ホーム » 証言 » 辰巳 保夫さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「米機空襲で重傷を負う」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
名前名前: 辰巳 保夫さん(震洋特別攻撃隊 戦地戦地: フィリピン(コレヒドール)  収録年月日収録年月日: 2009年12月5日

チャプター

[1]1 チャプター1 予科練から震洋へ  03:54
[2]2 チャプター2 マルヨン艇  03:02
[3]3 チャプター3 飛行服で乗り込んだ  03:21
[4]4 チャプター4 体当たりの訓練  04:00
[5]5 チャプター5 フィリピン戦線  06:13
[6]6 チャプター6 戦闘機の爆撃  04:55
[7]7 チャプター7 部隊長からの手紙  04:46
[8]8 チャプター8 震洋が残したもの  02:26

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8

提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
収録年月日収録年月日: 2009年12月5日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

飛行機にはね、適性飛行だけしかありません、乗りませんでした。もうわたしたちのクラスまでで、もうストップになっちゃった。もうない、物がなくなっちゃった。

Q:物?

飛行機なくなった。そういう物がもう生産が少なくなった。だからもう飛行機をつくっても、そのう戦地のほうに持って行くしか・・飛行機ですか、もう練習なんかするような、そのういろんな燃料とかそういう物もないわけなんです。時期がもうひっ迫しちゃってね。

練習生をみんな全員集合させて。それはね、剣道場、剣道場か柔道場の道場って、こう大きな道場があったんですよ。その中にあの見えて、で、副長が、航空隊の副長があのうみんなにちょっと説明してね。それが海軍の、あのう軍令部か何かからわたしたちに説明・・その新しい兵器に皆志願する人を募るために来てたわけです。その人の説明があって、そしてあの今度、特攻の、特攻ちゅうかベニヤ板でつくったっちゅう、内容はわからないわけですけどね。志願してくれる者を。ま、強制的じゃないでしょ。だから志願してくれる者おったら、その人、まあ、向こう上の上層部が、お願いするというふうな感じでね、まあ話があったわけ。

だからわたしたちはね、その辺で、その近くにもうあのう体当たりするようなね、飛行機でB29に体当たりするっちゅようなことをね、ちょくちょくあったんですね。だからわたしたちとしては、自分たちの範囲であれを考えれば、そういうものだと思ってた。

Q:そういうもの。

あの、飛行機対飛行機でね。まあ、戦闘機までは、それまでのあれやないで、もうロケット弾みたいな、ちょっと羽のついたようなやつを操縦して、もう敵にB29やらに体当たりするとか、そういう、そんなことかと思ってた。内容、内容はわからない。

Q:何の兵器かわかんないけど、体当たりさせられるっていうのはわかってたんですか。

もうそういう手しかないと思ってたよ、自分で。子どもながらにね。

Q:まさかとは思ってなかった。

まさかじゃないよ。自分で、自分で選んだ、もうそういうあのあれじゃないと、方法はないんじゃないかっちゅうね。自分でもそんなこと考えんやったからね、その当時。

田浦っていう駅のところに水練学校、海軍水練学校ですね。魚雷関係のあの学校があるんです。そこのノウホウ、そのまま歩いて衣嚢(いのう)担いで行ったわけです。で、わたしたち着いたときは、追浜海軍航空隊に行くんだと思ってた。それとか何の、すぐ近くの水雷学校行っちょる。うんで、水雷学校で、だいたいそこでちょっと休憩して。そうしたところが、そのポンツーあるんですよね、船だまりが。そこにマルヨン艇ちゅう、そのボート、ベニヤツーでつくったボートがズーッと並べてあった。で、それは自分たちの乗る、そういうふうにする物とはまだ思ってないけど。あら変なとこへ来たなと思ってね、追浜航空隊に行くだなと、自分たちは思ってた。飛行機やからね。で、そっからマルヨン艇が、その震洋艇になったわけ。そこで衣嚢をあの担いだのおろしてな。

水練学校の中でこう見学があったんです。校内のね、学校の中を。そうしたら、いや、こんなベニヤ、あのうボートがね、あるなあと思ったですよ、横目でこうしてね。ほしたら、まさか自分たちがそれに乗るとは思わないね。したら、それが校内をあの見学してずっと帰って来て、「実は、おまえたちは、あのボートに乗るんじゃってこう言ったんです。

