ホーム » 証言 » 山城 興文さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: “捕虜になるならたたき切る” 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
名前名前: 山城 興文さん(沖縄県・鉄血勤皇隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年5月15日

チャプター

[1]1 チャプター1 卒業と同時に戦線へ  05:21
[2]2 チャプター2 任務は「死傷者」の搬送  04:54
[3]3 チャプター3 部隊解散  07:55
[4]4 チャプター4 投降の呼びかけ  04:56
[5]5 チャプター5 少年兵に担わされた任務  04:33
[6]6 チャプター6 兵士も住民も追い詰められていた摩文仁  03:03
[7]7 チャプター7 少年兵は、何のために戦ったのか  04:08

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~
収録年月日収録年月日: 2009年5月15日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

勤皇隊に入った時期は、勤皇隊編成したのが3月27日か28日ごろなんですよ。その前に僕らは一応卒業していましたので、5年。いったん、家へ帰って、その勤皇隊編成に間に合わないのも多かったし、わたしなんかもちょっと遅れて行ったけれども、配属将校に怒られるかねと思いながら、詫びを入れて、入れてもらったんですけどもね。28日ごろだったと思います。

Q:配属将校はどんな方でしたか、篠原将校は。

どう言えばいいのかな。

Q:厳しいとか。

うん、まあ厳しい面もあるけど、思いやりもありましたですよ。学徒兵が兵隊から、正規の兵隊から怒られたりなんかする場合はかばったりもしてくれましたんでね。

Q:わりと年もきっとまだ若かったんですね。

ええ、若かったと思いますよ。まだ30にはなってなかったんじゃないですかね。30歳に。

まあ軍人になりたいというよりも、当時としてはみんな7つボタンだとかね、海軍の、それから陸軍のほうでも軍刀を下げてかっこいいなというふうなのにあこがれていたんじゃないかと思いますけどね、年から言ってもまだ16~17ですので、憧れというのはそんな方面に憧れていたんじゃないかと思います。

Q:少年だと、軍服をもらった時なんかはうれしかったんじゃないですか、そのころは。
山城:別にそこまではうれしいとかということも感じなかったんですけどね。いつ頃軍服の支給があったのかも定かじゃないんですけど、戦争は近くまで来ているし、あたふたとしている中を軍服の支給も受けたんで、そんなにあまり考えてもありませんね。

別にたいした仕事というのはあまり覚えていないんですよ。伝令として、個人じゃなく兵隊について、同僚2人と兵隊1人と付いて、浦添の戦線まで伝令みたいなので来たのは覚えてますけど、弾に追われながら。それ以外はあまり戦争に出たとかそういうふうなのはないです。

Q:じゃあまだ兵隊になったという実感はそのころは持てていないですか。

そうですね、はい。一緒なのがほとんど中学の3年、4年、5年の者ばかりですのでね。

Q:軍事訓練みたいなことはされましたか。

軍事訓練は、壕(ごう)の中に入ってからはありません。軍事訓練というのは、教練というのは学校の時で、敵が上陸してからは訓練というのはありません。

Q:それでそのまま興文さんは分散配置で野重(野戦重砲)1連隊へ。

はい。それが東風平の志多伯というところへ下がったのが5月の確か14日だったと思います。

向こうへ着いてもほとんど患者、負傷兵の搬送とか、他の、戦争というふうなあれは無かったです。配属先が医務室ですのでね。野戦病院みたいな。だから一番、僕らの小隊、配属なったほうが一番生き残りは多いと思います。ほとんど壕の中にいたんでね、医務室の。

Q:それはきっと思い描いていたかっこいい軍隊の戦いとはちょっと違いましたよね。

ああ、違いましたね。けれどあの当時はそんな違うのなんのって考えるゆとりもないですよ。

Q:具体的にはどんなことを手伝っていたんですか、患者の・・・

別にそんなにはないですよ。患者の搬送、負傷兵の搬送。それで志多伯からは東風平の友利というところの、丘の上にも野戦病院みたいなのがありまして、そこへ1回、晩、日中はなかなか行動できないんですよ、飛行機から見えるから。晩、3~4名かな、4名ぐらい兵隊に引率されて、負傷兵を搬送した記憶はあります。他にはそんなに。それもそんなに多くはなくって、仕事やったというあれもそんなに記憶はないです。

Q:志多伯も、でも放棄してさらに真壁まで下がったんですよね。

はい。それから6月のはじめごろだったと思いますけどね、向こうから下がって、撤退して、真壁の壕へ行ったのが6月のはじめごろですね。向こうでも、解散になるまで、5月19日ごろだったと思うけれども、それまではその壕のほうにいて、そこでも野戦病院という医務室だから、亡くなった人を抱えだして、あれしたり、それぐらいで、あとは別に仕事というのはそんなに無かったんです。

Q:でもすごい患者の世話、亡くなった人の処理を十代の少年がやるというのは大変なことだと思うから。

処理と言うよりも、ただ外へ運び出して壕の近くの砲撃のあとの弾痕というのがありますので、そこへ行って埋葬するというぐらいなもので。

Q:でも死体を埋葬する、死体に触れることには慣れていく・・・

うん、それはもう。

Q:なんの思いもなく、その死体を運んだりして。

我々もいつかはこういうふうになるのかねとは思っていましたよ。そこが解散になって下がる時も、もし誰かが負傷した場合は、みんなと行動を共にできないというふうな立場になったら、もう自決するように、苦しむよりは自決させるようにしようねというふうには約束してありました。一緒の連中、6名。軍隊で6名ずつ分かれて行きましたけど、その6名。

壕の中によっても、ただ解散というあれじゃ・・・壕の外へいったん出て、晩の11時頃だったと思いますけど、その訓辞みたいな、上官からの、もう今晩これで解散だから、各自自由に行動するようにと言われて、各分隊、分隊と言うよりも5~6名ですね、分かれて自由行動になったわけです。それで北部に行くなり、逃避行ですかね、もう、みたいに。

Q:少年兵だけで途方に暮れたんじゃないですか。

はい、途方に暮れましたよ。だからみんながゾロゾロいっぱいいるものだから、みんなが行くところへ行って、それで摩文仁へ向かって行ったわけです。向こうへ着いたらもう夜が明けたばっかりなもので、早いこと避難する壕を見つけないといけないというので、残りを岩陰に隠していて、隠してって言うよりも避難させておいて

そこから絶対出たらダメだよと言って、わたしは壕を探しに行ったんですよ。誰とだったかね、2人で行って。そのときにボンボンボンって迫撃砲の砲撃があったもので、僕らもその壕を探している途中に避難して、砲撃が止んだら、帰ってみたらいま来た道は、避難民やらなんやら人がいっぱい倒れている、いわゆる死屍累々というのかな、いるところを、みんなが岩陰に隠してあるところまで来たら、一人やられたって言うんだよね、そこで。それが避難中のあれが最初でしたね。

Q:どんな様子でしたか。

すぐ即死というわけじゃなく、縦貫、腹部からの貫通銃創と言うのかね、前から出てでん部のほうへ、お尻のほうへ抜けていたんで、腸のほうも前のほうからいくらか飛び出していたんです。もう、病院へ連れて行くにももう医務室も解散になったばかり、行き場もないもんだから、本人が自決すると言うんで、かねてからの約束どおりみんなそうさせようと言うんで、手りゅう弾、手りゅう弾と言っても急造の、缶詰の空き缶にダイナマイト、黄色火薬を詰めて、導火線を付けたような簡単なもので、それを各自一人だったか、分隊に3~4個だったか持たされていたんで、それを渡して、「僕らは行くから一人でやりなさい」とみんなさよならして来たんですけどね。

最初不発だった。あとは、もう1個渡したんですよね。それはどうなったかはわたしたちも分かりません。いま考えるとなんか薄情な、情けないような気がしますけれども、当時としてはもうそれよりしようがなかった。

Q:最初の不発弾、渡したのが爆発しなかった時、みんなあれっという感じになりましたか。

そうですね。その不発弾、破裂しなかったというのを今から考えると、その導火線にマッチで火をつけて、それを投げるような仕組みだったと思うけれども、それを僕らは教えられてもないものだから、普通の手りゅう弾みたいに、安全ピンを抜いてからたたいて投げるというふうなのは習っていましたので、その導火線を引き抜いたんだと思いますよ、確かに。安全ピンと勘違いして。それで破裂しなかった。あれにマッチをつけるんだったら破裂していたでしょうね。

Q:苦しんでいる友人を楽にさせてあげたいと思ったのにそれが使えなくて。

はい。もうそれにいつまでもかまっているわけには、まだ砲撃はどんどん、迫撃砲が近くまで来るものだから、もう仕方がないというので我々は、あとの5名、岩陰の下の海岸の岩陰に下りていったわけです。

Q:本人も一応最初、手りゅう弾をくれって言ったんですよね。

山城:うん。

Q:1発目のときは見ていたんですか。

山城:はい。

Q:最初の手りゅう弾を渡した時は、みんな一応見届けようとしたんですか。

いや、それが破裂するときは危ないでしょう。だから僕らもちょっと離れてからやりなさいということで、すぐ離れたんですよ。2回目の時も離れたんです。もう2回目のときからは、砲撃がまた来るし夜も明けているもんだから、そのまま下りてきた。

でもあの当時はもう仕方がなかったんですよ。僕らみたいなみんな年端も16~17歳の子どもだし、砲撃はするし、病院へ連れて行こうにも病院があるわけでもなし、僕らがいた医務室も解散になったんだから、どうしようもなかった、もう。それで歩けもしないのを担いで行くあても無かったからね。仕方がなかった、もうあの当時は。今となったらなんか、薄情だったような後ろめたい気持ちはありますよ。もうあの当時だと、弾はどんどん来るし、後ろ髪を引かれるというふうな、そんな感じも何もなかったもの。自分が逃げるのが精一杯なもんだから。

Q:そのあと興文さんたちは海岸沿いを、摩文仁の海岸を逃げていくわけですか。

はい。行くつもりで海岸へ下りて行ったら、もうそこまでアメリカの船は近くまで来て、先に捕虜になった日本兵を使って、その船から放送しているんですよ、どういうふうにしなさいって。港川方面に行きなさい。日中は歩いて、晩は歩いたら砲撃されます、弾が飛んできますよなんて。僕らはこんな、なんだろうね、スパイかねと思っていたら、後で考えたら先につかまっている日本兵を使ってアナウンスしていたと思う。

Q:でもまだすぐには投降しようとは思わなかったんですよね。

うん。でもそのときから、みんな早く投降しろ、投降しろと言ったんですよ、その船からね。だから投降するつもりでいたけれども、同じ岩陰にいる兵隊の下士官が、軍刀を抜刀して、あそこから捕虜になって行く奴もいる、将校もいる、お前等もああいうふうに行ったらすぐたたき切るからねなんて言っていたんです。だからこれを見られたらまずいねと思って、別のところへ行って、それで2晩ぐらいはそこへ泊まりましたね、場所を変えて、岩陰で。岩陰は大きな石の岩陰がいっぱいあるんですよ。2晩は泊まって、夜明けに手を挙げて投降したわけ。それが確か6月の22日だったと思う。

Q:刀を抜いて脅されたんですか。

山城:はい。こう抜いてこう持ったまま、強がりを言って、「絶対捕虜にはなるな、お前らもああいうふうにやったらたたき切るからね」なんて言っていた。

Q:そのころはもう日本軍も捕虜になる人が続出していた。

うん、いっぱいいましたよ。だから将校なんかもいましたしね。その軍人に見られないように、まわって出たんですけどね。

僕らの一緒にそこまで海岸まで来た時も、来た中にも一人は、「いや、俺は日本男子だ、絶対に捕虜にはならない、君ら行くなら行け、僕は絶対捕虜にはならないから」と言うんで、岩陰にまた戻っていって、そのままもう来ないのがいるんですよ。

Q:興文さんは、どのくらいまで日本が勝つというふうに信じていましたか。
「日本は絶対に負けない」とは思っていましたよ。「いずれ友軍が来る」って、「援軍があるっ」ていうふうに考えていましたよ。あの当時の人間はほとんどがそうじゃなかったのかなと思いますよ。絶対に日本が勝つんであって。
Q:でも実際の戦場の現場を体験すると、そういった思いって揺らぎませんでしたか。

しかし捕虜になってまでも、捕虜になってヤンバルのほうへ、収容所に入ってまでも、8月の15日終戦はあとで知ったんですけどね、祝砲を撃ったんですよ、アメリカのほうはね、ボンボン。祝砲は、僕らとしては、「日本軍が援軍が来ている、それで高射砲を撃っているんだろう」というふうに考えていたぐらいですからね。なんか子どものせいなのか、「絶対に日本は負けない」と思っていたもんだから。

Q:興文さんは、戦争で弾は撃ちましたか。

弾は撃ってないです。1発も撃ってないです。鉄砲は三八式の小銃は持ってましたけど。急造のあの手りゅう弾。それと、30Cm角くらいかな、の板箱にダイナマイトを詰めた爆雷。急造爆雷。それも持っていたけれども、1発も撃ってないです。摩文仁の岩陰に置いてね、最後の別れをしてきました。

Q:急造爆雷は背負わされたんですか。

背負うというよりも、抱いているみたいでね。首からかけるように、ひもでかけて。それはみんながみんなじゃなく、分隊に1個くらいで、交代でね持って。

Q:それは自爆攻撃に使うものなんですよね。

はい、対戦車攻撃とかね。なんかそれで、戦車をひっくり返したのもいるんだという話は聞いていますけどね。しかしその、ひっくり返したけれども、それでそのときは帰って、後でまたなんか、サトウキビを取りに行って、そこで砲撃で、砲撃に遭って、亡くなったというようなことは聞きましたけど。

Q:その爆雷を持っているときに戦車に遭遇したら、戦車に飛び込もうって思ってました?

あれはねあれ、どうなったかな。それ持ってるときにっていうよりも、あれの使い方は、道の両側にたこつぼ壕という小さな穴を掘って、そこに潜んでおって、戦車が近くまできたときに、それを放り投げて、自分はまたしゃがんで引っ込んで、というようなことだったらしいけど、使ったこともないからそれわかりません。

まあ生きたいっていうか。明日はどうなるかわからないっていうだけであって。生きたいなあ。生きたいなあという風なことは考えていません。あるいはいつかは僕らもこういう風に死んでいる人を見ると、僕らもこういう風になるんだろうなとは思ってましたよ。

Q:そうなりたくないなという。

うん。それは思いますよね。

Q:それじゃほとんど最後のころは頭は何も考えるゆとりもない。

そうですね。いろいろ考えたりは、するゆとりがなかったんでしょうね。

Q:家族のことすら思い浮かべませんでした。

はい。最初のうちは、首里の壕にいた時分は考えよったけれども、それから南部の方に下がってからは、考えない。あるいは、どこへ避難しているんだろうな、あるいは島尻へは来てるのかなという風には考えてましたよ。

Q:摩文仁をさまよっているころの頭の中はどんなだったんでしょうねえ。

どうだったんでしょうねえ。わたしももう、あんまり何も考えたこともなかったとは思うけれども。60数年も経つと、今現在82歳にもなると、もうおぼろげで、あんまり当時何を考えていたのかも定かじゃないんですよ。

ごった返しているというより、日中はほとんど行動する人いないですよね。危ないから。偵察機は飛んでいるし。朝の一時と夕方の一時、それと晩を行動するもんだから、そんなに人が右往左往するより、晩避難したときは、人間がゴロゴロいっぱいいたけれども、そのほかはいつもはそんなに見てないです。日中の行動があるから。しないからみんな。壕の中へ避難しておって。

砲撃があったときはドドドーンという迫撃砲のときは、やられるけれども、それ以外はそんなには見てないです。その現場は。それで、向こうのがけに降りるときと、降りてからの海の方にだいぶ浮かんでもいたし、亡くなった人が、死んだ人が。その岩陰にもあちこちいっぱいケガして、そのままほったらかされて、そのまま死んでしまった人もいっぱいいたし、そんなあれで。

もうビックリしたというよりも、もう慣れっこになってしまってね。怖いとも何とも感じなかったですね。あのときからは。

Q:艦砲とか爆撃はやっぱり相当なものでしたよね。

それは、向こう行ってからの船からの爆撃というのはそんなになかったと思いますよ。上陸する前は、この、そこにタンクがありますよね。丘になっている。そこから見ると、東シナ海の海は真っ黒にね、島ができたように船がいっぱいでしたよ。そこから砲撃していたんで、あとから南部へ下がってから、向こうが上陸してからは、そんなに船からの砲撃はなかったと思います。地上戦でね。地上戦だと、友軍の方へ向こうから、同じアメリカ軍の方へ撃つかもわからないでしょう。だからそんなになかったと思いますよ。

それは戦力にはならなかったでしょうね。今から考えて。けれども僕らも、そんなにあの軍の方に協力して戦闘したわけでもないし、5月の半ばから6月の末に捕まるまで、そんなに働いたっていうあれもないけれども、壕の中に置いとって、我々27名でしたからね。それだけに飯も食べさせて、確か1日に一回しかなかったと思うんですよ。それを何もやらないのに大した仕事もしないのに、飯も食わしてもらってという風な。今から考えると珍しいくらいですね。

そうせざるをえなかったんじゃないですか。あの当時は。当時としては。わたしもその、上の、あの当時の上の人じゃないからわからないけれども。僕らも下っ端で、まだ16・17歳の子どもだから、そんな子どもでも使わなくちゃならんような、せっぱ詰まったあれじゃなかったですか。情勢になってたんじゃないですか。

Q:興文さんは、そんな大変な思いをされたと思うんですけれども、何のために戦ってました?

何のためにっていっても、ハッキリは言えませんね。ただ、戦うというよりも、実際に鉄砲を撃ったり、やったわけじゃないから、ただそれをやりなさいと言われたぐらいで、別に何も感じてないですねえ。ただもう、あの当時は、これやれって言われたら、うんやるやる、はいってやるよろ他は、いえできませんとは言えなかったからね。

あの向こうの海岸に降りていったのは、海岸づたいで北上してヤンバルへ敵中突破をして、それからヤンバルの国頭の先から、舟かなんかで、くり舟みたいなもので、実際にくり舟で向こうに、与論に渡った人もいるみたいですよ。そのつもりで、海岸には降りていったんですよ。けれども、降りていったら、前には進めなかっただけの話で。

Q:やっぱり最後のところでは、戦陣訓みたいなものも、頭からなくなってますよね。それだけ追いつめられれば。

そうですよね。

Q:捕虜になるときも、思い出しませんでした。捕虜になるときは少し考えました。

そんなゆとりないですよ。捕虜になるとき。というか手を挙げて、ここを挙げていった。あるいは自動小銃で撃たれるんじゃないかと思っているだけであって。いろんなの考えるゆとりないですよ。生きて虜囚の辱めを受けずっては言いながら、生きたいのは生きたい。

出来事の背景出来事の背景

【戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。

昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。
さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1927年
沖縄県宜野湾市にて生まれる。
1940年
宜野湾尋常小学校卒業。
1945年
沖縄県立第1中学校卒業後、鉄血勤皇隊へ入隊。野戦重砲兵第1連隊に配属され、沖縄本島での戦闘に参加。米軍に捕らえられ捕虜となる。

関連する地図関連する地図

日本(沖縄)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード