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タイトルタイトル: 「難しすぎた回天作戦」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~
名前名前: 山田 穣さん(回天特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(山口県大津島) ペリリュー島  収録年月日収録年月日: 2009年1月21日

チャプター

[1]1 チャプター1 回天の出撃  02:43
[2]2 チャプター2 攻撃  03:17
[3]3 チャプター3 回天の戦果  03:43
[4]4 チャプター4 作戦変更  05:47
[5]5 チャプター5 回天の特攻とは何だったのか  04:24

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~
収録年月日収録年月日: 2009年1月21日

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あれは、(昭和19年)10月の中ごろで捷1号作戦が発動になったのは。それでね、6艦隊って、潜水艦の艦隊を統率した6艦隊というのがある。6艦隊司令部に対して連合艦隊から来た命令はですね、出せる潜水艦はね、今すぐアンダーオペレート(作戦下にある)の船はすぐ、あれですって、レイテへ向かって行かせろという命令が出たもんですから、それは大変だということで、まずですね、その回天の積んだりおろしたりする動作を、積んでですね、回天を積んで、それに搭乗員も乗っけて、わたしはどこに派遣されるかなと思ってたら、同じコッソル水道(パラオ諸島)だったんですよ。コッソルというのはね、まあ、1発、その前に行ってやられてますからね、だから、感じはよくなかったですな、感じは、命令を受けたときの。艦長も、まあ、もっとほかのとこへ行かしてくれりゃいいのになんて言ってましたけどね。
 
そこのね、ペリリュー島からね、サーチライトでね、ずーっと海面を掃いてるんですよ、サーチライトで。それですからね、僕ら、頭の上をね、サーチライトの光ぼうがバーッとこう行くでしょう、それでまたしばらくするとまた帰ってくる。それで、サーチライトの下をくぐってね、それで静かな南洋の海のところをこう、真っ黒な島影に向かってこう行くというのは異様な感じでしたな。そんなのは経験がないですからね。艦長だって、我々よりまあ15歳ぐらい年上の方だけど、ともかく経験がないから、我々と一緒なんですよね。それで、ペリリュー島からサーチライトが、当たったら、これね、当たるって、サーチライトが当たったらって、弾が当たるのとは違うんだけど、光が当たったら、もうすぐやられますからね、怖かったですよ。

そして、回天を出しましたが、回天のみんなに与えた命令というのは、ここから、ここの位置から、ここはまあ一応は実測してますから、正確には出てませんけども、実測して、それから、入り口まで、これは海図に全部出てますから、何マイルと。これが大体10マイルとったんですね。こっちも10マイル。10マイルの10マイルぐらいのあれでとりまして、それで、だから、10マイルをあれは12ノットで走るのかな。そうすると、幾らって出るでしょう、時間が。それで、それから、そこで今度、舵(かじ)を90度またとって、それで行くと、そこが、こっちも10マイルですから同じ時間です。それで入り口だと。その入り口を入ったら、あとは、今度は、魚雷の信管をね、入れて、それまで信管を入れないですから。信管を入れて、衝撃で爆発するという状態にしろということで、そういう約束事で出したんです。

Q:実際に停泊艦襲撃の作戦やられてみて、それはどうだったんでしょうかね。

実際問題として、中に入って入るころには、あれですよ、薄明るくなるから、薄明でね、薄明るくなるから、大体大きな船は、駆逐艦や小さい船は別として、空母とか、戦艦とか、タンカーとかって大きな船は大体艦影が映りますよ、シルエットでね。それに向かって今度は真っすぐ、今度はもう最高20ノットぐらいで走るんですよ。それで、そのまま突っ込むと言うたら百発百中ですよ、それは。ところが、まず、いちばんむつかしいのは、真っ暗なときにどうやってその水道まで行くか。その水道まで入るのにですね、コンパスだけですからね。特眼鏡(小型潜望鏡)だって見えるったって、そんなもの、ちょっとぐらい上げたってわかりゃしませんよ。地理だって初めてですよ。

水道から入るまでに、それだけの条件でね、入れたどうかということがまず疑問ですよ。だから、むずかし過ぎるんですよ。むずかし過ぎることを、まあ、当てがっちゃったんだから。

