ホーム » 証言 » 辻 勉さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「餓死者続出の撤退路」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~
名前名前: 辻 勉さん(第15師団 戦地戦地: インド(インパール)  収録年月日収録年月日: 2009年6月10日

チャプター

[1]1 チャプター1 補給を軽視した作戦  01:12
[2]2 チャプター2 インパール作戦始動  04:36
[3]3 チャプター3 ミッションの鉄橋爆破  03:45
[4]4 チャプター4 馬に積む補給物資がない  02:27
[5]5 チャプター5 カングラトンビの戦闘  04:31
[6]6 チャプター6 輜重兵も突撃した  01:47
[7]7 チャプター7 補給が途絶えた  00:36
[8]8 チャプター8 31師団の退却  00:52
[9]9 チャプター9 退却  01:45
[10]10 チャプター10 苦難の撤退路  04:34
[11]11 チャプター11 終戦  03:17

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11

再生テキスト再生テキスト

軍のほうで全然補給は考えておらんだと。あくまで何回も言うようにインパール入城したらばく大な物資が集積してあると。そうしたら、2年か3年でも十分日本軍が暮らせるという考えのもとにおるわけでして、25日分の食料でも絶対に入城できると。だから、補給せんでも25日分さえ持っていったら、簡単にインパールは陥落するということでしてな。負けるというようなこと考えもせなんだですね。補給せんだっても楽に入城できるいう考えですな、大もとが。

Q:辻さんたちの部隊に、輜重兵ですね、与えられた任務というのは、どういったものだったですか?

もう結局あくまで、第一線に対しての補給ということですで、

糧まつと、連隊砲の弾薬、それから小銃、機関銃の弾薬と、それからミッションの鉄橋を爆破する爆薬とを積まされたいうことです。

Q:主に前線の部隊に補給をするということですか?

そうですよ。あくまで僕らはもう輸送だけで、戦闘部隊と違いますんで、輸送が任務ですで。

いかだを組んで、いかだで今の線を張って川の向こうに。それで線を伝っていかだん乗って、こうこいで渡ったです。そうせんともう流れが急になって、なんと張ってなかったら流されちゃいますで。それでもう人員とあの自分の装具は、いかだに載せて渡ったです。それから馬は皆泳がせたです。もう裸馬ですから、よう泳ぎました。それで渡ったです。

河向こうはそびえた急な山でしたんで、大隊長の説明では、1日かかったら、あくる日は頂上越してしまうんだという計画でして、何とあれ越えるのかなと思ったんですけど、やっぱり歩兵隊は徒歩でしてな、その人らは予定より何ぼ急でも、ただ、速度は落ちるかもわからんけど、大体、予定に近いことで越しちまいますけど、馬はそんなわけにいかんで、荷物積まんならんし、急なところで道路もあらへんですし。

夜が明けて、あくる日、急いで朝出発して、荷物積んで、途中まで上がったです。そうしたら、もう日の暮れになっちまったんです、途中で。それはもう急なところで、馬は足を滑らせてまくれるし、急なところ無理して上がって、道路が狭い、岩が出ている、そうすると、馬はそこまで考えとらん。荷物が岩の角につかえると押されるでしょう。そうすると、谷のほうにわあっとまくれちまったりして、なかなかそう簡単に行けんで、途中から馬の荷物をおろして人間で、急なところや険しいところは馬からおろして人間で担ぎ上げて、途中からまた積み直すというようなことで、途中まで上がって日の暮れになっちゃったです。

結局、1日で越すかいうのが3日かかっちゃいました。そうすると、大隊の主力の者は徒歩なんで、ダっと先に行っちゃっています。僕らは3日ぐらい遅れちゃったんですよ。だけど、歩く道は、ただ兵隊が歩いていて、道はようわかったですけど、うんと本隊から遅れちゃって歩いて行ったです。ミッションに着くのも大分遅れたです。途中、そういうことで馬はうんと遅れちゃった。

あんな状態になるというようなことは考えもせなんだ。チンドウィン河を渡河する手前のところで(本多)挺進隊(歩兵67連隊第3大隊)に行って、「到着しました」言うて申告したときに、「馬の状態はどうだい」と言われて、こういうわけで、実はほとんどの馬が鞍傷を起こしちまっとって、普通の荷物も積めません言うたら、そこで大隊長にものすごくしかられました。「何言ってんだ、貴様ら本職じゃないか」というようなことで。本職だって、今言いましたように、現地で徴発した鞍(くら)ですんで、馬の背中に合わんのに、にわかに荷物積んで、それで挺進隊そのものは河の近くまで行っとるわけです。

