晴らしみたいなので切ってみたり、ま、そういうことで、自分の精神を癒やしてたっていうんか、慰めてた。そういうことです。

死に対する考え方は、わたしらの影響は、これは当たったら、もうその瞬間にあれしてですから。それから失敗して目的達成できなくても、自爆装置があります。そいで恩賜の短刀をいただく、これはまあ切腹ですけども、それに至るまでにこの自爆装置と当たったら最後っちゅう、一瞬のあれですから、それはもうまあ自分でもうそう思うてもう痛くもかゆくもない、一瞬の出来事やから、かえってあれですな、さっぱりしてるっちゅうか、そういう気持ちでお互いに慰めてましたな。「一瞬やないか」と。

まあ、今でいう、今やったら、犯罪で死刑を宣告されると。で、死刑の執行日はいつと、こういうのも一緒やな。そやけどその犯罪で、あれするのと、そのこっちは進んで、これが国のためになんのやと、で、相手をこの1人で100人もあるいは何千人も、これ、一瞬にこのうやっつけることができると、こういうやっぱりそれに置きかえ、置きかえて、考え方を、精神を、まあ、落ちつかすっていうんか、その一瞬にもう賭けていくっていうんか、そういうことで、まあ、わたしの場合は、そういうふうに戦友にもそうやって励まし、自分もそう思い、この死ぬための訓練をしてきたんやと、厳しい訓練をしてきたんやという、そこらを、ええ言葉でいうたら、大義やけどもやな、そら心ん中でのかっとうは、こらもうありました。ありました。そらもう誰しも持っておりましたし、いろんな世間話やら学校の話やら郷里の話やら、それをしておっても最後、そのときの死の瞬間の話は、これはやっぱり、出ました。これはありましたけど、これはそのために目的が果たせたら、それが男子の本懐じゃないかと、こういうことで、肩をたたき合い、握手をして、そいで慰めて、おまえもそうなれ、おれもそうやとこういい合ってですな、そいでまあ、きょうはまあこれで寝ようと、そういうようなことでね、慰めてたんです。

とにかくもう出撃者を集中攻撃で皆が寄ってきて、こう杯をかわすからね。そやからそのころの特攻隊の酒っちゅうのは、今の超特級酒以上のおいしいエキスの強い酒やからな。それをそれ、ま、口にはうまいもんですわ。それはみんな、そしてもうこれが最後やといわんばっかしに、これ、勧められるし、飲むし。と、気勢も上がるし、あれはまず最後の別れの言葉やとか、あるいは名残の軍歌やとか、いろいろ歌ってくれたり踊ってくれたり、ま、それに合わして、「ああ」っつって、そのう最後のもう、ま、この世の別れですな。

そらもう泣くのも一つの、まあ、気分の、ほぐしでしょうね。あっといら立ってるっちゅうんか、もうモヤモヤしてる、ふだんの気持ちをもうパッとさらけ出して、もう何にも考えんと突っ込むと、もうそれに徹するっていうそういうための、まあ、壮行会でしょうね、これは。もう士官も兵も、もうないからな。まあ、男の、若者の腹と腹との、もうなんていうかね、裸の相撲ですわ。それを酒で、補うてると。そういうのが壮行会の雰囲気ですな。その泣いてるのもおる。その泣いて、抱き合うて、抱きついて泣いて、それで心は落ちつくんでしょうね。

6月の始めごろですね。あのう出撃命令を受けたのは。

で、1週間か、ごろして、あのう休暇をもらったわけですわ。3日間のね。じゃから、高橋君(回天搭乗員)らは、家へ帰らなかった、帰れなかったらしいです、もう、北海道まで帰れなかったから、勝山(中尉)さんの、勝山さんとこにお世話んなったのかな。お医者さんとこにやっかいなったっちゅうてましたかな。

Q:坂本さんはご実家に帰られた?

わたしはまあどうにか明石から、大阪までぐらいまでは不通でしたから、そこをまあ陸軍のトラックに便乗させてもろうて、そしてこの不通個所を大阪まで出たんですな。それで大阪から続いてましたから、で、京都を経て草津線で、家帰ったと、こういうことですわ。それも予期してないからびっくりしてましたけど家族の者は。ま、これは最後に帰ってきおったんやなって、それぐらいはわかってましたやろけど。それでも家から連絡したんか、近くの、心安い連中に電話したんかなんかしらんが来てくれた友達もいました、数人いましたからな。

