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タイトルタイトル: 「動けない傷病兵の運命」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~
名前名前: 濱本 俊則さん(山形・歩兵第32連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2008年3月

チャプター

[1]1 チャプター1 満蒙から沖縄へ  02:43
[2]2 チャプター2 ひたすら陣地構築 ~隆起サンゴ礁の岩を掘り続ける  03:53
[3]3 チャプター3 海を埋め尽くす艦船  02:15
[4]4 チャプター4 昭和20年4月1日 米軍は沖縄本島中部の西海岸を中心に上陸を開始した  02:10
[5]5 チャプター5 「最前線へ」  02:44
[6]6 チャプター6 迫撃砲弾の直撃~重傷を負う  05:27
[7]7 チャプター7 担架とトラックで野戦病院へ  01:07
[8]8 チャプター8 阿鼻(あび)叫喚の野戦病院  07:30
[9]9 チャプター9 自力で動けない傷病兵士の運命  02:06
[10]10 チャプター10 松葉づえで原隊復帰~死体の山に出くわす  04:38
[11]11 チャプター11 「斬(き)り込み攻撃」  04:57
[12]12 チャプター12 米軍テントに決死の「強盗」  05:38
[13]13 チャプター13 南部から北部への敵中突破(国頭突破)  02:57
[14]14 チャプター14 生きて虜囚の辱めを受けず  02:47
[15]15 チャプター15 「わたしは死にません!」  02:42
[16]16 チャプター16 何のために戦ったのか?  02:17
[17]17 チャプター17 投降にいたるまで  03:12

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もう、みんなの言ってるフィリピン何かは、よくあそこら辺のことはわからないんだ
けれども、南方へ連れて行かれるという感じで、7月の27日か28日ですよ。門司を21隻だと思ったね。船団で。わたしらは20隻目ぐらいに乗ったと思うね。確か26日か27日ごろの晩に出発したんですよ。そうしたら8月3日の日に、もう1週間もなるな、どこだろうなと言っていたら、4日の朝早く着いたって言うんですよね。1週間といったらどれくらい来たんだろうというようなくらいの感覚でしたね。そして4日の朝、未明に上陸したんですよ。ひょっと見たら那覇港と書いてあった。やれやれというようなもんで、那覇港だからね。国内だしね。よかったなというような感じ。そんな恐ろしいところになるとは思わなかったけどね。まさか日本が、日本の本土までやられるということはわからないでしょう? 我々にね。

恐らく、本当は上の方しか知らないんじゃないですかね。そのうちに何か、いろいろ漏れ聞いてきたら、天一号作戦とか言ってね。大本営が直轄だという話を聞いたんですよね。えっという感じですよね。おれらが大本営の直轄になった、何とか作戦とかと言ってたね。わたしらは兵隊だからよくわからないんだけれども、とにかくそういう話を聞いて、もう重大なこと、大変なこと何だなと思ったよね。

陣地構築は自分で作るんだということだったから、次の日からたぶんトンネル掘りやりました、ずい道掘りね。そしてマコト山という、今も地図見ても出てないけどね。わからないけど、マコト山という山、軍隊が勝手に付けた名前かもしれません。そこへ陣地を構築。下士官、将校が少なかったんですね。わりにね。だろうと思う。南方へ全部転属、ちょいちょい引き抜かれて行ってたからね。わたしも下士官じゃない、兵隊だけど、下士官の仕事をさせられて、1つの班を任されてね。穴掘りしたんですけどね。しかも、わたしにはいい人ばかり預けてくれたんですね。人事係の人が。万字炭山(北海道岩見沢)があるんですけどね。夕張の炭鉱だとか、そういうところで採炭夫というのがいるんですよね。昔はツルハシで石炭掘ったんですから。今のようなピックでないからね。それを掘れる腕のいいやつをわたしの下に付けてくれて、下士官にも負けない仕事をしてね。いつも褒められたりなんかしてたけどね。あれから毎日、あの当時なんかも、どんなことしてたんだろうな。あすこでだいぶ2月か3月いたんじゃないかな。石川(現うるま市・沖縄本島中部)にいたんですからね。そして移って糸満(糸満市・沖縄本島南部)に行ったんだからね。

ということは、沖縄の兼城、糸満のすぐ北になるの? そうですね。兼城に陣地を作ったんですけれども、そのすぐ海なんですよね。糸満の街からちょっと小高い、30~40mもあるのかな標高は。そこで陣地構築する図面というか、あれを見せられてね。そしてわたしは自分から穴掘りをさせられたんだけれども。そういうことをしたときにはもう水際作戦というか、水際とよく言う、そういう作戦を取るというようなことを聞くわけですよね。引き寄せてね、水際であれする。これはいよいよ日本も、わたしはもう勘で、引き寄せて、上陸させるんだからね。まちがえば我々死ぬんだから、もういよいよ戦争だなという感じは受けたよね。