やっぱり鉄橋を爆破したら必ず敵が来るだろういうことで、連隊砲なんかもちゃんと鉄橋の近く目がけて据えつけておりましたし、だけども全くこんでしてな。鉄橋は2ヵ所あって、2ヵ所とも爆破されちまったんだで、南からも北からも全然トラック通らへんようになっちまって。とても橋は渡れんいうことです。

それで、この調子ならインパールにも入城できるな思いましたもんな。それから1週間ほど、そこにおったですけど、全然敵は来なんだですな。もうこれなら予定どおりにインパールに入城できるわ思いました。

カングラトンビのちょっと手前で、それまで、ここにおれいうことで、そこで皆、荷物もらって、道路から外れたジャングルの中に、大分長いことおりました。それこそ補給には下がらんでもいいですし、もっともっと前へ出んのかなと思って。それから、向こうのジープなんかも戦利品、ようけい持っておりましたで、これなら、このままインパールに入ったら、我々の補給するというような仕事もあらへんないうことで感じました。向こうの物資がとれるだで。後方に下がって、受け取ってこんならんということは、もうこの調子ならあらへんぞいうことで、皆、喜んどったですけど。

Q:そんなにたくさん物資が。

それはものすごいもんでしたな。全然あんなこと想像もできんような。兵器でも被服でも食料品でも、大きなテントの幕舎がずっと何ぼでもありましてな。

コンビーフだなんだ、缶詰が山ほど積んであるんですな。どれだけ積んであるのかな思うほど。それは大した量が集積してありましたな。

本当にどう言いますかな、大名暮らしでしたな、しばらくの間だけは。前にも話したように、自動車廠言うんですか、結局、ドラム缶なんか誰がどうしてこしらえたんやけども、ドラム缶のふたを切って、風呂おけにして、ほいでもう、牛乳風呂入ったもんですわ。

向こうの戦利品、何ぼでもとり放題でしてな。靴下や着るシャツ、昼間は暑いですけど、晩にはどんと冷えますで、毛糸のシャツやズボン下、そういうのが倉庫に新品が山積みですでな。それを何とか馬に積んで帰ったろばいいうことで、30頭ほどの馬で下がったですけど、満載して。軽いですから、兵器や弾薬と違って。被服ですから軽いで、うんと馬の背中にくくりつけて下がって、連隊では喜ばれたもんですわ。「君らはとんでもないいい目してるな」いうことで。「そんなぜいたくなところにおるのかい」って言われとったですけど。それもつかの間でしたんだ。

ウクルルの連隊本部にいっぺん補給に下がったのは1回だけです。

Q:1回だけ?

1回だけ、ウクルルまで下がったのは。あとは糧まつ収集班の集めたもみを取りに来いということで、それをもらいに行ったことはありますけど。

Q:1回下がったときに補給した物資の量というのはどのぐらいあったんですか。

でも、知れておったでしょうな、連隊からもらって帰るの。馬30頭も連れて行ったですけど、それに満載するような積載品あらへん。くれただけしか持って帰れへんでしてな。どういうことだいと言ったけど、これだけ渡せいいうことだぜと言って、連隊のほうで預かった、もうわずかなもんでした。馬は楽なもんでした、ようけい積まんでもいいで。普通だったら連大砲の弾薬だって片側に2箱、両側で4箱積んで、馬は軽量だったですけど。それがもう片方に1箱ずつ積んだらいいぐらいで、もう軽い、もう楽な状態の補給物資しかありしまへん。

Q:本当だったら100キロ積んで帰ると思っていたのに、おかしいなと思われました?

