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タイトルタイトル: 「軍隊への失望」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
名前名前: 新垣 幸栄さん(沖縄県・鉄血勤皇隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年5月11日

チャプター

[1]1 チャプター1 中学3年生で、鉄血勤皇隊へ  04:43
[2]2 チャプター2 陣地構築と自爆攻撃訓練  06:52
[3]3 チャプター3 軍隊への失望  09:55
[4]4 チャプター4 除隊  04:23
[5]5 チャプター5 戦後、中学校の教育を振り返って  01:19

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
収録年月日収録年月日: 2009年5月11日

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わたしたちは小学校の頃から、軍国教育。小学校1年からもう軍国教育なんですよね。入って、サイタ サイタ サクラガ サイタ。で、3週目くらいだったと思いますが、ススメ ススメ ヘイタイ ススメから始まりましてね。もうずっと教科書はそういった何でしたね。それでね、父親が県庁で土木課の何やってたもんですからね、工業へ行くようにって言われてました。で、6年のときは中学あきらめて工業に行こうと思った。ところがよく調べてみると、高等工業行くには中学行かなくちゃダメだと。高等工業行かなくちゃあ、課長・部長になれないという何がわかったもんだから。その前に小学校の頃から、うちの近くがですね、大きな木があって日陰になるもんですからね、中学生がちょうど学校から帰るときの休みどころになっていたんです。わたしたちもよくそこで遊んでいたもんだから、中学の話をよく聞かされて。小学校4年には、ローマ字で自分の名前を書けるようになりましてね、自分で。中学生から教わって。学校でそれ使って先生に怒られてたんだけどね。それから入って少年航空隊になろうという何が、予科練に行こうというあれがありましたね。ところが身長足りないんですよ。3年まで、いや2年までだな。3年の卒業するまでにはなんとか、それ満たそうと思って何とかやったんだけれども、3年になったら、3年が終わると同時に戦争です。そこで、召集令状あちこちに配ったというんだけれども、わたしたちのところには来ないんですよ。多分、先生、先輩たちが呼ばないようにしたんじゃないかと思ったんだけど。

自宅待機してたんです。それでね、確か27日に勤皇隊結成されたと思うんですよ。卒業式と同時に。そして28日に、「友達から来てたか?」って。「来ない」「おかしいな」 やったら聞きに行ったら、「ダメだ帰れ」と言われた。みんな帰されたって言うんですね。そしたら28日にみんな、いや29日に集まったんだ。4名の、一緒のこの辺の同級生4名。それから3名いたっていうんだけれども、この人たちにはわたしは会っていないんですよ。血判作りましてね。嘆願書書いて、血判押して。やったらみんな帰されたんだけれども、配属将校が「よろしい」って。「入隊許可する」って。7名許可されてね。そのうち1人は非常に緊張しましてね、緊張していたもんだから、それがやっと叶えられたとホッとして倒れてしまって。それで、彼はもう帰された。

Q:最初、軍服もらったときは、どんな様子でしたか。

嬉しかったですね。みんなその朝もらっているんだけど、わたしたちはその晩行って、みんないいのをもらいましたね。靴なんかもピシャッとあうのを貰って。

Q:武器は何かもらいました。

いや、武器はありません。学校の教練銃だけでしたね。教練銃が全員持てるだけありました。銃剣も。それをわたしたちの壕のすぐ傍に養秀寮がありますよね。養秀会館の上の岩の下に、全部並べて置いたんですけどね。

Q:ホント憧れの軍隊になれた。

そうですね。

Q:どんな気分でした。 軍服着て。

やっと何できたということで。4月の11日か12日、11日頃だったんですかね。恩賜のタバコと恩賜のお菓子をもらったんです。で、タバコを吸わないもんですから、これもらったら、死ぬことになるんだよと話は聞いていたもんですからねえ、仕事場から帰ってきたら家まで走っていって、親父にこれもらったから、もうダメかもしれないと。もうあきらめてくれと、恩賜のタバコ渡して、またすぐ走って帰ってきて。

Q:それ渡したとき、お父さんどんな顔してました。

ウーンてね。無理するんじゃないぞって言ってましたけどね。総攻撃の前には、恩賜のタバコがあるんだということを話に聞いていたからね。これやったら、我々も何するんだと。その次の日は遺書書いて行かされたんですね。

壕、軍司令部の整備がわたしたちは、もうずっとでしたね。司令官は、毎日6時前になると砲撃山から外へ出て、将官たちが5名か6名、体操してましたね。

Q:壕掘りは大変でした?

でも2年の後期からはずっとそういった作業だっでしたからね。そんなきついとも思わなかった。普通はきついんだろうけれども、これも仕事だなあって。国のためだって思ってたからね。

あれはね、養秀同窓会館の西側の道路。あの辺はね、旧武家屋敷なんです。殆どが。だから石垣が積まれているんですね。周囲は。これを取り外しまして道路に積んで、その下にたこつぼ掘って。戦車が来たら、こっちに隠れていてこっちに飛び込むんだという、でやってましたね。

Q:どういうことですか。たこつぼ掘って

たこつぼっていうのは、道路ありますよね。そこの傍に石垣を積んで、あれが足りなかったんじゃないかな。軍の人たちも、アメリカの戦車がどれくらい能力があるかっていうのを知らなかったんじゃないかと思いますけどね。1メートル20くらいですかね。こんなして積んで、長さが2メートルくらいですかね。石を積んでいって、その後ろ側にたこつぼ掘って。

戦車がどこまで来たっていうのがわかれば、そこに行って待ってるんです。待機してるんです。

Q:待機して……

弾薬を背負ってね、この訓練はしてましたね。

Q:弾薬を背負う訓練ですか。

自分ではずせないようにちゃんとなってましたね。背負ったら。絶対、置いて逃げたりなんかできないように。

Q:自分ではずせないんですか。

はずせない。それはそのまま行かなかったから良かったんだけど。

Q:それを、背負わされてたこつぼに入る練習をした。

そうです。入って、戦車が来たら足ひもで安全装置をはずして、飛び込むってあれでしたね。

あれはありましたね。戦車が来たらすぐこれでやれっていう、あれはありましたね。戦車がこれだから、そこではスピードを落とすから、すぐそこから飛び込んで、一瞬で爆発させようと。自爆テロ。

「これで国のためになるんだったら」というふうな何じゃなかったですかね、みんな。死ぬことは当たり前だというふうな考え方でしたね。

訓練ていうのはそんなになかったですね。あとではあったかもしらんけど。ちょうどわたしたちも首里までアメリカ軍が来たっていうんで、小さいときから一緒に遊んでいた連中3名いたから、3名で相談して、これじゃあ全滅間違いないと。玉砕間違いないだろうと。もし同じ死ぬんだったら親と一緒に死のうじゃないかと。こういった体の弱いのは全部除隊するようだから、1日飯食うなって。そうしたら、ただでさえ栄養失調だのに、1日ご飯食べんと、顔が真っ青になってフラフラしてるんですね。

教官が、「体の悪いの出てこい」って。3名とも行ってきたわけさ。3名とも「お前帰るな、お前出ろ、お前出ろ」って出されて、3名とも何してましたね。除隊一緒でしたね。この前きた、養秀会館で会った金城っていうのがいましたね。偶然彼も一緒でしたね。彼とも小さいときから、よく一緒に遊んでいた仲間ですので。

Q:やっぱり除隊をしたかったんですか。

そうですね。自殺未遂であったり、自殺の強要があって、それと先生が犬死にするんじゃないぞって言われて、おかしいなって。斬り殺されたとか、いろんなことが耳に入ってきたもんですからね。また、「お前らなんか消耗品だよ」って、言ってましたからね。1銭5厘でお前らいつでも集められるんだって。兵隊言ってましたからね。「何を」って。

Q:消耗品て言われたんですか。

うん。俺たちはそれだけでしか見ていないのかってことで。同じ死ぬんだったら、親の元で親と一緒に死のうじゃないかって、3名相談して。したら、3名とも除隊するって何されましたね。

Q:血判状押してまで入隊したのに、自らして……

だからね、そこまでは何をしてしたのに、今日もあんな扱いを受けたから、何で、そんなにあれでもないのに、自決を強要したり、おかしいなって。彼らは仕事のない、あんなにもないもんだから訓練もしてない。第3小隊というのは、今の養秀同窓会の裏の方にある壕なんですけどね。先生方とも全然、先生方も一回も回ってこないし、だから兵隊のやりたい放題でしたね。

だからね、飯ごうをね、洗ってこいと言われたんだそうです。炊事をしたことのない、食器を洗ったことのない人達ですからね。洗ってきたら、はいと。すぐ彼の持ち場のところに置いてあったそうなんです。逆さにして水をとばせばいいんだろうけど、そこまでやったこともないし、そのまま置いてて。それともう一人は一緒にやって、ちょっと第1小隊、本部の方までいろんな話を聞きにいったりなんかして、向こうでやってる間にここでこういうことが起こってたということ、後で聞いたんですけどね。それまで全然、これは伏せておこうってことで、伏せていたんだけれども、彼が、そういった何が僕も一緒だったよっていう。ああって。じゃあ、遺族には話さないけど、他の人には話してもいいっなってことで。

Q:飯ごうを逆さにしなかったから怒られたんですか。

いや、洗ってきてね、そのまま蓋をそのまま置いてきたんです。逆さにしてね、水をとばすのが普通なんだけれども、食器洗ったことのない人たちだから洗ってきたら、ハイってそのまま置いてきたんです。

Q:そしたら兵隊が怒ってたんですか。

はい。らしいですね。これも、まあずっとあとになってから、戦後これは聞いた話なんだよ。ちょっとそういったこともあったなということ。あれ、僕も一緒だったよと言うからはあっ

D:幸栄さんが見た

全然、彼は。そうですねえ、一緒にいたっていう人も、一回も顔合わしたことのない人たちが多いんですね。というのは3交替でずっと出るもんですから……

Q:幸栄さんが見たときは、どういう現場になってたんですか。 それは。

みんな帰ってきて、だから地べたに座らされて、もうこうして銃構えて、こう何しているところに、靴脱がして親指で引き金ひかそうとしてるところに、わたし入ってきたんだよ。

Q:自分の足の親指で。

ええ。そうして、ああって何している間に、一緒の連中帰ってきたんで。わたしはもう終わったら、さあって帰ってきて、もう怖いから。アメリカさんの襲撃始まる前にということで。5時か6時ちょっと過ぎまで、あれがないんですよね。砲撃がないんですよね。夕食の時間。その間を利用して交替。

Q:でも砲弾を逃れて急いで帰ってきたら、自分の同級生が日本兵に殺されかかっていたわけですよね。

そうですね。

Q:急いで帰ってきたら、そうなっていたいたわけですか。

そうですね。そうしたらね、わたし見ながらも、こんなしながら、一所懸命殺そう、何しようとしてやっている。2~3分してから、他の人たちが帰ってきたんだ。やめて、ああ良かったあと思ってね。そこを通って中の方に入っていったら、「奥から10名出てこい」って。腹いせでしょうね。「奥から10名出てこい」って。もう奥の方にしか寝るところが空いていませんからね。全員入れないから。向こうから交替で出て行った人達はあとに入るもんだから。そしたら「奥から十名出てこい」って。出て行ったらすぐ、みんな、お前らはずっと奥にいて、俺の何も世話もしてないじゃないかって。

Q:何をしてないです。

世話をしないじゃないかって。世話をするどころか、もう朝も6時過ぎには行って、それから帰りは5時過ぎに終わって。6時頃ですのでね、帰ってくるのが。たまには帰ってくると同時に、さっき言った戦車の止めの道に石垣を積んで、積むのに、あれも夜中させられて。だからあのときはもう、5時間くらい寝て、また朝はすぐそのまま、軍司令部壕に行ったりしましたのでね。そういったのは何回かありましたね。

「お前なんか1銭5厘あれば、いつでも集められるんだぞ」って言われて。はあって。我々それぐらいしか見られてないのかっていう。また、もう一人の1等兵、殴るときに、お前らあと半年もしたら、僕より上になるから今のうちに殴ってやるって。もうこんな言い方でしたのでね、おかしいじゃないかって。

除隊するときにはね、確か19名。病気だとか、そういった人達が19名だったと思います。我々3名入れて。220名、約10%ですね。9%。

Q:どんな様子でした。 除隊するときは。

もう夜からですのでね、月の明かりで何して、顔も見て、もうみんな痩せていたから。

全部並べて。「体の具合悪い者は出てこい」って。「一歩前に出ろ」って言って。配属将校みたいなのが、「お前下がれ、お前出ろ、お前出ろ、お前出ろ」って。19名程出されて。「お前らは除隊する。今日から軍服全部洗い、全部返納して、明日には帰れ」って。食事もなかったと思います。それで次の日の夕方、何しましたからね。そのときに僕の同級生で、靴は、わたしより背は小さいんだけど、靴は大きいの履いてパカパカするもんだから、靴も壊れてるんですね。わたしは、ちょうどピシャってなるのもらってたから、それを僕にくれんかって。僕のと代えてくれんかって言いよって。代えてやったんだけれども……

ああ、やっとこんなところから逃げられると。というのは食事はもう、米3・芋5・野菜2ぐらいで入れて、粉味噌入れて、もう食事にならないようなのが食べさせられていましたね。そうしたらね、軍司令官の秘書かな、女の人が時々「これ将軍は手つけてないから、兵隊に見られないよう食べろ」って。時々くれましたね。

Q:除隊を言われたときは、やっとこんなとこから逃げられると思ったんですか。

うん。そうですね。やっと、いやもうそのときには、同なし死ぬんだったら、玉砕っていう言葉が流行ってましたからね。どうせ死ぬんだという何があって、死ぬんだったら親も心配させないで、もう親も一緒に何したほうがいいんじゃないかって、こう3名で相談して。そしたらちょうど3名とも、親は出る準備していたそうです。

自殺を強要したり、自分の何やって、1銭5厘でお前らを集められるって。自尊心ていうのかな。それともう一つ、あの先生のお陰ですね。犬死にするんじゃないぞって言われて。今から考えると、この先生は本当の先生だったんだなと。

戦後すぐ、高等学校ができたということで、前の一中の先生がわざわざ訪ねてきましてね。高校できたから来いって呼びに来た。「先生、学校はね、我々に嘘を教えてくれるところだから行きません」ってやったんです。我々に嘘ばっかり教えてくれたと。少し恨みみたいなものがあったんですね。我々もう少しちゃんとした教えをしてくれたら、犬死にするんじゃないぞというようような先生がたくさんいたら、同級生もあんなに死ななくてよかったのになっていう、あれがあるもんですからね。「学校というところは嘘を教えるところだから、行きたくありません」って、こう断ったんです。

出来事の背景出来事の背景

【戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。

昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。
さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1928年
沖縄県首里市にて生まれる。
1942年
首里第3国民学校卒業。
1945年
沖縄県立第1中学校3年生時に鉄血勤皇隊へ入隊するも、部隊配置の前に除隊。家族とともに捕虜となる。
1947年
戦後、首里高校に編入。同校卒業後、琉球大学に勤務。

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