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タイトルタイトル: 「沖縄の震洋隊指揮官として」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
名前名前: 豊廣 稔さん(震洋特別攻撃隊 戦地戦地: 日本(沖縄・金武)  収録年月日収録年月日: 2009年12月2日

チャプター

[1]1 チャプター1 22歳の隊長  03:42
[2]2 チャプター2 脱出か体当たりか  01:39
[3]3 チャプター3 沖縄へ  02:35
[4]4 チャプター4 穴掘りの日々  02:03
[5]5 チャプター5 大型機現われる  02:42
[6]6 チャプター6 襲いかかるB24  05:05
[7]7 チャプター7 出撃命令  04:25
[8]8 チャプター8 震洋の帰還  02:26
[9]9 チャプター9 3月29日、再度の出撃  03:17
[10]10 チャプター10 震洋艇一斉爆発  02:09
[11]11 チャプター11 4月3日  05:27
[12]12 チャプター12 火柱上がる  04:16
[13]13 チャプター13 指揮官として思うこと  03:23

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
収録年月日収録年月日: 2009年12月2日

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わたし、駆逐艦乗りを目指してたんですよ。駆逐艦「刈萱」に最初乗って、それから、その次に、刈萱をおりて、駆逐艦「浜波」ちゅうのに乗ったんです。浜波が最後でね、浜波に乗ってて海軍中尉になったころかな、中尉に進級したころに佐世保に行けと、佐世保軍港のほうに行けと言われて転勤になった。

そしたら、佐世保鎮守府付きということで何も具体的になくて。それで帰って、しばらく待って、一晩待てちゅうようなことでね、待たされて。それで、実はちゅうていうふうにね、「君は、震洋隊ちゅうところへ行くんだ」と。震洋隊って初めて聞く名前でしたよね。

Q:震洋隊に行けと言ったときは、震洋隊がどういう部隊かということは説明はなかったですか。

うん、説明はねあった。一言だけね。その訓練所のね司令というのかな、海軍大佐のね司令、何とおっしゃいましたかね。名前はど忘れして。あのう、すぐ思い出す人ですけどね、震洋隊ちゅうのがいるんだと。それで、ちっこい船だけど、それの指揮官ちゅうか隊長で行くんだと。その震洋隊は何する船かというとね、「なーに、体当たりだ」ちゅうて、その一言でしたよ、説明は。だから、体当たりなんていやだなと思いながらね、それであくる日、震洋艇を見てくれと、見ろというわけでね。見に行ったら、これがちゃっちな船でね。木造の船でしょう。こんな木っ端みたいな船でね、どういうことをやればいいんだと非常に疑問に思ったですな。

それで日にちがたってね、訓練をこう徐々に受けていくんですよ。訓練ちゅうて、1艇、まあ基本的には1艇に1人乗りと・・それで、12隻を1組にして1個艇隊ちゅうんですか。それが4個艇隊あって、4個艇隊を一括りにして1部隊と。僕らがなったのは、その1部隊の部隊長ですわ。まあ若いのにね、22ですよ。まだ大学生ね。それでもまあ、兵隊ちゅうところはそういうところで、若くても関係ないと。やる気があればねできるんだと。というようなことで、まあ自分も納得してやりましたけどね。だんだんだんだんね、その震洋艇ちゅうか震洋隊が好きになった。これは不思議ですね。だんだんだんだん愛着が出てきてね、それでなれ親しんできた。で、最後のときには、まあ沖縄行きと。沖縄が玉砕の島だとはね、最初思ってなかった。

そういうことがね、考えられたようだけど、机上の空論というかな。やろうと、やりたかったのは誰一人いないよな。そういうね、脱出方法を最終的に設定しておかないとね、ちょっとね、やっぱり気がとがめたちゅうか、いけないことだと上層部も思ったんでしょう。特攻ちゅうのがまだそんな流行ないころだからね。

いや、それはね、脱出の方法はね、考えられているけどなかなか脱出はねできがたいだろう。敵前でね、弾が飛んでくる中でね、悠々とね、目的も果たしてないでね、脱出するやつはいないよなというようなことでね、だんだんだんだん納得してきた。

Q:じゃあ、脱出できるとか何とかって言われてたけど。

うん、あまり関心事じゃなかったです。ああ、そうか、そういうこともできるかちゅう。ハンドルを固定してそのまま行けばいいんだけど、で、自分は脱出すればいいんだけど、今度はね、人が乗ってないとね、とんでもない方向に木の葉のごとく行くんだよ。バーッちゅうてね。こっちのほうに行ったらさ、何にもならないじゃない、敵前でね。だから、それだったら艇もろともだと。若い連中だからねそう思ったと思いますね。

基地から発進をして、それで敵前までこう隊を組んでいって、それでバラバラになって突っ込んでね。で、大体輸送船、輸送船をね、商船ですね、商船を狙うのが主眼だったですよ。軍艦はとても狙らえないだろうと。鋼鉄の船にね、木っ端のような木造の船がどれほどのあれがあるんだと、そこまで考えたんでしょう、軍令部ちゅうところがね。それで輸送船、

そういうのこそ震洋艇で十分。震洋隊でやっつけてしまえと。というふうな考えで、やっぱり上陸しそうなところ、沖縄とか奄美大島とか台湾とか、そういうところに全部配備したわけですよ。

1船にね、1船って上陸用の敵軍の大きな船を。上陸用の船団のまあ母船みたいなものですね。それで、前のほうがパックリ開いて上陸用舟艇を出すわけでしょう、映画なんか見ると。上陸の艇を、パックリ開けて出る前の輸送船をやっつけるのが震洋艇の任務みたいなふうにね、受け取っていましたですね。そういうのに、1隻につき震洋艇が2隻こう体当たりをしてね、沈めると。敵も大痛手でね、一目散に逃げて帰るだろうと。敵って、アメリカがというぐらいの考えだったですな。

最初、沖縄にね、アメリカが攻め込んでくるなんて思ってなかったから。だから、意気揚々と沖縄に乗り込んでいったわけだ。だんだんだんだん、実情がねわかってきて。「よし。それじゃあ、そういう運命のベルトに乗ったんだから、それは死ぬのは覚悟の上だ」と。それはみんながもそう思ってましたね、兵隊はね。

ツルハシとスコップ、それで発破ね。やっぱりこう、沖縄金武の海岸にはね山があるわけじゃない。ただ、山襞(やまひだ)がね、バーッと2~3本こう伸びてて、あの海岸線までね。その山襞が若干壕を掘れるかなというような、こう小山に。小山のこうなだらかな襞が、襞みたいなものができてて。で、その山襞に穴を掘ったんですね。その穴掘りに苦労惨憺(さんたん)していた時期がある。

Q:大変な作業なんですか?

大変な作業ですよ。もう、あのう、昼夜兼行でね、輪番制で。それで、その輪番制の、何ですか、監督に兵曹長が出てやったり。あんなことをするからね、日本海軍は負けるんだ。段取りが悪くてね。ちゃんと設営隊ちゅうのが行ってるんだけど、設営隊がね、怠けてたのかどうか知らんけど、何にもしてないわけですよ。結局、線引きばっかりしてね、実際に自分たちは掘る力もない。理屈はわかるわけだな、やっぱりそういう専門の集団だから。でも、実際に労力を注入して1本でも2本でも穴を掘ったのは僕ら自身なんだ。実戦、敵が来たら実戦するやつらがね。そんなことでは負けるよ。

Q:豊廣さんとしては、この日に訓練をしようと思った一番の理由は?

一番の理由は、とにかくその穴に艇を格納しなくちゃいけないと。それには、その辺の草むらに隠してある艇をね、全部一応海に浮かべて、それで海を経由してその穴、防空壕ができたところの海岸に乗り上げて。そこから運んで、車で運んでね。トロッコちゅうか、それに乗っけて運んで。もう大変な難渋ですよ、作業としてもね。そういう作業をやらなくちゃならないから、せっかく艇を海に浮かべたんだから、みんなが期待をしてる、待ちに待ってる訓練をしようじゃないかちゅうていう考えに至ったわけですね。

Q:皆さん訓練したがってたんですか。

うん、それはやっぱりそうだ。穴掘りばっかりしてて、だれだっていやになりますよ。皆若いんだからね、穴掘りばっかりさせられるよりね、海の大海原に出てさ、訓練で波しぶきをかぶってね、訓練したほうがよっぽど楽しいかわからん。そういうね、本能的なものがあるのはわかってた。だから、やろうということで。敵機が、敵の偵察機が来るよちゅうのは漠然とはわかってたけど、いつ何時ごろどうのこうのちゅうのはね、司令部が全然おろそかにして、我々に伝えてないんですよな。いろんなことが重なっちゃってね。

Q:現場の判断としては、真っ昼間に訓練をやったら危ないかなとは思わなかったですか?

それはもう後日談でね、当時としてはそういうことは思わなかったな。それよりも隊員が喜ぶだろうと。とか、ちょうどいい機会じゃないかと。労力は3分の1ぐらいでね、3つの効力が発生するとかね。そういうことを先に思ったですね。敵のそういう爆撃機がね、近海まで遊弋(ゆうよく)してきて、海に出たら大変だと、食われるぞというあれが薄かったんですな。

Q:実際、訓練を始めたら、搭乗員の方ってどんな様子でした。

喜んでましたよ。喜々としてましたよ、波しぶきがバーッとかかるんだから。高速で走るからね。

バーッと高速で走るのはね痛快でいいんだけど、ちょっと敵機、飛行機が、大型の飛行機があそこを通りまして、隊員が気づいたんですよね。あそこを通りますというのは、島影、湾口にこう島影がずーっと並んでるんですが、その島影にこう隠れるような低空ですね。低空で全然エンジンの音をたてないで、それこそグライダーみたいにスルスルスルスルスルスルスルスルって、僕らの艇とね、艇が行くのとね、こっちはゆったりゆったり走ってたんだけど、それと同じような速度でスルスルスルスル前のほうに出ていく飛行機がいる。「ああ、変な飛行機だな、あいつは。うさんくさい飛行機だな」と思いましたですよね。で、「いや、あれはふだんあまり見かけない日本の飛行艇よ」と。と、最初はそういう認識だった。飛行艇だったら何も害はないと。だが、うさんくさいから、ちょっとやり過ごそうじゃないかと。しばらく止まれと。一時停止的なね。エンジンを切るまでいかなかったけど、クラッチを切って、ソクリョウホウを止めて。じっとね、こう動線を見てみようと思った。そしたら、その飛行艇がね、ちょっと書いたものもあるけど、そのう500メートルですかね、700~800メートルのところでバーッと僕らの前をね、こう、斜めになってね旋回を始めた。バーッと回ってきてさ、真っ正面から僕らのほうに突っ込んでくる態勢をとった。「あ、これは大変だ。何だ。何だろう、敵の飛行艇かな? 飛行艇かな、ちょっと解せないな」というぐらいの程度でね、ちょっと目をそらさないで見てた。そしたら、バーッとこう目の前、例えば500メートルとか、700~800メートルのところでグラッと傾いてね、まぎり始めたんですな。そしたら飛行艇のね、アメリカのB24のこの尾翼ね、垂直尾翼ちゅうて、こう両端に丸い尾翼があるんですよね。あれ、もう一発でわかった。あれは特殊な尾翼だから。コンソリだちゅうていうことでね。それでね、ようしと、もうちょっとね、これは困っちゃった。「進退きわまれりだな、これは。今からソクリョウを出して逃げたってね、間に合わないしな」ということで。これはもう、艇をね捨てるよりしょうがないなと。艇12隻捨てようと。という構図が頭に浮かんだんですよね。だから、もういいからね、艇を捨てろ。捨ててね、君たちの命を現在は優先するよというようなことから、「飛び込め」ちゅうて言ったんだね。

Q:豊廣さんが飛び込め。

うん、僕が飛び込め。

Q:具体的にどんな指示をされたんですか、そのとき。大きい声で言ったんですか。

大きい声で言ったって届かない。届かないから僕も飛び込んでみせた。自分がね、真っ先に飛び込むなんてしょうもないと思われるきらいがあるけどね、そうでもしないとね、即刻の行動につながらないです。ぼんやり、あれよあれよ、どういうあれになるかなと思ってるとね、やられちゃう。それこそ、バーッとおりて、飛行機だから。それで、すぐ下のほうの射撃窓口から大きな13ミリかね、20ミリの銃を出してねらうでしょう。のろのろ走ってる震洋艇12隻をみんな狙い撃ちにしたんですよね。だから、そこで総勢19人がそのとき死んだですね。それが不運のつき始め。

Q:訓練はちょっとすべきじゃなかったかなとかってのは思いました? そのとき。

思いましたね。失敗したとね。失敗だった。なぜ失敗だったんだ。昼間訓練しちゃあだめだよというのをね、厳命されてなかったな。厳命されておりゃやらないんだけど。ちょうどいい機会だ、このチャンスを逃したらできないと踏んだんですよね。

第22震洋隊並びに第42震洋隊、井本部隊ですね。「各6隻ずつを出して、合わせて12隻で攻撃をすべし」と。それで港川沖、港川、地名はわかりますね。港川並びに中城湾沖の敵、うーん、電報を見ないとよくわからない。敵、上陸、上陸艇かな。上陸指向部隊といってもまあ意味としてはね。そういう、どういう文句で来たかはね、ちょっと電報を見ないとわからない。それを攻撃すべしと。でね、もし攻撃してね、攻撃をして攻撃かなわなかった場合はね、いいからもう帰ってこいと。そういう命令だったですね。その「帰ってくべし」というのがね、特攻隊としては非常に珍しい命令だなと。そこにね、大田中将(沖縄の海軍部隊指揮官)の気持ちを知ったわけです。非常にさ、仁愛の提督と言われた。

いよいよ迎えた1回目のその電報というのを初めて手にしたときというのはどんな気持ちでした。

それは、いよいよ来たなと。これは、このために我々は苦労してきたんだから、これはやらなくちゃ。一丁やらなくちゃいけないなという気持ちだけでしたね。

Q:自信はありましたか?

自信はないですよ。あんな木っ端船で敵の上陸用集団に立ち向かっていってね、どれほどのことができるかなと。全然自信ない。自信あろうが、なかろうがね、それはやらざるを得ない。やらなくちゃいけないことだ。

僕はね、僕より上級者がおれば、例えば42と22を統括するような上席のね、指揮官がおりゃあ、それはお任せしますよ。でもさ、(22震洋隊は)僕がいないと、あとは兵曹長だからね。兵曹長というのはたたき上げの准士官ですからね。この人たちに実権を譲るのはちょっと早急だなあというようなね、気がして。それで、行かなかったわけですよ。実際の出撃はその兵曹長にお任せをして、僕は実際に行かなかったね。それがね、ずーっとしこりになって、おれは間違ったことをしたんじゃないかなと、あれは残りましたですね。

僕はね、僕の思ったとおりの行動であったわけだけど、僕はそんなにね、急いで隊長が先に死ぬことはないと。隊長は全部の艇を使い切ってね、最大の効果を上げた挙げくにね、やっぱり、死ぬのはだれたってできることだと、今の時代なら・・その当時のね、と思ってましたですね。それをさ、今どきになって、それはおれの考え違いだったかなというような気がね、自分をさいなむわけですね。海軍の伝統がある。指揮官先頭ちゅう伝統がね。わたしは指揮官だから、現場の指揮官だから、小なりといえども。そんなところでね、やっぱり、ちょっとね痛むわけですよ。気持ちがね。

特攻で震洋隊の艇がね、生き残って帰ってくるなんて、もう露にも思わなかったですね。やっぱり特攻隊という以上はね、出ていったら当然帰ってこないだろうと。僕は海岸線、海岸べたで寝てたんですよ。どういう報告が来るかなと思ってね。そしたら夜中に、そうですね明け方でしょうね、明け方の4時かその辺ですよね。もうそろそろこう頭が起きて、起き上がってくるころに「部隊長、部隊長」って僕を起こすやつがいる。それが市川兵曹だった。市川ちゅうのはね、先任搭乗員。この人が報告に来て、「いやあ、会敵いたしませんでした」ちゅうていうようなことでね、帰ってきた理由をね簡単にあれして、報告して。「ああ、そうか。ご苦労だった」ちゅうて。「じゃあ、ゆっくり休め」というようなことで、それまでですよ。なぜ、どうして帰ってきたかなぞ、ない。

Q:帰ってきたというのはびっくりしました?

そう、びっくりしましたね。どっちかというとね。もう一口に特攻隊というのは帰ってこないだろうと、100%帰ってこないだろうと。あのときね、飛行機の神風特攻がいつ・・神風特攻はね、とにかくそれ以後に起きたことなんですよね、多分。わたしが川棚に行ってるときに神風特攻ちゅうのがあったというのを聞きましたけどね。新聞にも載ったし。それ以前に震洋の特攻ちゅうのはね、もう発令されていた。それで、そのために行動を我々は起こした。だから最初に戦果が上がってりゃあ、我々が第1発目の成功談になるわけだった。第1発目の成功談になる先輩としてはコレヒドールがあるわけだ。コレヒドールで何もしなかったでしょう? 何もできなかったでしょう、敵のあれが激しくてね。その次が沖縄だったんですが。沖縄も我々のいた金武湾の2隊ですね。

2回目はね、井本部隊の艇が帰ってきたのよね。やっぱり途中ではぐれちゃったか、まあ突っ込みはしなかったんだけど、グループから外れてね、帰ってきた艇がある。その艇がね、またよけいなことを報告したんですよね。「今すぐ、即刻出撃したらね、中城湾の沖に敵艦がうようよしてます」と。こんな報告だったですな。表現は別かも、別のあれかもわからん。とにかく、「今出撃するなら敵に必ず、90%会敵します。お願いします」って。自分らはのうのうと帰ってきた。僕はね、1回目に会敵しないで帰ってきたわけだから、「ようし、2回目はやっちゃろうじゃないか」ちゅうようなことで。

すぐ出撃ちゅうのはね、出撃の司令部の命令なんか待ってたら、待っちゃおれないよと。戦果を上げりゃあいいんでしょうというようなね、どっちかというと今ふうのね、考え方が先行しちゃって。「よし、もう行こう」と。「行け」と。ということで「じゃあ、今度はわたしが行きます」って、中川さんちゅうのが自分で志願したから「じゃあ、中川さん、行ってくれ。おれは一番最後に行くからね」ちゅうていうようなことでね、中川さんを出したけど、これもまた帰ってくるんだね。結果的にね。

Q:2回目もだめで帰ってきたときというのはどう思いました。 2回連続失敗して。

うーん、帰ってきたのまではいいけど、それを海岸線につないで、つなぎっぱなしでね。

あのね、もうとてもこれは引き揚げてる暇はないよと。引き揚げてる最中にさ機銃掃射が来たり、爆弾が飛んできたりするとね、いずれにしてもね、爆弾を抱えてる艇だからもう一発ですよ、とね。そこまでやれないと。じゃあどっか隠せというようなね、ということで、

ユナギの木ちゅうんですか、沖縄の特殊の木が枝を出してね、上空から見るとね、艇が隠れるんじゃないかと思うようなところがあったの。で、そこに隠せと。艇を隠してしまえと。それで擬装をね、しっかりせいと。というようなことにしたと思います。したんですよね。そのようにしたと。それは、完全に、どの程度完全にしたのか。その結果、でき上がりを僕は見なかったからね。満足できない状態でほったらかしていたのか。もう早かったですね、艦載機が、空襲が。

Q:岸に戻ったらすぐ。

ああ、もうすぐ来るぐらいの。朝飯を食う暇もないぐらい。だから、ちょっと隠しおおせないところがあったのかな。それが発見されて、1発機銃掃射を受ければね、もう全部、爆弾を抱えてるんだから、1発ボーンといきゃあおしまいですよ。原爆じゃないけど。そういう状況で、2回目出撃をした12隻が全部やられたですな。1隻も残らないで。

もう本当に、神隠しに遭ったように、艇がね1隻も。大爆発を起こして、なかった。昼間ね、防空壕にいるときね、ものすごい大きな揺れちゅうかな、爆風が過ぎたような気がしたんですよ。ああ、随分きつい爆風だなと思って。それはね、震洋艇が12隻だったんだか、10隻だったんだか、みんな爆弾が一緒に爆発したんですね。あれは震洋艇の爆弾、爆装ちゅうのは、えーと幾らだったかな、資料を見りゃあある。

Q:250。

250。250が10隻にしてもね、2、000~3、000トンの爆弾が落ちたような爆風になっちゃうわけですよね。そういうことでね、あのときはがっかりしましたですね。ああ、これは失敗したなと思ってね。余計なことをしないでおけばよかったとかね。それを司令部に報告をしたかどうか。報告すべきではあるんだけど、報告したかどうかもわかんないね。その当時の資料が、電報つづりでも見ないと、したかしないか確認できないね。

艇を、海に浮かべることがね、もう至難のわざにだんだんなってきたの。というのは、爆撃であちこち穴があいてるわけですよ。そこのところをね、よけて、それで爆装したちゅうかな、400キロの爆弾を中に抱えたね、震洋艇を海に引きずり出すと。これは大変な作業ですよ。それをさ、12隻一緒にやれなんて言われたってね。自分らが体験してない、命令だけ下してる人たちの考えじゃあね、簡単だろうけどね、そうは参らないわけです。だから6隻ぐらい、浮かべるのがね、もう精一杯ですよね。最終的にはね、僕が最後的に出撃したときはそうだったですね。

これがリヤカーね。で、これへ前のほうに400キロかな、三百何キロだけど、を積んでいるあれで。自重があるんだから脆弱なリヤカーだとね、へしゃげちゃうのよ。そのなぜへしゃげるかちゅうとね、陸上から爆薬を積んでね、重い状態で砂浜におりていくとね、砂浜がこう整地されたりコンクリートで固めてないからね、凹地にドスンと入っちゃうの。この車輪がね。と、そのリヤカーがね、こんな鉄パイプでできたようなリヤカーなもんだからね、ぜい弱ね。

Q:実際に出撃予定時刻に間に合ったのは結局何隻でした?

予定時刻に間に合ったのは5隻。

Q:5隻というのはやっぱり相当少ないですか。

少ないですね。しかも隊長が指揮していくちゅうからね、隊長が指揮していくのは12隻出なくちゃいけないんだけど、12隻出すにはもう夜中回っちゃうからね。

5隻こう単縦陣でね、出ていって。そして、やっぱり敵は近くにありというような感覚があったもんだから、あまりね派手なね、行動をするとめっかるだろうと。だから、岸辺に寄ったような格好でね。そういう陸地に寄り添うような格好で行くと目立たないんですわな。行って、そして、ずっと湾口に向かってね・・湾口ちゅうて、本当は湾口じゃないんだけど。島の間なんですけどね、を抜けて外海に出ればいい。外海に出るまでね、またこれが金武の基地から外海に出るのが大変なんですよ、これは。1時間か1時間半ぐらいかかるけどね。あんまり高速で走ると水をかぶってエンジンがストップするから。ボロ兵器だからね。で、エンジンが止まらない程度に速力で走って。
 そしたらね、やっぱりこれはもう後の祭りだけど、金武に行ってね訓練を、昼間は1遍、3月14日にやったんだけど、あれじゃなくてね、夜ね、夜の状況、夜の見え方をね、本当はね、繰り返し繰り返しやっぱりやって頭に入れておかなきゃならんでしょう。 それをやってないもんだからね、僕自身が判断をミスったんですよね。その、金武湾のね、金武湾のあそこの出口のあたりにね、アメリカの輸送船、輸送船ですね。輸送船みたいな大きな岩がね、ドカーッと2つぐらいあるわけですよ。ちっこな、ちっこい岩がね、また数個、数十個だかなあって、これ、アメリカが金武湾の入り口付近に上陸中というね、想定が・・それに引っかかったんですよ。

だから、それに向かって突っ込んだ。ずーっと突っ込んだんです。突っ込んだら、途中までその攻撃をしかけたところでね、「ああ、これはおかしい」というのに気づいて。それで、ちょっと止まれ。

2隻はね、湾口、湾口って岩に突撃したとき、エンジン故障でね、落伍しちゃったんだな。それが久保君で。あれ、久保君って、富山の。

Q:エンジン故障というのは…

うん、波をかぶって。ちゃっちいエンジンだから、自動車エンジンだからね、波でもかぶりゃあもうストップして、もう動かなくなっちゃう、エンストを起こして。

発光信号をするのは、漁船がいるわけじゃないしね。日本の海上部隊はそんな光を出すはずがない。これはもうアメリカの艦艇以外にないわけでしょう、確証がね。だから、あの敵、あの光が見えるかちゅうたら、「見えます」「あれが攻撃目標よ」と。あれに向かってね、攻撃してくれと。隊長はね、きょうはちょっとね、まだ死ねないからね、明日、貴様の後を追うからねと。これは約束ね。その、そういうことがあって、で、突っ込ました。その指令を出したのは僕自身だから、それはやっぱりね、何とも言えないね。だから市川兵曹と鈴木兵曹、まあ遺族は何と思ったか、何にも言わなかったけどね。それからあと岩田と、岩田ともう1人、中村かな兵曹の艇というのがもう1隻残ってたんだけど、その岩田艇はね、珊瑚礁があるの、リーフ。そこにこう足を突っ込んじゃってね、動けなくなったちゅうて言ってましたね。それが本当のことですよね。そういう状況なんだから。だから1艇だけ、正真正銘の攻撃をしてくれた。市川兵曹と鈴木兵曹。これはね、もう大変なあれですよね。小なりといえども敵艦を沈めたんだからな、震洋艇で。

ずーっとその辺をこう遊よくしながら、うろつきながら待ってた。そしたら、僕が書いてるとおりね、花火みたいな光だったけど、バーッと。火の粉ちゅうかね、真っ暗闇だからね、そのようにしか見えない。バーッと火柱。で、火柱と一緒にね、水柱。こう水柱ですか、水煙がこう。爆弾が起きたとき、こう出るやつね。ああいうのが見えましたね、夜目にも。見えたような気がしたのかどうかしらんけど、見えました。火の粉が見えて、それから、その火の粉はまあすぐ消えちゃうから、その後にこう水柱がね立ってるのが、気のせいかどうか見えましたね。「お、やった!」ちゅうていうことでね。それが戦果確認で、その情報を持って僕は帰った。基地に帰ったんですよね。

するとね、もう基地はね、陸戦に移る用意をしてたんですよ。「ああ、もう隊長は出ていったら帰ってこないよ」なんていうぐらいのところでね。これはちょっとね、速断でね。僕は帰ってきましたみたいなもので。「あと12隻残ってるだろう。あれ、明日、明晩でも引きつれて、おれは明晩最後の出撃を果たすよ」と言い含めて、それで収めたんだけど、あくる日の出撃はできなくなったちゅうのが、それもね非常に悔しいんだけど。その辺のあれは、状況はね、「それは隊長、言いわけじゃないのか」と思う人もいるだろうし。僕は言いわけでも何でもない。そういう状況で事が進展してたよと。ということで非常に戦後、その辺で苦労しました。苦労、心のね葛藤がね、ずーっと続いた。

やっぱり、悪かったなとかさ、否定的なことばっかりですね。部下を死なして隊長は生き残ってしまうなんてね、みっともないこともあるし。うーん、部下を死なしたことに対して責任とか、遺族に対しての・・遺族に僕は責められたことはないからね。

まあ一生懸命やったですよね、弱小指揮官としてさ。一生懸命やったけどね、そこまでさ力量が達してないですよ。22でね、体験もそんなないのに、

Q:最後、亡くなった仲間にどんな声をかけてきたいなと思ってますか。

そうね、やっぱりわびる気持ちだね、おれだけ生き残って悪かったねと。ただそういう詫びる気持ちはあるけど、君らのね、その頑張った功績はね、やっぱり将来にね、将来の人にわかってもらうように努力しようじゃないかと。

詫びるといったら大げさですよね。それは詫びる気持ちもありますよね。至らない隊長で悪かったなと。もう少しね、しっかりしたことで命を落とすんだったら戦場だからしょうがないけど、頑張ったなちゅう気持ちを血族に対しても、あるいは国家の中枢に対してもね残せることが最上だけど、それは生き残った人の務めよと。わたしを含めて生き残った人の、それがせめてもの務めじゃないかと。というようなことをね、それは語ってきますよ。
 金武町のあの慰霊碑を建てたのは僕ですからね。僕の中学の同級生にああいう御影石の専門職がいて、その人が手伝って、そしてつくったんですね。で、あれを運ぶについては、もう既に亡くなったけど岩田君というのが僕らの部隊にいましてね、名古屋の、土屋君の同期生ですね。そういう人たちの努力もあってね、沖縄まで船に積んでいって、それでつくった。で、つくって金武町にお願いしたんですよ。お願いしますって。金武町の役場とか住民の方にお願いして、そして現在があるわけだね。

出来事の背景出来事の背景

【“ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、大規模な特攻部隊が海軍で組織された。その名も「震洋特別攻撃隊」。“太平洋を震撼させる“と謳い、6200隻を製造、およそ5千人をこの作戦に動員した。
その多くは、航空機搭乗員を目指していた予科練出身者や学徒兵の若者たちだった。しかし、秘密兵器「震洋」の実体は、ベニヤ板製のモーターボート。長さ5メートルの船首に250キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たり攻撃をしかけるという兵器であった。

開発を強く主張したのが海軍軍令部・黒島亀人。連合艦隊の参謀として攻撃を成功に導いた人物だ。

長崎県の川棚で訓練をした「震洋」の部隊は、米軍の侵攻で上陸が予想されたフィリピンや、沖縄本島や石垣島、奄美大島などの離島や本土各地の海岸などに配置された。しかし、作戦がはじまってからは、輸送中の爆撃や設計の不備によると見られる爆発事故が続出し、特攻作戦の前に多くの若者が命を落とした。狭いボートの中に、燃料タンク、4トントラック用エンジン、そして爆薬が詰め込まれていたのだ。しかし、海軍軍令部がこうした事態の改善に乗り出すことはなく、「震洋」による特攻作戦は終戦まで続行される。結局特攻に成功したのは数隻のみといわれている。5000人の兵士のうちおよそ半数が命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
鹿児島県姶良郡敷根村にて生まれる。
1940年
加治木中学校在学中に、江田島の海軍兵学校へ入学。
1943年
第72期生として繰り上げ卒業し、少尉候補生になる。
1944年
海軍中尉に昇進。第22震洋隊長になる。
1945年
部隊を率いて佐世保港から沖縄県金武村へ出発。部下を率いて特効出撃。その後陸上戦に参加。右肘に銃弾を浴び負傷。捕虜として終戦を迎える。
1946年
復員。戦後は、ライオン株式会社に勤める。

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