23日の日だよね。たぶん3月。おれの記憶ではね。そのときにわたしはその水際陣地、あまり出来上がってはいなかったけど、まあ使えるという感じだったから、見てたらぐーっと、朝から晩まで見ながら、あすこで何隻、何隻と、3百なんぼぐらい、真っ黒になって船が通るんですから。目の前を大きいのから小さいのから、みんなね。あれなんか、あとから見たらブイだとか、なんとかも引っ張ってるんですね。鉄のブイを浮かして、鎖でつないであるんですね、あれきっと。そして上陸するときに、浮かしておいて、その上を戦車が走ってくるんですよ。そういうものまであるから、何を数えていたかよくわからんけど、本当に3百近いものが見えたね。

どんな感じというか、真っ黒に、魚がいっぱいそ上するやつがあるでしょう。ああいうような感じでね、島の周りを、我々の見れる範囲というのは百何十度くらいの、とにかくすごい船の数で、えーっと寒気するぐらいだろうね。あのときの気持ちなんていうのは、どんなだったんだろう、わたしはね。兵隊だから、なんせ上官の命令がこなければ何も動くも、何もすることないからね。やっぱり気持ちとしてはいよいよという感じだよね。引き締まったというか。

あの近辺にね、何と言ったかな。大山でもないし、なんとか、そんなような2つ字で思い出せないな。わたしは聞くだけだからね。耳だけだから。そこへ上陸したって、それが4月2日だったと思うね、聞いたのね。上がったのは30日、1日かもしれないし、わからないけど。2日ごろわたしは聞いて。そしたらまるっきり裏なのね。わたしらからすると、わたしはこっち、あすこに行くと糸満だから南向いてんだよね。それが北、反対の海岸から上がってきたわけですから。それで慌ててでもないけど、4月の何日かに、これを迎え撃つために逆に向いて行ったんだよね。そこを投げて。兼城の陣地をね。まるっきり今度は無防備なんですよ。入る穴もないのね。普通の洞くつに入ってはいけない。ガマ(壕を意味する沖縄方言)だか、ガマって言うんでしょう、あれ沖縄でね。そこへ入っちゃいかんと言うんですね。

それは命令みたいなことだったと思うね。自然とみんな伝わってきて、住民といっしょに、住民の避難場所だから。自然壕(ごう)はだめだっていうようなことを、わたしは何で聞いたか、言われたかわからないけどね。そういうふうに言われてたよね。だけど、いざとなったらね、どっちも飛び込むよね。住民だって、我々作った陣地に飛び込んでくるしね。それはわたしらもみんな自然壕に入るというような。わたしたちはあまり移動してそういうところへ入ったことないんだけどね。

すでに上陸してるから、陸からも大砲来ますよね。臼砲とか、でかいやつがくるらしいんだよね。臼の砲と書いた臼砲というんだという話で。それと艦砲でしょう。空から爆撃でしょう。三方から来るんだ。陸・海・空ですか。その攻撃があるんです。だから日本はもう空からは応援隊もろくにないでしょう。たまに特攻機なんか来るらしかったけどね。だからちょうど猫もねずみも逃げられないんですか。その状態に部分的にアメリカ兵が進んで来るのは1キロか1キロ半らしいんですよ、1日ね。その前にあるものは全部三方からたたいて来るんですね。ネズミ1匹いなくしておいて進んでくるらしいんですよ。

Q: じゃあ、海からは艦砲射撃、空からは爆弾を落としてくる・・。

大体50から200らしかったね。50キロだとか200キロ爆弾という話。わたしはわからないですよ。わからないんだが、話でね。

Q:濱本さんも、実際、そういう現場を見ましたか。

見てます。

Q:どういう状況なんですか。ネズミ1匹通らないぐらい・・。

本当にね、艦砲なんかだって、ヒューン、ヒュヒュヒュと飛んでいくのもあるし、ヒューンと落ちてくるやつやらね。そのほかに上から来るでしょう。大砲も来るんですね。そうすると人なんかもね、わたしも4月27日の晩、小隊長、イナバという、今のオオバ班長なんかも同じ小隊だったけど、あの人、小隊長なんだけどね。その人なんかは、ここを艦砲だと通って行ったんですね、横を。

Q:弾が前を通って行った?

