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タイトルタイトル: 「黙ったままでは死ねない」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
名前名前: 石崎 幸男さん(震洋特別攻撃隊 戦地戦地: フィリピン(コレヒドール)  収録年月日収録年月日: 2009年12月3日、4日

チャプター

[1]1 チャプター1 極秘にされた任務  04:01
[2]2 チャプター2 搭乗する船は特攻兵器だった  01:46
[3]3 チャプター3 震洋隊、フィリピンへ  03:42
[4]4 チャプター4 フィリピン・コレヒドール  03:01
[5]5 チャプター5 爆発事故  05:12
[6]6 チャプター6 遺体収容  05:08
[7]7 チャプター7 震洋隊出撃を見送る  03:35
[8]8 チャプター8 火柱  01:37
[9]9 チャプター9 米軍上陸  05:19
[10]10 チャプター10 米軍に追いつめられて  03:23
[11]11 チャプター11 2度目の作戦  05:37
[12]12 チャプター12 脱出  03:08
[13]13 チャプター13 待ち構えていた米兵  05:43
[14]14 チャプター14 戦争そして震洋を振り返って  02:47

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
収録年月日収録年月日: 2009年12月3日、4日

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わたしは、通信学校を出てるものですから、それで潜水艦に乗るために呉に帰っちょったんです。呉の吉浦の川原石というところにですね。今、あるか、ないか分からんけど、潜水艦基地隊というのがあって、潜水学校もあって。

わたしは、伝染病にかかったわけなんです。何という、GGっていうのはね、腸チブスか。
これは呉の海軍病院へ2カ月ぐらい入院したんです。その間、わたしは魚雷艇の搭乗員で通信兵だったんです。それが、わたしが入院してる間に魚雷艇が戦地へ出ていったんです。硫黄島へ行ったという話です。で、わたしの体が復ったら魚雷艇の搭乗員になって行ったのが呉の潜水艦基地隊です。

「極秘でマルヨン艇という特攻兵器ができた」と、その搭乗員になってくれと言われたんです。そして、また、帰って今度は水雷学校へ行ったんです。水雷学校でそのマルヨン艇というのに乗りました。

「絶対に極秘じゃから漏らしちゃならん」と。たとえ面会に来ても、だれが来ても。だから、頭から、面会にはわたしの親は横須賀へ1度来てくれましたけど、何にも話していません。で、佐世保でももちろん、だれもそんな話するのはおらんです。極秘なんですよ。あのう、通信兵になったら「軍極秘」というあれが書いてあるこのぐらいの本があるんです、暗号を解読する。ちょうどあれに「軍極秘」と書いてありまして。軍極秘って軍で一番重たい秘密なんですよね。だから、これは絶対守らなきゃならんっていうんで、わたしは口外したことは1度もないです。

当時、記念写真も何にもなかった。わたしらが第1期(生)と思ってます。1期ですよね。でも、第7ヤマザキ部隊。第7。今、震洋隊と書いてありますが、部隊長はヤマザキ中尉に間違いないです。

Q:何の部隊かというのは分かってました。 どういうことをする部隊かというのは、そのとき知ってました。

いや、マルヨン艇だということは聞きました。マルヨン艇で、どういうふうな、長さがどれだけで、幅がどれだけで。どんないうことははっきりしたことは話されていません。とにかく否応なしです。「マルヨン艇の搭乗員になってくれ」と。だから、嫌も何もないです。当時は、上から言われたら「はい」ちゅう。それから横須賀へ行って、横須賀の通信学校に行ったんです。行ったら、何隊かあったように思います。マルヨン艇隊だったと思います。

それで、マルヨン艇というのは当時は長さが4メーター、幅が2メーター。魚雷艇は長さが18メーター、幅が4メーター。600馬力の飛行機エンジンが2基搭載しとったんですけどね。今のマルヨン艇は自動車のエンジンだったです。当時はニッサンか、トヨタか、どっちかだったと思います。あの2つのメーカーです。そのエンジン積んであって、その船に乗って出航したことが、まあ訓練ですけどね、3回か4回あります。横須賀の浜から、どのくらい出るか、最高飛ばしてみるんです。どんなに飛ばしても25ノットは出んのです。

こんな幼稚なものでね、どのようにするだろうかと思ったです。それは、5キロや10キロなら走れるし、波があったら絶対もう走れんですよね。でも、そういうことはあまり考えずに、この兵器は、この兵器ともろともに当たって死ぬいうことは教えられとった。生きては帰れんと。でも、50メーターぐらい手前から、船を固定してね、目標から50メーターぐらい手前から降りてもいいということにはなっちょったんです。

