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タイトルタイトル: 「自決を迫られた負傷兵たち」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
名前名前: 運天 政和さん(沖縄県・鉄血勤皇隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年5月10日

チャプター

[1]1 チャプター1 兵士になった中学生  01:42
[2]2 チャプター2 少年兵として目の当たりにしたこと  03:24
[3]3 チャプター3 伝令  01:36
[4]4 チャプター4 南部への「転進」  05:12
[5]5 チャプター5 負傷  04:13
[6]6 チャプター6 自決を迫られた深手を負った兵士たち  02:10
[7]7 チャプター7 戦争の狂気から逃れることを考えて始めていた  02:37
[8]8 チャプター8 戦死した友人たちへの想い  01:15

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
収録年月日収録年月日: 2009年5月10日

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お家から通って、ちょうど、真和志の大道あたりだったんですけどね。歩いていつも学校に通って。それからもう…軍隊に入ったら、部隊に入ったらもう、つきっきりで山の中で暮らしておったんですよ。

Q:兵隊に入るときに親御さんに最後に会いに行きました?

そうですね。最初は出て行くときにも、さよならしてから、ま、生きるか死ぬか、それは言わないですけどね。

Q:何か言ってました? 親御さんは。

ああ子どもたち、ああ…親が? そうですね。元気で頑張りなさいちゅうことでしょうね。そんなに難しくは言わなかったけどね。

学校からすぐ強制的に行かされたんだからね。行きたいどころじゃない。そのときは勉強の途中ですからね。勉強の途中と言っても、あまり勉強もしない方だから。戦争に追われて。…ほんと。

壕はもう、一中からね、下に金城(かなぐすく)に降りるところの途中で壕があったんですけどね。出たり入ったりで、もうあれですよ。それはもう一般の民間人もだいぶ住んでいましたからね、壕に。もう戦争の最中だから、そこから出て歩くちゅうことも難しくてね。そう、天気を見ながら、機会を見ながら隠れ家で、隠れ隠れで、もう…家に行ったりやってましたよ。

そうですね、「お前何言っているか」ってしてからに殴られることも、よう、ちょいちょいありましたよ。兵隊に。上等兵だったけども、うちらはまあ、全部二等兵ですからね。こっちに出ておいでってからに、殴られて。それでももう、泣いたり、逃げたりはしないですよ。あくまでも戦争に勝つためということでね。その当時はね、そうですよ。誰もそこから逃げたりなんかしたら、もう今度はどんな目にあうかわからんからですね。全部軍隊が支配しておったから。

Q:鉄血勤皇隊ていうのになった時、最初はやっぱり誇らしいような気持ちもあったんですか?

そんなことは…まあ戦争だから…そんなことは無かったですね。誇らしいちゅうことはね、もう戦争に行って死んでも構わないていう形ですからね。そりゃもう、なるべくは…家に帰りたいと。これ一心ですよ。まだ若かったからね。

帰りたいって言ってもね。帰られないから。周囲はもう全部、下士官、上官が見回っているから、一緒にもう、戦争に参加するという意気込みだったんですからね。

今から考えればね。大変なことだったんですけど。それは戦争だから、しょうがないもんなあ。同級生が、もう、みんな、いくら亡くなったか。もう、数え切れないほどですよ。お家に行ったり来たりする間に弾にやられてね。

もうすごかったですよ。そこ抜け切れたのが珍しいぐらいですよ。何回も至近弾をあってからに。また飛行機からも低空してきてから機関銃を掃射してね。「あ、危ない」って言ってはったらもう、耳のそばからパパパパーッて。もうこれが一発でも当たったらおしまいですよ。そういう人たちが多いんだね。

Q:100大隊のほうに移ってからは、敏和さんはどんな作業をしてたんですか。

もう、連絡係ですよ。最初はね、電線が、電話線の、もしょっちゅう切られていて。砲弾でね。それを繋いだりなんかりしたんだけど、あとはもうそういうことも出来ないで、今度坑道で命令受けて、それから各部隊に。一人では行ってないですよ。上等兵と一緒にね。二人でいつも行っていますよ。

ああもう、しょっちゅう弾が飛んできて、それで飛行機からは機銃掃射されるしね。もうはっても動きも出来ないぐらいですよ。

Q:その頃はまだ日本が勝つって信じてました?