Q:でも「今、雅俊はどういう隊にいて、何に乗ってんだ?」って聞かれませんでした? 家族。

ああ、そりゃあ、聞かれましたよ。聞かれましたけど、これはまあ、おれが死んだら新聞載るか、どっかに残るわっつて、まあ、そのぐらいのことで、了解はしてもらってましたけどな。

いや、爆雷を受けてやね、そな、もう一遍にもう至近弾を受けて、それも1発や2発と違うんやから。1隻落とす爆雷っちゅうのは、10発から12発ほど落とすわけやからな。そやからそれは、いわゆるこの潜水艦は、敵の潜水艦は、40メーターなら40メーター、30メーターなら30メーターでのところで、潜航しとるというのは、向こうは測定できるわけですわ、あのう水中聴音機やとか、探知機でな。もうやから、それに合わすわけや。そやから、爆発するそれを落としてから何秒後に爆発すると、こういうような設定をして落とすわけやからな。だから至近弾で爆発するのはもう当然の話やし、で、それも何のこっちから攻撃もなしに、向こうは先見つけてるわけやからな。それはもう1隻と違うて、もう5隻がそれをもう、ここに潜水艦の、40メーターで、あのう潜航しとるというのをもう皆、バーッと連絡したらやな、そしたら先になったおれや、この旗艦が行くぞと。次はおまえこいとこう。そやから対角線でずっとこう包囲して1500から2000メーターぐらいのこの範囲で囲むわけやから。で、そこ対角線でこう行ってるわけや。

Q:じゃあ、坂本さん、そのう爆雷の音でこうワーッとなって…

あ、そう、そう、そう、そう。爆雷の音で皆がびっくりして、飛び起きて、もう爆雷の至近弾で爆雷をしてんやから、その電灯も何も皆飛んではんのやから。やからそこらのな、パイプやらそれらの間にいろいろな物やら、それ、ダーッと落ちてくるわ。爆雷1発くろうたら。その辺がやな、1隻通ったら、10発か12発次から次へ爆発すんやからやな。

Q:じゃ、すぐ号令がかかったんですか?

ああ、もう、「緊急回天戦用意、魚雷戦用意」っちゅうて、全部、かかるわけや。で、裸で寝とるけど、バーッと、まあ、起きてやな、それも電池以外にその照明があらへんからな。もう我々はそれぞれ電池持ってるから。それで、わたしと関さんとは、魚雷発射管の下で寝とるわけや。で、後部は6隻、4隻、4人そこで寝てるわけや。で、それぞれにこうはしごがかかって、その回天に上れるようになっとるわけやけど、そやから何もかもが、もう全くその予期せぬあれで、爆雷の奇襲攻撃でやな、それで目覚めて用意してやな、

ほんで関(少尉)さんも、よし、もうわしらから嘆願して、回天ももうそんないうて、夜中やってこういうわけや。夜中って、まあ、朝方やな、2時ころやから2時から3時の間、真っ暗や。暗やみやで、で、水深40メーターやから、40メーターのとこから発進するっちゅうのめったにないわけよ。けれどそんなどんな状況の中でも、落ちついて行くからやな、「出してくれ」と、こういうて艦長に迫ったわけや。
 
Q:そしたら艦長も。

「うん、わかった」と。しかし、そやけど艦長もそこらは考えて、本当は暗やみの中で一遍に4基、4基残っとったんやからな。4基一緒に出したら、そのう回天同士で事故起こすと。そしたらどっちもさく薬1トン500持っとんのやからな、そんでその出撃のときは、もう、まあ、あれやな、信管を外すからな、そやから当たったらもうバンですわ。そやから、そんな回天同士突き当たったり衝突したらやな、そらえらいことや。そやからそこは間隔を置いて、で、出してくれたわけです。

で、関さんのあとでわたしは行くことになっとったわけやけど、冷走(始動しない故障)になったわけや。パイプが亀裂起こして。

Q:そのときはどんな感じだったんですか?坂本さんに、じゃあ、何号艇っていわれるわけですよね。

そう、そう、そう。よし、チョッケタとこう思うて、もうとにかく高揚しとるし、血圧も上がっとったやろし、もうそら頭もあれですわ、もうガンガンしてましたな。そいでそこへまあ酸素パイプが亀裂をして艇内の気圧が上がってましたからな。で、しかしまあ、まだおふくろの顔やとか、郷里のこの山や川が映ってくるとこまではいってなかったですな。しかしまあ、「ああ、こりゃもうどっちにしたって、これはもう最後だ」と。まあ、あのときほど、そう思ったことはなかったですな。

「6号艇発進、4号艇発進」っていう、その号令で発動するわけです。で、発動したら、わたしのときは発動したら、もうすぐ冷走やっちゅうのはわかったわけです。「冷走」っていうのを言うたのを覚えとんのやけど、それ以後はもう人事不省に落ちよったと、こういうことですな。そやから、あとで引きずり下ろされたっちゅうのやも全然覚えないわけや。もう発動艦停止、これせんと酸素が上、海上へ上がるからな。ようけ確認されるから、それはもういちばん先、冷走したらもうピッとそれをとめやんことには。

Q:もう、「冷走」って言った瞬間にもう意識失ったというか。

そうですな。そういう状況やったんですな。そやから「早く出してくれ」って、もうとにかく気圧が上がってったと、もう目が飛び出すと、それも言うたんですわ。そいで、亀裂いっとるからということで、ま、相手は酸素やからな、毒やったもしそれ、それ吸うたら死んでまう。まあま酸素吸入してもろうてるみたいなもんやからな。酸素多いわけやさかい、多過ぎるわけやからやな、けど気圧が上がって、上がってくるわけよ、気圧が。

Q:もう真っ黒なんですか? 真っ暗じゃなくて。

そう。そうそうそう。まあ、そうなって失神してたということですな。

Q:その目を覚ましたときは、どんな状況だったんですか?

目を覚ましたときは、もう士官室におろされて寝ておったわけですわ。そんで、で、ふっと隣を見たら高橋君が、ちょうどものいうても、もう彼はものいわんだな。その当時。「貴様もあれか」って、そう思うてんけど、まあね、話しかけようっちゅう意欲も、はないけどやな、しかし精神的に、「高橋も、これは出られなかったんやなあ」と。ま、そういうちょっとした連れがおるという気持ちがあったな。

ま、結局ね、我々は出られなかったのは、故障で、まあ、潜水艦から離されなかったわけやけど、そいでこれ、生きさせてもらってるわけやけど、これも潜水艦からバンドで離されたら、これはもう当たるも当たらんも、これはもうこれも一たん潜水艦から離れたら、これは太平洋のど真ん中で、そんなん、なんぼあれですわ。そやから自爆するか、ああ、あれですな、窒息するかもしれん、死ぬか、ま、どっちかですから、皆、自爆を選ぶと思いますけど、それを成功さそうというのは、これは潜水艦のいわゆる側、艦長の見方ですな、それとそれから実際回天に乗って出ていく者とのこの気持ちが合わな、潜水艦長もわざわざ犬死にはさしたくないと、これもとても距離的に、あるいはまた相手が高速の駆逐艦や、ま、巡洋艦ぐらいのあれで、艦隊で、それは逃げ回られたら、これ、とてもやないが、この距離で命中率はもう10%、20%も落ちてしまうやろうと。で、そういうときには艦長は、もう判断で、出さんです。出さん。

何ともいいようのない気持ちですな。うれしいとも、生き残ったとも、やっつけてくれたとも、そんなんもう何ももうあれやないけど、はあ、「おれやい、出撃できなかったんだなあ」と。まあ、無念、無念のほうが先、パッとこみ上げてきましたけど、「高橋君もおるんやなあ」と。そういうちょっとした、まあ、安心っていうんか、「連れがおるわい」と、こういうその安易な安心感やな、そういうなんは、あれしたけど、そや、これが生き残る、証拠にはならんとは思うとったけどやな、まだまだ戦争中やからな、で、どんな事態がこれまあ起こってくるわからんということやから、で、ほら終戦になるっちゅうようなこと、言葉でも思うてないわけやし、その当時はな。

まだいまだに耳の底にそのラジオ放送聞いたあれが残ってます。「もうこれはただごとではない」と、これは、ポツダム宣言はあれやったけど、無条件降伏やという、あれで、まあ、精神的にガックリしたな。したけど、「はあ、これで戦争はおさまるか」と。しかし我々は、「ただはいかんなあ」と、戦犯ではないけど、これは、ああ、戦犯の第一人者に我々はなるのと違うかというようなやっぱ気持ちはありましたな。というのは、1人で1000人、2000人殺せんのやからな。うん。成功したらやで。そやからそういうやっぱり兵器を扱っとるっちゅうそのあれは、アメリカ、敵さんにとっては非常にこの、今の自爆テロではないけど、テロ扱いにされると。こういう気持ちもありましたな。

まあ、あとで聞いた話ですか、あのうもう母親はもう亡くなりましたけど、妹がわたしより8つ下で、もう近くに今も健在でおりますけど、母親とあそこに霊山っちゅう山があるんです、あれ、標高700、700、62メーターか、海抜ですから、まあ、実質この辺から、この辺がもう既に200ぐらいありますから、ま、実質の高さは500余りですな。そやから、そのあれを日参してくれたっていうんやから、あれな。まあ、特攻隊で出撃してんのに、武運長久を、まあ、祈ってくれてたんか、成功を祈ってくれてたんか、まあ、そうやって、祈ってくれてた。それで兄さんは生き残ったいうて。いうてくれてますけど。まあ、今はこうして生きさしてもろうてること自体が、もう不思議でならんですわ、もう、本当に夢みたいなもんですな。もう夢みたいな生活を60何年させてもらって。

それはやっぱり、影響は教育、その当時のやっぱり教育。それからその小さい時からの「おぎゃっ」と生まれて青春を迎えるそのときまでの時代背景と教育ですな。これがやっぱり積み重ねで家のため、国のため、町のため、そういう名誉のためっていうんか、そういうことで自分の欲望なり希望を打ち消しておった。こういうことを、我々も、今、その述懐する、いろいろ思い起こすのにな、そうでなかったら、手を挙げて、「死にに行きます」というみたいなもんやからな。そやけどそこには先、最初にあんた質問になったように、練習生を集めて新兵器がでけたというあれは、極端な、究極の兵器の名前あるいはまたどういう突っ込み方、死に方をするかという、そこまではそのときには話ししてないわけや。決断を希望をとって、あれするときは。そやからそこらんとこをぼかしながら、個人個人のそのゲンの差を、で、「希望する者は」とこう持ってきた、ま、そこらへんの軍部の、まあ、老かいなところも、まあ、あるわけやけど、その時代としては、そういう募集のしかた、正しかったんかもわからんし、抵抗なしにすっと希望をとったと、手を挙げさされた。そういうことではないかなと。

そら、我々はもっと訓練中もあるいは出撃するまでは戦果を上げるべく、あるいはまたあの当時のあれとしては、いちばんまあ、効率のいい死に方であるし兵器であると、こういうふうに自負して、そいでまあ、訓練を受け出撃していったわけやけど、結果としてまあ、微々たる存在であると。気持ちだけは、これは何ものにもかえがたいこれは気持ちであったなと。それは自信を持って、言えますな。それはやはり、祖国を思う気持ちと、そしてまあ、あの当時、世の中っていうんか、将来の日本をこれはやっぱり守っていきたいと。そういうその気持ちがやっぱり先行しておりましたな。そやからそういうまあ、結果としては微々たるもんであったかしらんけど、この心がやっぱり大事ではないかなあと。我々、生きとるからそういえるのかわからんけど、そこで亡くなっていった、突っ込んでいった戦友のことを思うと、やっぱり生き残った連中が、それをやっぱカバーしてやらんだら、こら、何のためにこれ、死んだんや、突っ込んだんや、この現実がわからんでは全くの意味不明やなと。こう思う、気持ち。これが慰霊の一つのあれやなと。

出来事の背景出来事の背景

【人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、日本海軍は特攻兵器を開発。一人乗りの潜航艇「回天」である。1.5トンの爆薬を積んだ必死必殺の人間魚雷だった。

回天は、潜水艦に搭載されて海を行く。連合軍の艦隊や輸送船団に近づくと、潜水艦から搭乗員が乗り移って出撃、いったん浮上して目標を確認して、ふたたび潜航、時計とコンパスをたよりに接近、体当たりする。さらに、自爆装置も付いていて、いったん出撃すると二度と帰ることのできない兵器であった。全国から集まった400人の搭乗員の若者たちは、山口県の大津島の訓練基地で、厳しい訓練を積んだが、15人が、海底に突っ込んだり、沈没したりする事故で命を失った。

出撃が本格化したのは、昭和20年3月以降の沖縄戦だったが、米軍の警戒が厳しくなり、目標を、当初の停泊艦から航行する艦艇に変更、攻撃を成功させるのはさらに困難になって行った。回天に乗り組んだのは、乗るべき航空機が不足してきたため、飛行兵を目指していた予科練出身の若者たちだった。回天に乗り組むことになった若者たちは、さまざまな思いを胸に秘めたまま、生きては帰れぬ兵器に乗り込んで出撃していった。

作戦開始から終戦までの9か月間で、確認された撃沈戦果は3隻。回天作戦で命を落とした若者は104人に上る。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1926年
三重県に生まれ。
1943年
三重海軍航空隊奈良分遺隊に入隊
1944年
第1特別基地隊に配属。回天搭乗員となる。
1945年
終戦。当時19歳、海軍上等兵曹。終戦後、米殻商を営む

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