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タイトルタイトル: 「死屍累々の逃避行」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
名前名前: 比嘉 森正さん(沖縄県・鉄血勤皇隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年5月16日

チャプター

[1]1 チャプター1 希望は陸軍士官学校だった  02:44
[2]2 チャプター2 鉄血勤皇隊へ  10:38
[3]3 チャプター3 島尻(南部)への移動  14:19
[4]4 チャプター4 米軍との遭遇  09:19
[5]5 チャプター5 捕虜  12:11

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
収録年月日収録年月日: 2009年5月16日

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中学校、やっぱり軍人になりたかったね。士官学校に行きたかった。というのは、兄が士官学校にいっていたもんですから、「是非とも兄のお供をしたいな」という感じだったですよ。そうだったんじゃないかな。あの頃はみんな。例えば一高(旧制)に行くとか、三高に行くとか言っているのを聞くと「えーっ、この連中、何、考えているのかな」と思うぐらい軍国主義だったんですよ、わたし。

Q 学校は「軍事色が強まってくる」のはいつぐらいでした?

あれはですね、ちょうど、ぼくらが入学して2学期の学期試験があるんですけどね、そのころだから9月、10月ぐらい、あれ何月ですか?戦争が始まったのは、8月15日(昭和16年12月8日)ね、あの頃だったんですよ。ちょうど、学校に行く途中で号外みたいにして、やってるもんで、何ごとかと思ったら、「戦争が始まったよ」といってやるもんですからね、びっくりしましてね。そのときからですよ、戦争、ただ2年、3年までは普通の勉強できたですよ。もちろん、作業に出されたですけどね、ところが、4年になると、ほとんど授業も出来ないくらいになってましたね。

Q 学校では、授業の代わりにどんなことをやってたんですか?
 
学校では壕(ごう)掘りとかね、授業の代わりだったら、壕掘りだとか弾薬の運搬だとかね、ああいうのをさせられましたよ。喜んでやりましたけどね。あの頃は。

学校にいるときに、やはり、もう戦争だといって、当時、沖縄にも司令部というのがあったんですよね。そこから「召集令状」みたいなのを渡されたんですよ。先生から。これは、あの当時は軽便鉄道というのがあって、僕らはそれで通ってましたけど、わたしは宜野湾の真志喜だったんですけど、宜野湾村の出身のが5名ぐらいいましたね。これも一緒に持っていきなさいと渡されたんですが、そのときに見たら、うちのおいっ子なんかがいて当時、中学2年だったんですよね。見たら、まだ子どもなんですよ。僕らから見ると、僕はあのとき17歳だったですからね。そしたら「あーこれなんか戦争行ったらもうだめだな」と「もう君は国頭に行きなさい」と言って、親父たちと一緒に避難させたんですよね。それからあと4名ぐらい大山に3名、宜野湾に1人だったですかね。4名ぐらいの(召集令状)を持ってましたが、「これらが戦争行っても何もできんはずだから」と言って、学校に帰って篠原先生に「もう探せません。避難してどこ行ったか探せませんでした」と帰したんですよ、だからそういう点で僕は良かったなと思うんですがね。1人だけ同期生に、同期生がいたんで、イサシュウフク、あれの家まで行って、そしたら今度は「いまから国頭に避難するんだ」と言って用意していたんですよ。それで、僕が行ったもんだから、「いや、僕はもう国頭には行かない」と言って「わたしと行く」と言って、学校に一緒に来たんですよ。ところが彼はもう戦死してしまってね。そしたら戦後、「(比嘉)森正が来なければ生きていたのに」と言われてね、親達から、だから「そういう噂してるよ」と言って、わたしの身内から話が来たんですよ。しかし、「これはどうしようもないし、向こう行って弁解も出来んし、どうも出来んよ」と思ったんですが。一番最後にね、これがイサシュウフク、イサエイイチいうのが、この我如古の出身がいたんです。この二人で、爆雷担いだ兵隊と一緒に、電車に行く時に偶然あったんですよ。わたし。だから不思議だなと思っているんですが、あれがもう見納めだったんですね。だからその後もあれからどうなったか分からないんですけども、「ああ、戦争ってむごかったな」と思うんですよね。

Q やはり、それを渡してしまったことはしょうがないですよね。

だから、いやどうしようもないんですよ。渡さないわけにいかんし、いたからですね。いや、わたしと同期生だったからかな彼は、シュウフクさんは、渡さんわけにいかなかったですよ。ところが、下級生は弁解が聞くんですよ。「いいえ、探してもいませんでした」本当に、あのシュウフクでもちょっと先に国頭に行っておれば、どうもなかったはずだけどな。と、今でも思うんですが、しかし、人間の運命はそういうもんじゃないですからね、偶然、僕が行ってしまって、そしたら、彼は俺の顔を見て一緒に行こうと言って同じ民国主義ですからね、あのころは行くと言って、行ったんですけどね。一緒に連れて来たんですけど、あれはもう忘れられないですよ。

Q 卒業式はどんな様子だと思いました?

なんか、上から大砲が飛んでいたような気がするんですけど。南部に島があるでしょ。あそこから、向こうも占領されていたんですよ。あそこから、首里に撃ったんかね、頭の上をヒュルヒュルと音しながら飛んでいくのが分かるぐらいだったですよ。落ちては来ないですけどね、周囲には、そこでやったんですがね。

Q 「どんな感じがあった」とかは?

ちょっと覚えてないですね。「真摯敢闘」「時々刻々」だとか、ああいうような言葉を校長先生、使いよったんですよ。だからみんな「時々刻々」が来たよとかね、校長が来たら、「真摯敢闘」が来たよとか冷やかしていましたね。ようああいう難しい言葉を使って訓示なんかをしよったですね。それはよく覚えてるんですよ。本当に、あの校長先生は、軍国主義の先生だったですよ。本当に。自分も自転車に乗って通ってましたしね。あのころ、いい先生ではありましたよ。

Q あの頃は「日本は負けるなんて夢にも思ってなかった」ですか?

思わないですよ。全然思わない。だからうちの兄が「戦争はもうだめだよ」と一言いいよったのを聞いて、「このやろう国賊だな」と兄に「何を言うか」というた覚えがあるんです。兄は知ってましたね。いまから考えるとよくもああいう状態を知っていたなと、というのはアメリカに何回も航路で行っていますからね。世界をよく知ってるんですよ。今の我々ぐらい知ってるもんですから、「戦争もアメリカの国には絶対に勝てないよ」と言っていました。

さあね、戦争って勝つもんだとしか思ってないですよ。だからそういうイメージとかそういうのは全然なかったんじゃないですか。「勝つ。天皇陛下万歳で、南京に入国したとかそういうのしか頭にないですから」ね。だから、「戦争があんなにひどいもんだ」とはだれもわからなかったんじゃないですか。わかっていたら逃げますよ。

Q やっぱりね、米兵を格好よく倒して進むような姿とか、そういうのを。

ああ、それはみんなそれは思ってましたよ。「一人十殺」だとかね。10名やっつけるんですよ。こう思っていたけども、反対に1人に10名殺されるような戦場になっていしもうてね、沖縄の戦場は、ひどかったですからね。

Q そうすると、入隊しますよね。最初はどんな仕事してましたか?

仕事って、僕の場合は本部にいましたからね。それで、本部の壕にいて、連絡係りとか誰かが負傷したり、何かがあった場合にはそれの面倒をみたりですね、そんなことです。

いや、壕掘りは言われたらやりに行きよったですよ。炊事場を作ったりですね。露天炊事場ですけど、そこが一番最初に直撃受けたんですよ。4、5名死にましたけどね、そこを作るのに、何回も行ったんですけどね、その跡、壕掘りだとか県のグランドがあるんですけど、そこの下の壕を掘りに行ったりですね。そういったことがありましたね。

どのようにって、「配置換えだからちゅうて」みんなそれぞれ、どこから、たまたま先生から言われたんかな。「ああそうですか」ちゅうて、本部に行った覚えはあるんですよね。本部の壕にですね。それからは、本部のほうが一番楽だったんじゃないですかね。隠れてばっかりだから、他の連中は5兵隊だとか、10何連隊、そういうところにみんな配属されて、ひどい目にあった連中もいますけどね、わたしなんかは、どっちかというと、最後は敵中突破やったときだけはひどい目にあったんですけど、それまでは、そんなにまでは悪くなかったですね。