信じて。負けて上陸されてねえ。もう負けてるちゅう感覚はあるんだけれど、必ず勝つと言うことを言わんと上官から、「何貴様、何言っているかー」してね、ビンタ食らうから、そういう事も言えないですよ。必ず勝つっちゅう…ことを話しないと。

退却するときに、まあみんな、あまり団体で行くもんじゃないからね。最初、学校からのあれはもう、100大隊の本部に行って、そこからまた分かれて各中隊にね。うちらは100大隊に行って。それから、もう、帰る週になると人数も少なくなってね。途中でやられてなんかして。その点からすると、うちらはよっぽど戦争に強かったんだなあと思いますよ。今考えると。

Q:南部、糸満に移ってから100大隊はそこで壕を探したんですか、自分たちの。

これは、あれですよ。しょっちゅう連絡でね、どの壕、どこに誰がいるちゅうことを知っておったから。…まあ、どこだったかなあ。100名の近くのなんだったかなあ、あの壕の近くにね、各部隊のあれがあったから、そこに行って。そっからはもう、あれですよ。しょっちゅう、弾で、砲弾でやられて。半分以上はもう、戦死していますよ。その中で残るちゅうことはね、珍しいですね。今こんなしてお話しも出来るんだから。

うちらが移動する度にですね、民間の壕、みんな追い出して、そこに兵隊が来るから、「あんた方は他のほうに逃げておけ」って。そういう催促やっておったですよ。

Q:住民の方々はどんなでした?

もう、軍隊が来るちゅうから、文句も言わないですよ、そのまま、さっさっと逃げて。助かっていないんでしょうね。住民の方も。

まあ、いろいろとね。当時はきつかったから、みんなあれですよ、精一杯ですよ。まあ涙流してあんあん泣くもんじゃないしね。とにかく涙は流してながら…。昔の軍隊は大変ですよお。今の戦争とは違ってね、昔の軍隊はもう、上官の命令でもう、一から十まで全部、服従しないといかんからねえ。それでも、ちょっとでも反抗したらもう、腕の、飛んでくるんですよ、上官のね。

ああ、あったんですよ。そりゃあねえ。でも日本の、軍隊が入るから、あんた方もう出て行けちゅうて、だけでやってるから、そこで、なんやかんや言うことは出来なかったですよ。

Q:どんな気持ちで、それを見つめていました? その当時は。

ああ当時はねえ、ほんとに、すまないなあしてね、いつも。うちは軍隊だったから、当時は。軍隊の端っこだから。そんなに威張られんけれど、住民に対しては本当にすまない。ちゅう感じ持っておったですよ。

もう、言うこと聞かないと危ないからなあ。兵隊たちは銃を持って危ないからに向かってくるから。うちらもそれを止めることは出来ないでしょう。同じ軍隊だから。もうさっさと逃げてちょうだいしてね、それしか言えなかったですよ。

最初はね。可哀想だなあちゅう思ってねえ。同情しよったけど、後からはもう、自分らが殴られるんだからさ。もういつもビクビクしておったですよ。沖縄県民は…何やお前らは、戦争に自分から進んでやらんか、して。軍隊はそういうもんだったですよ。

食事…“めしあげ”に壕に行ったんですよ。途中でまだ出来てなかったから、待っとったらね。至近弾が来て、足をやられて、それからまた担がれて、壕に帰ってですね、もう、そのときは食事もやったとかしないかも覚えがないんですけどね。

Q: “めしあげ”はよく行ってたんですか?

そうですね。軍隊の中隊のあれ、…100大隊か。

Q: “めしあげ”って戦う前線じゃないけど、“めしあげ”がそのときはすごく危険な任務だったんですか。

危険ですよ、ほんとに。壕の中に入れないからですね、向こう側も一生懸命食事を作っているから、作るまでに山の片腹にね、かたぐぁー(片っぽの沖縄方言)に隠れて待っとったら、至近弾が来て、足をやられて。それからもう、同僚におんぶされて、うちらの中隊の壕に行ったんですけどね。でもその足ぐらいだから。本当に胸とかどっか腹にやられとったら、もう生きられんですよ。

(兵隊たちは)壕の中にいますよ。持って行くのはうちらが持って行ってね、軍隊もいつでもその、隊長の命令で銃を持って対戦しに行くからね。…つまり、うちらは後から応援、ていうかな。戦争に行って弾なんか撃ったことないからね、まだ学生で。…小さかったから。

Q:でも、そのころ、もう南部にいたころ軍隊は、あまりアメリカ軍と戦ってなかったんじゃないですか?

そうですよ。あまり戦ってない。もう、どうしたら逃げてながら、後ろから撃とうというようなね、感じですよ。向こうからやっておったら、もう…本当に命無いぐらいですよ。

あまり撃たなかったですよ。もう最近、近くに敵の陣地があったからですね。こっちがどういう操作をやっているっちゅうこと、ちゃんと知っておったから。壕の近くの入り口にもう、どんどん弾が飛んできて、逃げる、逃げるのも精一杯だったですよ。

Q:じゃあ兵隊は基本的には隠れるばっかりですか?

