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タイトルタイトル: 「秘密兵器は人間魚雷」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~
名前名前: 竹林 博さん(回天特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(山口県大津島)  収録年月日収録年月日: 2009年1月24日

チャプター

[1]1 チャプター1 志願して入隊  02:39
[2]2 チャプター2 人間魚雷  02:59
[3]3 チャプター3 武器は人間魚雷だった  04:11
[4]4 チャプター4 作戦変更  04:08
[5]5 チャプター5 訓練中の沈没事故  01:57
[6]6 チャプター6 出撃待機  02:46
[7]7 チャプター7 出撃  07:39
[8]8 チャプター8 終戦そして生還  02:41
[9]9 チャプター9 竹林さんにとって回天とは  02:31

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~
収録年月日収録年月日: 2009年1月24日

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中学5年のとき。志願しましてね。

Q:志願されたのは何年ですか。

18年の8月ですね。入隊が12月1日。

いわば昭和16年12月8日の詔書をね、学校でも読み上げて。軍国少年、それこそお国のために尽くせよという事の、当時の何ていうか決して自分自身が軍国少年なんてね、そんな誇りとか高ぶりもなかったけれど、当時の少年からすればそういう世間の生き様の中にね、やはり生きなきゃならんとすれば、家庭的な円満な子どもも不幸な子どももみんなもし志願出来れば当然入った方がいいんじゃないかと。一時士官学校か予科練の方がすぐね、入隊が早いぞという事で飛行機乗りに乗るのなら、甲種飛行予科練習生がいいよと言うことで。そうして18年の確か5月ごろですが、東京は神田電気学校でね、受験があって。発表が8月末かな。10月ごろ第二次適正検査ということで、三重の海軍航空隊に行って、身体検査と適性検査ですね。そうして10月の末に合格ということで、12月1日付けで三重の海軍航空隊に入隊せよと言うことでね、通知を受けたんですね。

ですからその当時は、わたしが東京で甲種飛行予科練習生の合格通知もらったとき、札幌の兄とそれからおばあちゃんにですね、まぁわたしどういう電報打ったかっていうと、「ワレオオゾラニハカバヲエタリ」っていうね、そういう電報を打ってね、もうどうせおれはお国のために死ぬんだぞと。言うような気持ちでいましたね。

そうして、その年(昭和19年)の8月、自分たちが飛練に行く、わたしが予定では青島に行く予定だったのが、その直前にいわば特殊兵器の搭乗員を募集すると。言うことでそれがたまたま回天だったんです。

そのときはね、決して飛行機だとは言えない。で、さりとてズバリ言ってね、人間魚雷とも言わない。特殊兵器でね、いわばこれに乗って最後の決戦場に行って、それこそ必死必殺という事で生きて帰れない兵器だぞと。

紙にね、志願する者は○。それから志願しない者は×。決めかねる者は白紙、そのままでいいぞと。ですからそこには強制とかね、全部書けという風な事のね、何て言うか教育主任の話ではなかったですね。ですからあくまでも本人のね、まぁ何て言うかお話があったそれだけの内容でね、自分の生命をね生か死か決めるのはね、まぁ本当は人によっては軽率だと。あまりにも命をね、短絡に考え過ぎているんじゃないかと言われましたけれど、それこそこの機会を逃したら、後々という事でチャンスはないぞと。「よし、この際だ」という事で、

でもわたしは海の事は全然考えていませんでしたから。恐らく後で出た「桜花」、それから「秋水」、まぁロケット機。あれなんか空を飛んでいったらね、ぶつからなくても生きて帰れるっていう事を飛行機でない限りはね、滞空時間の短いロケット機じゃね、もう生還はまずあり得ないですよね。ただし、じゃぁ「人間魚雷」かって言うと、そこまで全然考えは行ってなかったです。ですから、1600名のうちから100名選ばれて、わたしたちが9月1日ですか、土浦を出るときはね、全然よもや魚雷の特攻兵器だなんて事は100人が100人誰も考えてなかったです。

土浦海軍航空隊、開隊以来、これほどの盛大な見送りを受けたことないと。まぁそのような情況でそれこそ、恐らく空で死ねるなというね、気持ちではいたんですよね。

丁度上陸したらね、倉庫に回天が大きなシートをかけたところに回天があったんですよ。それこそ見てびっくり仰天ですね。「これかー」ってね。でも当時指揮官が板倉光馬っていうね、海軍少佐。当時潜水艦の艦長もご経験した方で、当然そこの大津島の回天の最高指揮官としていた板倉光馬さんが、「これがきさまたちの乗る兵器だぞ」と。「びっくりしたか」と。まぁびっくりどころか、「これで海底を突っ走るんだ、この兵器で死ぬ事が出来るか。もし出来ないっていうんだった、原隊に帰すから、申し出ろ」と言われました。でも土空(土浦航空隊)から行った100名は誰一人、じゃぁおれはこれ嫌だと拒否した者もいませんし。結果的には100名のうち52名、土浦に残って48名がその年の11月ですか、光(山口県)に回天基地が出来たんでね、光に行ったんですけれどね。ですからそのとき見たときには、いやー本当にねぇこれで死ぬのかって、まぁ、一言って「これはきさまたちの棺おけだぞ」と。言葉は悪いけれどね、そのような表現を使った人もいて、これでお前たち死ねるかっていう事でね。それこそ飛行機ならねぇ、飛んでいって燃料切れとか被弾をしてまぁ墜落っていう事は当然死ぬっていう事もあるでしょうけれど、飛行機が敵艦に体当たりをするという、当時は悠長なそういう情況じゃなかったと思いますね。何故かって言ったら、アメリカの方の対空砲火もね、ロケット砲弾とか、もうそれこそ対空兵器もかなり進んでいましたから、そう簡単には飛行機で入るぞとは・・そのかわりこの回天なら頭に1トン600の炸薬だから。ぶつかったら戦艦空母真っ二つだぞと。まぁそのような教え込みをされて、よしこれだ。これで死ぬんだぞという事の意気込みっていうんですか、まぁ集中力は100名なら100名が全部本当一心同体でね、申し合わせをしましたね。

Q:恐らくちょっとびびって、これはつらいなと思ったら100名の中でね、誰かいたとし
 ても僕帰りますなんて、そんなことは言える雰囲気じゃないですよね。

もしいてもね、言える雰囲気じゃなかったでしょうね。決してね、そういうのがいたら迫害されるとか、まぁそんなような考え方持つよりも、おれたちはこれで一緒に死のうという事のそういう結束力っていうんですか?そういう点は同じ予科練でもね、土空魂という事でね、土浦健児ならね、ここでそういう事は後ずさりは出来ないぞと、言うようなそういう事の意思統一はね、暗黙のうちにね、別に励ましたとかね、引きずられたとかそういうような何ていうか意思の葛藤(かっとう)はまったくなかったですね。

当時は停泊艦攻撃なんですよね。湾口にいる敵艦にぶつかるんですからね、訓練はただ回天の浮かぶ沈むね、後は包囲角を設定して突入する。そういう事で良かったんですけれど、今度4月以降、航行艦襲撃になったんですね。だから敵の船が走っていると、敵速によって10ノット15ノット20ノット。まぁ発見されると向こうも逃げれば20ノットとか30ノットといきますから、それを追尾して攻撃は難しいにしても、最初まぁ船団を組んで走っている航行艦襲撃には潜水艦から離れて、自分で包囲角をね、判定して。

Q:停泊艦襲撃から、航行艦襲撃になったっていう事に関して、何で変わったんだろうと思われませんでしたか。

ウルシーのね、あそこの環礁地にね停泊艦が沢山いたでしょ? でも入るときにね、音響探索装置ね、その後がいろいろなスクリューの音とかね、それから戦隊の磁気だとかで、もう日本の潜水艦が動いているのはキャッチされる情況が多くなったんですね。ですからそう簡単に停泊艦攻撃の場合は、それこそ湾口に防潜網を張るとか、入り口ふさがれたらもうおしまいですから。ですからその点ではですね、停泊艦攻撃のね、いわば回天の主要範囲がぐっと狭められたんですよね。ですから当然ね、航行艦襲撃じゃなければ回天の成果は上がらないぞと。

いや、僕はね、まぁ瀬戸内海で(訓練)やったときはね、特に箱庭でやっていたようなものですよね。それこそ荒天のときはあんまりやりませんから。訓練も。ところが太平洋のあれだけの、それこそ浮上したら海面が丸く見えるぐらいのね、視野のところにわたしたちが浮かび上がってね、一点の敵影を求めて、距離が本当に至近距離であればいいですけれど、遠いときにはね、

航行艦は難しいですね。ですから、うちの隊長が巡洋艦ぶつかってますけれどね、駆逐艦がそばにいたからまだね、それこそ追いかけて出来たと思うけれど、その戦法すらね、もし駆逐艦よりね大物を狙って戦艦とか空母って言ったって、そのときはなかったですからね。もう出撃した情況の中には。

わたしたちが色紙に書いたね、「一死を持って万殺とか千殺」なんてね、それこそ何て言うかうわごとみたいな事で、書いた記憶もありますけれどね。それが実行はなかなね、もう至難の事だと僕は思いますね。

ですから最初の停泊艦攻撃から航行艦襲撃に移った、それだけにね、搭乗員の襲撃方法に対する、敵艦に対する目測で確認をする、そういう視力、そういう事に対する、マメに見る事と同時にそれに耐える忍耐力ですか、これは停泊艦攻撃よりはね、航行艦襲撃をやる方にはかなりの精神的な負担は課せられたと思いますよ。

訓練が即、死と隣り合わせですね。わたしも一回気筒爆破でね、野島(瀬戸内海・山口県)周りをしてきて、大津島に近づいたときにエンジンが、気筒が爆発して沈没したんですよ。40メートルに。

40メートルで鎮座して、応急ブローすると頭が持ち上がるわけなんです。そうするとちょうど海面にですね、ちょうどこういう風にして浮くわけですね。そうしてそれを追従艇が今度は頭にフックがついていますから、それにロープをかけてあとは曳航して帰って来る。まぁこういう事でクッスイトウ部の気筒爆破して鎮座した場合でも、今言った救急法がね、ありましたから、助かったし。

そのとき送空機を出す事によって回天は浮くというね、そういう操法はね、頭の中にありましたから。だいたい40メートルか、深度計ね。これなら浮上出来たら助かるなと。まぁそのときは死ぬという、死の道に行くような感覚じゃなくて、応急ブローでね、必ず助かると。そういう思いはしていました。ただし実戦ではそれはありませんからね。実戦のときに応急ブロー装置なんか・・頭に火薬が乗っているんですから。そのときにはそれこそ、もし気筒爆破したときには、敵艦にぶつからないで、太平洋でしたら、1000メートルから2000メートルで海底にそれこそ鎮座して、それでおさらばでしょうね。

飛行機だったらね、100機あれば100機ね、100人がぽっと行って死ねるんですよ。回天はね、一基あってもね、一回訓練するとだいたいまる二昼夜、48時間整備しないと乗れないんですよ。

回天はまず一回帰って来ると、まるまる全部解体組立、そして何て言うか、漏水試験なんてやるとね、まる2日間一本の回天に一個半、だいたい掌整備長含めて12人ぐらいでやってね、本当徹夜で二日かかってね、ようやく一本の回天が三日目に使えるんです。そういう情況の中でね、それこそ戦友をかきわけでもおれが先に行くなんて言ったってね、回天が少ないんですね。数が。

まぁそれだけにね、出撃する回天の事を「戦備的」っていうんですよ。「戦備的」、戦いに備える的っていうのは的って書くんですね。

その数がないからね、なかなかね、それこそ心はやるけれど、そう早く死ねないんですよ。

途中まだ「多聞隊」が出る前の轟(隊・昭和20年5~6月出撃)とか神武(隊・昭和20年5月出撃)が出て行くときにはね、まぁ数を数えたら半分ですもんね、半分行っていないから。これはまだね、望みがあるぞと。

Q:望みがあるぞというのは?

「まだ出撃出来る。そういうチャンスはあるんだ」と。そういう事のね、遠いか近いかはね、まだ僕はせめて4月ごろね、訓練開始になって、出撃要員になったのは4月末ですから。そのときはほっとしましたけれどね。それまででしたら、まだ後ろを見たら約半数まだ訓練出来ないのがいるし、同じ13期でも奈良空から来たのはほとんど250名いたってね、もう7名ぐらいしか行ってませんし。あとは乙の20期来たってこれはもう終戦直前に来ましたから誰も回天に乗っていません。それだけにね、まぁ集められた飛行機乗りは回天に回ったけれど、回天の出撃する数が確保出来なかった。そういう事の裏目に出た中でね、本当、俗に言う、「この次は、この次は」という事の期待をふくらませながらね、まぁ出撃するのを見送ったというのが実情ですよね。

8月3日の夜ですか、(伊53潜水艦が)敵の対潜掃討隊4隻ぐらいに見つかって。それからずっとその中でつかまれて、爆雷攻撃を受けるわけですよね。そのときにはね、いわば敵の艦隊を襲うなんてね、捨て身の情況じゃないわけです。受け身ですから。

「回天戦用意」(の号令)が入って、自分たちが搭乗していて、後はやはり爆雷による・・結局わたしは潜水艦の後部ですよね、

意識もうろうとしてね、倒れて。僕が倒れている後に、後部にいる荒川君(一飛曹)とそれから前部にいた関少尉が。坂本君(一飛曹)はなんか、酸素の消費量が多くてエンジンがかからんという事でね、出なかったんですけれど。まぁそういう状況の中でわたしが倒れた後、関少尉と荒川さんが(回天で)出ていますからね。

伊53潜が救出されたのは、亡くなった荒川君と関少尉のおかげだと。(2基の)自爆がなかったらね、まず伊53潜は帰らなかったろうと言う事のね、本に書いてありますけれどね。まぁそれをね、僕は見ても、また当時体験をしてみてもね、彼等のもし戦死がなかったらね、わたしも二度とここに対面する事もなかったでしょうし、祖国にね、恐らく伊53潜もね、帰って来れなかったと思いますよ。

深度45でね、艦長が「回天戦用意」って、「発進」って出されたときにね、回天は恐らく確か山田さんかな、オオホリさんが書いた本には出てますよ。恐らくね、海にね、海上にね飛び上がったんじゃないかと言うことです。ね、そうすると敵さんもね、「あっ」っていうことでね、目視して魚雷がっていう事でね、追尾、場合によっては爆雷攻撃をしたかもしれませんけれど。

わたしと坂本の回天はそれこそ爆雷攻撃であっちこっちにへこんでて。これはひどいなと。まぁそういう情況でよく潜水艦が助かったもんだという事で述懐は山田さんとか大堀先任将校のね、手記にもありましたけれどね。ですからああいう中で生き残った情況は本当に奇蹟。潜水艦のね、ああやって生か死の中の事例として考えれば、何と言うか普通で言うとね、まぁ人間で言うと九死に一生でですね。それこそ「九十生に一生」だね。あれだけのね情況の中で、それこそ潜水艦乗り組み約100名と回天の、まぁわたしと坂本含めて出撃搭乗員も生き残って来たっていうのは、それこそ生きる神様に救われたようなね、思いだね。

Q:どっから記憶が戻っているんですか。

もうそれこそ大場艦長じゃないけれど、「きさまに泣き声で出してくれと言われて困った」と。それは酸素吸入やって人工呼吸やって、息を吹き返した後。ですからそのときは関少尉も荒川も出た後ですからね。ですからそれこそ、その当時の艦長の対応としては、最後、これでもう艦内の空気もかなり汚染されているし、これ以上潜行していたら潜水艦も自滅するから、後は浮上して最後に一戦交えて終わりだぞと言うような状況だったらしいですよ。だけどそのときには、わたしはそれこそ酸素吸入受けて意識もうろうとしているから、そのときの自分の周囲の状況の、何て言うか記憶がまったくない。

まだ8月4日の夕刻ですか、浮上して空気を入れ換えてして、今度後、日本本土に帰るぞと言うことで、特に帰途についている状況の中ですからね。で、そのときにおれはどうしてこうなったのかなと言うような事で、またまた軍医長から「きさまガス中毒で、それこそ本来なら死んでいても不思議なかったぞ」と言われたのがね。ですから、まだそのときには終戦なるとか、また終戦っていう事で、思いは全然ありませんから。また再度ね出撃出来るチャンスがあるんだなと。

Q:人事不省になられて。目を覚まして。荒川さんが行かれたという事実を知ったときは。自分が生きたという。

えぇ、そうですね。やっぱり生と死のね、何て言うか峠をね、まぁどう神にそういう事の仕打ちをされたのか分からないけれど、本当、そのときはまだ自分はこれで生きて帰れるんだと言う事の望みよりも、またね再度ね、そういうチャンスが。荒川と一緒の道を求められるという、まだ期待はありましたからね。そのときはおれはこれで二度とね、死なないんだという事の気持ちじゃないわけですよね。また再度ね出撃するから、荒川先に行ってね、待ってろよと言うようなもんでね。

もうわたしはね、本当言葉かけられても正視できませんよね。もう本当、おれの気持ちは誰に訴えようと、誰に聞いてもらおうともね、それによって何て言うか、からいの甘いのね、まぁそういう事の助っ人の言葉はもらえませんから、むしろ話をする事によって敬遠されますよね。もう回天の人には話しかけたくないなと言う心情もあったようですよ。ですから顔を見ていてもね、なんかまたラッタル下りて来た。また生きたなと。いう事に対するそれのこちらの思いにね、まぁ乗り組み員でもね、まさか追い打ちかけるように、「また機会があるから頑張りなさいよ」とか、まぁそういうような普通陸上競技なんかね、スタートラインについたらね、尻はたかれてでもね、走るような事があったんでしょうけれど、回天の場合だったらね、死との出会いの中にそのような励ましとか慰めという事にもなるのかも分からんけれど、そういう事の会話っていうのはね、案外無言で過ぎたのが僕は多いと思いますよ。

8月広島の原爆が落とされたのが8月6日でしょ? 
ですからもう原爆が落ちたという事で、なんかもう、これでね、戦い終わりらしいという雰囲気は艦内にあったようですけどね。でもそういう事は、どなたも一言もわたしたちにね、原爆が落ちたという事は教えてくれませんから。ただ新型爆弾だという事で、8月12日に豊後水道に入ったときにね、まだ艦載機が補助タンクを落としたやつがこう、豊後水道に浮いている。ああいうのを見てね、また再度出撃、潜水艦も出撃する事があるんだと、いうような使命感は潜水艦の乗組員の方は持っていましたからね。

Q:その状態で終戦と聞いたときは。

まぁそうね。生き残ったという事の恥辱ですか。どうして死ねなかったのかなと。まぁそういう事に対するね、意気消沈ですね。もう坂本とも二人でね、呉から、呉で上陸しないで、吉浦っていうのかな。広島よりに小さな駅があってね、そこへ船で上陸させて。で、8月終戦の翌日16日にそこから広島経由で徳山にね、帰って来たんですけれどね。

広島の特に原爆の惨状を目の当たりにして。これがね日本の負けた国の、それこそ広島の焦土と化したね、ああいう状態を見て、いかにね、戦争の悲惨さも感じながらでも、自分が生き残って来て、今これ徳山着いて船で大津島に帰って。さて指揮官に会ってね、それこそね、なんか支離滅裂な思いがわたしも坂本もありましたね。もうお互いに慰めるとかね、まぁそういうような事では・・無言の行で帰ったような。状況ですね。

それこそ潜水艦の乗組員に言わせるとね、後で伊53潜の会合で言われた事がありますけれど、あんたたちのね、ラッタルをね、下りたり上がったり下りたりして、それこそ行ってしまえばそれなりにケリがつくんだけれど、何回もね、ああいう事のね、いわば死のスタートに何回もついて下りて来る。ああいう事の出会いっていうのは、我々にするとね、もうあんまりあって欲しくないなと言われた事ありますよ。

やはり戦後の敗戦というね、汚名の中に生き延びただけにね、死ねなかったという事に対するね、自責の念の方がもちろん強いですね。

僕の戦後の生き様はね、こと回天に始まって、まぁ口はばったいけれど、やっぱり回天精神でね。まぁ回天精神っていうと、まぁ俗に言う海軍精神かな。まぁそれにね、期する私の人生の生き方の道しるべでしたね。回天は。

僕はね、死んだ方に対する。亡くなった人にね、失礼ですけれどツバかけるような事はできません。やはり亡くなった人はそれなりのね、わたしたちも含めて同じ教育の中にね、やはり日本人として生かされて、で、お国のためと言うことのね、使命感に徹してそういう道を選んだわけですから。亡くなった方が今でいう靖国の神であるかないかは別として。やはり亡くなった方に対する慰霊と追悼はね、これは当然わたしは生ある限りはね、これはもうわたしのね、一つの義務としてね。ですから北海道の回天関係者のお付き合いでも、その点は絶対に人に遅れをとられないでやっていきたいと思っていますけれどね。

出来事の背景出来事の背景

【人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、日本海軍は特攻兵器を開発。一人乗りの潜航艇「回天」である。1.5トンの爆薬を積んだ必死必殺の人間魚雷だった。

回天は、潜水艦に搭載されて海を行く。連合軍の艦隊や輸送船団に近づくと、潜水艦から搭乗員が乗り移って出撃、いったん浮上して目標を確認して、ふたたび潜航、時計とコンパスをたよりに接近、体当たりする。さらに、自爆装置も付いていて、いったん出撃すると二度と帰ることのできない兵器であった。
全国から集まった400人の搭乗員の若者たちは、山口県の大津島の訓練基地で、厳しい訓練を積んだが、15人が、海底に突っ込んだり、沈没したりする事故で命を失った。

出撃が本格化したのは、昭和20年3月以降の沖縄戦だったが、米軍の警戒が厳しくなり、目標を、当初の停泊艦から航行する艦艇に変更、攻撃を成功させるのはさらに困難になって行った。回天に乗り組んだのは、乗るべき航空機が不足してきたため、飛行兵を目指していた予科練出身の若者たちだった。回天に乗り組むことになった若者たちは、さまざまな思いを胸に秘めたまま、生きては帰れぬ兵器に乗り込んで出撃していった。

作戦開始から終戦までの9か月間で、確認された撃沈戦果は3隻。回天作戦で命を落とした若者は104人に上る。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
北海道札幌市にて生まれる。
1943年
私立昌平中学校卒業。三重海軍航空隊に入隊。
1944年
第2特別基地隊に配属。回天搭乗員となる。
1945年
終戦。当時20歳。海軍上等飛行兵曹。終戦後は、岩見沢の朝日炭坑勤務。

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