あれからはもう恐かったですよ。道歩くのも、保栄茂から島尻にいく途中で特にね、あれが思い出されるんです、糸満から照屋というところを通ったら、そこに十字路があるんですがね。そこはもう目掛けられていたんでしょうね。上から、哨戒機は通っているし、それで、人はそこに集まって行くもんだから、そこ目掛けて撃たれてたんでしょうね。もうたくさんの人が死んでいてね、特に、雨の降ったあとに泥まみれだったんですよ。死んでいるやつはのたうちまわるから泥をいっぱいかぶってね、女の人もですよ。あれをみたらかわいそうでね、助けようにも助けられんし、こっちがやられますからね、助けようとしたら、あれがいつでも頭の中に残っていますよ。おばさんが着物着て、泥まみれになって死んでいるのがですね、頭の中に残ってなかなか忘れられんですね。あそこはひどかったです。あのころからひどかったです。

Q 南へ向かう人も相当いたんですか?

いや、あのころからたくさんいましたよ。みんな、糸満の辺からこう来てね、それで行くところないから、みんな、真壁に、南の方へとみんな追い詰められていってるんですよね。だから、それが玉城辺に行った連中、知念、玉城辺に行った連中はほとんど助かってるんです。ところがこっち側に行った、いわゆる真壁辺に行った連中はもうひどい目にあってるんですよね。僕なんかは真壁に向かって行って、一時は良かったんですよ。芋ほりに行ったり、さとうきびを取って来て食べたりね、それで、壕も作って待っていたら、もう、かえって、敵が近づくのが早くなって、合流できなくなってました。後続の本体と僕らは先遣隊で行かされていましたからね。壕を作りに、10名ぐらいだったかね。石原先生というのが引率者で、ところがもう、壕を作って待っていて、いい塩梅していたら、敵の方が来だしてですね、もう目の前まで来るよといって、そうしたら、本隊は、もう届ききれないわけさ。だから僕らとは合流が出来なくて、そのままだから、校長先生や篠原先生は僕らのところに来ようとしている途中で、結局、壕にも入らずにやられてるんですよ。聞いたらですね。僕は見てはいないから分からんけども、あれ多分、隠れてないときにやられてますね。
 
Q 森正さんたちは待ってたんですか?壕を作って。

そうですよ。待ってたわけですよ。

Q 真壁で。

10名、伊敷いうところ、ちょうど「ひめゆりの塔」あるでしょ。あのときは分からなかったですけど、あのすぐ下あたりになってますよ。あの真壁側になって、僕らは真壁から摩文仁の海岸に移動するときは「ひめゆりの塔」の横を通っているんですよ。戦後分かった。「僕らが通ったのはこっちじゃなかったか」っていって、あっていましたよ。だから、そのときにはしかし、女学校生なんかには会ってないから分からなかったですけど、あのときにはもう壕の中にはいたんでしょうね。ところが真壁ではもう、目の前に戦車来てましたからね。あれからしばらくして18日の日だったと思うけどね、あのときに「ひめゆりの塔」もやられているはずですから、その日、僕らはすぐ目の前に来たときに逃げていますからね。

Q 篠原さんや校長が戦死したというのはどういうふうに知ったんですか?

その伊原の壕から逃げる1日か2日前だったですかね。そうだったというのを聞いて校長はそこの病院にいるらしいよと、見舞いにいった連中がいるんですよ。それの2日前だったんじゃないですかね。僕らがあそこから摩文仁の海岸に移る、1日か2日ぐらいでしょうね。ほとんど日にちなかったですよ。だから目の前まで来ていたのに、届くことが出来なかったんでしょうね。だから戦争というのは間一髪でどうなるか分からんですよ。

Q じゃあ、とりあえず、壕を確保して、待っていたら、先生たちが校長先生たちが死んだという情報が来たんですよね。それを聞いたときどう思いました。

だから、どうというか、あのころはもう、そうだったかとしか思わないですよね。あまり感情もなかったですよ。戦争もいつ自分が死ぬか分からんですからね。そうしか思わなかったですね。そんなにまで「はーっ」というのは、もう「はーっ」というぐらいでしょうね。そんなに大変なことになったなというのはそんな感情はあんまりなかったような気がしますね。他人事みたいな感じしたですよ。どっちかというと、「自分もああなるんだ」というような感じですね。そんなにまで感情、もうなくなってきていたんですよ。あのころから。

Q やはり、そうなってもおかしくないぐらいの砲弾がすごかったってことですか?

そうだったんですよ。一番恐かったのは榴散弾いうの、聞いたことあるでしょ?頭の上で破裂するのよ。弾が、そして、前の方にばら撒いてくるわけさ。破片が、そうしたら、もうその上にいたら、全部死によったよ。いつ来るか分からんのよ。これが、それでもう2、3度恐い目にあってね、周囲に破片が落ちてくるのをみて、「恐いな、いつ自分が死ぬか分からん」のよ。そうしか思わなかったですね。

Q やられている人は、いっぱい、いました?

いっぱいいましたよ。もう誰も助けることも出来ないし。ほっぱらかしですよ。あの真壁からはですね。一番驚いたのは、摩文仁の海岸、それこそ死屍累々いうのはこんなことかなというような、もうすごい人が波打ち際に押し寄せられてきてるんですよ。海の上を逃げようとして海でやられた連中、流されてきてるんですよ。こっちに、中にはまだ生きていて、うめいているやつもいるしね。それでも助けることは出来なかったですよ。今から考えるともう残酷な話で、人間が人間でなくなるんですよ。もうひどかったですあれは

Q 生きたまま海に浮かんでいる人もいるんですか?

いたんですよ、はい。半分、死してうめいて、大声出すやつもいるしね、それでも誰も助けようとしないですよ。人間はもう、ああいうふうになると動物と変わりませんよ。
 
Q そのころはまだ信じてました?日本軍が勝つって。

いや、そうしか考えてなかったですね。負けるというのは全然考えようともしなかったですよ。自分がやられて、捕まって初めて、これはもうだめだと思ったですけどね。

Q 戦車が近づいてくるのってどんな感じなんですか?

そうですね。どうしようか。やっつけるか、それとも逃げようかといって、もう一人ね、先生がいたんですよ。下級の担当の先生で、僕らはあんまり、名前まで忘れてしまったんですけど、この先生は、中国で戦った、いわゆる、伍長だったですかね、いわゆる「激戦の勇士」の方だったですけど、この方は、親がね、年寄りで、八重山の、たしか石垣の方だったと思うんですが、その先生を頼ってきて、いたもんだから、ところがその親が母親だったですけどね、病気してしもうて、そしたら、自分で親を殺して、注射で、それから、自分は敵に突入していくというて、準備している時に、今度、一期後輩のあれも名前覚えておけばよかったのに、名前忘れてしまったんですよね。これが「わたしもついていきます」っていって、2人で前戦に突入していくのを僕は目の前で見たんですよ。だからああ、大変な人たちもいたなといって、ところが、僕らは逃げるのが一番いいいうて、あの「ひめゆりの塔」の側を駆け抜けていったんですけどね、あれが今でも頭の中に残ってますよ。後輩のやつとそれから担当していた先生とが敵に突入していくのを、着替えてましたよ、先生、普段着だったんですけど、最初は戦闘服を出してですね、着替えてそれから突入するんだといって、すごい顔していったのを覚えてますよ。
 
Q その先生がお母さんを注射しているのも見たんですか?

聞いたんですよ。お母さんを殺してしもうたよというて、一緒だった同期生だったかな、誰だったかな、それいうたのは。「えーっ」ちゅうてびっくりしたですけども、それからですよ、もう敵が目の前に来てるもんだから、もう突入していくんだというのを聞いた、大変だないうて、思ったんですけどね。あれがもう悲劇だったですよ。親を殺して、自分は突入してそれで戦死するというのは、本当に戦争にいく手前まで見てますからね。それから、親を看護していたのも見てるんですよ。ところが殺した、その立ち会ったわけじゃないですけど、これはあの側にいた友人から、戦友から聞いたんですよね。

まあ、あのころはね、いわゆる、軍国主義の教育を徹底してやられていたもんですから、もう、これが本当なのかなちゅうて疑問に思いながらも、信じざるを得なかったですね。今から考えると、大変なことをしてるんだなと思うけど、あの当時は、そんなにまではあれじゃなかったですよ。

見えた見えた、すぐ目の前。そこに向かって鉄砲撃っているやつもいるしね。側でよ。側から友軍のパチパチと僕らが上っていく道の側の石にも機銃弾があたりよったですよ。それでその中を腹ばいになって坂だったですけどね、こっちは、そこを上っていって、行ったら、「ひめゆりの塔」だったわけですよ。まあ今の「ひめゆりの塔」ですね。そのときは分からなかったですけど。

Q 戦車が近づいてくるっていうのは音で?

音で分かる。ギーギーギーして、その音はしよったですけど、すぐ目の前ですよ。100メーター、200メーターぐらいのところじゃなかったかな。はっきりしないけど、とにかく目の前に見えよったですね。あまり大きく見えなかったな。あの戦車は、今から考えると、小さい戦車が来ていたんですかね。どんなか分からないけど。

Q それでも逃げなきゃってことになったんですか。

そうそう、やっぱりまだ、命は惜しかったんでしょうね。

Q ええ、じゃあ、一気に摩文仁の海岸までそこからは。

はい、そうです。そこからはですね。大きな砲弾の穴にもぐったりなんかして、あのときは走って逃げたですけどね。そうしたら、摩文仁の海岸に行ったら、もういっぱい死体があるもんだから、「ああ、もうこれはどうしようもならんな」と思ったですよ。羽があればいいのになと思いよったね、本当にあのとき。

Q「羽」ですか?

飛ぶ羽ですよ。海からも逃げられない、陸からも逃げられない、後ろからも敵が来てるし、どうしようもならんですよ。手は上げたくない。手は上げたくなかったですね。そして、羽があれば、あそこまで、飛んで行くのにな、島までちゅうて、思いよったですよ。あのころまで「手を挙げよう」と全然思わなかったですよ。だから、あとで聞いたら、手を挙げて、いた連中がみんな無事でいるもんだから、「良かったね君たちは」いうて、いつも話するんですけどね。手を挙げなかった連中がほとんど死んでいるんですよ。

そこからは、アダン葉あるでしょ?あそこの中に隠れていて、一晩ぐらいそこにいたのかな?そしたら石原先生が、「一緒に敵中突破しよう」って言っていったもんだから、一緒についていったんですがね、そしたら、ついてくるのは3名と、石原先生、4名ですね。あれからが大変でしたよ。わたしたちは、ひどい目にあいましたよ。それまでは、ただ、大砲が頭の上で頬をかすめたり、破片がかすめたりだけだったですけども、あの敵中突破というのは目の前に米軍がいるんですからね。だからもう、夜しか行動出来ないし、「これは戦争はただごとじゃない」って17歳でそう思った。あのころから石原先生も、もう普通の先生じゃなくなってましたね。恐かったんでしょうね。やっぱり。死ぬのは誰だって恐いと思うんですよ。だから、大変だったなと思っているんですがね。

Q アダン葉で一晩過ごして、1日間できっと夜からですよね、行動するのは。

そうですよ。

Q まず、どうされたんですか?

崖(がけ)下だったですからね。摩文仁の、あそこの崖をよじ登って、銃座があるんですよね。ところが人がいなかったですね、あのとき、そこをうまい具合に抜け出して、具志頭の海岸にたどり着いたんです。それまでは順調だったんですけどね。そこからが、大変、そこから、東風平に向けて、白水川っていう、川があるんですが、その川伝いに、東風平に向けて、上っていったんですよ。そしたらもう、道なき道を行くんですから、崖から落ちそうになるしね、ようやく着いて、やったら、今度はまた、目の前に敵の陣地もあるし、もうどうしていいか分からないから、穴の中に潜り込んでで、一晩過ごしたんですよ。そして、一晩じゃなくて、昼はそこにずっと寝ていて、夜から抜け出して、歩いて行ったら、今度は真っ暗闇だったですけどね。そこは、そしたら、目の前に10メーター、20メーター離れてないところに、戦車があるんですよ。大きな戦車が止まって、それで、僕らに気付いたんでしょうね、歩哨が2人いたんですけどね、「ホールド」とかなんとか大きい声でいうたんですよ。「あいつは何と言っているんだ?」逃げながらですよ。バッと伏せたら、頭の上から銃弾が飛び交ってからに、それで僕は石があったから、石を盾にして、隠れていたら、向こうから、石の上に弾が当たるしですね、そしたら側にいたモリエトクセイ君が手りゅう弾破裂させて、投げようとしたわけですよ。投げるのに寝たまま投げればよかったのに、立って投げようとしたもんだから、見えるでしょ?立ったらね、真っ暗闇でも見えたんでしょうね。そこを直撃されて自動小銃で、目の前で、また、破裂させようとした手りゅう弾が爆発して、そのままですよ、彼は、モリエトクセイ君は。側にもう1人いたんですけど、タケモリススム、彼が僕の側に来てからに、モリエセンシンって言ったんですよ。後ろに抜いていこうっていって2人で匍匐前進して、ずっといって見たら、もう石原先生はいない、もう行方不明ですよ。2人になってしまって、二人でそれからは行動するようになったんですよ。2人で行動したのは3日、4日ぐらいじゃないかな。

最後はだから、頭が、もう何が何やらわからなくなって。はい出していったんですよ。だから、半分は全く気を失ったんじゃなくて、半分は生きていたんでしょうね。わかりよったんでしょうね。半分はもう何がなにやらわからない状態。そのかわり捕まえられて、引き上げられて、担がれたんですよ。腕をね。それで連れていかれたですけどね。担架じゃなかったです。歩いてはいけよったですけどね。腹もやられて。腹がね、面白いことに、もう少しこっちだったら、おそらくダメだったろうと。ヨコなんですよ。それが貫通しているもんだから。

Q それは銃で撃たれたんですか?

いや銃じゃない。破片。小さい破片ですよ。だから、それだったからいいけども、弾がまともだったらだめですよね。だからいろんなこっちでも、ちょっとこっちだったらもうだめですからねえ。こっちが一番ひどかったですよこれ。もうわからなくなっているはずだけど。骨が取れたです。こっちは。

Q 手りゅう弾、いや自動小銃で前の5名がやられたとき、死んだふりしていたって、それはそのとき「生きたい」っていう気持ちがすごくあったんですか?

そうですよ。結局、「死ぬのはいやだ」という気持ちがありますよね。だから、相手に「手りゅう弾を投げてやろう」というよりか、むしろ、「やられないようにしよう」というような気持ちですねえ。だからあれができたんだろうなと思う。普通の人だったらできないだろうなと思う。死んだふりよ。上から見られているんですよ。だから相手はもうこっちが死んだとしか思っていないから。ちょっとしか離れていない。こう見上げたら、もう立っているのがわかるんですよ。夜だったけども。空に人間立ったら見えるでしょう。だからあんな状態だったんですけど、よくも我慢して死んだふりできたなあと思うんですよね。隠れていたらなんで、あの防衛隊は岩陰に隠れていたもんだから。あれよかったわけですよ。僕はすぐ伏せたもんだから。

Q 死体の中で何時間か。じっとして

うん、まあ死体は前だったですからね。横にあるわけじゃなかったですけども。ただ、周囲はもう、肉が散らばっているような状態のところでしたね。もう思い出したくないです。ああいうの。

あ、それはもう。本当の戦争いうのは、これは言葉では言い切れないですよね。本当の地獄ですよ。しかも負け戦でしょう。勝ち戦は面白いと思うんですよ。僕はそう思った。勝ち戦は相手をやっつけるだけですからね。ところが負け戦いうのはもう、惨めなもんですよ。逃げなくちゃいかんし、やられるし。こんな戦はもう絶対にやらないと。やっちゃいけないと思いました。もしやるんだったら、勝ち戦やるべきだと思った。

Q 森正さんが、その「日本はもうだめなんだな、負けるんだ」という風なのを気づいたのは、いつですか?

ああ、やはりねえ捕虜なったときじゃないかな。それまでは勝つとしか思ってないんじゃないかな。もうハッキリそういうことを明言できるわけじゃないけれども。いつだったかちゅうて問われても、ハッキリは答えられないですね。いつだったかは。ただしかし、うちの兄が、船乗りしていた兄が、日本のはアメリカに絶対勝てないよちゅうて言われたときからは少しは疑問に思ってましたね。へえ、そんなこと言えるんかなと思って。そのときから少しは確かに疑問には思っていたけど。まさか負けるとは思ってないですよ。あんまりにも物量の差がね。ひどかったですよ。

Q 森正さん、破傷風に罹っても「捕虜になったこと隠してっ」て言ってたらしいですからね。

もう死のうとしている。もうこれは死ぬとしか思ってないですよ、あのころは。破傷風になってですよ。そしたらやっぱ、あのころ「捕虜になるっていうのは恥ずかしいことだ」としか思ってないですから。タマエテイシンいう、あの彼は、ブラジル、アルゼンチンかね、向こうに行って、もう亡くなってしもうたですけど、彼が、先に入院して野戦病院に。僕の目の前に来たときに僕はびっくりして、「テイシンよもう、俺が捕虜になっていたことは誰にも言うなよね」ちゅうて。今から考える、おかしいですよね。それをまじめに言ってるんだから。死ぬ前に。

Q 遺言として。

そうなんですよ。遺言みたいなもんですよ、もう。死ぬ。ほとんど死ぬとしか思ってないですよ、あのころ。入った夜。病棟自体、死に病棟言いよったですからね。ほとんどの人が破傷風かかると死によったです、あのころは。ちゃんとした血清薬は少なかったんでしょうね。生きていたからもう、珍しかった。僕は屋嘉に、もう骨と皮なって生きて帰ったら、同級生が4、5名いたんですよ屋嘉の捕虜収容所に。みんな来るけれども、前に来てからまた帰りよるんですよ。それから4、5名一緒になって来て、何か、ぐじゅぐじゅ言い合っているから、僕も知らん顔していた。一人が「森正か」ちゅうて言うから、「そうだよ」言うたら、「はあぁ」言うてみんなで来て、それぐらい変わってましたよ、わたし。骨と皮なって。だから、今でもたまに会うと、戦後会ったら「はあ、ひどかったねえあのころは」ちゅうて、お互いに話してますけどね。

人間てそれぐらい変わるもんですよ。ホントに骨と皮なってた。足の、まあ年とるとこんなるけれども、引っ張ったら、この皮がね、ふくろはぎいうか、引っ張ったらあんた、幾らでもこんなして引っ張れるくらいになってましたからね。ホントに骨と皮。あのころ、体重計れたら良かったのになあ。何Kmぐらいあったかなと思うんですけどね。おそらく今の半分くらいですよ。それでも生きながらえたから。あの破傷風が面白いっすよ。よくも生きたねちゅうて。みんなから言われましたよ。

Q 戦争、当時のことを振り返ってですけれども、自分は16歳17歳の少年として、どれくらい戦争っていうのをちゃんと理解できてたと思いますか。

どれくらい言うても、だからあのころ軍国主義の少年だから、戦争絶対に勝つとしか思ってないし。今から考えると、全然理解してなかったわけですよ。今から考えると。あのころはしかし、勝つのが当たり前だとしか思ってないですからね。まあそういうことですよ。あのころ、みんなそう思ってたんじゃないですかねえ。僕はわからんけど。特に僕なんかはもう、軍国主義の少年のもう、一番前にいたような状態だったからもう。全然負けるとは思ってなかったですよ。

Q 沖縄戦は、米兵はそうでしたけど。住民がものすごい大変な目にあってるじゃないですか。

そりゃそうですよ。住民が、一番ひどい目にあっているのは、住民ですよ。何も持たないでただ逃げるだけで、それで野獣みたいに、後ろからボンボン撃たれて死んでいくというのは。アメリカ兵でもあれだったはずよ、敵だと思って撃っているはずなんだけども、もう野獣を撃つようにおもしろがっていたんじゃないですかね。そうじゃない連中ももちろんたくさんいただろうけども、悪い奴もたくさんいたわけですから。そういう感じがしますね。よくも沖縄は、住民を巻き込んだなと思いますよ。あっちの本土で、地上戦をやっていたらどんな状態かっていうことですよ。本土には大きい山がたくさんあるから隠れるところもたくさんあるでしょうけども、沖縄にはないですからね、隠れるところが。ひどい目にあっていますよ。

ただ、沖縄のおばさんたちが沖縄の着物着て、泥んこの中に倒れているのを見たら、ああ、かわいそうにと思ったですよ。

イヤなことを思い出させるなと思っていた。本当にそうですね、思い出したくないですよ。あんまりにもひどすぎた。

出来事の背景出来事の背景

【戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。
昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。
さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1927年
沖縄県宜野湾市にて生まれる。
1941年
宜野湾尋常小学校卒業。
1945年
沖縄県立第一中学校を4年生で繰り上げ卒業後、鉄血勤皇隊へ入隊。鉄血勤皇隊の本部に配属され、一中の校長らと行動をともにする。米軍に捕らえられ捕虜となる。
1955年
関西大学法学部入学。その後、故郷に戻り琉球政府巡回裁判所などに勤務。

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