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タイトルタイトル: 「出撃寸前の故障」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~
名前名前: 岡田 純さん(回天特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(山口県大津島)  収録年月日収録年月日: 2009年1月14日

チャプター

[1]1 チャプター1 「新兵器」の搭乗員  06:33
[2]2 チャプター2 初めて見た「回天」  02:59
[3]3 チャプター3 続発した訓練中の事故  06:20
[4]4 チャプター4 大本営発表  02:16
[5]5 チャプター5 戦艦・大和  01:14
[6]6 チャプター6 出撃命令  02:47
[7]7 チャプター7 「回天戦用意」の号令  01:00
[8]8 チャプター8 エンジンが掛からない  08:14
[9]9 チャプター9 基地への帰還  02:10
[10]10 チャプター10 終戦、そして復員  05:26

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~
収録年月日収録年月日: 2009年1月14日

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当時の数えの21歳は兵隊検査。陸軍か海軍かどっちかという。しかし大部分は陸軍へ行くわね、人数が多いんだから。僕はそのときだから数えの20歳になってる、満の19歳ですね。数えの20歳ってことは翌年兵隊検査で、もしかしたら陸軍に取られたらね、面白くねえと。陸軍は嫌いで。鉄砲かついで1、2、3で歩くのはね、嫌だと。見たら、甲種予科練の募集が。これは飛行機の上ですわな。当時のまあ戦況もまあ激しくなってたけど、昭和18年ですからね。飛行機でやるのがいいじゃないかと。陸軍はもう真っ平ごめんだということから志願したんですよね。だから憂国の情に駆られたというような、その純粋な気持ちよりも、陸軍へ行くのは真っ平だというのが、志願のいちばんの動機だからね、ちょっと岡田純の名に反する不純なんだけどね。

ガダルカナルでね、やられて、もう撤退し始めたでしょ。それからアッツ島が玉砕してますわね。だからもう日本はどんどん負けつつある。まあもちろんニュースはね、負けたとは言わないけども、われわれにしても容易ならざることだという認識は当然できてますわね。だからもう、これはもうやっぱり国民のわれわれの当時の義務としてはせ参じないかんちゅう気持ちはもちろん強く持ってますわね。それには陸軍へ行くよりは海軍だと。しかも海軍の飛行機乗りだと。いちばん第一線で活躍できると、こういう気持ちですよね。

とにかく戦況がね、どんどん悪いということも認識はしてた。もう飛行機もなさそうだぞと、薄々ね。もうわれわれの同期は非常に人数は多いわけですよね。人数多いのが行くのにね、訓練する飛行機がどうも足りないらしいと。まごまごしてると飛行機乗れんぞというような空気はね、もうすでにありましたよ。そこへもってきて、必中のね、威力の効果大なる新兵器ができたと。その搭乗員を熱望するものは二重丸を書け、それから希望する者は丸を書けと。で、やっぱりおれは飛行機だという者は、もう白紙で出せと。ま、こういうことが司令じきじきで話があったわけですね。これはもう土浦の連中も一緒ですけどね。それでもうとにかくどうも乗る飛行機も乏しいらしいし、新しい兵器ができてね、しかもこう言ったな。「この部隊に入った者は、3か月から半年の間に全部出撃する」という言葉がつけ加えられたからね、それはこれはもうすぐ活躍できるなということですよ、二重丸書いた連中はね。だから二重丸書いても、採用されなかったのももちろんたくさんいるわけ。二重丸書いた人間は多いですからね。そん中で、わたしはあの分隊、海軍で言う分隊というのは約200名ですからね、陸軍で言えば中隊。200名の中で、わたしらの分隊で25名か。25名回天に行ったの。

Q:それは最初、必中の兵器って聞いたときは、どういう兵器を思い浮かべたんですか。

ああ、それはもう想像もつかない、もう水中なんてことはもう夢にも思わないわね。夢にも思わない。ただし、飛機にあらざるということは教えられた。「飛行機じゃない」ってことははっきり言ったわね。「飛行機でない新兵器だ」と。それで何だろうということは想像つかないわね。まさか水中とは思わないからね。

だけどもとにかく3か月から6か月で、出撃するんだと、お役に立てるということであればね、これはもう、ましてや僕はもう年齢は同期の中でいちばん上のクラスですからね、それは行くべしということですよね。