行く途中も、あのう、見張り員が立つんです。第1トップ、第2トップいうて。たしは兵科やから、兵科の水兵ですよね。一般の水兵じゃから、そういう見張りとか水防とかいうのをやるんですけどね。で、第1トップがマストの一番上にある。それに見張りがついて、双眼鏡でずーっと海を見るんです。第2トップいうのが中ぐらいで、第2トップはとてもようゆれます。でね、雷跡がよう見えるんです。あのう、(米軍の潜水艦が)魚雷を撃ってきたら白い波が立ってね。「右舷30度から雷跡」と、こう言うて報告するんです。で、それは第1トップにおってもそうでした。「左何十度から雷跡」と。魚雷の航跡の跡を知らすんです。そしたら船は、そしたら直にこう、まあ真っすぐ船が行って、こっちから雷跡。30度じゃあ、このぐらいから雷跡がこう来よる。船はすぐ、「面舵いっぱい」って、こう切る。だから、魚雷がこう来たらこっちから逃げるように避ける。雷跡いうたら、反対にこう逃げたら当たるんですよね。

(台湾と比島の間の)バシー海峡はね、魔の海峡であると。潜水艦がいっぱいおってね、とにかく魚雷がいっぱい飛んでくると。

アメリカの(魚雷)は真っ白い泡がターッと真っすぐにね、来るんですよ。

Q:見えるんですか。

見えますよ、肉眼で。双眼鏡がなくても見えますよ。それが飛んできて、ほとんどまあ半分以上沈められるかね。

震洋艇はその船の船倉に積んであるわけ。そして、我々は上のほうへ乗っちょるわけ。そして初め、いったん香港で、香港の港へ入る前のころだったと思うんですがね、ものすごい空襲を受けたんです。

飛行機が来てね、機銃掃射で。で、バリバリバリバリやってね、その機銃もあまり怖いと思わんのですよね。そしたら、今でも思い出して残念なことがあって。わたしはそのとき兵長だったんです。そしたら、若い二等兵が弾に当たって戦死したのが、3~4人かね。5人まではなかったと思う。それは弾に当たって死んでるんです。爆弾じゃないか、破片じゃない弾ですからね。そしたら、上の下士官が、わたしらの同年が7人おったんですけどね、呼ばれて。「今ごろの兵長は若い兵隊の面倒見ようが足らん」と。わたしらが「しっかり気合入れてやらにゃ、誰が入れるんか!」と。「たるんじょるから弾へ当たる」と叱られたんです。

戦地へ行ったときはもう、自分の艇の前(部)へ赤い、さび止めの赤い塗料が塗ってあってね、大きな、こういう形のこのぐらいの厚さの火薬が乗ってました。それでもコレヒドールをこう一周したことがあるんです。それは1回きりです。コレヒドールの島には小さい島がまだありましたけど、乗ったことがあるんですけれどね。

一つの労働的にきついとか、そういうことはさらさらないんです。そして、整備員がね、あのう、マツエダ隊はね、どこへ隠しちょったか、わたしらは気がつかんじゃったんです。だから、やっぱり大小、こう穴ぐらを掘って、大小隠したんかも分からんですけどね。ちょうど北基地のほう側は砂地なんですよ。南基地は岩盤なんです。そういうあれで隠しとったと思うんですがね。

Q:石崎さんたちは…

ないんです。露天でね、ずーっと並べてありましたね。

Q:丸見えで。

丸見えですね。だから、うちの隊がおった砂浜に、あのう、アワビじゃなしに、アワビと小さいツブがおるんです。あれは何とか言うんじゃがね。たくさんいますよ、あそこに。それを潜ってね、取ったこともあるんですよね。だから、割合とね、コレヒドールへ行っても、そう緊迫して、いつ死ぬいうような気持ちはなかったですね。

穏やかな日々でした。わたしらは酒保員でしたけどね。で、コレヒドールからマニラまでランチで、1時間以内には行ってました。ランチって今はどう言うたらええか、20人ぐらい乗れる小さい、5ノットも出ん、4ノットぐらいかね、の船で行ってました。

Q:マツエダ隊は北ですか。北ですか、マツエダ隊は北。

はあ、北ですよね。

Q:石崎さんたちは。

わたしらは南。

朝礼があってね、3人ぐらいがこう行ったと思うんですがね。それで、若い下士官がね、安全にね、けがせんようにやれということを言いました。それらと一緒に下りて、下へおりて30~40分もせんですかね。あれでも1時間もかかってないと思うんです。で、どこを整備せえ言うんじゃろうかと、点検せえ言うんじゃろうと思って、まず、エンジン回りを見て、エンジンもかかるし、火薬も積んであるし。火薬も一応目を通したんです。それで安全装置もかかっちょるし、あとは、船の外ぜんをこう一回りしてね。ベニヤ板ですから、穴でも開いてないか調べて。そして、ヤマノと降ろして同年兵と2人で金を計算しよったんです。

そのときに爆発が起きたんです。

Q:どんな爆発だったんですか。

凄かったですね。それはね。わたしは直観的に「あ、これは誘発する」と思いました。音も何も、ぶつかる音も何にもせずに、大きな爆発でした。

とにかく事故は1発だったんですよ。そしたら、あと全部誘発したんです。それは発火性が強いようになっちょったと思うんですがね。わたしらの艇も粉々に。形も何もなかったからね。