そう…でもない、出ていって、もう帰ってこないんですよ。隊長命令で、突撃しれって。しなさいって言ってから…。帰ってこないんだから。もうやられて。

Q:敏和さんは“めしあげ”の途中で足をケガされて、その後病院に入ったんですか? 病院壕。

病院には入らんけど、ずっと部隊と一緒にね。おんぶされて、担がれて、他の病院に移動したりしたみたいですよ。ま、幸い、あんまり、ごくあれは無かったですね。壕の中で、みんなが出ていって、帰ってくるまで待っておったんですよ。ま、それからもう…負けっぱなしだからね。あんたこれ敷いたら。

Q:ああ大丈夫です大丈夫です。すみません、ごめんなさい。

いいですか? 足伸ばしたらいいのに。もっとこっち側に。

自決もしてますよ。自決するのを周囲に並んでパパパって。隊長がね。隊長っても伍長か曹長あたりがやって、あれすぐ、それを見てから、すぐ壕から抜けたんですよ。死んでたまるかって。怖かったんですよ。銃で撃たれるのも。みんな、もう…我先にして、並んで、頭撃っていくんですよ、拳銃で。上官が。もう…逃げられんと。自決しなさいちゅうことでね。壕にいっぱい並んで、みんな死んでおったんですよ。ま、自決だな。

上官が撃つっちゅうよりは、上官が撃たんけれども、その下の曹長とか、大尉とか、将校がやっておったですよ。

そこへ…みんな、我先にしてから頭撃っていくんですよ。こっちに。パーとやってからパタッと倒れて、もう、それっきり。並んでいるんだもの。これを見て、あーこれは死んだら駄目だなあって、その壕から逃げていったんですよ。逃げたっても、しようがないけどね。

思い出しますよ。あの当時のね、壕の中での。もう、上官が来ると、もう知らんふりして、うつむいて。どっかに逃げよる所はないかいうて、そればっかし考えておったですよ。…本当の軍人じゃないですからね。

そうですね。怖いちゅうよりはね、見て知らんふりしてから、早くどっか逃げる所はないかして、そればっかし考えておったんですからね。若い間は、戦争の兵隊の最初の時代は鉄砲持たされたら、どうして戦うして、そればっかし考えて。最後はもう、どうしたら逃げれるか、ちゅうことしか考えてない。もう誰でもそうだったんじゃないですかな。生きてる人は。死んでる人はもう自分から進んで自決したいと思うし。戦争に参加して、弾にやられた人もいるし。

どうしたら逃げるかちゅうことでね。どうしたら戦うちゅう人はもう、あまり終戦間近になってはいなかったはずですよ。どうしたら逃げるかいうて。みんな集めて、また一人ずつ並んで、拳銃でね、上官が。頭、こめかみ撃ってからに。倒れて。死んでいった人もいます。

なんで戦争してそんなに犠牲者出すかってちって。…もう終戦後なると、戦争終わる頃なると、みんな逃げっぱなしで、どうしたら逃げようかちうことを考えておったんじゃないですか? それで戦うって命が長らえて、助かったちゅう人は少ないですよお。みんなもう、意地があれば、度胸があれば先頭に立って、戦ってますからね。うちら、どっちかというと、びっくり者だから、どうしたら逃げられるかちゅうしか考えない。まあ、本当の軍人じゃないですよ、そのときは。学校から中隊に行ってようやく軍隊の味を味わってるだけで。

死んでる人はもう、我先にして進んで軍隊の先頭になって戦ってますよ。ああ、なんかもううちらはまだ、ガタガタの青年だったから。申し訳なく思ってますよ。

野戦重砲、野戦の砲弾も当たりますけどね。船からの弾でほとんど亡くなっているんじゃないですか? 

耐えられない。もう思い出してしょうがない。同じ同級生が亡くなっていくのはね。見ているから。自分は命長らえて、なんやこの頃、グソー(後生)から、また、にらみつけるかもしらんよ。

そば歩くと、どこどこでだれだれが死んだちゅうことをね、思い出すと島尻(激戦地だった沖縄本島南部)行きたくないですよ。かわいそうにね。

出来事の背景出来事の背景

【戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。

昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1928年
沖縄県那覇市に生まれる。
1945年
沖縄県立第一中学校三年生時に鉄血勤皇隊へ入隊。
 
独立重砲兵第百大隊に配属され、沖縄本島での戦闘に参加。
 
6月、米軍に捕らえられ捕虜となる。
 
終戦後は、米軍雇用員として働く。

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