始め、これ、何に使うんじゃっつっていいよった、みんなでね。うん。だけどもやっぱり、要するに、おまえたちはあれに乗って、敵艦体当たりするんだなんていわないうちは、上の人もね。で、そういうことからマルヨン艇に、マルヨンマル。第4番目のマルだね、特別兵器か、それをマルヨンっつって、海軍で。それがその震洋のベニヤ板のボートだった。

あのねえ、水雷学校行ってあれ見たときにはね、何だこんなもんかっつのは思った。もうそら、思わんは、そういうことが考えないっちゅう人はね、恐らくいないと思うよ。あれ、そう、そうやけども、実はパッとこう切りかえが早いんじゃないの。切りかえが。よし、もうしょうがない、これで、これだ。これで、わたしは死ななならんわけでしょ。やっぱそれにもう真剣な、それに乗って、もう1本乗るんだよね。乗り切れました。

もうそうなったときにね、そこでじたばたしたってしょうがないからね。自分が手を挙げて志願して来たんじゃないかと。で、向こうだって、海軍のほうだって、明かさなかったもんね、それは。

Q:なんであかさなかったんでしょうね。

そりゃ、それは普通の人が考えたって、飛行機とあれじゃ雲泥の差だよね。全然、違うわね。うん。しかしあんまり本当のこと教えてまったら、かわいそうだと思ったのかな、上の人たちも。

Q:かわいそうっていうか、でもあとから教えたほうがかわいそうですよね。 最初にっていう。

もうそれだけ水雷学校行ったら、逃げられないものね。うん。それで、結局服装だけはこういう服装させた。

Q:服装っていうと。 服装、これは、どういう。

飛行機ん乗る服装じゃない?

Q:これは飛行機に乗る…

飛行機乗りの服装。うん、せめてこれを着せてね、海軍、海軍の上のほうもね、それじゃあ、かわいそうだと思ったんじゃないの、上の人も。

Q:せめて格好だけでも…

うん、格好だけでも新品の物を着せてね。だからもう、もうそうなった以上はもう逃げること、何とか俺は、ワシは嫌だっちゅこともいえないわけ、ちゃんとね。

Q:それは気分としては、誇りとしては飛行機乗りっていう思いで行ったんですか。 皆さんは。

そう、そう、そう、そう。予科練で、ちゃんと飛行機乗りの訓練を受けてきてるからね。まあ、あれも、うん、約2年に近いぐらいの期間になってたから。

(操縦は)難しかない。ただ、モーターボートと一緒。とにかく前に火薬積んで、あれで体当たりをしろっちゅわけだ。別に難しくない。いえ、もう寸前に、そんなに全速力でバーッと。あれ、スピード出すと前が上がるんですね。だからそんな、そんなに・・あのう昼はね、モーターボートに乗って遊覧でするような、そんなあれやないのね。敵艦に近づくまでは静々と行って、で、有効範囲に来たときに全速出して体当たりするということだから。

難しいはない、モーターボートはね、あれはね。あれは実際はあの火薬は積んでないから、前頭、だから頭部に火薬積む、積むんですよね。だから実際はあのう重いから、前はそんなに上がらないんです。空の船で、前に火薬積むようにしてあるから、どうしてもあのう、爆装なんかつけてないと上がっちゃう。だから人間が前に、2人ぐらい同僚が乗ってね、前があんまり上がらんようにして。だからそれは内緒だったから、横須賀の防波堤の中側で訓練するわけですよ。防波堤やつあって、あそこはもう風が吹くとすぐ荒れるからね。ベニヤのボートがそんなにスピード出したりとかなんかできないわけ。

あんなちゃちなボートだけでさ、石でも投げる・・投げて当たりゃ人間が1人でも殺せるっちゅうような、ね、苦肉の策ちゅうか。だけどあんなの考えた人たちの、そのう、きちがいがあれしたわけではないんだものね。考えての上だろうと。あれでもなんか訓練中に何かしたら、あのうあれ、途中から飛び込めってね、そんな話ししたことないね。舵を固定して、レバーを固定して、最終的に。ほいで、これもう当たるって思ったらね、海飛び込めちゅった。そ、そんな話は聞いたことないでしょ。

Q:それは現実には可能だと思ってましたか。

あのうOKだったらわたしね、あのうこれも、何遍でも行きゃいいんだから、それはそういう手を使えってバッとこう、これでいけると思ったらね、そうやったかもしれない。だけど、僚艇がおるからね。あんな暗い海の中でさ、わたしが飛び込んで、その上をボートで走られたらイチコロやからね。それで全部がそういうふうであればさね、辰巳が先に行きよって、飛び込んだぞってつったらよけるけど。

それから輸送船団を、船団を組んで、で、そのあと門司港、もうそのときは門司港から出るときにはもう、マルヨン艇のこん包したやつはもう船積んであったから、あの貨物船ね。それがまた貨物船、わたしたちが乗った貨物船ちゅうのは、日本で一番のろい船なんです。スピードが1時間に8マイルも走らんような。その最低の、あの大正時代にできたような船に乗せられてね。そして門司を出て、それからが大変だった。自分は実際には、自分の船はやられなかったけどね。

Q:どんなことがあった。

仲間の一緒に船団組んだ船が沈められたりね。もうね、東シナ海じゃ、アメリカの海軍が日本の船が通るのを待ち構えとる。それは…

Q:具体的にはどんな攻撃で、待ち構えてたんですか。

雷撃。魚雷で。もう魚雷一発食らったもうね。今みた船でもタンクはいっぱいこう区切って、軍艦なんか、こうあのうあれが居住区とか何とかいっぱいこう、なるべくあのう一遍で水、どうと入ったら沈まないように、こう区画をつくってね、その1つの区画で水をそこで、余分に他方に行かないように区画をいっぱいつくってんですよね。そういうふうにですね。だけどマルヨン艇を運んだ輸送船っちゅうのはね、前で前部と後部としか船倉ない。こうどこでも一発ボーンとやられたら、そういうの前部か後部かのとこから、その積荷の、そのとこにはみんな水がダーッと入るわけ。そんなふうだった。

まず門司を出るでしょう。でね、門司をあれは昼間、昼間出たんかなあ、何日かいてですよ、船団の組む船がそろってね、それであのう六連(むつれ島)の沖から組んで出た。昼間、昼間に米軍の飛行機の空襲受けたかなあ? はい、しょっぱなにね。それから夜は夜で、今度はヒャコウカイやるわけですよ、船団組んでね。もう海のほうも皆、アメリカにもう制海権握られてたんだね、あの当時は。日本には軍艦があったけども。南方のほうにはほとんど主力が行ってでしょう。しょっぱなに行ったのは、しょっぱなにやられたのはどこかな、対馬のあの辺で一回、しょっぱなに僚船がやられたのね。

Q:何にやられたんですか。

潜水艦。潜水艦の、あれどこに隠れてるかわからんわ。もう、アメリカの潜水艦はうようよいた。それであのわたしが乗って行ったのは神福丸っちゅってね、神の福の丸っちゅってね、名前が。ボロでもうすぐこれ、立派な神に祝福されてるのっつってね。で、スピードがまた一番遅いの。それだからそのほかの船はね、みんな神福丸のそれに合わせるけん、スピードにね。それで、それに合わせるのには、もう何かあってスピード出されたら神福丸は置き去りんなるわけよ。だから一番遅い船にいくらスピードが出てても、みんなノロノロ行かんならんわけ。あの、の字運動ちゅうのをしながらね。回避運動を。常に、真っすぐ行かないで。スーと行きゃ速いんです。そういうことしながらずうっと。

Q:じゃ、けっこうかっこうの標的…

ああ、もう遅いからね。神福丸にその歩調合わせてた人たちはかわいそうなもんだ。わたし、神福丸みたいな小さい船はねらわんわけです、もう1、200トンぐらいなね。みんな4、000トンとか1万トンぐらいの船でしょう。そっちのほうが、潜水艦一発魚雷でも効果の上がるほうをねらうわけですから。そんな感覚でね、まず第1回目に出たときに、済州島の近くで魚雷攻撃を受けて散り散り。船団は散り散りバラバラ。護衛艦も5隻ぐらいはついていったけど。そんで大牟田、大牟田違う。あそこのなあに、三池炭鉱の、あそこの有明海。有明海に逃げ込んだんです、一番初め。船団、バラバラになっちゃって。

