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タイトルタイトル: 「回天特攻で死んだ兄」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~
名前名前: 塚本 悠策さん(回天特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(山口県大津島) ウルシー  収録年月日収録年月日: 2009年1月22日

チャプター

[1]1 チャプター1 学徒出陣で回天へ  03:43
[2]2 チャプター2 兄の手記  04:46
[3]3 チャプター3 兄の遺言  02:51
[4]4 チャプター4 頬を打った兄の手  04:02
[5]5 チャプター5 母の座布団とともに  02:20

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~
収録年月日収録年月日: 2009年1月22日

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Q:大学、入られてから、水球部で頑張っていたというんですけども姿っていうのはご存知なんですか?

部屋にね、アジア大会に出るときに、うちで、とにかく何か、大騒ぎしてたのは知ってます。覚えてます。何かね、タオルが、大きなタオル持ってきてね、名前が付いてるの。何か、晴れがましいっていう記憶がありましたね。だから、兄が、そういうところに選ばれて行くんだっていうようなことね。

いちばん強烈に残っているのは、例の10月の学徒動員の、学徒の壮行を神宮外苑でやって、帰ってきたときは鮮明に覚えてますね。もう、びっしょびしょで帰って来たですよ。玄関で濡れた靴を脱いでたのを脇で見てて。後になると、だから、あのシーンがよくニュースや何かで出てくるとそれが身近なものに感じますね。

Q:その壮行会って帰ってきたときには、幼な心に何だと思ってました?

玄関でゲートルを解いているのを見てたんで。そのゲートルというのは、僕の6歳の記憶では、とにかく珍しくてしょうがなかったですね。ああいう巻き方があるっていうのを見ててね、脇で。で、靴がびしょびしょに濡れてて、で、何か、銃剣も持ってたかなあ。だからそれを見てて、何かちょっと普段と違う雰囲気だったなというのは覚えてますけどね。

Q:戦争で学徒動員の前に塚本さんはもう志願されていたっていう話を聞くんですけど。海軍に志願されてたっていうのはご家族にご相談してたんですかね。

いや、それはね、なかったと思いますけどね。兄の基本、国を思うっていう気持ちもあったと思うんですけど、それともう一つは身近にね、従兄弟に兵学校に行った従兄弟がいるんですよ。母方のほうの従兄弟なんですけどね。その従兄弟がね、よく僕ら、僕も小さいときですけどね、兄も。これに、自宅へ帰ってくると、自宅へ帰ってくるというのは、田畑遊びに来るんですね。そうすると、うちはわりあい、従兄弟が全部集まるような雰囲気があったものですから、そのときにツネオさん、モトキのツネオさんって言うんですけど、集まると、もうかっこいいんですよ。その兵学校でね。で、またその人がですね、その短剣なんか・・女の従姉妹がね、みんな「ツネオさん、ツネオさん」って言って、それで「短剣見せて」とか言うと、「うん、こんなのはたいしたものじゃない」って言って、刀身むいて見せてくれたりね。非常に、その何か粋だったですね。かっこいいというかね。だからその影響があったんじゃないかと思うんですけどね。

だから海軍に行くというのは、そのツネオさんがいたから、そっちのほうと思ってたでしょうけど。だから何か積極的に行ったんで、海軍のほうに行ったという感じはしますね。いわゆる応召されて、どっかに配属されるという感じではないんですね。

気持ちの中の内面のね、拮抗というのはものすごくあったと思いますよ。で、僕はいつも偉いと思うのは、兄のすごいっていうのは死期がわかってることですよ。死に行く時間がわかっているわけですね。で、その間を過ごすっていうのは、これもう大変なことだろうと思うんですね。突発的に弾が飛んできて当たって死ぬんじゃなくて、それまで死ぬ訓練をしなきゃっていうのが、僕は並大抵の、その精神力ではできないと思うんですよね。手抜いて本当は・・だけど、それは、一人でもよけいに殺傷するって言うとおかしいですけどね。その目的を達するんだったら、兄の中にもありましたけど、自分の目的は恋人はエンタープライズだって書いてありまして。航空母艦の名前書いてありましたけどね。

これなんかそうですよね。「自ら強くならんとして寒風をつくにあらず、死を願う心をもって、白雲を歩むなり」って言葉だとかね。もう、これなんかよくわかりますよね、本当に。だから、もう死ぬと考えるんだったら、明るくっていうのは変ですけどね。その、寒風に行かないで、その白雲の中を行くような気持ちで行くんだってことを意味、言っているわけですよね。だから、こうなるとちょっと、何かお坊さんというかね。達観しすぎてるというか。だから、それをまた書いて残せるっていうのは、非常に・・だから、この中で僕はこれ読んでいつも思うんですけど、ここにも書いてある、何とかして愚人でいたいっていうのはあるんですね。利口になるなってことを、一生懸命。利口になったら死ねないわけですよ。だから、何とかしてバカになるために努力をするとか。

これは、もう明らかに潜水艦に乗ったら帰れないっていうことがあるわけですからね。特に回天の場合は外と閉ざされてますから、回天の中に乗ったら、もう、ハッチ閉められたら、これは、もう行くところまで行くしかないってことですよね。だから、それは、非常に僕は、戦後考えてたことで、母にそれを伝えるのが、わかっていただけにつらかったですよね。だから戦後に、回天の映画が何回かできて、1回試写会に呼ばれてったときに、その映画の中でですね、練習している回天が事故に遭って苦労して浮上するんですよ。で、それがハッチを開けたときに、子どもの歌声が聞こえるんですけどね。そのときには、母がそばにいて、もう、滂沱(ボウダ)の涙を流しましたよ。もう、あれを見て僕はね、死ぬっていうことについて子どもが考えていたら、こんな母親としてつらいことないと思うんですよ。

これは世間が悪かったとか、時代が悪かったとかってこと一言もないんですよ、この中に。全部、自分に帰結してるんですよね。これ、今の人だったら全部、他人のせいにしますよね。こんな時代に生まれたのは恨めしいとか。こんな両親のところに生まれたのは嫌だったとか。世間、学校はいいとこ行けなかったからどうだとかって。そういう、一言もないです。

だから、弟だから、そういうふうに見えちゃうんだとしたら身びいきになるかもしれませんけどね。よその方が見てどうなのかなという感じはしますけどね。だから、これは身内から見てて、おそらく、母はもう見るに耐えないんだと思いますよ。だからこれ、亡くなってからずっとしまい込んでて、1回は読んだんでしょうね。だけど、それ以降読むのにとっても・・兄がそういうつらい思いしながらやってたってことがもう1回自分に帰結するのが、返ってくるのがつらくてしょうがなかったから、思い出したくなかったです。それからもう一つ言っていたのが、その、兄と同い年ぐらいの人を見ると辛かったと言ってましたよ。その、今だったら30になってるとか。そういうの見てると、子どもがいるんじゃないかって見るのがね。

Q:これ、発見されたのっていつだったんですか?

50。母が亡くなって、その後遺品の整理してるときですよ。だから、両親は知ってましたよ、あるのは。両親は知ってます。当然。ただ、わたし自身はあんまり、そういうこと関して母に触れさせたくないっていう思いがあったから取り立てて、それを出してくるようなことしなかったし。だから、自分でゆっくり落ち着いて聞いたっていうのはかなり後です。両親、亡くなってからですからね。

(塚本太郎さんの録音テープ)
「本当にありがとう。僕はもっともっといつまでもみんなと楽しく暮らしたいんだ」

Q:聞かれたときには、どういうふうに思われましたか?

普段の兄の、ちょっと文章考えて言ったんじゃないかなと思いましたね。要するにマイクの前でやったわけですから、自分でも意識して、作ったんじゃないかなと思いますね。だから、むしろ書いてあるもののほうが、わたしは本音が出ている部分がかなりあると思いますね。これは銀座行って、父のとこのスタジオで、おそらく録ったんですからね。おそらくと言うか、録ったわけですけど。用意してってやったんだろうと思うんですね。だから、当時いた社員か何かあれば、どういう状況だったのかなんて聞けるわけですけど、それもちょっとね。戦争前のことで、わたしもわかりませんよね。だけど、気持ちが出てるのは前段の部分ですよね。最後はやっぱり、祖先の血があってということで、自分を鼓舞している部分がありますけどね。

だから、これ考えると、11月に最後のお別れに来たときの。胸打ちますね。やっぱり帰ってきて、誰もうちにいなくて。ちょっと時間、よそのうちに行って時間を潰していたようなんですけどね。それから僕が呼ばれて、疎開先から急いで帰ってきて、会ってということで、その前にも話したかな。別れ際に殴られたときにですね。あれは兄の本音だったと思いますね。

これですね。11月9日。これ、母の字なんですよ。だから、これがね、帰省の日って書いてあって。このときに上の姉と従兄弟の家族ですよね。それから、おじとかおば。本当、普段集まる親せきの中の帰って来られた人だけですけど。よく来られた人たちだけですけど。わたしが疎開先から帰ってきて、兄に会ったんで、写真撮っているところ見ていると、うれしくてしょうがなかったんでしょうね。久々に会えたから。で、変な話ですけど、最後だったんで、あるものを一生懸命うちで出した。持ち寄ってくれたりしてね。で、兄も何かね、たしか持ってきてくれたような。甘いものがなかったのを、そのとき何か持ってきてくれた記憶がありますね。それで、帰る間際だったと思いますね。本当に、これから出かけるっていうときに、「悠策」って言われて、(兄に)殴られたとき、意味が全然わかんなかったんですよ。なんで? 何もいたずらも何もしてないし、そのときにね。で、何か急に。兄が殴ったこと、今までなんか全然なかったですからね。だから見てみると、こうやって見てると、僕以外、殴る人いないですよね。両親は上だし、理由もできないし。おそらく後で読んで、いろいろわかったことですけど、うちの兄って、大津島行っても聞いたんですけど、非常に、いわゆる士官以外の人に非常に優しかったっていうんですよ。

上下関係無視して、人として付き合うっていう人がよっぽど。で、殴ったりなんか、下士官の人が殴ったりなんかしたことがないっていうぐらいに。僕のは殴ったっていうのは、よっぽど何かたまってたものが。いちばんやりやすかったんでしょうね。それと同時に、「覚えておけよ」っていうのがあったんじゃないですか。だからこうやって60年も経って覚えてるっていうのは、そのいちばんいい例ですね。体感してるってことはね。だからこのときも、みんなに会いたいっていうの言ってたんですから、よっぽど、別れだと思ったんでしょうね。

いや、平手だったです。だから手をつないだってことよりか、いい実感ですよね。だから体に表現すると、気持ちに伝えるっていう方法だよね。優しい方法もあるけど、厳しい方法もあるんだっていうことですよね。それが後でわかるってことのほうが、よほど実感的には思いが深いですね。で、それが、かつまた普段から、その軍隊の中にいて、そういうことをやらない人だったっていうことはね。僕は、その人は自分の弟にそれだけやってくれたっていうのはね、いちばん大事なものくれたんじゃないかと思いますね。

後で聞いた話では母親が着てたその着物、銘仙と言うのかな、袷(あわせ)って言うんですか、それの袖を座布団にしてくれと。それで、その後僕は、それを家内からずいぶん聞かされたんですよ。で、おばあちゃんに頼まれたと。自分が死んだら、この着てた、そのときに着てた着物を必ずお棺に入れてくれと。太郎と一緒に死にたいと。で、それを送った座布団で回天に乗せて出撃してったわけですけど。

(最後の帰省の後兄は)東京駅から乗って、徳山(山口県)まで在来線ですから長い時間、十何時間かかる。ずっと一人行ったわけですから。その、考える時間があったとは、僕は非常に切ないと思うんですね。今、考えると。だから、その間ずっと、光景を見ていくわけですから、その光景っていうのは、単なる景色じゃないですよね。自分が今生の別れになるものを、十何時間見てなきゃならないんですから。もう、それ考えると、僕きつい。

だから、本当、わたしは、兄のお陰でいろんな面で人から、太郎ちゃんの話とかって言われますんでね。ある意味じゃ、偉い兄貴をもったんで、重い点もありますけどね。ただ、兄貴を通じて母親を思えるし、父親を思える。家族を思えるってとこでは、非常にいいことだったですね。

で、なかんずく、この兄が自分で作った、このアルバムなんていうのは、あきらかに自分が将来生きてないことを考えて、これ作ったんじゃないかと思いますからね。で、これ太郎の思い出、太郎の思い出と書いてたの、これ、母だと思いますけどね。みんな精神力が、昔の人は強かったっていうかね。

出来事の背景出来事の背景

【人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、日本海軍は特攻兵器を開発。一人乗りの潜航艇「回天」である。1.5トンの爆薬を積んだ必死必殺の人間魚雷だった。

回天は、潜水艦に搭載されて海を行く。連合軍の艦隊や輸送船団に近づくと、潜水艦から搭乗員が乗り移って出撃、いったん浮上して目標を確認して、ふたたび潜航、時計とコンパスをたよりに接近、体当たりする。さらに、自爆装置も付いていて、いったん出撃すると二度と帰ることのできない兵器であった。
全国から集まった400人の搭乗員の若者たちは、山口県の大津島の訓練基地で、厳しい訓練を積んだが、15人が、海底に突っ込んだり、沈没したりする事故で命を失った。

出撃が本格化したのは、昭和20年3月以降の沖縄戦だったが、米軍の警戒が厳しくなり、目標を、当初の停泊艦から航行する艦艇に変更、攻撃を成功させるのはさらに困難になって行った。回天に乗り組んだのは、乗るべき航空機が不足してきたため、飛行兵を目指していた予科練出身の若者たちだった。回天に乗り組むことになった若者たちは、さまざまな思いを胸に秘めたまま、生きては帰れぬ兵器に乗り込んで出撃していった。

作戦開始から終戦までの9か月間で、確認された撃沈戦果は3隻。回天作戦で命を落とした若者は104人に上る。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1933年
生まれる。
1943年
兄の太郎さんは学徒出陣で海軍へ入隊。
1944年
帰省した太郎さんと会うが最後の別れになる。
1945年
ウルシー海域で、太郎さん戦死する。

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日本(山口県大津島)

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