Q:想像もできない兵器に二重丸書くのに、全く抵抗はなかったんですか。

うん、まあそうね、とにかく考える時間3分間与えられたの。3分間で出せと。まあしかし僕はもう、ものの30秒ぐらいだったと思うけどね。しかし一瞬、飛行機に乗れなくなるのかということはね、ちょっと、でもなあ飛行機じゃないのかという、ちゅうちょする気はあったけどね。飛行機にやっぱり目指して行ったわけですからね。だからまあ20~30秒考えたと思うけども、すぐ二重丸書いて出したね。もう3分も考えてたやつはおらんわ、誰も。

実際に見たときは「おっ」と思うわね。うん。「おっ」と思いましたよ。一人乗りの魚雷で体当たりするんだっていうことだけは教えられたけども、実物は見てないからね。写真も見せられないんだからね。だから大津島で初めて見たときには、「おっ」、一瞬「おっ」と思ったね。「これか」と思ったね。すごいもの。今ね、模型、実物大の模型なんかあるけど、やっぱり本物はすご味があるからね。

Q:その「おっ」というのはどういう意味なんですか。

「おっ」という意味は、「これか」ちゅうようなことだよね。想像してたよりは大きかったもんね。

いや、まあもうね、覚悟はできてたからね。だからそうは驚かなかったですよ。ああ、そうかと、水中へ行くんかというふうに思っただけでね。まあまだね、神風特攻隊なんてまだなかったんだからね、行ったときはね。神風は10月でしょ。だから特攻、いわゆる真珠湾に行った特殊潜航艇、二人乗りの特殊潜航艇だけが特別攻撃隊と言われとったけども、実際に体当たりするっていうのは初めてだからね。われわれが聞いたときには、まだ飛行機もやってなかったわけですからね。

ここまで来た以上、引くに引けないっていう気持ちがあったかもしれないけどね、どうせ死ぬんだと、飛行機に乗ってもね、そんなあなた、生きて帰ろうとは思わないわね、戦闘機に乗ったら。何に乗ろうが、どうせ死なにゃわからんのだから。だからそれは今の人のように思うほどね、当時の状況、それからわれわれが受けてきた教育から言うとね、死というものに対してそう、恐怖というかね、恐ろしいという感じはしなかったね。いずれ死ぬんだと思ったからね。早いか遅いかだけの違いだという感じですよ。おそらくこれは僕だけじゃなくみんなそうだと思うけどね。だからね、死を恐れたやつだったら逃亡者が一人でも出そうなもんだけど、そんなやつは一人もいないんだからね。

あれはね、12月だったかな、ちょっと波の高い日でね、追従艇が見失ってしまったの。ほして一晩じゅう探したけどわからない。何日ごろかな、翌日だったか、まあそのへんがちょっと、本を見りゃ出てくるけど、とにかく殉職されたのはね、凍死ですわ。寒いからね。2人乗ってるでしょ。で、ニシナさんたちは、ニシナさんじゃない、クロキさんなんかはね、空気がなくなって、窒息ですわな。ナカジマ中尉とミヤザワ少尉なんかはね、凍死。寒い中、海の上を漂流してったわけですよね。漂流してたけども、こっちが発見できない。捜索隊が発見できなかった。だから凍死ですよ。長野県出身者でお通夜をしたんですけどね。凍死というような死に方。それはあの二人だけじゃないかな。あとは海底突入とかね、いう。それから、潜望鏡ぶつけてね、潜望鏡じゃない特眼鏡(小型潜望鏡)だけど。フワーッと浮上してったときに潜望鏡を上へ上げたまま浮上してって、ほで船の底にバーッとぶつけて、潜望鏡がボンと折れちゃう、(頭部が)折れるのね。折れると根元がバクッと口あくでしょ。そこから水がバーッと入って、ほいで沈んじまう。ほいで溺死ですわな、これはね。まあほとんどが、それとそれから海底に突入してしまって、浮上できないと。この2つがほとんどでしょうね。だからまあ僕らはそういうのを見てるから、絶対に浮上するまでは特眼鏡上げなかったけどね。そのぐらい細心の注意を払わないとね、事故死しますよ。

回天に乗るっていうこと自体がね、早く出撃できるということでしょ。まだ全然乗れない連中がいっぱいいるんですからね、それが選ばれたら、先におまえ乗れ、先に出れるぞっていうことになればやね、それはあなた特攻隊に志願した以上、これはいちばんの最大の名誉ですわな。誇りですわね。そういう気持ちですよ。ですから、怖いというような気はないわね。しかし事故だけすんのはばからしいと。だから細心の注意はこれは払いますよ。細心の注意を払わないやつが事故を起こすんでね。僕はもうそういう意味においては、おくびょうじゃないね、これは。無駄な死に方はしたくない。敵にぶつかりに行くのが目的なんでね、事故死だけはしたくないということで、細心の注意は払いましたよね。

単独訓練は、大津島の場合はあの徳山湾(瀬戸内海)の中でやるんだけどね、浅いでしょ、15、6メーターしかないからね、海底、クロキさんみたいに海底に突っ込んだらもう終わりだから、大津島の湾内の単独訓練はこれはもう、そらもう緊張の極みだね。もう冷や汗というか、緊張の3、40分というとこですかね。

まあ航行艦襲撃もね、今考えると、実戦用ではなかったね。目標艦っていうのが向こうから走ってくる。で、目標艦は10ノットで来ることにもう決まってるんですよね。ほんであの潜水艦から出てね、潜水艦はだいたい艦長は、われわれが浮上するのは敵艦から1000メートルぐらいでね、浮上するように計算して、われわれの発射して、われわれの、バンド外してくれるわけだよね。だからフーッと行って、観測するとね、全く文字どおりピシャッと1000メートルぐらいの所に来てますよ。ほいで敵速は10ノットでしょ。10ノットで距離1000メートルだったら、何度で突入をする、方位角、方位角だけは艦長がおおむねのことを言ってくれるけど、実際行って観測するのはわれわれが判断しなけりゃ、方位角が判定だけはピシッとする。それと距離の判定ね。まあ艦長はだいたい1000メートルの位置に行くように、何ノットで何分潜れと言ってくるんだけど、行ってみたらそうでない場合もありうるわけだから、われわれの観測の力というのが、まあここで試されるわけだけどね。しかし、訓練のときはおおむねその位置に浮上するようにやってて、しかも目標艦は10ノットなら10ノットで来るようになってるからね、当たらなきゃおかしいぐらいのもんだね。だからよう当たりますよ、訓練中は。自分たちも自分はね、操縦してるときは当たったか当たらんかわからん。夜の研究会へ行って、それで当たったかどうかというような判定が報告されるけどね。

そのときはその沈めたのは1体だけだなんていうことは全然知らないからね、5本とにかく行ってみんな戦果上げたっていうことになってんだから。それがもうわれわれの回天の威力だから、やっぱり予想どおりだという意気に燃えたというとこでしょうね。

疑わないっちゅうよりも、もう信じてたよね。もう宗教みたいなもんだね。また当たらないなんてこと考えたくないわね。自分が死ぬのにね。当たって死にたいもんだからね。もし当たらなかったらどうしようなんていうのは頭にはないわね。しかしちゃんと自爆装置くれてるんだけどね。あの自爆装置っていうのは、自爆装置って言ってるけども、ほんとは、電気信管と呼ぶんだけど、もし当たったときでもね、頭についてる信管が作動しなかったときのための信管なんですからね。だから握ったままバーンといったら、この反動でガッといくわけだからね。そうすっとバーンといくわけだ。二重の爆発装置なんですよ。それがまあ実際は戦後、自爆装置なんて言いだしたのは戦後であってね、われわれが乗ってるころはね、自爆装置とは言わない。電気信管というのだけでね。まあしかし実際は自爆用になってしまったんだけどね、実際はね。だけど、もしも当たらなかったらこの自爆装置で死ねよ、なんて一言も言われてないよ。一言も言われてませんよ。

(戦艦)大和が出る前の日に大津島のちょっと沖に停泊してた。僕も山の上に登ってね、見た。これが大和かと思ってね、見たんだよ。それで翌日になったら昼過ぎにね、総員集合かかって、板倉指揮官がね、「ただいま、ただいま大和は沈んだ」と。「今や帝国海軍で、頼れる戦力は当隊しかおらん」つって。「一層の奮励を望む」と、こういう訓示をして、「ああ、大和もやられちゃったか」と。ほで「帝国海軍で、もう頼みになるのはわが隊だけだ、回天だけだ」って、板倉少佐が言ったんでね、奮い立ったと、とともにね、いや、ここまできたかという感じは持ったね。

まあ名誉なことだと思ったわね。「それきたか」っつうようなもんですわね。まあとにかく、われわれの部隊はそれが目的で訓練を受けてるんだから、早く、何て言う、まあまあ変な言葉で言えば、優越感を感ずるわね。「よし、おれはほかのやつよりも先に選ばれた」という優越感はあるわね、確かにね。

潜水艦の生活ってのはすごいからね、冷房があるわけじゃなし、もう暑いの何の、もうね、それこそふんどし一丁っていうような状態で、しかもわれわれ搭乗員は艦橋へ出るわけいかないでしょ。もう艦内だけでしょ。朝だか昼だか夜だか、もう全然わからないですわね。消灯もしないからね。それはもう退屈というかね。しかし1週間、5日もたつと会敵のね、敵に会う公算が出てくるわけですから、それは緊張しますよ。緊張してるけども、さっぱりまだ会わないということになると、何ていうかもう、やっぱりイライラしてくるわね。
その間に、27日までの間に2回、2回ぐらい「回天戦用意」があったんですよ。いちばん最初の「回天戦用意」の号令きたときには、それはもう緊張したね。いよいよきたかと思ってね。

第1回目はほんとにもう緊張の極みだったね。それでわれわれの所にハンドルを回してくれる人とね、「お世話になりました」言うてあいさつして。整備員と別れて乗るんですけど、レシーバー当ててもね、あの敵の方面がどうだこうだっていうのも全部聞こえてきますからね、乗ってる間はそれは緊張した。

2、30分経ったら、「回天戦元へ」。要するに、遠すぎちゃったんだね。そのときは出てきてもうぐったりしたね。緊張が切れてね。

それで1回目はもう艦内に戻ったらぐったりしたわね。それからあとまた2回目、2、3回あったかなあ。2回目、3回目ぐらいになると、もうなんか慣れちゃってね、割と気楽になったね。

乗艇したのが7時だから、午前4時か5時ぐらいに発見したんじゃないですか。それで敵発見、潜って、それから敵にね、接敵運動を始めるわけですよね。その間われわれはまだ乗艇の、搭乗員乗艇の命令が出るまでは乗れませんからね。ただし整備員は先に行って、いろいろの準備をしてるけどね。それで午前7時ごろだな、確か。搭乗員乗艇と。乗ってからがまあ、千葉と小野が出てったのが9時ごろですわ、確か9時ごろだったと思う。2時間ほどね、艇内でレシーバーで状況聞いてるわけですね。これがまあ長いこと、どうなってんだろうつう思うほど長くてね。持て余したね。それでもう歌でも歌ったろうかいなと思って、「田原坂」の歌なんかを口ずさんだりなんかした記憶があるけどね。そのうちに9時かな、「発進」、「発動」っていう命令がきてね、ほんで「バン」と押したらスクリューが回らない、スクリューが回らないんじゃなくて、ドドドドッていうエンジンが後ろへね、火がつくとすごい振動がくるんですよ。それ全然こない。「あれっ?」と思ってゲージを見たらね、空気の圧力計がグングングングン減ってってるわけ。「これは冷走か?」と。僕は冷走の経験ないんですよね。訓練中によくほかの人は冷走っていうのをしてるんだけど、僕は経験ないもんだからね、「あれっ?」と思った。しかしゲージを見りゃ空気が出てる。これは冷走だと。ほで司令塔にね、伝声管で「4号艇冷走」つって。そしたらもう、冷走なんていう言葉を潜水艦の乗員も聞いてないわけやね。だから「熱走、4号艇、熱走」つって艦長に報告しちゃった。したら「第1バンド外せ」って、そう言ってんの聞こえるわね。そしたら第1バンドバーン、目の前だからね、そのときは潜望鏡を上へ上げたから、バーンと外れちゃった。それでこれは犬死にかなと、このまま出たらね、動かないんですからね。それで「4号艇、冷走らし」つって言うたら、「何か」つって聞いてきたの。「何か」って聞いたから、「4号艇冷走」ってことではっきり言うたらね、向こうもわかったの。それで艦長に「4号艇冷走」つって、「機械とめ」いうことでね、まあ機械止めたんですけどね。

3号艇はどうしたかなと思って、3号艇斜め前、千葉(三郎さん)が乗ってますからね、見たら、千葉がまだおるんですよ。で、千葉が、僕は後から特眼鏡上げたんだけど、上げて見たら、千葉の特眼鏡も上がってるの。ほでレシーバーで聞くとね、3号艇と交信してるのがわかるの、聞こえるの。でね、特眼鏡がどうのこうのっていうようなことを言ってたからね、恐らく特眼鏡のちょっと調子が悪かったのかな。深さ18メートルで襲撃態勢に入ってますからね、18メートルったら、もう明るいんですよ。太平洋はね。もう朝の9時ですからね。水も透明だから。そしたらね、何か特眼鏡がどうのこうのってね、ちょっとチラッと聞こえた。「あら、それで特眼鏡上げてるんかな」思ってるうちに、「用意、撃てい」で、千葉のバンドがバーンと、後部バンドこっちから、僕から見えますからね、後部バンドがバンと外れて、スーッと出ていった。まあ千葉のね、最後の姿というか、まあ見たのは世界で僕しかおらんのやけどもね。遺族のかたにもそのお話をちょっとしといたんだけど。まあちょっとねえ、そのときの気持ちは言い表せんぐらいね、情けなかったね、自分がね。で、パッと横見たら5号艇もないんだよ。5号艇もおらんのね。「いやあー、これは、これはまあおれ一人で帰るのか」と思ってね。念のためにと思って180度回転して後ろ見たんですね。これはまあわれわれので、この前のちょうど艦橋とこちらに、間があるからね、あの2号艇が見えるんですよ。ハッと見たら、吉留の2号艇がまだ乗ってるんでね、「わあ、おれ一人じゃねえ」と、ほっとしたね。生きてほっとしたんじゃなくて、帰るのがおれだけじゃないというのにほっとした。ほいで40分ほど経ったら「ドーン」て。ドーンっていうのは、もうはるか遠いですよ。はるか遠いから、「バーン」て。訓練のときにわれわれがあの障害物が危なくなったときに、あの後ろで追従艇の魚雷艇がボンと小さい発音弾というの投げるけどね、そのぐらいの音、感じだったね、「バーン」て。で、5分経ったらまた「ボーン」。2発。2発ってことは千葉と小野(昌明さん)ですよ、これね。命中したか命中しなかったか、これ一切わからんですよ。だって発射、発射は二人とも出ちゃって、もうあと3体は故障ってわかってるから、すぐサーッと50メートルもぐっちゃって、上へ上がって潜望鏡で見ないんですからね。見て、見たためにやられたっていう潜水艦が今までにあるから、もう絶対にもう発射した以後はね、すぐ退避せいという命令が艦長に行ってるわけですね。だからもうすぐ加速10でダーッと。あとはもう聴音機で聞いてるだけですわね。だから当たったのか自爆なのか、これ一切わからない。だけど出てから40分ですからね、まあ難しいと思う。僕らが出るときに、受けた命令は、20ノットで20分間潜れというものでしょ。そのとおりだとしたら、浮き上がってから20分経ってるわけですよね、最初の爆発が。だから20分間、追っかけ回して、そして首尾よく当たったか、あるいは浮き上がってみたら敵艦がおらんで、20分間探し回ったあげくに自爆したか。これはもう神のみぞ知るだね。

もう2人、僕と吉留(文夫さん)ともう、まあ折りたたみの自分たちのベッドの所へもう座り込んじゃってね、ぐたーっとこうなってた記憶があるな。で、フジタ中尉も、おれたちのとこへ来たのかどうかもちょっと記憶ないけどね、艦長のとこへ行って報告した記憶もない。なんかもうぐたーっとして、こういう状態だったと思うよ。

帰ってみたらやっぱりほっとしたわね。みんな暖かく、暖かくって言ったら、まあ暖かくやな、気持ちの上では。おまえご苦労さんと、また次のチャンスがあるわなという気持ちで迎えてくれてたね。だからその点はね、ありがたかったですね。

だけどね、おれは幸いなるかな3人帰ったでしょ。だからその点が気が楽だった。その点が気が楽だったのと、さっき言ったように、基地の連中がね、何かしらこうふんわりと受けとめてくれた。しょうがないじゃないかと、次のまたチャンスがあるがな、という雰囲気にそのころなってましたからね。

あのときはね、もう千葉と小野はもう当たってくれたと信じていたからね。戦後になっていろんな本も読みね、また立場がもう今度は兵隊の立場じゃない、考えてみるとね、ちょっと難しかったかなあというのは思ったのは戦後だね。そのこの最中はもう、あいつらも当たってくれたとばかり思ってたしね。

広島に原爆が落ちたっていうのは、潜水艦で情報が入ったからね。それで、特殊爆弾って何だろうつって、航海長、クワバラさんって航海長が「これは原子爆弾と違うか」って言ったのが、僕覚えてる。当時あの仁科博士かな、なんかがもう原子爆弾、日本でもね、研究してるという情報が入ってたわね。マッチ箱一つぐらいのもんでね、戦艦が吹っ飛ぶというのを日本も開発中だと。だからひょっとしたら、その特殊な爆弾っていうのは原子、何だな、原子って言ってたと思うな、クワバラさん。と違うかなあって言ったの覚えてますよ。それは豊後水道へまだ入る前だったけどね。

したら翌日になったらあなた、終戦だっちゅうからね。そんときは終戦だって、誰もラジオも聞いてないからわからないわね。翌日になってさ、「おい、きのう何とか詔勅が下ったらしいぞ」っちゅう話で。ほしたら板倉指揮官が総員集合命じてね、「日本は降伏した」と。「が、当隊は降伏せず」つってね、まだ訓練やるって言ってたのね。それが20日ごろになったらすぐ、まあいろんな司令が飛んできたり、司令官飛んできたりして、もう矛収めってわけだ。25日に搭乗員復員して。搭乗員が。もうその前に補充兵はね、補充兵であの基地隊の補充兵たちは、年取った連中はもう復員させ始めてね、搭乗員も25日には帰れつって、25日に復員です。まあ何ていうかね、緊張の糸が切れたっていう感じだったね、あのときは。

まあ虚脱感というかねえ、まず半面、生き残ったかという感じだね。まあほっとしたっていうところだろうなあ、ほんとの気持ちはね。実際。自決しようなんて気はひとこと、一つもわたし自身は思ったことない。実際われわれの同期生でそんなの一人もおらんけどね。

この訓練そのものも楽しかったしね。危険と隣り合わせてはいるけどもさ、それをわが手でその克服して、うまいこと、あの訓練でもね、命中したなんて報告、研究会で報告出たときのその喜びとかね、そんなまあ子供じみてるったら子供じみてるけどさ、だからどうせ死ぬんなら、絶対に当ててやろうという気持ちでいましたからね。あとは、どうせ死ぬなら華々しく死のうというその心理は、それあなたがたには理解できないわ、時代が違うしね。そういう気持ちだったですよ、みんな。まあ、特攻を志願しなかった連中は知りませんよ。少なくとも、こう志願してきた連中はみんな同じ心境だと思う。

まあただ、親兄弟をね、変な環境には立たしたくないと。親兄弟のためだという気持ちは、これはみんな持ってた。まあそれは通じて国のためということになるんでしょうけどね。だから、親兄弟のためだという気持ちがいちばん本当じゃないかな、みんなの気持ちが。まあそれが日本という国のためということに通じていくと思うけどね。まあ天皇陛下のためになんて思ったことは、これっぽっちもないな。

出来事の背景出来事の背景

【人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、日本海軍は特攻兵器を開発。一人乗りの潜航艇「回天」である。1.5トンの爆薬を積んだ必死必殺の人間魚雷だった。

回天は、潜水艦に搭載されて海を行く。連合軍の艦隊や輸送船団に近づくと、潜水艦から搭乗員が乗り移って出撃、いったん浮上して目標を確認して、ふたたび潜航、時計とコンパスをたよりに接近、体当たりする。さらに、自爆装置も付いていて、いったん出撃すると二度と帰ることのできない兵器であった。全国から集まった400人の搭乗員の若者たちは、山口県の大津島の訓練基地で、厳しい訓練を積んだが、15人が、海底に突っ込んだり、沈没したりする事故で命を失った。

出撃が本格化したのは、昭和20年3月以降の沖縄戦だったが、米軍の警戒が厳しくなり、目標を、当初の停泊艦から航行する艦艇に変更、攻撃を成功させるのはさらに困難になって行った。回天に乗り組んだのは、乗るべき航空機が不足してきたため、飛行兵を目指していた予科練出身の若者たちだった。回天に乗り組むことになった若者たちは、さまざまな思いを胸に秘めたまま、生きては帰れぬ兵器に乗り込んで出撃していった。

作戦開始から終戦までの9か月間で、確認された撃沈戦果は3隻。回天作戦で命を落とした若者は104人に上る。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1924年
長野県上田市に生まれる。
1943年
三重海軍航空隊奈良分遺隊に入隊
1944年
第1特別基地隊に配属。回天搭乗員となる。
1945年
終戦。当時21歳、海軍上等飛行兵曹。終戦後、蝶理株式会社に勤める

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