まあ花火が、連発が上がったようなもんでしょうかね。その、地響きなんか。花火なんか近寄れんぐらい。大きな爆弾ですから。

どんな感じいうかね、あのう、歩くのに足がこうなるぐらい地面がこう、地震の揺れたちゅう、こう上下するような感じがしましたわね。

それは音となんで、火で見えますよ。昼ですから。そしてね、その手前が、アメリカ軍の砲弾がこう俵を積むように何段も積んであるんです。人間の背より高うに、このぐらいの砲弾がね。砲弾の、あのう、薬莢じゃない、先っちょの弾が。弾自体が俵積みにずーっとしてあるんです。昔のものがそのまま残っちょった。で、これがね、爆発したんです。皆、誘発した。だから、20時間たってもボーンボーンという音が絶えんじゃったんです。

わたしらの着ちょるものもね、バーンと帽子も取れちょったが。まあ帽子は後に拾ったんですがね。着てるものがこう、ボロをさげたようになっちょるんじゃ。そのぐらい、こうバリバリに裂けちょるんよね。そのぐらい、風圧いうんですか、爆風いうんですかね、強いもんです。それで、わたしは海のほうへつかって、海から裏側へ上がって避難したんですけどね。で、頭から、ここから血が出てましたよ。ここらからも血が出ちょったが、今はどこが出よったか覚えちょらんです。

それは火薬を爆発するんだから凄いですよ。空襲での爆発の、爆弾の音いうものは、落ちるまでに音が、サーッという音が聞こえるわけです。あのう、今のわたしらの艇が何するのは、落ちる音じゃない。その場でバーンと爆発したんです。だから、これは、「あ、潜水艦にやられた」と、こう思ったんです。これはわたしの直観的な考えで、これ、誰も知った者はおらんはずです。おそらく1人もないと思います。だれも原因は分からんのです。

51隻あったんですよ。それが2列になったんがおるしね。船台へ乗っててずーっと。だから、わしが水へつかろう思うたら、20~30メーター歩かにゃ水まで行かれませんよね。でも、潜水艦から見たら確実に見えるから、たしか潜水艦だったんじゃないかと思うんです。

もう全部なかったです。皆、爆発してました。51艇全部。

で、まあ、わたしはそれで海から向こうへ避難したわけですけど。

兵舎へ帰ったら、赤い字で戦死者名が全部こう書いてある。わたしもその中へ入っちょるんです。で、帰ったら、「あら? おまえ足がついちょるか」と。こう言われたんです、将校からね。

生きたのは、だから、ヤマノと広島県の沼隈郡に住むクリタニジンゾウというのがおるんですがね、これとわたしと3名生きたんです。

Q:事故現場はどうでした。 行ったら。

行ったら、艇も何もなかったです。残骸はあったけど。

人間の死んだのはそこら中にあって、もう土にほとんど埋まっちょったです。例えば、手だけこう出ちょるから、その手を掘っていったら胴もついちょったのもあるし、首だけのもあるし、腸があまり長いのを木でこうやって巻いたことがありますよ。

それはもうちぎれてね、人の顔もあまり分からん。4~5人の顔が見えるぐらいだけだったです。あとは埋まったりね。胴が半分になったり、手だけ残ったり、足だけが飛んでいっちょったりね。それは無残なものでした。
でも、別にかわいそうとも何とも当時は感じなかったですね。そういう人間になってたんでしょうかね。でも、わたしが思ったのは、事故だという話を聞いたときに、それはないと思ったけどね。

亡くなってね。埋めたのは、40~50人埋めたんじゃないかね。

Q:埋めた。

皆、穴を掘って埋めたんですから。四角にね、こう。こういう長細い四角に。何かね、1メーターあまりの深さに。大方2メーターぐらい、1メーター50ぐらい掘ったように思います。

それへ引きずり入れるんです、みんな。引っ張ってきて、残骸をね。人間の死んだ死骸を。手とか、足とか、胴とか、腸とかね。で、首だけもあるし。

Q:だれがだれって…

分かったのもありました。名前は忘れたけどね。わたしを随分いじめてくれた人がね、死んでました。その人は顔をね、外へ出して死んじょったけどね。ヒゲの濃い方で、名前をもう覚えんのですよね。まあ、同一県人じゃないから。まあ遠くのほうでしたろうからね。

まあ地獄でもあんなじゃないでしょう。地獄以上です。

うーん、これは重労働でしたね。臭いのと両方でね。みじめと。まあ、臭いのが一番いやでしたね。3日もするとね、肉がふくれるんですよ。手だけかと思ったら、その手でも大きくなってますよ、ふくれて。体の胴体でも、死んじょっても胴体がこのボタンがこう張り裂けるようにふくれて死んでますけどね。そういう死にざまはあまりしたくないなと思ったです。死ぬなら、きれいな松の木でもあればね、その側で死にたいなとか、いろんなことを考えてました。

それを収容するのに、たしか1週間まではかからんかったろうが、かかったかもしれませんね。穴を掘るのに時間かかったし。それは、穴を掘るんでもね、あれは重労働なんですよ。臭いのと両方でね。それへまた戦死者を入れ込むのがね。この足はだれの足じゃろうか、この手はだれの手じゃろうかというようなことを考えてやるんですけど。顔を見て分かったんもありますけどね。

戦死は97名。何かの本で見ましたら100名と書いてあるけど、これは人数は97名。これははっきり頭の中に入ってます。

(島の北西部)マリベリスへ敵の船が入っちょるらしいと。あのう、マルヨン(震洋)艇が出ていくから、見送りに行こうということだったんです。で、わたしがおったとこから出口が近いから見送りに行ったんです。まだ明るかったです。

まあ震洋艇隊がね、ずらーっと、あそこへこう並んだんですよ。出撃。まあエンジンかけちょるんですよ、スローで。そして、日の丸の、見送りにもらった日の丸の旗をマフラーにして、搭乗服を着てね。わたしらが着る分の服を着てから、もう笑うてこう腰を上げて手を振るんですよね。すごいなと思ったです。ああ、これら(第12震洋隊)が出にゃ、わしらが出ちょるんじゃが、(石崎さんたち)ヤマザキ部隊もああいうふうに笑顔で笑って行けるんかなと、こう感じたです。

つくり顔じゃないんですよ。本当に笑顔でね。どう言うてええかね、何かスポーツの試合でも勝ったような格好でね、出ていく。それをわたしが感じ取るのは、凄いなと思うのと、わが部隊が、わたしらの部隊がもし無事だったらね、あの代わりにわたしらが出ちょるんじゃないかと、こういうことを感じました。

手を振るんですよ。敬礼はわたしらがしたんですがね。向こうは手を振ってね、出ていきました。それを見たときに、わが身にね、わたしは置きかえてみたです。これは確か、わたしらがやるべき仕事だったんだなと。まあ、幸か不幸か、ヤマザキ部隊(第7震洋隊)はその前に全滅しましたからね。

日の丸の旗がね、よく印象に残ってます。で、手を振ってね、
その笑い顔、笑顔で送るのに出られたときに衝撃を受けましたね、実際のところ。これは山崎部隊がやるべきことをこの人らがやるがね、山崎部隊の搭乗員は皆ね、ああやって笑って手を振ってええ具合に出られるかなと、そういうことを感じました、わたしは。だから、
そこの、あの、トンネル口を出たわずかな狭い道路ですけど、後ろが高いね。で、前は海ですから。それで、こう送って出て、ずーっと何時間いうて戦果を上げるまでそこにおりました。

出るときは一斉にスローでずーっと行きました。だから、向こうまで着くのにどのぐらい時間がかかるか。1時間かかるか、1時間半かかるかね、わたしらは見よったんです。相当時間がかかりました、やっぱり。2時間もかかっちょるかも分かりませんね。それ以上かもしれんし。

ドカーンとやってね、そしたらもう轟沈というんですよね。その火柱の明るい影と、船がこう沈むんがね、同時ですよ。轟沈ですよ。小さい船かどうか知らん、大きゅう見えたけどね、わたしにはそれは軍艦には見えなかったです。輸送船か何かに見えたけどね。で、7発そういうなんがあってね、船がこう沈んでいくざまを見たんです。

初めて、空を向けて撃ったから。アメリカの軍艦がね。「はあ、これは気づいてないな」と思うた。そのときは戦果を上げちょったんですよ。全部じゃないけど、何隻は当たっちょったんです。初め空を向けて撃って、今度は次に低く地面に向けて機銃を撃ちはないたんです。それは、わたし目撃しちょるんです。だから、初めの何隻かが沈む間は、あのう、アメリカの海軍は空を撃ちました。空の空襲と思うたんじゃないかと思うんです。

戦果を上げたときに万歳してね、わたしらは喜びましたけどね、その陰には、「ああ、今死んだんだ、今死んだんだ」いうのがね、はっきり読み取れますよね。

16日にまあマツエダ隊が戦果を上げたわけなんですけど、16日の早朝からもう猛攻撃を受けました。それは半端じゃないんです。海からは上陸用舟艇で兵士が、空からは今のダグラス、双発のダグラス機の落下傘部隊が目の前へ降りるんですよ、どんどんどんどん。

もう安堵する間もない。はあ、夜が開けたらすぐ空襲とかね、上陸用舟艇。どんどんやってくれました。

先任下士官のアダチ兵曹いう人が命令を下すんです。わたしに、兵隊10名つけてやるから、機銃を持って・・脚、こういうような脚ですね、脚を持って。13ミリの機銃を持って。わたしが射手です・・で、部下の10名が弾薬を持つ者とこの脚を持つ人と連れて、サクラ弾庫の一番前のローマ字で書いてある、あこの入り口で待機しちょったんです。そのとき、敵の落下傘部隊が降下してきたんです。

上陸用舟艇。空からはダグラスがね、落下傘部隊を落とすね。わたしらの目の前に落下傘部隊が降りるんじゃあね。でね、わたし、はじめ、また士官が言うんじゃあね、「見てみい、あの落下傘の色を」言うんじゃあね。白やら赤やら青やらあるからね、今、アメリカもこの布がないから、あんなに色の違うのを使うちょるんじゃと。「おまえらももう一頑張りもう少ししたら日本がいずれ勝つから」と、こういさめてくれよったんじゃあね。でもまあ、とんでもない話であったけど。

で、空にはもう軍艦が待っちょるんですよね。そうやって戦闘が終わったら、それらが陣地を、トップサイドのほうへ集まるいうかね。皆、やっぱり信号をし合うんでしょうけど、兵士がおらんところは銃撃なんですよ。艦砲射撃です。それが、戦艦、巡洋艦いうような大きい艦艇から大砲を打ち込む。それで、島一面に、今は真っ青に木が生えてますが、木が1本もない、草もないぐらい、きれいにはげ山でした。それが2月の16日の朝から。わたしらは食べるもの何にもなしです。

それから、もう手も足も出んようになって。今度は艦砲射撃に変わったんじゃあね。アメリカ人が陣地を取るとこは取って、おらんとこのサクラ弾薬庫の上のほうから1回大きな爆発をさせちょるんじゃあね。殺すために。2回やっちょるですよ、総攻撃をやっちょる。

決死隊で、わたし、10人兵隊連れて出るわけですよ。2~3人しかついて帰らんのです、隊へ。帰ったら、もうそれも死ぬような状態になっちょるんです。で、痛いと。そして、こうして血が、下がコンクリですから血の海ですよね。そしたら、いつの間にかわたしは寝ちょるんです。で、パッと目が覚めて、「おい」言うて起こしたら、死んじょるんだよね。そんなんを見ると、いらわんのです。それをいらわずに、今度、わたしはほかへ移動して寝るんです。そんなもんだったです。

(トンネルは)大きいです。トンネルの幅いうてね、今、日本に道路、トンネルがありますよね、車が通る。あのトオミトンネルぐらいの大きさのもんかね、あれよりちょっと広いかね。中へね、鉄道の線路がひいてありました。

Q:その後の戦いはずっとトンネルの中ですか。

24日の早朝まで、5時まで。

Q:どんな戦いが続いたんですか。

それは、毎日、水を求めるために取りに出て、それからまあ帰るんです。そして陸上の陸軍なんかが、端におるんがまあ、大体銃撃戦もするんでしょうけど、全然歯が立たんのですよ。

そして、その日も、その明くる日もですが、シッコをする缶かんがトンネルの中に並べてあったんですよ。それがね、2日ぐらいすると、だれもシッコをする者は1人もおらんじゃったです。水を飲まんから。それからの苦しみは少々じゃなかったです。

サクラ弾薬庫を、一番初め、21日か、隣の弾薬庫で10名、決死隊が出たんです。爆発さして、そこの山におる敵を粉砕して、それと同時に総攻撃しようという計画だったんです。

その前の2月の21日か22日にね、隣の弾薬庫をこう爆発するとわたしらは聞いちょったんじゃあね。隣の弾薬庫はどうやって入るんじゃろうかと、こう考えたんじゃあね。でも、やっぱり入るとこを知った人もおるんじゃろうと、こう考えたんです。まあそれはそれで命令じゃから、全部支度して、準備して、フジガワ部隊の40~50人は皆、銃剣、短剣も皆差してね。そして、出ようと思いよったんじゃ。そしたら爆発させたんじゃ、やっぱり、じかに。それが爆発したら、それと同時に突撃をかける計画だったんじゃあね。

それがね、爆発は不燃焼に終わったんです。爆発はしたんです。地面が2~3メーターぐらい飛び上がるぐらい大きな衝撃があって爆発させたけど、その後、ゾーッという音がして一酸化炭素のガスがみなコレヒドール、我々のおる穴へみな入ったんです。そのとき死んだ兵隊がものすごい死んじょるんです。皆、待機して、もう穴から出る支度して待っちょるわけです。それが3段にも4段にも重なって。ちょうどね、酒に酔って天井がクルーッと上へ回る、道路が目の上にあるように、目がグルーッと回ってね、それで分からんことなるのが一酸化炭素です。わたしもなりました。でも、わたしは元気なかったんと、出る順番が一番しまいのほうで裏口にわりに近いとこ、わりと近いとこやったから、死んだ人の上を何人も飛び越えて出たのを覚えちょるんです。そういうあれがあってね、中には死体がいっぱいあってね。将校の軍刀なんか、何百でね、転がってました。何ぼうでも、軍刀なんかはね。オモチヤが転がったよりまだ多いほどありました。もちろん銃器もいっぱいあったしね。銃器の足らんことは絶対にないんです。でも、いったん中から外へ出ると、外から中へ入ることはとても昼はできんです。飛行機が凄いんですよ。トンボが来るように来るんですよ。グラマンなんかがこうやってのぞいて見るんです、兵隊。ああ、あっこにああいうふうにして隠れちょる。そこを狙ろうてくるけど、わたしは当たらんかったけどね。で、薬きょうは目の前へ、大きいですよ。このくらいあるような薬莢が目の前へパラパラと落ちてくるからね。

Q:2回目はどういう作戦だったんですか。

2回目も、今度は、まだ中に震洋艇が何台かいました。それも火をつけて、やっぱり10名残って爆発させたんです。

そのときは弾薬庫へ火をつけると。それで、ここを爆発させて、頭の上の敵を粉砕してね。日本軍が総攻撃かけて、向こうのトップサイドの本部まで攻め上がると。そういう計画だったんじゃ。

Q:トンネルの中に震洋艇があったんですか。

あったです。格納したんがあったです。

Q:ほかの部隊の。

ほかの部隊(の震洋艇)です、もちろん。だからね、その震洋艇は主にトンネルよりマニラ湾寄りのほう側に何隻かあったんですよ。何杯かね。で、その上で、もう頭が狂ってね、みんな粛々として黙って静かなのに、それだけが軍歌を歌いよるんです。気が狂うて。あのう、震洋艇の上で、ずーっと爆発するまで。一緒に出ようともせずに。

もう気が狂うんです。狂ってね、人間の普通の状態じゃないんですよ。「ここはお国の何百里」って大きな声で歌を歌うんです。だれも取り合い手もないし、止める人もおらん。日本人でも・・拳銃で撃つ人もおらんのです。

Q:どこで歌ってた。

石崎:艇の上です。座って。

わたしはもう爆発寸前だったですよ、わたしが出たのは。爆発1時間前かね。4時ごろかね。で、5時にはね、確実に爆発させました、決死隊は。爆発したけどね、山は崩れませんよ。敵はね、上の敵が死んだ思うたら大間違い。全部生きちょる。こっちが気づくと、向こうから迫撃砲の弾は飛んでくるね。機銃の弾は飛んでくる。何発も飛んできますよ。

それで、部下と一緒に総攻撃をやったんですけどね、しょせん山であって、本当の大きい山は兵舎があるほうの山でしょう。あそこまではもう足らんわけですよ。そこへ行くまでに皆全滅してしまうんです。

一たん、夜中からね、10時過ぎ、11時、12時、1、2、3、4時、5時までにね、総員外へ出ると。

Q:あ、少しずつ。

ああ。少しずつといってもね、外へ出たら、もうこうやって登ぼるほど、下の人が死んじょるんじゃあね。その上を通って向こうへ出るわけ。その間、迫撃砲が。そこの出口は分かっちょるんじゃから、迫撃砲で、擲弾筒(てきだんとう)いうて、まあ手りゅう弾みたいな弾を筒へポーンと入れたらボーンという、こう弓なりになって落ちる、あのう、兵器があるんですよ。迫撃砲でね。それでやると、まあ40~50メーター・・手りゅう弾でも角がこうあって切れ目が入っちょる、そういうのが飛び散ってね、人は皆死ぬんだ。それをわたしはよけて出る才能はあったんじゃあね。ポーンいうたらね、ピョンピョンピョンピョンピョンいうて音がしてね、どの辺へ落ちてくる、耳で判断できるんじゃ。あらと思うたら、死んじょる人の間へこうやってはさまるんですよ。死んじょる、はあ、わたしの体がここなら、2~3段上までまだ人が死んじょる。その間へ入ってこうやっておるんじゃ。そしたら、その死んだと思う人が短刀をくれたんじゃあね。どこの人やったか。わたし、なんじゃないけど「僕はこのままやからね、頼む、この短刀だけを形見に持って上がってくれ」言うて。それきりじゃあね。名前も何も、そのまま死んだ。そのとき、その短刀は持ってわたしが上がって。で、部下を集めたら、機銃をさげたら、後の弾薬を持つのはあんまりおらんのじゃあね。人数がおらんのじゃあね。それでも、弾薬15発しかないんじゃ。15発は詰まっちょったが、15発、全部撃ったんじゃあね。大体、15発全部撃っちゃあならんのじゃがね。弾薬を運ぶ者もおらんのに、次が入れられんじゃないですか。焼けてもええから撃っちゃれよと。

で、見たら弾薬を運びよった兵隊おらんし、考えてみればわたし1人になっちょる。それで、軍刀やら、死んだ人からもらった短刀をね、断末魔でくれた短刀があるんですよ、どういうあれの短刀か分からんけど。これを持っていってくれ言うからもらっていった。それは持っちょったんです。それと、拳銃はわたしは2丁持っちょったんですが、拳銃もそれも総攻撃を終わった後、使いようがないんですよ。拳銃は山の上へ撃ったとこでとても当たりゃせんですよ。だから、それを持って夕方みんなが集まったのは20名足らずかね。で、こうして顔を見るのに、知った顔なじみは1人もおらんじゃったです。

これはコヤマダ少佐の命令で、「1人でも多くバタン半島へ泳げ」ちゅうてね、また「このコレヒドールを奪回するためにバタン半島へ泳げ」と。こういう命令が出たんです。それで「よし、わたしは傷も浅いし、泳げるで」と思って、まあ支度だけはしたんです。ゴムの袋とね。米をゴムで送ったんだよ。コレヒドールにいっぱいあったんです。ゴムの、ちょうど氷のうぐらいの厚みの厚いゴムで、真っ黒いゴムで、米が袋へはいちょるんです。その残りへ拳銃を詰めて、くくってね、浮遊物へくくって泳ごう思うけど、とっても流れがきつくてね、抵抗が大きゅうて泳がれんです。で、とうとう、しょうがないから、その短刀だけはしまいまで放さなかったけど、今の拳銃とかそんなものは浮遊物につけたまま手放したんです。そして、着たもんが重くなって、ズボンもシャツも何も着られん。しまいにはフンドシまで重とうなったんです。フンドシもほどいて、そして12時間泳いだんです。

水も飲まず、食料も食べず、泳いで、12時間泳いだんです。

あそこのバタン半島を泳いで渡るんでさえ、なかなか泳ぎ切れずに、機銃で撃ち殺されたのがようけおりますけどね。

で、12時間後、あくる日の夜が明けた25日の朝方、コレヒドールのほうを見たら、あの、ノースアメリカンとマーチンですか、双発の飛行機がおるんです。あれが海面を機銃掃射ですね、ザーッと。水しぶきが凄いんだね。わたしは泳げるから、はるか先に、もうじきそこへ陸が見えるとこへ泳いじょるんじゃあね。何にもないんじゃあね。

軍人はね、あの、死いうことに対してね、もう麻痺してる。怖いということがなくなるんですよ。わたしは怖いは思わんのです。12時間泳ぐときも、フカか何か分からんけど、夜、腹をそーっとこうこすってくる魚がおりまして、目を開けてみたらフカでしたがね。フカが全部、人間が泳ぐとおりに泳ぐ。そしたら、だんだんだんだんこう砂地が見え出して、「ああ、ようやく着いた」と思った。思ったわりには、フカもそうなったらおらんけどね。そしたら上がったときに足も立たんぐらいだった。

それで、這って。まず、日本の機帆船があったから、あそこまで行こうでよ思うたら、そこから日本人が飯ごうを持って出たんじゃあね。「ご苦労さん」と言うて飯ごうを持っきてた。やれうれしや、陸軍はまだ、きれいな服を着てね、すごいなと思うたんだ。日本は勝つでと思うたんだ。で、「飯ごうへ水くれ」言うたんだ。そしたら、「ハ?」言うんじゃあね。見たら、日本人でもアメリカの軍人じゃあね。で、びっくりしてね、手も何も挙げた覚えもない。何にもない。向こうも拳銃を向けん。真っ裸で何もないんじゃから。カメラで写真だけ撮って、ご苦労さまでした。コレヒドールからね、ここまであんたはよう着いたと。泳いで着いた者おらんと、あなた1人だと。わたしはね、わたしも日本人だと。でも、今はアメリカの軍人、ハワイの2世というんじゃあね。で、「アメリカは、この戦争には、ハワイの戦争でのね、この、リベンジをね。かたき討ちいうなんで、今、一生懸命、気持ちが高揚して日本と戦いよるんじゃ」と。
で、アメリカいう国はね、こうこうこういうような国で、まず、アメリカいう国のことを教えてくれたんじゃあね、日本語で。「アメリカは捕虜というものは絶対殺さんから、その、これだけはわたしは約束するからね、わたしの言うことを守ってくれ」と、こう言うんじゃ。で、見たら、今度はその人が帽子をかぶったら、銀色のこう2列になったこう、あのう、将校の印じゃあね。

「素直についてきてくれ」言うて、車へ乗って。そして、そこの場所はどっか分からんのですよ。バタン半島のどっか小さな収容所へ行ったら、40~50人、日本の兵士がおる。ほとんど陸軍の兵隊じゃ。で、そこへ入って。それには鉄条網しかないんじゃ。逃げようと思うたら逃げられるわけ。逃げるハサミもないわ兵器も皆渡して何にもないんじゃ。わたしにとっちゃあ真っ裸だから、パンツをもろうて、ランニングをもろうたんじゃ。そしたら、ランニングにこう、Pという、このぐらいの大きなPという字とWという2文字が書いてある服を着せらせてね。PWじゃあね。捕虜になった、ああ、これは捕虜になった。
で、その将校がまたあくる日に来て、わたしに話してきたんじゃ。こうこうで一応尋問があるから来てくれと言うから、その将校へついて行って尋問を受けたんじゃ。そしたら、
日本の兵隊は3~4人しかおらん。向こうは4~5人がこういて、見たら本当の金髪のアメリカ人は2人か3人しかおらん。日本人の、あのう、なんのほうが多いんじゃあね、憲兵のほうが。で、こうこうでね、
「あなたはコレヒドールから逃げてきたんじゃが、ゼロ戦を知っちょるか」と言うんじゃ。「ゼロ戦は飛行機じゃ。飛行機のことはわたしは全然分かりません」と。で、わたしは震洋艇のことを聞かれると思うたんじゃが、一切言わんのじゃあね。「はあ、海軍かいね。それじゃあ分からんね」というんでね。「ゼロ戦のことは知りません」で、それで通って。「ならいいです」と。名前となにして、こうメダルを、番号をもろうて、ワンワンフォーセブンゼロ、11470番の鑑札をもらうんじゃあね。これはステンレスか何か知らんけど、さびんですよ。

で、まあ収容所へ入って、そこの収容所はものすごい待遇がええんじゃあね。まあ今言う、水は飲まんと、ゴムのタンクに入った薄いオレンジジュースでね。少し甘味があって飲みよいんじゃあね。絶対に水は飲んじゃならん。そして、便は、廊下に我々が穴を掘って、四角の木箱をはめて、こういうふうなトイレが、今みたいな穴が開いちょる。そこにウンコをする。そしたら、バガッと、バッと開けて、それへドラム缶でガソリンを流し込むんじゃ。で、火をつけて焼くんじゃあね。それを見てね、ほう、すごいなと思うたんじゃあね。これは日本はとても戦争に勝てるわけがないがいう、まだ2月にそう思ったんですよ。でも、まあ、じき3月になり、4月になりしたけど。
それで、転々と、刑務所はね、5カ所ぐらい変わったんです。今、一番初め行ったとこは仮の収容所で、50~60人しかおらん。名前は知らんのじゃあね。教えてもくれんし。そしてね、2回目に行ったんがダグバンだったと思うんじゃ。ダグバンいうたら、リンガエンから上陸していった奥地の平たい大平野じゃ。そこへ大きな、もう何千人いう捕虜がおるんじゃあね。

1945年の12月の9日にマニラから、アメリカの、どのくらいあるかね、5000~6000トンの船で日本まで復員したわけですが。そのとき、ずーっと台風で、こうやってのぞいたら、山より高い波でね。あれを考えると、今の震洋艇なんか、ちゃち過ぎてね、戦争できるのがこう不思議なような気がしますね。

Q:震洋作戦というのはどう思いますか、今振り返ってみて。

当時はそれしかなかったんですよね。そのくらいしか。いっぺんに1人の命で大きな船を沈めるということは、その当時はそれしかなかったですね。わたしはその兵器が憎いとも悪いとも思ったことはないんです。

それを計画したね、その人の大きな誤算だと思いますね。戦争いうのはそんとうな簡単なもんじゃなかったですよ。分からん人が考えることであってね。本当の戦争を知ったら、あのぐらいでとても戦果を上げられることはないと思うですね。

部下をあまりゴミみたいに見過ぎですよね。その証拠に、わたしらの軍隊のあった歴史とか登録にも何も残ってないですもん。呉へ行こうが、どこへ行こうが何も残ってないんですよ。

大勢の亡くなった戦友たちのことを思うと、このまま黙って死ぬわけにゃいかんと思ったんです。遺族は、まあ、自分の亭主か、子どもか、何か分らんけど、一生懸命手を合わして、何かほかのものを形見に手を合わして拝むけど、遺体はどこでどういうふうに死んで、何が残っちょるか、分からんわけですよね。

まあ、何もかもさらけ出してね、伝えちょこうかなと思うて。平和がどれだけ尊いものか、戦争がどれだけみじめなものかということをね、知ってほしいと思うんです。

出来事の背景出来事の背景

【“ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、大規模な特攻部隊が海軍で組織された。その名も「震洋特別攻撃隊」。“太平洋を震撼させる“と謳い、6200隻を製造、およそ5千人をこの作戦に動員した。
その多くは、航空機搭乗員を目指していた予科練出身者や学徒兵の若者たちだった。しかし、秘密兵器「震洋」の実体は、ベニヤ板製のモーターボート。長さ5メートルの船首に250キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たり攻撃をしかけるという兵器であった。

開発を強く主張したのが海軍軍令部・黒島亀人。連合艦隊の参謀として攻撃を成功に導いた人物だ。

長崎県の川棚で訓練をした「震洋」の部隊は、米軍の侵攻で上陸が予想されたフィリピンや、沖縄本島や石垣島、奄美大島などの離島や本土各地の海岸などに配置された。しかし、作戦がはじまってからは、輸送中の爆撃や設計の不備によると見られる爆発事故が続出し、特攻作戦の前に多くの若者が命を落とした。狭いボートの中に、燃料タンク、4トントラック用エンジン、そして爆薬が詰め込まれていたのだ。しかし、海軍軍令部がこうした事態の改善に乗り出すことはなく、「震洋」による特攻作戦は終戦まで続行される。結局特攻に成功したのは数隻のみといわれている。5000人の兵士のうちおよそ半数が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1943年
徴兵で大竹海兵団に入団、魚雷艇の通信兵となる
1944年
横須賀の海軍水雷学校へ入校、震洋搭乗員となる
1944年
第7震洋隊として、呉港出港、フィリピン・コレヒドール島到着
1945年
2月、第12震洋隊の出撃を見送り、戦果を確認
1945年
米軍猛攻の中、バターン半島へ脱出するも、捕虜となる
1945年
戦後は、製針工場勤務、食料品販売会社を経営、その後漁業を営む

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フィリピン(コレヒドール)

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