そしたら真空状態になるでしょう。空気が。そうするとはらわたをみんな持って行かれたそうです。

Q:カマイタチみたいな、そういうことですか。

まあ、カマイタチです。そういう状態になってやられてね。そこに指揮班長というオノという曹長がいたんですよ。その人はひざかぶの皿を持って行かれたんです。

だんだん攻め込んでくるでしょう。それに対してわたしは転進命令というのが出てたんですよ。それで、一応退却なんですけどね。日本に「退却」ということばはなかったんだというから日本軍にね。それで「転進」だということだったんでね、一応移動して穴に戻るという時にわたしは撃ったんですよ。たぶん、何名か、3名くらいは死んでたと思います。あと、5人いたんだけれども、ほかの人が、10人ぐらいいたんですよ。そして5人ぐらいは倒れたんだけど、3人は残ってたからね。あと2人ぐらいは引っ張って行ったのを見たんだけどね。だけど、それよりもわたしは逃げなければだめなんですよ。見てるわけにいかないの。大体1分以内に弾が来るんです。

Q:1分以内というのは。何から1分以内なんですか。

あっちに発見される。こっちで弾撃ってるから発見されてるわけでしょう。わたしらはね。大体1分以内ぐらいに、もう弾が陸・海、空から来るんですよ。空からは飛行機はこないけど、弾は陸からも海からも来るんですよね。そしてバンバンやられるんですね。もう地面が白くなるほど、あすこはさんご礁ですからね。白くなるんです。それぐらい弾が来るんですよね。逃げなければいけない。だからそのあとの様子というのは全然わからない。そしてなんぼぐらい下がったのかな。あのときに移動して、そして穴に入ったんですよね。あのとき7人ぐらいで、わたしら1個分隊、オクダという伍長がわたしらの分隊長たったけどね。その人らと一緒に行って、今晩12時と言ったと思うんだよね。29日の晩だか30日になるね。移動ということになってたんですよね。それでわたしも機関銃を肩に担いで、壕の前に立ってたんですよ。そしたらみんな外に出てて、弾があまり来るので、ちょっと避難してたと言うか、動かないでいたんですよ。そこへ裏山から、迫撃砲の弾というのはこういうふうに来ますから、弾道は弧を描いてこないから、こういうふうに来るんですよね。目の前、わたしの50センチか1メートル前に落ちたんですね。そうしたら脚を破片が貫いて、後ろの人が2人死んで、4~5人ケガしたんですよね。

それでわたしは動けなくなった。小さい穴にいて、その2人を土かけてやってね。手で、何も土なんてないんですよね。砂みたいなのをちょっとかけるまねした程度で。わたしはよく見たら血が出てるし、巻き脚絆ほどいて、そして自分らで掘ったずい道にはヤギとかトリ入れて、ヤギっていう木を入れるんですよ。崩れないようにね。そこへ巻ききゃはんで縛って、そして脚をつるして寝てたんですよね。そしてほかの班長らは、そのオクダという班長は尻だかどこか、ここら辺をやられたらしかったけど。迎えに来るからな、濱本と言って出て行ったんですよね。

わからなかった。脚を殴られたような感じしたけどね。相手どうしたって、一生懸命胸こうやってゆすってやったりしてね。そうしたら1人の、ササキと言う人なんだけど、その人がゴボゴホと言ったよね。もう腹に血がたまったんだね。こうやるとゴボゴホ言うんだ。これはだめなんだと言って、もう1人、なんと言ったかな、2人は亡くなったんですよね、そこでね。そうしたらその班長、分隊長の人は、浜本、迎えに来るからな、頑張ってろよと言って行っちゃったんですよね。わたしはいろいろ死んだ人を見てやってる、終わってから自分の脚触ったら、ドロッとしてるんですよね。おれやられてんだというような感じですよ。それで暗がりだから、やっぱり12時過ぎてたそうです、そのときは。

もう、こんなになって走ったんですよね。覚えてるものね。何人乗ってたかね、あのときは。そのトラックにね。そして中城(なかぐすく)だという野戦病院に入ったんですよね。いま地図見ても、中城湾があって、なかぐすくなんとかという、どこなのかよくわからないんですね。そこへ入れられたんですね。だから中城湾というと遠いんですよね。ずっとね。だから、あんなに、わたし、最後のときに5月31日に自分の部隊に帰ったんですよね。兼城のね。そのときに、あんまり遠くないんだよね。あっても7~8キロだと思うんですよ。

Q:その中城の野戦病院に着いた時は、脚の状態はよくはなっていたんですか。

まだ出血してました。出血が止まったのは70日ぐらいあとからだから。そこへ行ってからは、そこは5月の本当に初旬だよね。何日もなってないからね。そこに何日か、ケガしたところで3日おったとしても、4日くらいですかね。そこへ行ったのね。