もうその前から補給はないだろうないうことはうわさに出ておりましたで、誰言うとなしに。とにかく、もうインパールに入城せいばっかりのことだったらしいですで。それで、おかしいと思ったですけど、下級の兵隊にはそんなこと、補給を考えておらん作戦だというようなことはわかりゃしまへんしな。何回も補給のために連隊本部まで下がらんならんいうことは考えておったですけど。それが、ただ1回しかあらしまへん。

我々考えたのは、あのミッションの鉄橋を爆破して、ダッと行ったときに、そのまま強行に押してしまったらインパールに入れたかもわからんないう感じはしましたけど。だけど、結局、北からにわかに出たら、今度はインパールから南にどっと出たら、今度は33師団が全滅してしまうというような考えもあったらしい。それで、祭(15師団)は、かなりの日にち、一たんストップした状態でしたな。何で行かんだろうな思ったですけど。

ところが、今度、反対に、戦車なんかどっと、南に向かっとったのが北に向けてきたいうことですわ。それで、今度は、向こうが体制とれちまったで、もう全然。戦車が出てくるようなこと、考えもせなんだらしいです。それで、結局、祭(15師団)の歩兵の2個連隊は戦車でやっぱりやられちゃったいう。それで、前進はできんようなっちまって、あの辺の陣地でこう着状態になっちまって、そのうちに向こうはだんだん体制を整えちまうで、全然歯が立たんようになっちまったいうことです。

それと第一、日本の航空機は一機も見んでしてな、これはもうあかんな思いました。日本の飛行機は飛んできたのを見たこともないです。

ほんとの戦闘機ではなしに、こっちでいう練習機みたいな、爆音の全然違うの。ボロボロいいよる、あまりスピードも出ん、エンジンの音の変わったんが飛んでくるようになりました。おかしいな思ったら、今度はそれが宣伝ビラを落とすんですな、こっちの陣地に。それがものすごうビラがようけいバラバラと落ちてくる。これは焼夷(い)弾かな最初思ったんですけど、拾ってみたら、皆、投降文です。今の食料にも何も困っているいうことを十分承知しているわけですね。その投降文のビラ、それをもらって、とにかく言葉も何にもわからんですけど、その投降文を持って兵器を捨てて、「アイサレンダー(降伏します)」ということを言って来いと。そうしたら、もう優遇してやるいうことを放送もしましたし、そのビラに皆落とす、投降文いうのを。それで中にはこっちの師団長は中将でしてな、中将の肩章に軍刀をぶすっと刺した絵がかいてあって、日本軍には兵器も弾薬も何にもないと。その横にはエンピ、スコップですな。それと十字鍬(くわ)、それぞれ書いた、これだけしか日本軍の兵器はあらへんだというビラも皆一緒にばあっと落とす、投降文と一緒に。それで、全然補給はしてくれんし、おまえたちの兵器はエンピと十字鍬だけだ。だから、この投降文を持って武器を捨てて、「アイサレンダー(降伏します)」言って大きな声を出しておりて来い、そうしたら優遇してやる。食料も十分あるしいうことで、もう放送するようになりました。もうなめ切られちゃって。

Q:読んだときはどんなふうに思われました?

こんなもんは宣伝なんだからと思いました、その当時はまだ。こんなうまいこと言われても、そう簡単には投降、投降しようというような人は、恐らく誰も考えて起こさなんだですけど。だけど、もう、これはあかんと思いました。もうこれでインパール入城どころじゃないな思いました。

第一線に使われるいうようなことは考えてもおらなんだ。だから、何回も輸送せんならんとは考えておったですけど、もう、後ろから補給してこんわけですんで、取りに帰らんでもいいですし、遊んでおるわけにいかんですし、結局、2個分隊を第一線に出えいうことで出たわけです。ところが、戦闘訓練なんか指導受けとらへんで、もともと戦闘部隊と違いますんで。

そうだったら、インパール入城どころか、今度、戦闘部隊に使われるようなことになって、「これはあかん」と、その時分もう思いました。「これではインパールに入城どころか、これはあかんわ」思ったですな。

もうこれでおしまいかな思いました。第一線に駆り出されるようになったら、我々戦闘部隊じゃない者がそんなことに参加させられたって、とてもとても生きては帰れんと思いました。

やっぱり戦闘経験がないで、あそこで衛生隊から応援に来た2個分隊と我々の中隊の指揮官、中央におった中隊長以下、ほとんど戦死してしまったですな。今になって英軍の装備のちゃんとしたあれに、あんなとこで突撃して占領せよというようなこと、考えが第一間違っておるって、歩兵の中尉さんにぼろくそに言われておったですけど、やっぱり経験がない者はあきまへんな。

補給をしてくれんわけです。もう自分で探した食糧しかありゃしないんで。もうそうすっと探し歩くっても、もう道路から遠くいかんないのって、もう部隊から遅れてしまうでしょうが。それでもうしかたなし、ジャングル野菜も食べて腹をこさえて、ついて歩いとったです。

31師団ですか、烈部隊の。その師団長は、あんた、佐藤中将。あの人はもう兵隊に食料も全然補給してこんで、もうフミデいうところまで下がったら、そこには野戦倉庫いうがありましてな。そこにはもうためとるはずですで、そこまでもう無断で下げるってもう独断で下げちゃったですよ。

軍法会議もあって、絞首刑になるかなんかしたかもわからんですな。もうだけど師団長が、僕はもう全責任をもって下がらせるって、撤退させるってもう下がっちゃったですわ。普通だったらできることじゃないですわな。

人の面倒を見るどころか、もう動かんようになったら、歩かんようになったら、ほったらかしなんだら、・・下がれんで。みんな途中にずっとどこでも野たれ死にさ。皆。ほったらかしのまんまですわ。

Q:その場に置いていく患者もいたんですか

もう、そこらじゅうですわ。

患者に一々かかっておったら、とても我が身が下がれん。軍医さんでさえ、見捨てる状態ですわ。薬はあらへんし。担架へ担ぐのもおらへんし。見殺しですわな。弱った者を、付いて歩けん者をほったらかし。
 
 皆、自決用に手りゅう弾一発は全部持っておったです。それは捨てずに。それは自決用いうことで、いよいよあかんようになったら、敵の手にわたるよりかは自分で。死んだですよ。手りゅう弾はかせて、腹へ抱えておって。完全に死ねますな。腹に抱えて、手りゅう弾を爆発したら、内臓は飛び散ってしまいますで。それで、死亡したことを確認してもらいたいということで、行方不明じゃなしに。もうちょっと気の張った潔い連中はみんなもう手りゅう弾で自決です。自決する力もない人は、ほんとの野たれ死に。

アメーバ赤痢は要するに伝染病ですわな。それがあちこちのジャングルで行き倒れになっている。アメーバ赤痢にかかった、下痢している人間が。それがたれ流し、知らずにその下流でちょっとした川でもあると、その下流でみんな生水を飲んだら、うつるようですわな。伝染病。全員かかっちまいます。ものも食べとらずにもう本当に1キロも歩いたら、腹がきーっと痛うなってきて、どこでも、行き先々、しゃがんで、尻出して、下痢ですけど、食うもん食っておらんで、出るもん、ありゃへんですわ。どういいますか、血便ですな、食料があらへんがで。アメーバ赤痢いうのは、腸の内側をアメーバ菌が食い荒らすらしいですわ。腸の血管を食い破る。その出血が腸の中に流れて、どういいますか、泡みたいな白いあれが、それに血がまじって、下痢ですわな。出らへんですけど、きーっと痛うなって、こぼれんようになる。しゃがんで、排便しようたって、血と泡とだけしか出ない。

誰が言うともなしに、「青竹の炭は効くそうな」ということで、それしかないですで。薬は。それこそ、アメーバ赤痢にマラリアの薬の塩基錠を飲んだって効くわけあらへんですし。アメーバ赤痢にかかったら、薬があらへん。誰が気がついたのか、始めたか知らんけど、途中からそういううわさが始まって、めしをたいたり、火をたいたときに、飛行機の心配がなかったら、青竹をくべて。竹はどこへ行ってもありますでな。竹を焼いて、それを大事に持って歩いたものですわ。から消しをかじり持って歩いて、それで治すしかなかった。それで、どういうのか、薬効があるのか、ないのか、とにかく時期が来て治ったのかということで、竹の炭をかじるだけで治ってきました。薬というものを飲まずに。あんなもの、竹の炭に薬の成分があるかないかじゃなしに、時期が来て効いてきたのか。みんな、我先にと青竹を焼いたものですわ。でも、考えてみても、薬効の成分でもあるとは思えませんがな。しかし、それで治ったといううわさが始まって、みんな、青竹を焼いたものですけど。

途中下がると、ジャングルの中で分かれ道がある。あそこに余裕が、そこまである人間があるのかなと不思議に思うほど、木を削って、右左のあれで、右地獄道、左極楽道と書いてある。木に。木の皮をめくって。そんなもの書いたり、標識をつける余裕のある者がおるのかなと思うような。それで、結果、皆極楽道のほうに向かうですけど、地獄道のほうに向かったら本当にずっと餓死したあれが皆おったらしいですな。極楽道のほうへ行ったって、かなりの人数が死んでいるわけです。餓死して。

バンポン(タイ)に着くまでは知らされなんだですよ。降伏したいうことは。鉄道で、泰緬鉄道、下がる途中に、8月15日は来ておったでしょうね。放送も何も聞かへんですし、バンポンに着いたらそういう状態でしたので、はっきりと、いつ終戦になったということは聞きませなんだ。何にも知らせがなかったです。ただ、バンポンに着いたら伝達があって、結局、部隊はそのまま、人数は少ないとしても、まとまって下がったわけですから。そうしたら、部隊の中から、1人の逃亡者も出んように、今の幹部は取り締まれと。やけくそを起こして、まだ武装解除は受けておらんで、兵器はいろいろ持っておるわけですしな。

それから1週間もしたら武装解除いうのが。武装解除も、向こうから出てきて、立ち会いで、兵器をするでなしに、部隊でまとめて1か所に。そして、そこで銃や何かは皆壊して、こっちの手で。武器を捨てちまったということで、それで武装解除ということ。向こうが出てきて、こっちが手を上げて、兵器を皆とられたんじゃなしに、こっちで自発的に兵器の返納というか、兵器を壊して、古鉄にして、1か所に集めたということです。

Q:何年ぐらい、捕虜生活は。

明くる年の21年の6月の終わりに帰ってきました。10か月ほどですか。もう捕虜生活になってからはよかったですね。きちっと英軍からカロリー計算をして、1日にどれだけのカロリーをとらんなんて、それに合う食料も全部英軍から給与してくれる。その際に受領に行ったら、何人に何ぼいうて計算したあれをきちっとくれました。体力もそれで10か月もしたら元に戻りました。ただ、10か月の間に、英軍の兵舎建てや便所掘りみたいなことを、みな結局、英軍の入る兵舎を工事に皆が使われたです。

出来事の背景出来事の背景

【インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~】

出来事の背景 写真陸軍第15師団は、京都府と滋賀県出身者を中心に編成され、総兵力は2万。
昭和19年(1944年)3月に始まった「インパール作戦」に投入された三つの師団のうちの一つである。
「インパール作戦」は、ビルマ方面第15軍司令官牟田口廉也司令官が、戦況を一気に打開しようと考えついた作戦で、連合軍の補給拠点、インド東部のインパールを攻略しようというものだった。
31師団が、インパール北方の拠点「コヒマ」を攻略、33師団は、南のう回路からインパールへ、そして、15師団は北側からインパール攻略を命じられた。

大本営をはじめ、陸軍内部は補給を軽視したこの作戦の成功を危ぶんだが、牟田口司令官は強硬に主張し、作戦開始が決まった。

3月、インドとの国境を流れるチンドウィン河を越えて、作戦が始まる。将兵は重い荷物を担いで、3000メートル級のアラカン山脈を越え、作戦開始から10日目に、サンジャックで連合軍を退け、コヒマ-インパール間を遮断した。
しかし、インパールを取り巻く高地に近づいたところで、最新の兵器で反撃を受ける。「セングマイ高地」では、連合軍の最新の戦車に蹂躙され、肉弾攻撃に踏み切らざるを得なくなり、多くの兵士が命を落とした。
6月に入ると、コヒマを攻略していた31師団も苦境に立たされ、ついに佐藤師団長が独断で撤退を開始、31師団からの援軍を当てにしていた15師団は大混乱に陥る。

15師団にも、7月には退却命令が出されたが、その撤退は悲惨を極めた。飢えと病気で兵士たちは次々に倒れ、その撤退路は「白骨街道」とまで言われるようになった。

19年末、連合軍とのイラワジ会戦を戦いさらに大きな損害を受け、タイまで後退して終戦を迎えた。師団将兵2万人のうち、1万5000人が亡くなった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
京都府熊野郡海部村に生まれる。
1939年
中部43部隊に輜重兵15連隊要員として入隊。
1940年
せっかん作戦に参加。
1943年
現地徴収。
1944年
輜重兵15連隊馬部隊小隊長としてインパール作戦参加。
1945年
イラワジ会戦に参加。タイのバンボンで終戦を迎える。
1946年
復員。復員後は、故郷にて農業を営む。

関連する地図関連する地図

インド(インパール)

地図から検索

関連する証言

関連するニュース

NHKサイトを離れます