そしたら、何でしょう、久住(久住宏中尉)という隊長がね、これは川越に今、うちがありますけどね、これが1月の12日ですよ。この間、ちょっと命日が終わったばっかりですけど。それがね、気筒爆発を起こしましてね、それで、気筒爆発というのは、酸素魚雷ですから、酸素にいきなり火がついちゃったら大変でしょう?それが、その、1号でもってそういう事故で、気筒に酸素が入って、その酸素に爆発、火がついちゃって、それで爆発しちゃったんです。これは火薬は爆発してないですから、酸素が燃えて吹き出したという。それでね、艦長は、ドンという変な音がして、火薬だったら、そんなね、ドンなんていう変な音なんてすればすぐ爆発とわかりますけど、それで、何だろうということで、すぐ潜望鏡で見ましたら、火が吹いてるというわけ。これは気筒爆発しかないですから、そういう場合。で、そういうことで、彼はそのままブクブクと沈んだんですね、そこで。それで、あと3本を、4本持っていったから、3本を、もう、3時半といったら真っ暗ですから、まだね。全然見えませんよ。それで、そのときに3本を出しました。そしたら、1本が出ないんですよ。それが久家(久家稔少尉)さんだった。久家さんの船は、艇は、あれは久家さんが、ビルジって海水が魚雷の中に幾らか漏れて入るでしょう? それが、そのう、海水と油が混ざるとビルジになって、ビルジからあれが、ガスが発生するんですね。そのガスで彼は酔っぱらって人事不省になっちゃったんですよ。それでね、1基がどうやら応答なしです。そのころ、わたしは砲術長で、電話当番をやってましたからね、艦長の命令はわたしが全部、電話で伝える。そうすると、その、「用意、艇」がかかる前に、まあ、いろいろと、最後のごあいさつをするからといって、やってました。そしたら、そういう事故だったもんですからね。

残りの2基は、残りの2基のうちね、誰か1基は入ったんですね。それはね、向こうからね、言ってきたんですよ。で、1基はだからもう入らなかったんでしょう。自爆の音だけですよ。だけど、自爆の音でもね、回天の場合はね、みんなそうなんですけどね、自爆の音をもってね、その、ぶつかって、命中して、当たったというふうに、その、解釈しちゃったんですよ。

Q:航行艦襲撃というのは、停泊艦がだめだからなったわけですよね。でも、航行艦襲撃もむずかしいんじゃないですか。

もっとむずかしいですよ、襲撃そのものは。襲撃そのものはむずかしいですよ。それはね、動いてるんですから、相手も。だから、魚雷を撃つのと一緒ですよ。だから、それはもう今度は、相手が止まっている停泊艦なら止まってて、それで、まあ、せいぜい、潮の影響だとか、風の影響だとかという軽い軽度の影響は外圧として加わっても、言うなりゃあ、こう狙って真っすぐこれで行けばそのまま当たるというところで、まあ、例えば、その間の距離が3000メートルとか5000メートルというところまでを接近していけばですね、これは大概当たりますよ、それは。それは百発百中と言っても間違いないというような、そんなでたらめだということにはならないでしょう。ところがね、動いてる船にぶつかるというやつは、これはむずかしいですよ。だから、前言ったようなスピードもあるし、それから、方位角というそのあれもあるし、まあ、相当ですね、練度の高い艦長と、そうじゃないという言い方はまずいんだけど、まあ、その艦長の射法ですね。が、ものすごい影響しますな、それは。ですから、まあね、停泊艦のほうがなおかつ安全だと、同じ特攻でやるなら。でも、動いてる船のほうはね、それはよしたほうがいいという意見が最後まであったんですよ。

停泊艦の場合は、これはもう命令ですから、日にちと時間まで決まってやってる。航行艦の場合は、それはまあ艦長の神経は、艦長の神経として別でしょうけど、まあやっぱり悩まれるでしょう、それは。それは悩まれると思いますよ。だけど、それもやっぱり1つの命令ですからね、当たる確度、公算の問題ですよ。当たると思えばそれはしめたということであって、むしろウエルカムじゃないですか。歓迎でしょう。それはね、そのときの心境としてはあったと思います。ただ、だから、そういう意味で、やっぱり、回天をリリースするということは、当たるか、当たらないか、それは、練度が下手だということもわかってる、それも全部加味して、だから、確率の高いものではないけれど、まあ、少なくとも半分ぐらいは当たる可能性はあるというんだったら出したと思います。それでまた同時に、搭乗員のほうはですね、そんなことにお構いなく、もう早く出て自分の身のふり方をつけたいというのが信条だったらしいですよ、あのころもね。ですから、そういう意味では、まあ、搭乗員のほうからも圧力がかかる、「なぜ出してくれないんだ」って。我々の関さんのときだってそうですもん。夜中に出してね、航行艦でしょう。それはとてもじゃないけど当たるなんてはずがないと思った。ですから、艦長はもう振り向きもしなかったですよ。ところが、関さんがもうものすごい血相を変えてですね、「このままでいったら我々だって死んじゃうんだ、艦長。爆雷であれだけくらったら死んじゃうんだ」。だから。我々はね、もう、爆雷の程度というのは心得てるから、そんな、この程度だったらなんて思ってはおりましたけども、やっぱり、ほら、初めてですから、初めて船に乗って初めて爆雷をくらうんですから、ちょっとした爆雷だってね、おっかないですよね。このまま沈んじゃうと思うから。そうなったらね、この際はやっぱり、名を残すというか、少なくともそれだけの訓練を経てやってきてる、だから、それはやっぱり出撃すべきだという使命感で、それは艦長にくってかかりますよ。艦長はそれに対して、やっぱり、まあ確率論で、少なくとも50%ぐらいは確率がなかったら、ちょっとね、出さなかったんじゃないかと思いますよ。

わたしらもね、それまではね、そんなにね、特攻というものに対して、同じ兵隊ですから、それはもう鍛えられて、同じ鍛えられてきてるんだから、死というものに対しての恐怖感はないです。それで、それはやっぱりお国のためというか、お国なんていうことよりもね、むしろ、まあ、自分のうち、それから自分の地域とか、せいぜい日本までですよ。そこまでで、まあ、そのためという感じでね、皆、死んでいったんですよ。それがね、やっぱり特攻というやつはね、やっぱりその辺がもう無茶苦茶になっちゃうんですな。だから、まあ、気の毒ですな。

また、信じなきゃできないですよ、みんな特攻で出るんですからね。だから、負けるはずはないが、勝つはずもこれはないと。これはとても勝てないということだけはわかってましたよ。だから、だから、その、回天がですね、戦果はあまりない、そんな100%なんて当たりっこないんです。そのことをもし言う人がいたらね、それはまあ、から元気で言ってるだけのことで、我々、船に乗って、回天をよく見て、知って、何回も回天をやってるとそれはわかりますから。まあ、しかし、そうですね、ちょっとね、回天に最後は頼んで、何でもいいから、バカバカ自爆でも何でもいいからやってくれりゃ、敵もおっかながって寄りつかないだろうと、そういうことで時間を稼いでりゃ、そのうちまたどうにかなるだろうというような、先行き全く何にもわからない、めどのない状態でしたね、実際は。
 
やはりね、自分がそれじゃあ本当に醜の御楯(しこのみたて)として死んでいくということが、それだけの、どれだけのじゃあ結果として回答が出るかということも、まあ、わからないといえばわかんないんですが、それはわかんないじゃ彼らの立場がないですから、だから、それはそれなりに真剣に、やっぱり、自己犠牲が出るほど、一生懸命訓練もして、やったわけですよ。できる範囲としては、それこそ人事を尽くしてやれる範囲ではやったわけですから、あとは、だから、それでもう本当に天佑(てんゆう)を信じて、自分がぶつかりに行けばそれはそれだけの成果は上がるんだということを信念として持ってなくて、危ういんだなんていう感じを持ってたら、それは成り立ちませんわな。死んでもいかれないでしょう、そんなことじゃ。そう思いますよ。
 だから、それは真剣であったんです。その真剣というものが今の時代にどう評価されるかということは、そんなことは別問題ですよ。ただ、そのときにおいて生きていた1人の人間として、どういうことが自分に課せられた使命であり、それをやり遂げることが自分としてのやっぱり人生を全うすることになるんだという感覚がやっぱりなかったら、これはできることじゃないですよ。そういうことがある人が、やっぱりまあ搭乗員を志願していった。

出来事の背景出来事の背景

【人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、日本海軍は特攻兵器を開発。一人乗りの潜航艇「回天」である。1.5トンの爆薬を積んだ必死必殺の人間魚雷だった。

回天は、潜水艦に搭載されて海を行く。連合軍の艦隊や輸送船団に近づくと、潜水艦から搭乗員が乗り移って出撃、いったん浮上して目標を確認して、ふたたび潜航、時計とコンパスをたよりに接近、体当たりする。さらに、自爆装置も付いていて、いったん出撃すると二度と帰ることのできない兵器であった。
全国から集まった400人の搭乗員の若者たちは、山口県の大津島の訓練基地で、厳しい訓練を積んだが、15人が、海底に突っ込んだり、沈没したりする事故で命を失った。

出撃が本格化したのは、昭和20年3月以降の沖縄戦だったが、米軍の警戒が厳しくなり、目標を、当初の停泊艦から航行する艦艇に変更、攻撃を成功させるのはさらに困難になって行った。
回天に乗り組んだのは、乗るべき航空機が不足してきたため、飛行兵を目指していた予科練出身の若者たちだった。回天に乗り組むことになった若者たちは、さまざまな思いを胸に秘めたまま、生きては帰れぬ兵器に乗り込んで出撃していった。

作戦開始から終戦までの9か月間で、確認された撃沈戦果は3隻。回天作戦で命を落とした若者は104人に上る。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
東京都世田谷区深沢に生まれる。
1940年
海軍兵学校入学
1943年
空母「龍鳳」などの乗務員となる。
1944年
伊53潜水艦の乗組員となり、砲術長、航海長を務める。
1945年
終戦。当時23歳、海軍大尉。終戦後、団体職員。

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