壕の中が水がたまってるんですよね。ダボダボなの。歩くたびにジャブジャブ歩かなければいけない。そんな壕の中に寝台というよりも、台をずっと並べただけでね。そこへケガ人をずっと並べて、寝せられるんだね。暗闇の中を衛生兵がたまたま松やにを燃やして、松やにを皿に入れて、皿というか、飯盒(はんごう)のふたにたらして持って歩くんですね。そして見て歩いてるんです。どんな人がいたかとか、そういうことは中というのはよくわからないんですよ。わたしはね、歩けないから。肩におぶさって寝るところまで運んでもらったから。たまたま、その途中の話の中で、医者というのはいないんですよ。その野戦病院には。

Q: 野戦病院に医者はいないんですか。

医者という、人間の医者がいなかった。たまたま、馬部隊だったから、獣医さんがいた
んです。ケガ人しかいないわけだから、病人なんていないからね。獣医でもいいんですよね。動物だものね、人間も。だからケガの治療ぐらいだから、そういう意味なのか、医者がいなかったんじゃないですか。ですから死んだかどうか、いなかったんだと思います。それがたまたまわたしらの同窓生、先輩の同窓生だったんですよね。岩見沢の人で大尉の人がいたんですよ。たまたまそんな話が何かの拍子で話が出て、なんがお前、おれの後輩でないかということで、獣医官かな。2、3人離れたところに、近くにわたしを置いてくれたのね。それでいろいろと面倒と言っても、何も治療するわけでないし、ただ、黙って寝てるだけだからね。もう中はすごいんですよ。あび叫喚ということばがあるよね。騒ぐ者、泣く者、お母さん親の名前、中にはいるんですよ。遠くの方で天皇陛下万歳なんて言うのがいるんですよね。だけど、将校あたりの話、衛生兵の話、あれは大丈夫だって言うんだよね。天皇陛下万歳ってね、しゃべれるような人はまだしばらく大丈夫なんだね。本当のあれで言ってるんじゃないんですね。いちばん、死の境地と言うか、そうなったら、やっぱり身内、お母さんとか子どもだとか、奥さんだとか、そういうものを呼ぶらしいんですよ。天皇陛下万歳と言った人は、あれは大丈夫だと言ってるものね。衛生兵がね。本当に軍人精神入ってね。死ぬときに天皇陛下万歳と言ったんなら、これは立派だけども、その人は生きてますという話です。それほど、今の北朝鮮のようなことを、すぐ何とか将軍様と言わないと、あの人だって意識的に言ってるんじゃないかなと思うよわたしは。

Q:病院だけど、水がたまってるようなところで、重症の患者なんかはお母さんとかという
ふうなことを言って、あび叫喚の・・。

もうね。痛いよ、助けてくれ。殺してくれというような声が聞こえたですね。

Q:助けてくれ、殺してくれなんていうのもあるんですか。

そうね。苦しくてね。わたしのそばにいた人なんか、ここをやられたらしいんだよね。ここを見たら真っ白になって、血止まってるからね。それなんか苦しくて、殺してくれと騒いでたね。

Q:そういう殺してくれと言う患者に対しては、どういうふうにするんですか。

衛生兵はね、どうしようもないんですね。薬ってないでしょう。別にね。ただ、最終的
に、こういうこと言っていいのかどうかわからんのだけどね。ここまで言っては言わないといかんのかなと思ったりね。考えてるんだけれども、5月30日の日ですよね。跳びます、4日5日ころから、20日あまりね。また転進になったんですよ。ここで大尉だとか、衛生兵が話しているのを聞いたら、もうこれ以上はここにとどまれないと。アメリカはもう来てるんですよ。だから、もう自分の原隊に帰ってもらおうと、いうことを相談してるんですよね。だけど衛生兵で重傷なのがいるんです、何人かいたんです。その連中は、誰々は担架を持って連れていくというような話をしてんですよね。それが聞こえるわけです、わたしに。これはおれも歩けないんだし、担架で連れて行ってくれないかなと、ずうずうしい考えしてたんだけど、その大尉の人が、濱本、お前歩けるかって。けれども、担架の話もあるしね。歩けませんと言ったんだよね。もっとも歩けなかったしね。そしたら、大尉の人がね、お前は外に出してやるから、はってでも帰れと。そしてお前、必ず喜ぶときがあるから、頑張れよと言ってくれたんですよね。そのことば、今でも離れないですよね。そして、一応連れて行くものは41人と聞いたんですよ。そばで話してるのを聞いちゃってるから、ほかの人は知らないと思う。そしたら、あとは楽にせいということなのね。

楽にしてやれと言ってるんですよね。そしたら、これは何十グラムしかないんですよと、こう言ってるわけさね、話がね。えっと思って聞いたよねおれ。そしたら、間もなく、5分後に見回るよという話をしてんですよ。衛生兵の上の人か、将校だったかわからないけどね。これは大変なことだと。わたし、出ますと言ったら、ここでね。そしてわたしは外へ、そのあとは出してもらうんだけれども、わんわん言ってた、さっき殺してくれと言うような人はね、打ったら、注射器抜くか抜かんうちに静かになっちゃうんですね。みんな静かになっちゃうんですね。そして5分後に見回るよということで、5分後に回って来たら、もう冷たくなってるわけですよ。そして、その冷たくなった人は、みんな毛布で巻いて、1か所に積み上げたらしいんですよね。どこどこへ持って行けっていうような感じで。わたしはそのうちに外へ出されたしね。だから、恐らくは、やっぱり自分で自決もできないしね。その人らは。もう何も持ってるわけじゃないしね。だからかえってあの人らにはよかったのかも知らんね。考えようによってはね。ただ、投げられて行ったよりはね。

気持ちはね、わたしはこれで助かるというような考えはなかったね、まだ。歩けるか、歩けないかわからないわけですから。達者だけど、脚きかないからね。はだしでは歩けないわけだから。それで20~30メートル離れたところに置かれたんですよね。おぶってきてくれた人がね。そして元気でなというようなことで、衛生兵の人だけど帰って行ったんです。そこでやっぱり死ななければいけないと思ったんだね。そのときに、その前から機関銃手は拳銃持ってるんですよ。兵器ないから。ほかのものはないでしょう。だからピストルを持ってたわけです。それをわたしにくれたんです。一応、引き揚げられるから、そこで自殺されたりしたら困るから、壕の中でね。だから預かってるのをお前に渡すということで、持ってたから。そこでもう、動けなくなれば死ななければいけないんだなという覚悟はしたよね。それで拳銃を分解して見てたの。動くか動かないか。動かなかったらどうもならんからね。そうしたら、そこへ衛生兵の人が通ったんです、たまたま。「お前、いいもの持ってるな」ということなんです。その時分は階級章なんてみんな外してしまってるから、将校はわかるんですね。襟や着てるものが違うから。あと兵隊は下士官も同じなんですよね。だから向こうも、「お前、いいもの持ってるなと」。「歩けないのか」というような話になって、「ハイ」と言ったら、「お前いいもの持ってるから交換しよう」ということになった。ちょっと待ってたら、松葉づえ持ってきたんですよ。「これと交換しよう」と。「お前、これあれば歩けるぞ」と。どれくらいあるかと聞いたら、「2里ぐらいある」と思うというような話してたんですよね。それで一生懸命歩いたんですよ。そうして、あれはどこかな、コチンダはわかるんですよね。東風平と書くところあるでしょう。あそこを通ったのは覚えてるんですよ。そこがすごい死体の山でね、山じゃないね。死体が何十mぐらいあるかな。人がずーっと死体があるんです。

Q:兵隊の死体ですか。

いや、兵隊もいるらしいし、一般島民。中にはうわっと思ってわたしは、普通の兵隊の死んだのはそうも思わないんですけどね。たまたま子どもをおぶった女の人が、ここからスポンと、そして松葉づえで歩いているところの両側に、こっちの胴体とこっちの脚の方とあるわけですよね。こどもをおぶっているの。女の人がね。ここら辺で何か、艦砲か何かで2つになったんだろうね。子どもはケガしたようなふうはないんだよね。これはやっぱり、わたしもかわいそうだなと。兵隊だから死んでも、死ななければならないものだからいいんだよね。だけど一般のこどもをおぶったお母さんがね、亡くなってるのを見たときは、ハアッと思ったね。かわいそうでね。

きり込みというのは、恐らく6月の23日前だから、いたよな。あったんだけどね、あんまり記憶ないんだよね。そのとき、命令出されて、いつも大きな飲んべえがね、全然飲んだことない、酒飲んだらひっくり返るような人でも、あの泡盛をコップに1杯ぐらい飲んでも酔わないんだね。きり込みの命令が出ると。隊長が命令出す時もね、ぐでんぐでんになって言うんですね。命令出せないんですね。お前死ねと言うんでしょう。理屈はね。そして兵器のない者、武器のない者、武器のない者が先に出されるんです。それから初年兵というか、若いというか、若いという言い方おかしいか。やっぱり、この部隊におってね、生きておってくれれば大事な人とかあるわけでしょう。そういう人がきり込み隊に出されるんだよね。選び方を見てるとね。

飲まなきゃ命令出せないんだよ。やっぱり決心してね、素顔というか、らしいんですよ。そういう人は普段飲む人だけどね、隊長はね。わたしの記憶では中隊長なんだよな。あれいつなんだろう。あれ、どうしておれそんな記憶あるのかな。皆の話を記憶にしちゃったのかな。

あのときはムラヤマという人が出て行ってね、戦車ひっくり返して帰って来たんだよね。これは記憶ですよ。どこでどんなになってそんなこと覚えてるのかな。そして金鵄(きんし)勲章だって隊長に言われて、その人はやっぱり帰ったんだよな。生き残って。金鵄(きんし)勲章はなかったと思うけどね。記憶ないな。日にちが記憶ないんだよ。

Q:そもそも、きり込み攻撃というのは、どのようにやるような攻撃の方法なんですか。

敵に追われるでしょう。ずっとね。追われてくると、もうどうしようもないわけですよね。ネズミだってかむでしょう。そんなような感じの、最後のあがきみたいなもんですね。それが竹やり1本と、竹削っただけなんですよ。竹を削った竹やりと、それから手りゅう弾、自分用の手りゅう弾らしいんだね。それと戦車地雷というのは、あんパン地雷と言って、なんぼぐらいあるんだろう、10センチ以上はあるね。これぐらいの地雷があるんですよ。それを持たされるのね。そして敵の幕舎だとか、戦車だとか、そういうものを狙って、それからわたしらも作らされたけど、ダイナマイトを30キロと作ったことあるから、こんな四角い箱に詰め込んで、そして持って歩くときは安全装置を体に縛ってるんですね。安全装置のひもをこういうふうに軍服のここに。そして使うときは、こうやったら安全装置が抜けるんですよ。

だからおれは6月の初めに糸満に、兼城に帰ってから。帰ってからは6月12日の日に、これははっきり覚えてるものね。敵がおれらの陣地の上に幕舎張ったの。1週間。あのときは苦しかったね。さんご礁の厚さが30mぐらいあるんですよ。深さが。その下に水成岩と言って青い粘土があるの。そこへ穴を掘ってたのね。だから上から爆弾を落としてもカーンとしか聞こえないくらい。そういうところへ入っていたからね。そういう上からのものは安全だったんだけど、上に幕舎張られたのは困ったけどね。それは6月12日の晩から幕舎張られたような気がするね。そういうことで、そのときにはすでに何も戦闘してないんだからね。あと盗みに行ったぐらいだね。そこへ。あれ何日だろう。そのころだね、6月の10何日ごろだね。わたしとさっき言ってたオオシロタロウというのと、亡くなったけどマツオカステオという人と3人で、たくさんして暮らしたら大変だから、みんな2~3人ずつ分かれて、同じ1つの大きな壕だけど、分かれて生活というか、過ごしていたんですよ。そのときは拳銃強盗やったよね。幕舎にね。

Q:拳銃強盗?

はい。拳銃持って、そして物を入れてくるものを持って、そして敵の幕舎を襲うんですよ。どっちにしても死ぬだろうということですから、どっちにしても死ぬんだったら、食べて死のうと。食うものを集めて生きてやろうというというような気持ちになってたから。マツオカという人は芋掘りに。芋あるんじゃないかと言って畑のあとをほじくったり、わたしは敵の幕舎を襲って。そのときはガソリンを盗みに行ったんですよ。火炎放射器の油ね。ガソリンに生ゴムを溶かしたガソリンがある。それがすごい火力があるんですよ。ゴムだからね。それを燃やして物を煮炊きするために取りに行った。これはもう間違いなくわたしがやってきたからね。片一方の耳がつんぼになっているけどね。その入れる缶を今でも自衛隊で使ってる車の後ろに大きなガソリンを入れるタンクがあるでしょう。ああいうものを持って、あっちこっちの岩に缶をぶっつけるんだよね。がんがん言うんだよね。だから、お前危ないからと言って、片方は耳が遠いもんだから分からない。わたしが持つ。わたしが持つとびっこなもんだから、やっぱりがんがん言うの。そんなことしながら敵の幕舎を襲って、そして中を見ながら、寝てるところを襲うんです。明かりの点いたところ。暗いところへ行ったら危ないんですよね。監視兵が見てるからね。だから明かりのついた幕舎へ入り込んで、向こうも撃ってこないんです。中の人も、目が覚めても起きないんですよ。拳銃強盗に入ったら、入られたらきっとそうなると思うね。動かないんだよね。こうやって拳銃をためているでしょう。1人が一生懸命物を盗んだりするんだけれども、そのときはガソリン、うまくふたを取ってあったんですよね。起きて、ゴボゴホとあけて、そしたら落としちゃったんですよね。力ないから、脚でドラム缶をひっくり返しちゃった。さあ、それからが逃げるのは大変なんですよね。持って走ったら、後ろからバリバリと撃ってくるから。でも、あちこちに岩があるから、どういうふうに逃げるか、ちゃんと計画立てているからね。うまく逃げおおせて、そしたらやっぱり、ドラム缶にこれぐらい入ってたよね、ガソリンが。そんな経験をしている。そんなことしながら、生きてたんだから。

そして6月23日でしょう、司令官が自決したって聞いたのはね。そのときにわたしらの場合は、どこの人かもわからんけれども、30何人いたんですよ。

Q: その壕の中に?

ええ。あっちこっちから集まって来たのね。自分らの、わたしらの部隊ばかりじゃないんです。海兵隊というのか、海軍の陸戦隊だかなんとかという、そういう人なんかもずいぶん来てたんですよね。

入り口の方にはなんか島民もいたらしいんだけどね。結局、島民を我々も利用してたわけさ。島民をそこにおいててやるとね、アメリカ兵が来るでしょう。見に来るわけですよ。戦争終わってるんだからね。残敵掃討戦の中に入ってるから。すると島民おったら何もしていかないんですよね。兵隊は後ろの方に隠れてるわけです。島民を盾にしたと言うか、そうしていたから、入り口にはたぶん、島民がいたと思いますね。わたしはまだそのときには、6月23日にはまだ歩けなかったんだから。みんな30何人おるうち20何人はみんな出て行ったんですね。ということは聞いてないですか。国頭(くにがみ・沖縄本島の北部)突破というのは聞いたことあるでしょう。

北の方はアメリカの兵力が薄いから、そっちへ行ったらいいんじゃないかということ、山もあるしね。それがなんのね、全然石川辺はあんな狭いところでしょう?そこに敵がぞろっといるわけです。そこをどうやって、ね、そんなことは情報にないから、皆が出て行ったんですよね。動ける者は。次の朝、何時ごろかわからないけど、12~13名帰って来ましたよね。どこまで行ったと言ったら1キロぐらいしか行ってないのね。1晩中かかって。30何人で出て行って、12~13人。あと半数はいなくなっちゃった。

Q:どうなったんですか。

亡くなったんだよね。発見されて、撃たれて、みんな亡くなったのね。

だけどね、その命令出した人もそうだけれども、この間いろいろ話の出た島民の自殺じゃなくて自決ね。その問題と同じようなことなんですね。「生きて虜囚の辱めを受けず」でしょう。捕虜になるなと、そしてそういう辱めを受けるなという教えだから、この人を残して行ったら殺されるだろうと思うわけですよね。上の方の人も、上官の人も。だからやっぱり楽にしてやった方がいいんじゃないかということでないかな。いい方に解釈して。自分らは下がって行くんだから生きれるかも知れないわけだからね。だけど、今考えるとアメリカ兵はみんな殺さないよね。だからあの人たちは、かえって置いて行かれたら助かったかも知れない。我々より、かえって外へ出て危ない目に遭うよりも、そこですぐ見つかって、助けてもらえば病院にも行けるし、あとからそれは考えることで、その当時としては当然のことだったのかも知れないね。かわいそうだったけどね。すごくかわいそうだったけど、どうしようもないものね、我々にも。そういう気の毒だなということだけで、いずれおれも外へ出て行ったら、1秒先はわからないわけだからね。だからあんまり感傷にふけってというか、気の毒だ、かわいそうだということに浸っていることもできなかったんだね。おれがもし元気で、歩けて、何でも人を助けられるんだったら、あるいは連れて行くということも考えたかも知らんけど、あのときはそんなことは、わたしには考える余裕もなかったし、体力もなかった。そんなことだよね。別にわたしは命令を出した人を恨みもせんし、どうも思ってませんよね。

戦闘中でね、「一緒に死のうな-」と言ったんですよ。それが誰かはっきり、イナバ准尉だったのかな。あるいはキシ隊長だったかも知れないな。中隊長ね。中隊長だったかも知れない。やっぱりイナバ准尉だな。小隊長だね。「濱本、いっしょに死ぬんだぞ」って言ったから。「わたし、死にません」と言ったんだよね。「お前、命根性汚いな」と、こう言うんですよ。「そうじゃないよ准尉殿」って言ったら、「おれらはね、最後まで天皇陛下のために尽くせと言われてるから、そう簡単に死ねないんだと、最後までも生きて奉公するんだ」って、「このへ理屈言うやつは」ってね。

そのときにそうやって助かったからね、途中で帰ってきてから破傷風だとか、重い病気や薬害で死にかけたことがあるんですよ。そういうときでも、おれは死なないんだ、死なないんだと絶えず思い続ける、言い続けるようにしたんですよね。そういうことが案外、生きる力を強めてるんじゃないかと思うけどね。死にたくないというのが本心か。生きようというのが本心なのかね。おれは死なないんだというような感じで。いつか寿命がきたら死ぬからね。間違いなく来るから、早く来るか、遅く来るかが問題だから。そのときの話がずっと持ち続けてるの。おれは死なない、死なないというのを。そうだ、前立腺がんのときもやったんですよ。11年だから、もう9年になるね。今年の1月で10年になるね。

兵隊に何の目的もないよね。ただ、やれと言われるから、早い話がね、捕虜になってから言われたのは、あるアメリカの黒人の歩哨に。それはね、お前らもおらも同じだと、こう言うんですね、立場が。お前らもアメリカと戦わなかったら後ろからやられるだろうと言うんだよね。おれらも第一線に出されて、そして後ろから白人が、おらがどうかしたら狙ってるんだと言うんです。だから、どっちにしても死ぬんだったら、前に行こうというような、うまくいけば勝てるって。そういう生きるために戦争したと言うんだね。ちょうど足かせをはかされて、前線に出されてるという言い方するのよね。黒人の歩哨のやつが。

それと何かおれはね、軍隊は軍隊、日本の国におらがいけにえにと言うか、帰っても悪く言われる、何と言われるかわからないわけでしょう、帰ったら。逃げ帰ったらね。非国民呼ばわりしてね。そういうがんじがらめにされちゃっているから、しかたなしに動いてた、兵隊の役目をしてたということに過ぎないよね。何のあれもないもの。何のために戦争してるかなんて考えることないものね。

戦陣訓。あれにもう、俺はどうして暗記しなかったのかね。あまり覚えていないんだよ
ね。やっぱり軍人精神入っていなかったからだね、多分。あれらをみんな、遵守、遵法と言いますか、そういう精神が入ってるから、なかなか手を上げて行くなんてことは考えられない。やっぱり捕まりそうになって、何かを持ってたとしたら自決するよね。大抵手を上げれば助けられたと言うんだよね。だから、私らに8月26日、25日だったかな。出てこい、出てこいとスピーカーで言うんですよ。そして25日だったかな、私らの近くに来て、出てこい、出て来れば私はどこどこ部隊の誰々少尉とか言ってたね。そういう話をして一生懸命スピーカーでね。ただ、それを大隊長が、伊東大隊長が聞いて、では俺が行って確かめてこようと。俺が帰ってこなかったらここで最後まで頑張れと言って出て行ったんだよね。26日の日に出て行ったのかな。そして1日中、沖縄本島をぐるぐるジープに乗せられて歩いたんですって。そして天皇陛下のお言葉も聞いたり、それからラジオを聞かされたりして、これは本当に負けたんだなと思ったと言うんだよね。だから、俺を信用する者はおれに付いて来いと。そして27日だったか、28日だったのかな。どこどこに集合だっていうことで、そして出て行ったんですよ。あの時、30人くらい全部であちこちから集まってきて、知らない人も随分いたけど。知った人は数人しかいないけどね。

 本当にその日は天気もよかったよね。晴天だったね。天気がよくて、ほっと。それ以上のことは考えもしなかったけど、ほっとしたね。これで戦争が終わるのかなと思うだけで。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)3月、米軍は沖縄に迫り、4月1日沖縄本島中部に上陸を開始した。米軍の総兵力は54万。迎え撃つ日本軍は防衛召集した県民や鉄血勤皇隊などを含む10万人だった。

戦闘開始から1カ月半、圧倒的な兵力の差で戦い続ける事を強いられた日本軍は6万人あまりが戦死。米軍は沖縄本島の中部から北部を制圧し、5月下旬には那覇市北方、首里の日本軍司令部に迫った。司令部は、玉砕覚悟で首里にとどまるか、それとも南部にさがって持久戦をつづけるかの決断を迫られた。

5月22日、沖縄守備軍司令官、牛島中将は戦闘の継続を決断。歩兵第32連隊も南部、喜屋武半島への移動を開始した。しかし、この冷静を欠いた命令により、沖縄の住民をさらに戦闘に巻き込み、大きな被害をもたらす結果となった。後退する日本軍と避難する住民であふれる南部への道に向けて、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返した。道沿いには夥しい死体の山が築かれた。

沖縄本島南部で、日本軍は洞くつを利用した地下ごうにこもって戦いを続けようとした。また、住民も攻撃を逃れて洞くつに避難していた。6月中旬、米軍の掃討作戦は激しさを増し、「馬乗り攻撃」と呼ばれる洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。投降の呼びかけに応じない場合、住民と軍が一緒にいた地下ごうにも容赦ない攻撃が加えられた。

6月23日、米軍は喜屋武半島を制圧。軍の幹部たちは次々に自決し、沖縄守備軍は壊滅、組織的な戦闘は終った。

本土防衛の最後の拠点となった沖縄。太平洋戦争中、類を見ない地上戦で、日本軍将兵9万4千人が命を落とし、ほぼ同じ数の一般住民が戦闘に巻き込まれて死亡した。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
北海道沙流郡日高町にて生まれる。
1943年
現役兵として旭川歩兵第27連隊補充隊に入隊後、歩兵第32連隊へ。
1945年
沖縄戦当時、23歳、上等兵。復員後は北海道で牧場を経営する。

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