突然やってくるわけだからね。で、向こうは飛行機だから速いの。小さくなんかぱっと。「ミヤ、飛行機だ」っつってこうしたら、もう、上空に来ちゃうからね。それでもう矢継ぎ早攻撃してくる。だからあっという間よ。口でいやあ、長いけども。これでも日本のパイロットなんて、優秀とかなんかいうけども、向こうのパイロットだって優秀はね、このアメリカ軍はみんな士官さんやってね、パイロットは。だからねアメリカ、向こうから言わせりゃ、アメリカは魂ちゅうのはあるんだ。うーん果敢なんだ。年がいっとるからね、日本人の兵隊よりも。ズーッともう飛行機に乗って、翼がさ、このう自分たちの乗ってる神福丸に当たるんやないもんないか(と思わせる)格好して降りてくるけどね。目と目と合う。そういう、そういう感覚。もうその中から、いま落とすじゃないのよ。もう、突っ込んで来たときには、向こうは爆弾も小さな爆弾やら一瞬落としちゃう。あっという間の出来事よね。

もうね、一発食らったときもわかんない。全然何がどうなっとるかわからない。その飛行機が突っ込んで、こうして来るときにね、見てたけど、もうあれもう、撃ち落とせないのかというくらい思うよ。この、あれがね、機銃座の人が。代わるわけにいかん。取り上げて撃つわけいかんからね。そのうちにバーンとわからなくなっちゃって、何もわからない。そのとき弾くらったんだよ。至近弾が。死んではないから。、

Q:どこを負傷したんですか。

頭と足と。頭に破片が当たって。足がもう、足は見せにゃわからんわね、傷。傷は足はこれ。切断する、ここを。

Q:それは機銃か何かで。

爆弾じゃないかと思うね。爆弾、爆弾のそのう当たって、その破片に当たったんか。だからもうそこでばったり。どうなったかわからんのじゃ、自分は。

海軍病院のベッドに、ベッドじゃないな廊下にね、担架そのまま寝せてあった。で、自分はけがしてるとは知らないから、「おお、それはなんか変なとこに寝てるな」と思ってね、で、小便がしたくなっちゃった。便所へ行こうと思ってさ、ああ、変なとこに寝てるなと思ったけど、足が動かないんだよね。足、負傷してるから。そのベッド、あのう担架のあれから足がストン、落ちた。そして床に着いたでしょう、パッと落ちて。それでそれが傷のほうにギャッときてか、大声、悲鳴上げたかどうか知らんけどな。で、それを看護婦が、看護婦さんも急いで飛んで出てきた。それで気がついた。

これはね、わたしはね、マニラの海軍病院の第103海軍病院というところに、負傷後そこで療養しとったわけですが。そのときにわたしたちと特攻隊に行った同期の、1期下の乙種飛行(予科練)から練習生の20期のミウラっていうのが、部隊長の使いで、この手紙を持ってきてくれたわけですよ。


書いたのは、松枝部隊長。海軍中尉、松枝義久。

Q:どんなことが書いてあるんですか。 これは。

結局、その特攻隊行って、自分たちと一緒に特攻攻撃をして死ぬということが、目的なのに途中でそのけがしてね、きみの特攻隊に志願して行ったことの、特攻隊に行って、そういう働きをするということができないでね、それが非常に残念だと思う、というふうなことが書いてあるわけですがね。それであとのことはもう心配するなと。療養に専念して早くよくなってくださいというようなこと書いてまして、あとはわたしたちがきみの初志を貫くように、みんなで頑張っている、特攻攻撃するのに全力を尽くしますというふうに、なこと書いてあったんですよ。

Q:松枝隊長っていうのは、どういう方でした。

あのね、この人はね、鹿児島県の鹿児島の人でね、この人のお兄さんもね、それぞれあのう海軍経理学校、経理学校で優等生なったような人。そういう人なんですが、とにかくまあ普通のこの海軍兵学校出の人に比べれば少し、ちょっとレベルの違う人だと。非常に部下思いだしね、よくわたしたちは子どものときでもあのう、中にいろいろ聞くじゃないですか、話をね。そういう上官の。だけどこの人は非常に部下思いでね、年はまだあのう若かったと思うんですよ。年はね、年齢でいったら21、2ぐらいかな。そういう感覚、わたしははっきり知りませんでしたけどね。うん、非常に部下思いの人でね、優しい人。

Q:手紙だよってこう受け取ったときってどんな…

うん、そん、そんときはね、まだこうあのう自分では見えなか、見えないぐらいの状態だったでしょうね。で、あのうミウラが読んでくれた。ちゃんと封筒に入れてね、頭のとこへちゃんと置いてくれた。だから、こういうちゃんとしてね、筋を通してね、きちんとしてる人だと思う。

どんなこもあるまい。昔のことも思い出すだろうしね。あんたたちがね、わたしは一つもかわいそうで、そんな当時、それで死んだらね、かわいそうだったなと。今の自分の立場でいやね、かわいそうだったと思うよ。そういうこともあるだろうしさ。いろいろある、もろもろに。だってね、言ったって、何と思ったって、多分、それが取り返せるわけでもないしね。まあ、時代が時代だったからかねえ。わたしも複雑よ、そのことあんまり考えるとね。なんでおれだけが生き残ってんだろうって思うもん。

わたしはそれでね、生きとってよかったって思わないの。死んどったほうがよい、いいかもしれないすよ。ああ、幸せだったなあとそういうことも思わない。ああ、命拾いしてよかったなあとはね。わたしはむしろここ、これまで生きて、あの人たちの残ってって、真っ先に敵艦に行ってね、体当たりした、死んどったほうのがね、それ、自分の本心としてはね、本望だと思うし。わたしがこんなして長生きしとって、いろいろ苦難があるじゃないですか。それを乗り越えてここまで。これもまた死んでりゃね、これは生きとる者のあれでしょうがないけどもね、わたしはそのときにパッとこういうふうにして、ああ、保さんすごかったんだなんちゅう言われたほうがね、よかったかも。いまだにそんな思ってるんです。

出来事の背景出来事の背景

【“ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、大規模な特攻部隊が海軍で組織された。その名も「震洋特別攻撃隊」。“太平洋を震撼させる“と謳い、6200隻を製造、およそ5千人をこの作戦に動員した。
その多くは、航空機搭乗員を目指していた予科練出身者や学徒兵の若者たちだった。しかし、秘密兵器「震洋」の実体は、ベニヤ板製のモーターボート。長さ5メートルの船首に250キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たり攻撃をしかけるという兵器であった。

開発を強く主張したのが海軍軍令部・黒島亀人。連合艦隊の参謀として攻撃を成功に導いた人物だ。

長崎県の川棚で訓練をした「震洋」の部隊は、米軍の侵攻で上陸が予想されたフィリピンや、沖縄本島や石垣島、奄美大島などの離島や本土各地の海岸などに配置された。しかし、作戦がはじまってからは、輸送中の爆撃や設計の不備によると見られる爆発事故が続出し、特攻作戦の前に多くの若者が命を落とした。狭いボートの中に、燃料タンク、4トントラック用エンジン、そして爆薬が詰め込まれていたのだ。しかし、海軍軍令部がこうした事態の改善に乗り出すことはなく、「震洋」による特攻作戦は終戦まで続行される。結局特攻に成功したのは数隻のみといわれている。5000人の兵士のうちおよそ半数が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1927年
福岡県門司市にて生まれる。
1941年
門司市大里尋常高等小学校卒業。同盟通信社で原稿を自転車で新聞社へ運ぶ仕事に従事。
1942年
三重海軍航空隊に、乙種飛行予科練習生として入隊。
1944年
横須賀の海軍水雷学校へ入校。震洋搭乗員となる。第12震洋隊として門司港からフィリピン方面へ出発。マニラへ向けて渡航中に、グラマン機の攻撃を受けて負傷。マニラの海軍病院に入院後、帰国
1945年
佐世保海兵団で終戦を迎える。戦後は海上自衛隊で、電測員として主に艦船勤務。

関連する地図関連する地図

フィリピン(コレヒドール)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード